後編
後編です。
周囲を山で囲まれているが、村を出て直ぐに山が在る訳ではない。暫くは斜面を感じない森が麓を覆い、子供の足では一日掛かるだろう距離に山の足元が在った。
山に近づく程足跡は残らず、獣の住む世界が広がる。自然そのもの生態系が人を阻み、あらゆる地形となって五感を狂わせていた。だからこそ、狩人は重宝され村に必要とされるのだ。
私は先頭を歩くゲイボルの背中を必死で食い下がり、冷たい夜風に何度も瞬いた。
荷物は全てゲイボルと後ろのルグに持ってもらっているのだ、これ以上迷惑は掛けられない。これは私の我儘なのだから。
「でも、本当にこっちでいいのか?どこに生えてるか分かんないんだろ、その花」
ルグが長いロープを肩に担ぎ、私に疑問を投げた。正直そこを突かれると推測でしかモノが言えない。
「……花のとくちょうを聞いたとき、お父さん何も言わなかった。狩人のお父さんでも見たことがない花だったんだと思う。この辺りにも生えているとかていして、狩人のお父さんが見ていないなら、理由は二つ」
「狩りの獲物がいないから行ったことが無い場所か、危険な場所でドノフでも近寄らない、か」
「はい。でもお父さんけっこうしゅみで森の中歩くから、ぜんしゃの場所はそんなにないと思うんです。ならかのうせいが高いのはきけんな場所!」
「この辺りできけんな場所って言ったら……」
「あぶない場所で他の草があんまりはえてない、月の光がよくあたって、けものとかに食べられてない。たぶん……あそこ!」
「あ、……あれ!?」
風が強い夜の空は、雲が無く星がよく見えた。だから月が細くても、目が慣れてくれば地形把握は可能だ。科学レベルの低い村では、夜が暗いのは当たり前。その村の住民なら、夜目が鋭い事は普通である。
小さい指で私が示した方角には、まるで巨大な包丁で山を切ったような、断崖絶壁が立っていた。
地面とほぼ直角に切り立つ崖は、地層を美しく晒し堂々としている。とても植物が根を張れる場所ではなく、平らな地面が月光を全身に浴びていた。
崖の全体をある程度見渡せる距離でも、目測で高さを把握できない。何があればこういう地形が出来るのか、世界は広いものである。
こんな広い世界で小さい花を探す私達は、本当にちっぽけだ。
「上だ、見ろ!」
「あ!?お父さん!!」
「ガリフおじさんも居る!」
丁度崖の一番高い場所、端の方に大男が二人。状況と辛うじて見える特徴から判断した。
父は崖から上半身を殆ど出して、むき出しの地層を観察している。月光がよく当たり他の植物が生えていない場所、やはり私と同じ考えに至ったらしい。
「……ゲイボルさん、じゅんびを」
「本当に此処か?とても花が在るようには見えねえが……」
「ないならない、有ってもお父さんがぶじにとれるならそれでいいよ。命がかかってるんだもん、そなえはいくらあってもいいでしょ?」
「……そうだな。ルグ、縄」
「はい」
私の言葉に頷いてくれたゲイボルが、ルグが持っていた材料と合わせて準備を進める。元々私が設計を頼んでいた滑空機、ではない。案は出したが私の希望とは少しずれていたので、未完成だった物。
初めて作る物の筈だが、流石プロ。設計図が有れば、動く手に淀みは無い。
ゲイボルの素晴らしい工具捌きを、食い入るように見つめるルグ。村を出たいという夢と、父親の技術を尊敬する気持ちは全くの別物だろう。
着々と進む工作を他所に、父が崖を下りようとしているのが見えた。狩猟用だろうか、短剣を崖に刺し腕の力だけで下りようとしている。見ていてとても安心できない。あれほどの無茶を強行しているのだ、花を見つけたと考えるべきだろう。
ガラガラ!
