第222話 社畜と混浴美女
「おいクロ!? なんでお前がここにいるんだよ!?」
リラックスした表情でぬくぬくと首まで湯に浸かるのは美女姿のクロだ。
髪を濡らさないようしっかりと頭の上でまとめ上げており、完全に温泉をエンジョイする気らしい。
どこで学んだのか、きちんと折りたたんだ白いタオルまで頭に乗せている気合の入れようだ。
「お主が乗っていた『くるま』とやらの屋根に載って一緒に…………来た」
とはいえ、さすがに後ろめたいところはあったらしい。
俺の顔をチラリとみて、顔半分を湯の中に沈めてしまった。
「そもそも、主が『温泉に行く』などと言うのがいけないのだ。我だって、温泉に入りたい」
ブクブクと水音をさせながら抗議してくるクロ。
その様子はまるで悪戯がバレた子供のようで可愛らしいが、さすがに状況が状況だ。
よしよし、と許してやることもできないが、だからと言って頭ごなしに『出なさい!』と言っても聞いてくれるかどうか微妙なところだ。
……というかコイツ、今素っ裸だろ。
ここが濁り湯でよかった。
とにかく、まずは落ち着こう。
俺は大きく深呼吸を数度してから、クロに向き直った。
「……クロは温泉が好きなのか?」
「当然だ。主の家でも、たまに浴槽に湯を張って入っているぞ。最近は予約の仕方も覚えたのだ!」
「…………」
「………………むろん、ごくたまにだがな!」
ふんす、と得意げな様子で言い放つ。
だがすぐに俺の様子に気づいたのか、視線を逸らして小さく呟いた。
そういえば、最近水道代とガス代がかさむなぁと思っていたら……コイツが一人で入っていたようだ。
もちろん、クロが綺麗好きなことはよく知っている。
しょっちゅう毛づくろいしているし、なんなら一緒に風呂に入りたがろうとする。
だから俺も、自分が風呂に入る前にいつもクロの身体を洗ってやっていたのだが……もしかして人の姿で入りたかったのだろうか。
それでも俺が風呂に入っているところに人間姿で乱入しなかったのは、恥ずかしかったからだろうか?
……いや、今の様子を見るにそれはないな。
多分、人間姿だと俺と一緒に入ると窮屈だと思ったのだろう。
ウチのアパートの風呂場は狭いからな……
と、そんなことは今はどうでもいい。
「とにかく、早く出なさい。というか、お金ならちゃんと払うから入りたいなら女湯に入ってきなさい」
「嫌だ。我は主と一緒がいい」
ぶくぶくと抗議してくるクロ。
いや子供か!
というか、今はそういう問題じゃない。
ここは男湯だ。
他の客が入ってくるとアウトである。
そもそもコイツ、無銭飲食ならぬ無銭入湯だよな……?
いや、獣というか魔物が乱入してきただけなら問題ないのか?
別に、猿とか猪が勝手に湯に浸かっていたからといって、宿側で金を取るわけにはいかないからな。
いや、しかし……
コイツは俺の相棒なわけだし、そもそも今のクロは人の姿だし……
だからといってコイツを担いで無理矢理湯船から出すわけにもいかないし……
クソ、頭がのぼせてきて思考力が……!
「とにかく、一回上がるぞ! 貸し切り温泉とか混浴ならともかく、お前だって男湯に入っているのはいろいろマズいことくらい分かるだろ」
「ならば、今度は一緒に入れる温泉へ我を連れてゆくと約束しろ。その手の付き合いも、お主と我との主従契約に含まれるはずだ」
「分かった! 約束するから今すぐ狼に戻りなさい!」
そのくらいならばお安い御用だ。
しかし、そうとなればペット同伴可の温泉宿を取るべきだろうか?
いや、どのみち人間姿で過ごすのなら、さすがに宿の予約は大人二名でしないと規約違反とかになるか……?
