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聖女

作者: みれ

ある国で聖女が婚約破棄、或いはその他某かの理由に因って隣国に追放された。

その腹いせに元自国への祈りを止め、何も知らない罪もない憐れな平民たちまで巻き添えにされて国に災厄が降りかかるようになり、結果として元聖女が恨まれる、という類いの話がある。


聖女にとってはとんだとばっちりである。


ここで、僕の国の話をしよう。

他の国にはあてはまらない箇所もあるだろう。だから話半分に聞いて欲しい。


つい先日、この国の教会に認められた聖女が、国との結びつきを強くするために調えられた王子との婚約を、王子側の一方的な理由に因って破棄され国を追放される、といった事件が起きた。


だが、追放された聖女は、国と教会を繋げることも出来ない役立たずとして教会に見放されてなんの後ろ楯も持たず、しかし王子側はその権力でもって情報操作の類いは容易い。


結果、聖女は悪女と成り国を追われ、悪女の祈りは神には届かないとされて、国に降りかかる災厄は全て元聖女のせいだ、と国民の怒りを向けられることになる。


国を追い出し、神と聖女の間の「祈り」という繋がりを断ったのは、国と教会であるのに。


後述するけれど、この国では「神への信仰は聖女の祈りこそが最上である」、と教会によって定められている。

その為国も、民心の支えとなっている神への信仰を国側も認めている、と示す為に王子と聖女を婚姻させる事が慣例となっている。


ところが、今回はそれが破られたのだ。


何も知らない、何の罪も無い大多数の一般国民たちが、一部の上級国民の身勝手により迷惑と被害を被るなんて、よくある話だ。不当な税金の釣り上げとか。


だが、他国は兎も角、この国の仕組み上、聖女が国を出て祈りを止めた時点で、国全体にその影響が出るのは当然なんだ。


それは、この国が「聖女の祈り」というやり方でしか、神への信仰を捧げなかった点にある。


その何が悪いのか?

理由は幾つかある。


まず、「祈り」の負担の大部分を聖女に押し付けたこと。


「聖女の祈りが神への捧げもの」としてしまったため、教会は自身の立場を「聖女の管理者」という役割にしてしまった。


本来であれば、国全体が神に祈って信仰を捧げ、教会はその信仰の総本山となり、教会に所属する神官たちはより篤い信仰を神へと捧げるべきだった。


だが、この国はその全てを聖女に押し付けた。


教会は神と聖女の仲介者に成り下がり、「神に祈るのは聖女の仕事だから」と祈りすら捧げない者がほとんどだった。流石に全員とは言わないが。


教会がそんな姿勢を見せれば、国民だって「祈り」を止める。だって「聖女が祈れば神への信仰はそれで足りる」、と他でも無い教会がそう示しているのだ。そりゃ、生活に忙しい国民は祈るのを止める。止めなくても、軽いものになる。生活内の優先順位が、少しずつ変わっていったのだ。だって「国民が祈る意味はほぼ無い」んだから。聖女が祈ればいいんだろ? それが国民の意識変化。そうしたのは教会。


そしてもう一つ。


「信仰の手段を聖女の祈りのみ」としてしまったこと。


国全体が祈りを捧げる、というのもそうだが、供物を捧げるとかでも良いはずだったのだ。

生け贄は極端だが、別にそれでも悪く無い。生け贄=人間みたいな発想をされがちだが、畜産物や魚や農作物だって良いのだ。というか、大昔はそうだった。時代が進むにつれ、そんなナマモノを捧げるのは前時代的だ、純粋な祈りこそが正しい信仰だ、みたいに言い出したのは教会なんである。


ここで大事なのは、この国に於いての「神」とは、いち地方神に過ぎないことだ。

だがそれはあまり知られていない。教会すらもきちんと把握しているか怪しい。


この国、というかこの地方担当の神というのが居て、更にそれら地方神を纏める神が居る。国によってはそれぞれの神に名を付け、崇拝を捧げる。


でもだからと言って、地方神だろうが統括神だろうが、全ての「祈り」に応えなければならない理由は無い。そのへんに理解のある神もいるし、自然に任せる神だっている。それでも地方を視ている神であることに違いはないし、何よりも人間よりも存在自体は上位なのだ。

だから人間は「神」に対し、生け贄やら祈りやらの供物を捧げ、畏れ敬ってきたのだ。


それが「信仰」であるはずだった。


じゃあ、「聖女」の存在とはなんぞや。


つまるところ、生け贄やらと同等の「手段」でしかない。


神の存在を知った人間は古来より、その恩恵に与ろうと様々なモノを神へと差し出してきた。

収穫物に始まり、自作の品であったり、貨幣であったり。


かつてそれらの手段がバラバラであったのは、国として纏まる前は各地、或いは各人にとっての正しいやり方が存在した為で、なんなら信仰される神だって各地でバラバラだったのだ。


だから、ある地域のみで「信仰の手段」として聖女という存在がいたとしても、別の地域では供物が有効であることは変ではなかったのだ。だってどちらも「手段」の一つでしかないし、なんなら地域ごとのやり方なんて、わざわざ対外的に示したりしないことだってある。


Q.聖女が居ない地域の祈りは神に届かないのか?

