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第239話 社畜、引っ越しを検討する 下

 クロに引っ越しのことを話した後は、結局ソティに話を持っていくことになった。


 理由は至極簡単。


 クロのことを打ち明けるには、まずは元異世界人である彼女から、というわけだ。


 そして事の経緯を話した後、社宅のことを相談したわけだが……



「ふむ、よかろう」



 あっさりOKが出た。



「いいのですか?」



 さすがにある程度の理解は示してくれると踏んではいたが、即答するとは思わなかった。


 そんな俺の様子が意外だったのか、ソティはジト目のまま話を続ける。



「当然じゃろう。社員が社宅を使いたいというのに、頭ごなしに拒む理由などあろうはずもない。とくに我が社は特殊な出自の従業員が多いうえ、そも、ワシ自身が一番特殊な身の上じゃからの。その手の相談を無下にするわけがあるまいよ」


「……ありがとうございます」



 ソティはそう言うものの、互いのいろいろな利害の均衡のうえに成り立っている交渉だということは俺も理解している。


 しかし今日ばかりは、彼女に感謝しかない。


 いや、アンリ様の件でもだいぶお世話になっているから結構感謝している気がするな。


 まあ、感謝の念を伝えても伝えすぎるということもないだろう。


 神様、社長様、ソティ様である。



「それで、クロ……とやらは先日の合宿に連れてきた仔犬……仔狼じゃな? ずいぶん大人しいと思っておったが、まさか魔狼の『神獣』じゃったとはな」


「神獣……ですか」



 聞き慣れない単語がソティの口から飛び出してきて、思わず聞き返す。


 彼女は『うむ』と頷いてから、しかし小首をかしげた。



「本人……いや本狼から聞いておらぬのか? 確かに魔狼という種族は魔物としてはかなり強力じゃが、普通の個体に人に化ける能力はない。しかし……飛び抜けて強く長く生きた個体は人に化けたり身体の大きさを自在に変化させることができると聞いたことがあるのじゃ。もちろん知能も高く、人と対話することすら可能となるゆえ、古くから神獣と崇められることもあったようじゃな。お主の相棒であるクロも、おそらくは古の時代に神と崇められたこともあったかも知れぬのう」



 おお……マジか。


 確かに人化したときのクロは、浮世離れしたというか凛とした(たたず)まいがカッコ可愛いかったが……言われてみれば納得である。


 ただ、出会ったときに行った『鑑定』もレベルが低かったせいかその手の情報は出なかったし、クロは別に俺に対してその辺りの過去を語ったことはなかった気がする。


 もともとはダンジョンの隠し部屋(?)のような場所に妙な槍で(はりつけ)状態だったし、俺も何かあるだろうとは思っていたが……


 クロが言い出さないのなら、わざわざ根掘り葉掘り聞き出すつもりはなかったからな。


 それはさておき。



「なるほど……やはりクロは神……すごい魔物だったのですね!」


「お主、クロとやらの話になると顔がちょっと気持ち悪いのう……」



 ソティはブチ上がった俺のテンションにちょっと引いている。


 だがまあ、いろいろと知れたのはソティが異世界について博識だからだ。


 さすがは社長殿である。


 そしてクロは神。



「ともかく……まずは部屋を見に行ってくるがよい。今日の業務終了後に鍵を受け取れるよう、総務に手配しておくとしようかの。ああ、それと……じゃ。いずれワシも、クロとやらとも話してみたいものじゃのう」



 ソティはアンリ様に続き異世界仲間が増えたせいか機嫌が良いようだ。


 もちろんクロが望めば、彼女と引き合わせるのもやぶさかではない。


 合宿のときはクロがソティを嫌っていたり敵対する素振りはなかったが、念のためしっかり話をしておくとするか。




 ◇




 紹介してもらった社宅は、現在の自宅から少し奥まった場所にあるマンションだった。


 通勤のため使う駅は同じだが、引っ越すと駅までの距離は少し遠くなる。


 まあ、誤差の範囲だが。



 周囲は閑静な住宅街で、周囲の家からは夕飯のいい匂いが漂っていた。


 道路には会社帰りと思しきお父さん方や部活帰りの高校生たちが行き交っており、これまでの住環境とそう変わらない。



 そして物件は築浅かつファミリー向けの3LDK。


 二人暮らしとしては少々オーバースペックな間取りではあるが、暮らす部屋など広ければ広い方がいいに決まっている。


 ちなみにこの物件、ひと月ほど前まで入居していた社員さん一家が新しく家を買い退去したため空きが出たとのこと。


 その後は特に入居者もおらず管理に困っていたところ、ちょうど俺が名乗りを上げたという形である。



 しばし夜空を背景にそびえる黒々としたマンションの威容を眺めた後、総務から預かったキーでオートロック式のエントランスを抜け、エレベーターに乗り目的の部屋へ向かった。


 空いている部屋は8階建ての6階部分と言うことで、見晴らしも良さそうだ。


 さっそく預かった鍵で部屋の中へ入る。



 部屋の構造は特別なところはない。


 玄関からまっすぐ廊下が伸び、六畳間の洋室、トイレ、洗面所や風呂場などへと通じる扉があり、その先がリビング兼ダイニングキッチン。


 もう一つの部屋はリビングの奥にある。


 ごくごく普通のファミリー向けマンションだ。


 すでに清掃が入っているようで、退去者の痕跡は見当たらない。


 ひととおり各部屋を確認してから、風呂場のチェックへ。


 社畜的には、日々の疲れをいやすためにも浴槽の広さはかなり重要視するポイントである。



「おお……さすがは築浅物件……!」



 果たして浴槽は広々としており、足を伸ばして入れそうだ。


 設備も最新のものらしく洗練されており、清潔感がある。


 正直、風呂場は今住んでいるアパートとは雲泥の差である。


 いくら掃除しても、築三十年以上の物件では設備の老朽化まではどうにもできないからな。



 風呂を出たあとは再びリビングに入る。


 部屋の正面は大きな掃き出し窓がはめ込まれ、その先は広々としたバルコニーがある。


 窓を開き外に出ると、柵の向こう側からは夜景が見渡せた。


 もちろん周囲に広がるのは普通の住宅街なので絶景というほどではないが、それでも眼下にはぽつぽつと住宅の灯す光が見えており、これはこれで都会の風情である。


 しばし夜風が運んでくる春の残り香を堪能したあと、リビングに戻った。


 そこで気づく。


 そろそろ夕食時だというのに、ほとんど物音がしない。


 このマンションが鉄筋コンクリート造だということは手元の資料で確認済みだが……これほどの静粛性だとは思っていなかった。


 クロはそこまでうるさくしないだろうから騒音問題で悩むことはないだろうが、これはありがたい。


 とはいえ、さすがこのマンションは駅前の女子寮と違い一棟まるごと会社所有と言うわけではないようなので、なるべく静かに暮らす必要があるだろうが。



 ちなみに家賃は今暮らしているアパートと比較すれば少々お高くなるが、さきほどスマホで調べたところ、社宅ということもあり相場よりは半分以上安いようだ。


 それに今の給与から考えれば負担は微々たるもの。


 それよりなにより、クロに関する書類上のハードルがほぼ皆無であることが大きい。


 こればかりは何物にも代えがたいからな。



 改めてソティに感謝しつつ、部屋を後にした。

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