などと益体もないことをグルグル考えていたら。
温泉の出入り口付近がガヤガヤと騒がしくなった。
向こう側は出入口付近に衝立があるので直接は見えないが、どうやらこの宿に泊まっている団体客が入ってきたようだ。
今は脱衣場にいるが、すぐに温泉に入ってくる。
「おい、マズいぞクロ! 早く狼に戻るんだ!」
「むう……ここまでか。約束だぞ、主よ」
残念そうな顔で仔狼姿に戻り露天風呂の囲いを飛び越えていくのと、出入口の扉が開くのはほとんど同時だった。
◇
「はあ……」
「どうしたんですか廣井さん。もしかして湯当たりですか?」
「大丈夫です……いえ、もしかしたら少しのぼせてしまったかもしれません」
「さっきの温泉、かなり熱かったからな。旅館のロビーで休んでいくか? 私たちはもう一軒はしごしてくるが」
旅館のロビーで合流した途端、二人に心配されてしまった。
どうやら相当に疲れた顔をしていたらしい。
「廣井、本当に大丈夫か? 湯当たりも熱中症の一種だ。無理をすると危険だぞ」
こんなときに限って佐治さんが優しい件。
普段はクールだし戦闘時は鬼神のような戦闘力だが、意外と面倒見のいい性格なんだよな、この人。
昨日もへべれけになった桐井課長をしっかり部屋まで送って行っていたし。
だが俺が気にしているのはクロのことだ。
さっきは別の日に温泉に連れて行くと約束したが、二軒目で乱入するなとは言っていない。
さっきみたいに貸切状態ならいいが、他の客がいるときに乱入されたら大騒ぎになる。
うーむ……身体も温まっているし、二軒目はパスするかな。
「……そうですね。少し湯当たりしたかもしれません。私はしばらくここのロビーで休んでいきます」
「分かりました。昨日の模擬戦、かなり激しかったんですよね? もしかしたらダメージが残っているのかも知れませんし、無理はしない方がいいですね」
「そうだぞ。相打ちとはいえ、私の全力の『崩拳』を受けたのだからな。本来ならば安静にしておくべきだ」
「桐井課長、佐治さん、ご心配をおかけしてすみません」
それを言うならば佐治さんもダメージが残っていそうなものだが……まあ、平気そうなので黙っておく。
「ふう……」
二人が二軒目に向かうのを見送ってから、俺は旅館のロビーにあるソファに腰掛けた。
年季の入った黒革製のソファはひんやりとした肌触りで、火照った身体に心地よい。
ロビーには俺以外に客はいないらしく、静かなものだ。
正面の壁に据え付けられた、年代物の大きな振り子時計がカチコチと音を立てている。
古めかしい木製の棚や、その上に飾られた民芸品。
ほのかに漂う、薪ストーブと温泉の入り混じった匂い。
なんだかこのロビーだけ何十年も時が戻ったような錯覚に陥るが、部屋の隅に置かれている大きな液晶テレビが、ここが現代であることを主張している。
「……そういえばクロはどうしたっけかな」
ソファに腰掛けてすぐ、クロのことが気になった。
さすがに集合時間までに戻ってくるだろうが(そしてこっそり車の上に飛び乗って一緒に戻ってくるだろうが)、それまでその辺をうろつかせているのはさすがに可哀そうではある。
そうでなくても、クロにはいろいろと寂しい思いをさせてしまっている自覚はあった。
この合宿の間だけでなく、これまでも平日の日中は仕事で外に出ているからな。
「…………」
何となく居ても立っても居られなくなり、俺は勢いよくソファから立ち上がった。
ロビーに併設されている売店で温泉饅頭をひと箱買い、旅館の外に出る。
すっかり暗くなった通りには、誰もいない。
冷たい街灯の光に照らされた商店街の様子に、どこか俺の知らない世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
都会とは違う静けさとキンと澄んだ夜の冷気に、なんとなく身震いする。
「……あいつ、川の方に逃げて行ったっけ」
クロの気配を探ると、案の定、川の方から感じ取れた。
河原の方へは、旅館の脇にある路地の先から降りられるようだ。
狭い道を抜けると、さらさらと水が流れる音が大きくなった。
暗がりの中、温泉の窓から漏れる明かりに照らされ、山奥の渓流特有のごつごつとした岩のシルエットが浮かび上がっている。
「……いた」
そんな中でもひときわ目立つ大きな岩の上に、ポツンと一つ、小柄な影が乗っているのが見えた。
クロだ。
彼女は人間姿に戻り、ぼんやりとせせらぎを眺めていた。
※そういえばですが、クロの姿については書籍版の挿絵にて仔狼・巨狼・人間姿の三パターンを網羅していたりします。
メインヒロイン……かどうかは今のところ諸説ありますが、廣井氏の相棒なのは間違いないので当然ですね…!