A.そんなわけはない。


それを言ったら、神と聖女の発生が同時でなくてはならなくなるからだ。そして聖女も祈りに意味があることに気づいていなければならなくなってしまう。


神を認識していなかった時代にも神は居たかどうかはわからない。

人間が来るよりも前からそこに居た神も在るだろうし、祈りから生まれた神も居るだろう。


祈りを知らなかった聖女だって居たはずだ。

その存在だけで神への供物代わりになった聖女もいただろうし、祈りという行為を知らずに聖女としての役割を果たさなかったが、地域としては供物を捧げていたので、結果的に神へ信仰を捧げられていた場合だってあるだろう。


そしてムラがやがて国になり、信仰に対して教会が出来たとき、「信仰の手段」にも統一が示された。要するに「聖女という手段の統一」である。


信仰は大事だ。だが教会もナマモノばかり寄越されても困る。お金なら良い。お金はモノほど場所をとらないし、保管も容易だし、交換効率もいい。

教会は神への祈りを捧げることを仕事としたひとたちの集団だ。肉体労働に多くの時間を割かなければならないほとんどの国民の代わりに、神により篤い信仰を捧げるのが仕事。

「働いてて祈る時間もとれないし、供物あげるから代わりに祈っといてね」と祈りを託されたのが、教会の存在意義だ。


だから、「教会が無ければ信仰が成り立たない」なんてことは無いのだ。


だって、太古の「祈り」と現在の「祈り」に質の差は無いんだから。

もしあるとすればそれは神の側がそう裁量するべきであって、祈りを捧げる側の人間が言うことではない。


「大昔の供物を捧げる祈りは質が低くてスンマセン、最新の祈りを捧げるので過去のことは許してください」

なんて言うやついる? いないだろう、多分。


だが、教会は「聖女」という存在を国の統一により知り、それが「手段」として最高率であると見出だした。教会は効率厨の集団と化す。「祈りの手段」に人間の側が優劣をつけたのだ。


「聖女の祈りこそが信仰に於いて最上である」


意訳『純粋な乙女の祈りがいちばん尊い!何よりも直ぐに神に届くから!

供物でもいいよ、それは教会で一旦預かるよ。神も何でも送りつけられたら困るだろうしね!』


それが教会の言い分。


「教会に捧げる供物」の最上として金を要求し、


「神に捧げる供物」として聖女を差し出す。


祈るだけで信仰を捧げられる聖女という存在は、教会にとって便利で仕方がなかった。聖女が祈れば事足りるのだ、教会は信仰の纏め役として聖女を庇護するだけでいい。

逆に言えば、「聖女以外の祈りは不要、それは神官である自分たちも例外でなく」と気づいてしまったのだ。


実際にはそんなことは無い。誰が祈ろうが何を捧げようが、全部ひっくるめて「信仰」なんだ。


だが、信仰に優劣をつけたのは、他でも無い、教会自体だ。


だから腐敗する。神への供物なのに、その取り分の比重は教会自体へと高められた。理由なんて後付けでなんとでもなるし、都合が悪くなれば「聖女の祈りが足りないせいだ」で済む。教会とは既にそういう仕組みで成り立ってしまっている。


勝手に優劣をつけ、勝手に手段を減らしたせいで「聖女」がいなくなれば「神」に「祈り」は届かなくなってしまう。


本当はそんなことないのに。


聖女が居なければ自分たちで篤く祈りを捧げればいい。供物を捧げたっていい。その方向を教会に向けず、神に直接向けて祈れば良かったのだ。


だが、国民は教会によってその手段を狭められた。教会を祈りの場とされ、そこで聖女が祈ることこそが最上だとされ、そう思い込まされた。だから、それ以外の方法を知らない。個人で篤く祈るひとも少しはいるが、大昔のような、各地域でやっていた全体での祈りではなくなってしまったのだ。


だってそれは教会の仕事なんだから。


でも教会自体も、もう祈ることを忘れてしまった。「信仰篤い集団」でなくしたのは、自らだ。聖女を最上とし、聖女が最上であると思い込んだ彼らは、自らの祈りを聖女より下だと捉え、無意識に卑下した。下だと思い込むから、「祈りは聖女にやらせとけばいい」になった。自分たちで優劣をつけておいて、勝手に卑下して押し付けたのだ、聖女に「祈り」を。


そして、そう望んで産まれたわけでもない「聖女」はひとりで神の窓口にさせられ、他人の迷惑行為の責任を押し付けられることになる。


その結果、この国は自ら「祈り」を放棄して、自分で自分の首を締めるのだ。


だから本来、国民が恨むべきは教会である。教会も自ら知見を狭めた教会の仕組み自体に気づくべきだった。

婚約破棄をしなければ、ではない。それはきっかけに過ぎない。


神である僕からしたら、自滅にしか見えないんだから。


それに、僕が気に入っていた祈りを捧げてくれていたあの娘は、別の神が視ている隣国に行ってしまった。

そしてこの国に残ったのは、僕を畏れも敬いもしない人間ばかり。


なら、僕がこの国を視なければならない理由も、もう無い。



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