「―――!?」
岩が転がる音、短剣を刺した部分の地面が削れたようだ。落石は軽く、父の短剣は外れなかった。
一気に背中を汗が流れ、最悪の未来を想像してしまう。
「っ……ゲイボルさん、私の合図でそれをあっちになげて!」
「は、いや。お前の親父はもっと右に……」
「いいから!ルグ、なわはなさないでね!」
「分かった、持つところこの辺か?」
何度も私の実験に付き合っているだけあって、ルグは順応が早い。ゲイボルが口下手なおかげで、思ったより疑いの言葉が掛からなかった。この親子を見ていると、産まれてくるのが弟だと嬉しいなと思ってしまう。勿論どっちでも嬉しいのだ、家族が増えるのだから。
その幸運を、私達が掴むのだ。
タイミングを待つ。それはただ投げるだけでは役に立たない、私はチャンスに耳を澄ませた。
山と森の境目、木々のざわめきが教えてくれる。
迫りくる自然の驚異に、私は目を開いた。
「今!!」
ゲイボルは私が指した方角に、向きを考えて投げてくれた。投げた物の特性をしっかり理解している。きっちり一秒後、脅威は突風という形で私達を襲った。
父も例外ではない。遮る物の無い崖で、全身を風に煽られる。特に高い所は風が強いのだろう、体の大きい父が崖から体を離してしまう。ただの短剣では、煽られた父の肉体を支えられなかったのだ。
半ばから折れた短剣を持って、父は宙に飛ばされる。
「ドノフウウウ―――!!!!!!」
弟のガリフが手を伸ばすが、届く筈もない。分かっていても考える前に伸びたのだろう。
家族の危機に手を伸ばそうとする事は、自然な反応だ。
だから私も、手を伸ばす。
「お父さん!!!」
「っ!!?」
娘の声に、父が目を下に向けた。突風で体が自由に動かない状態では、眼球しか向けられない。
声を辿り父が見た先には、自分に迫る布が視界一杯に映った事だろう。
「ぐっ!?」
重力に落とされる寸前、父の体に激突したのは〝凧〟である。
設計通りに風を受け、その力を使った最大限の加速。凧は作ったゲイボルも目を丸くする速さで宙に舞い、父の体を受け止めた。一時的に風の力で大の男を乗せたまま浮く凧は、父の重みを物ともしない。この凧を作ったゲイボルの腕と、夜の強風が在ってこその荒業である。
「この……!?」
「ふぬぬぬぬぬぬ!!」
父を支えるだけの突風が吹いているのだ、それを力に飛ぶ凧を支える方は更なら力が必要である。飛び過ぎないように縄の長さを調整し、必死に引くゲイボルとルグ。
筋力面で戦力外な私は、無茶を承知で凧の位置を細かく指示する。
「もう少しなわ引いて!……引きすぎ!もっと上!!」
「「うううううう!!」」
握力に集中する親子が、理由を考える余裕も無く縄を引いて伸ばした。一々理由を聞かれても納得させられる自信が無いので、結果オーライである。
私は光の少ない夜の風を感じ、凧の動きを予測しているのだ。
凧は正に風の奴隷だ。右に吹けば右に、左に吹けば左に飛ぶ。風の強さと方向さえ分かれば、凧の操作は容易だろう。しかしそれがどれだけ難しいか、私の脳みそが知恵熱を発していた。
幼く柔い肌に触れる温度と湿度、時間帯と地形に凧の耐久度、あらゆる情報を土台に風を待つ。そして五感をフルに使って聴く、風の声。凧を引く大人と子供の力も視野に入れて、父の支援を続けた。
自分を宙に留まらせる凧が何のかも、その原理も分かっていないだろうが、父の心には今母と二人目の子が叫んでいる。
無意識に凧を掴んで己の体を固定し、ナイフを投げ捨てた手で崖に手を伸ばした。
確かに、崖の微かな切れ間から小さい花が見える。父の伸びた手の方向を頼りに、凧を操作しようと指示を出す。
―――!
鼓膜をくすぐるのは誰かの声、ではない。声に似た風の予兆だ。
私は振り返り、それを見た。
一瞬静まる木々のざわめきに、流れる雲の違和感。肉眼では見えない程遠くから、巻き上がる草木の悲鳴。
私はルグの後ろに有る、余っている部分の縄を持ち近くの木に巻いた。二周が限界だが、間に合った。
――――――ゴオオオオオオ!!!!!!
