第192話 聖女、現代日本を冒険する①【side】
――時は数日ほど前にさかのぼる。
「手持ち無沙汰になりましたね……」
アンリは自室のベッドに腰掛け、ぼんやりと呟いた。
窓からは昼下がりの暖かな陽光が差し込み、室内に漂う埃が反射してキラキラと輝いている。
「…………」
静けさの中、規則正しくカチコチという音が部屋に響いている。
彼女は振り返って、音の出どころである壁掛け時計を見た。
(不思議な気分です……まさかこんな珍しいものが、自分の部屋にあるなんて……)
むろんアンリとて、時計くらいは知っている。
王都の街角には、魔導仕掛けの時計台が建っていたからだ。
それに大司教様や貴族様の屋敷などでも、大きな柱時計を見かけたこともある。
彼らは時計を個人で所有していることを自慢げにしていた。
そんな富の象徴が、まさか自室に設置されているとは。
最初はなんて贅沢な部屋なのだろうと感動したり恐縮したものだが……どうやらこの世界では、時計は庶民も含め誰もが持っているものらしい。
特に小型のものは、物によっては子供の小遣いでも買えるほど安価だそうだ。
普通は、逆だと思うのだが……
そういえば、ヒロイ様の手首にも小型の時計が巻かれていたような気がする。
あれくらいの大きさならば、この世界でならそこまで高いものではないだろう。
(ならば……)
ならば、『私にも同じものを買って頂けませんでしょうか……?』などとおねだりしたら、彼はどんな顔をするだろうか。
幻滅されてしまうだろうか?
それとも――
「……いえいえ! 仮にも聖女がはしたない……!」
そういう彼女の顔はニヤニヤと緩み切っていたのだが、それを指摘する者は誰もいない。
「…………」
「…………手持無沙汰になりましたね……」
しばらくののち、正気を取り戻したアンリが再び呟く。
今度はため息交じりの独り言になった。
昨日はヒロイ様がいろいろと面倒を見てくれたが、残念ながら今日彼が訪ねてくることはない。
今朝から数日ほど王国に滞在し、やり残してきた用事を片付けてくるのだそうだ。
もっとも昨日のうちに、彼からは照明の点け方や水の出し方、浴室やトイレの使い方からお金の単位まで、身の回りのあれこれに関するレクチャーは一通り受けている。
コンロの点火方法と『でんしれんじ』で食品を温める方法はもうマスターした。
『れいぞうこ』を開いて氷雪魔法などを定期的に掛けなくても問題ないことは確認済みだ。
さすがにトイレの『うぉっしゅれっと』という噴水機能だけは、まだ慣れないが……
それ以外なら、もうほとんどの家具を使いこなせている……はずだ。
食事についても、ヒロイ様が近くの近くの市場で食材を買い込み『れいぞうこ』に詰めこんでくれたから、数日は外出しなくても飢えることはないだろう。
ひとまず、生活の不便さはもう感じない。
それに今日は、昼前にソティが昼食の差し入れを持って訪問してきたあと、あれこれと世話を焼いてくれた。
やれ不便なことはないか、欲しいものはないか、ヒロイのことをどう思っているのか……などなど。
それどころか、大陸語と『にほんご』とを翻訳する便利な魔道具まで渡してくれたのだ。
その魔道具に向かって話しかけると、その内容が魔道具の表面に翻訳した言語にて浮かび上がる仕組みになっている。
もっとも現時点では開発途中のため簡単な単語や文章でしかやり取りできないそうだが……それでもこの国の人々とある程度の意思疎通が可能になったのはありがたかった。
それからソティは一緒に昼食をとっている間、この世界のことをいろいろと教えてくれたが、ノースレーン王国など向こう側の世界についてアンリに聞くことはなかった。
というか、彼女は意識的にその話題を避けているようだった。
もしかしたら、気を使われていたのかもしれない。
何しろ自分は、国を追われるが同然の境遇でこの世界にやってきたのだから。
もっとも最後の質問については、つい言葉を濁してしまった。
けれども今思えば、彼女にはハッキリ『ヒロイ様と人生を共にする覚悟はあります』と伝えておくべきだったかもしれない。
これは聖女の勘だが、なんとなく彼女は将来自分の『敵』になる気がしたからだ。
とはいえ、ソティが部屋に滞在していた時間は、昼食を含めてせいぜい二十分程度だった。
彼女は現在、この世界で商人のようなことをやっているらしく、時間に追われながら暮らしているらしい。
食事を食べ終えたあとすぐに『すまほ』というこの世界の魔道具から音が鳴り、彼女はそれに返事をしつつ、慌ただしく部屋を出て行った。
その後は、昨日教わったことの復習として身の回りの道具や設備を使ってみたり、『てれび』という音が出て動く絵を映し出す魔道具を眺めて時間を潰していたのだが……さすがに日が傾きかけた頃には完全に手持ち無沙汰になってしまったのだ。
とはいえ、別に外出を禁じられているわけではない。
『くるま』の往来に気を付ければ、外を探索することはむしろ二人から勧められていた。
「…………」
アンリはベッドから立ち上がると、窓際まで寄り、外を見下ろした。
眼下に伸びる大通りには、たくさんの人々と『くるま』が行き交っている。
見慣れない服装や、見慣れない顔立ち。
見慣れない移動手段。
建物の形もなにもかもが違う。
アンリは、胸の奥からウズウズとした何かが込み上げるのを感じた。
ここはもといた世界とは全く別の世界だ。
けれどもここがノースレーン王国と同じ、人間が築いた文明であることもまた理解している。
文化や言語は違えど、この住む人々はアンリと同じように喜び、怒り、悲しみ、そして笑う。
通貨は違うが金銭の概念はある。
ならば、あとアンリに必要なものは勇気だけだった。
「……買い物、行ってみましょうか」
アンリがいる『じょしりょう』のすぐ近くには、『こんびに』と呼ばれる雑貨店がある。
最初の冒険としては訪れるには、ちょうどいい場所だ。
大丈夫、旅慣れた私ならできる。
アンリは決意に満ちた顔でベッドから立ち上がり、外出の支度を始めた。
※アンリ様回は全部で3~4話になる予定です。
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もちろんウェブの方もまだまだ連載を続けてゆきますので、
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