第2話 社畜と見えない扉
「疲れた……」
俺は疲労で重い身体を引きずりながら、自宅に戻るべく道を歩いていた。
会社を出ることができたのは、23時を過ぎてからだ。
地元の駅に着くころには日付が変わっていた。
当然ドラッグストアは完全に閉まっている時間だ。
替えの眼帯は明日の退社まで我慢するしかない。
クソ……よりによって今日は特にひどい一日だった。
まず、出勤した瞬間に同僚から眼帯のこと聞かれたので『ものもらい』になったと誤魔化したら、ヤツは週末に彼女とデートらしく「絶対に感染さないでくださいよ?」と言われた。
あの野郎……覚えてろよ。
本当にものもらいだったら感染してやる。
その後、課長に呼び出しを喰らったと思ったら資料を作り直しを命じられた。
俺の出した、来月分の契約獲得目標数が少なすぎるそうだ。
正直、先月の2割増しとか頭がおかしいとしか思えない。
一応これでも社畜歴は長いので、なんだかんだ毎月ノルマをクリアしているが……今回の割り増しはちょっと越えられそうにない。
なんだこれチャンスか?
冗談はさておき、これで給料据え置きとかやる気が起きるどころの話ではない。
ボーナス? どこの異世界の単語ですかね。
その後、とりあえず時間になったので資料作りを中断して外回りに出かける。
顔繋ぎでいくつかの取引先を巡ったのち、とある取引先に向かうと担当者がお怒りだった。
えらい剣幕で、激しく詰め寄られる。
どうにかなだめて話を聞いてみれば、どうやら俺の前の担当がやらかしたミスが発覚したらしい。
しかし前任者のミスなので俺にはどうすることもできない。
とにかく平謝りして場を収める。
土下座は社畜の基本スキルです。つらみ。
もっとも前任者のミス自体は俺から見て大した問題ではなかったので、その場で対処して事なきを得た。
とはいえ次に訪問する時には菓子折りのひとつでも持っていくべきだろう。
そんな感じで気がつけば、すでに定時を過ぎていた。
急いで会社に戻り、そこから課長に提出する資料作り。
ちなみにヤツはさっさと帰宅していた。
そういえば今日は、課長お気に入りのキャバ嬢が出勤する日だったか。
まあ小言を言われるよりはマシだ。
そんなこんなでどうにか終電までに間に合うよう資料を作成し、だれも見ていないのを確認してから課長のデスクにベン! と叩きつけ、退社。今に至る。
「はあ、寒っ……」
晩秋の夜風に身を震わせる。
俺は息を吐き、両手をこすり合わせた。
すでに街は閑散としていた。
駅前を過ぎると、周囲の建物の明かりほとんど付いていなかった。
さらに大通りから一本奥に入ってしまえば、人の気配はほとんどなくなる。
冷たい光を放つ街灯の下を歩いているのは、今や俺一人だけだ。
「…………」
誰もいない通りを歩いていると、まるでこの世に俺だけしか存在しないような気分になってくる。
こういう時、独身のわびしさが身に染みるよなぁ。
まあ、会社と自宅の往復で出会いとか全然ないけど。
「はあ……明日も早いんだよな」
資料は今日頑張って作ったが、明日課長のOKをもらわなければならない。
ダメならやり直しだ。
それに、取引先には菓子折りでも持っていかなければ。
ああ、面倒だ……
もう、明日が来なければいいのに。
そんなことを考えてしまう。
そんな時だった。
急に左目が疼いたと思ったら、強い灼熱感が襲ってきたのは。
「うっ……!? 目が熱い……!」
あまりに強い違和感に、思わず足を止める。
まるで左目が燃えるようだった。
とっさに眼帯を外し、左目を押さえる。
「熱っ!?」
思わず叫び、目から手を離す。
左目が、火傷しそうなほどの熱を持っていた。
灼熱感とかそういう次元ではない。
気づけば、左の視界に火の粉が舞っていた。
もしかして、これ……俺の左目から出ているのか?
なんだこれ?
意味が分かんねぇ!
「ぐっ……熱っつぅ……!」
痛みはないが、強烈な灼熱感で頭がクラクラする。
足元がおぼつかない。
よろけて、近くのビルの壁に手をついた。
そのまま壁面に背中を預け、座り込む。
このままじっとしていれば症状も落ち着くかと思ったのだが……
「くそ、なんだこれ……!」
灼熱感はどんどん強くなる一方だ。
火の粉が視界を埋め尽くし、ついには薪が弾けるみたいに目の周辺からパチパチと音まで聞こえだした。
これはマジでヤバいんじゃないか……!?
「ぐっ、ううっ……」
あまりの異常事態に救急車を呼ぼうかと思った……その時だった。
フッ……、と急に灼熱感が消えた。
それと同時に、視界に舞っていた火の粉も消えた。
「……あれ、治った?」
左目に手を当てる。
まだ少し熱を持っているが、さきほどのような火傷しそうな熱さじゃない。
その事実に、ホッと胸をなでおろす。
が、しかし。
背中を預けているビルの壁に、違和感を覚えた。
なんか、背中に触れている場所がゴツゴツしているのだ。
「なんだこれ」
振り返ってみれば、そこには扉があった。
年季の入った、木製の扉だ。
最初はビルの入口かと思った。
けれども、それにしては古めかしすぎる。
それに、扉全体に複雑な彫刻が彫りこまれている。
なんというか、ファンタジー系のRPGとかで見るようなデザインだ。
こんな扉、さっきまでここにあったっけ?
記憶が正しければ、俺はビルの壁に寄りかかったはずだ。
つるつるした、大理石か何かのタイルだったと思う。
ただ、それよりも……もっと不思議なことがあった。
扉は、左目でしか視認できなかった。
左目を瞑ると、消えてしまうのだ。
左目を開けると、扉がまた出現する。意味わからん。
「なんだこれ?」
扉に手を触れる。
ゴツゴツとした、冷たい手触り。
間違いなく、ここに存在している。
ノブに触れてみる。
ちょっと力を入れると、抵抗なく回った。
どうやら施錠はされていないらしい。
「…………」
この扉の奥……どうなっているんだろう。
そう思うと、もう止められなかった。
ごくり、と唾を飲み込む。
深呼吸をする。
それから俺は、扉をゆっくりと開いた。