「うわっ!?」
父を崖から落とそうとした風を上回る衝撃が、ゲイボル達の手にも掛かる。木に縄を巻き付けて備えていなければ、父と一緒に風が終わるまで飛ばされていただろう。
あの声のような風も予測も、発生の理由を探す時間は無かった。
「お父さん!!花を!!!」
「っ!?うおおおおおおおおお!!!」
父が凧に乗りながら、手を伸ばす。
私も父も、見えているのは小さい一輪の花だけだった。
薬は正しく処方された。効力について、作った本人であるアリオにも確認は不可能だ。
魔力を本当に抑えられているかは、医者であっても魔力を持たない者には分からない。作り方もアリオが偶然読んだ教本に載っていただけで、記述通りに作れた自信はあっても、成功しているかの判断はこの村の誰にも出来ないのだ。
結局は母体に、ほぼすべての負担が掛かっていた。
「うううううう……あああああああああ!!!」
「頑張れ、頑張ってくれ、ティラ!!」
命を産む作業は、母体に大きな負担を強いる。私達が森に行っている間に、お産の手伝いで村のおばあさん達が来てくれた。
私達に出来ることは無くなった、父は母の手を握り必死に呼びかけている。
部屋の隅で邪魔にならないよう立っている私は、父の行為が無駄だとは思わなかった。体格の大きい父が母の手を握り立っているだけで、アリオやお手伝いのおばさんの移動を阻害している。しかし母と子の命が母体の体力と精神に懸かっている今、傍に旦那が居ると知るのは精神的に大きな支えではないだろうか。
母は大声を上げ、痛みを和らげようとしている。必死にまだ見ぬ子供の命を守ろうとしている、それでも周囲の顔色は悪かった。
「……切開の用意を」
父母に聞こえないよう、小さい声でお手伝いさんに指示するアリオ。静かにしていた私の存在を忘れているらしい、子供に母を捨てる指示を聞かれている。
恐らく花を探しに行っている間、アリオが母に意思確認を済ませていたのだろう。
私の母は、まだ見ぬ我が子の為に命を捨てる覚悟なのだ。
切開の用意で席を外し、母の周囲に空間が出来た。怒涛の展開と衝撃に、ふらつく足元で母に近づく。
父は母の手を握り、目を閉じて祈っている。苦しむ母は私に気付かず、水を被ったように汗を流していた。近くの布で優しく拭う、そんな事しか今の私には出来ない。
実感が無い。優しい母が死ぬかもしれないなんて。
私は乱れる心を抱えたまま、母の腹に手を伸ばした。
腹に触れた瞬間、そこから体中をナニカが駆け巡る。
血管を神経を、知らない何かを通りソレは私を満たす。
世界と肉体の境界線が消えた感覚、それでいて空間全てが己の支配下に落ちた錯覚。
これが『魔力』だと、確信を得た。
腹の中の弟か妹が発する魔力は、本来個人の力。他人がどうこう出来るものではなく、本人以外に制御できる力ではない。
だが同じ両親の子だからだろうか、私は不思議と『魔力』を掴んだ。状態を説明するのは難しい、そんな気がするとしか言えない。擬音にも変換できないし、ファンタジー過ぎて例えも上げにくいのだ。
表現出来ない感覚で触れている『魔力』から、声にならない叫びが聞こえた。
この子は、悲鳴を上げているのだ。
死にたくない、助けてと。
自身の内から溢れる魔力に、自分で苦しみ悲鳴を上げている。苦しみが更なる魔力の流れを生み、結果母体にまで痛みを与えているのだ。赤子には勿論その自覚は無いだろう。死にたくないと叫ぶのは本能であって、まだ自我の無い赤子に感情は備わっていない。
魂が苦痛を訴える程の『魔力』、この赤子は存在するだけで『魔力』を産んでいるのだ。
私は両手を母の腹に当て、必死に願った。初めて『魔力』に触れるのだ、心でしか語り掛ける手段が思い付かない。
此処で初めて、私は心から赤子の無事を祈った。
薄情な話、母とまだ見ぬ子なら私は前者を選んでいたのだ。しかし『魔力』の波に触れ、赤子の心に触れてしまった私は、もうどちらも見捨てられない。
一度は欲しいと願った『魔力』、それが目の前に有る。
こんなモノのせいで私の家族が危険に晒されるなら、『魔法』なんて要らない。
ファンタジーなんてどうでもいい。
「消えてよ……!魔力なんて要らない!」
――――――。
空気が振動した、膨張し部屋を包んだ風が私達をすり抜けた。
異常に気付いたアリオが、母の状態を確認する。呼吸の仕方が変わった母に、アリオは驚き安堵した。
「これは……安定している。魔力による負担が消えた?一体何が、いや。切開は無しだ!通常の出産に戻ります!」
「ああ……ああ、聖天神よ!有難う御座います、有難う御座います……!」
母体が安定した途端、分娩室の空気は和らいだ。アリオはお手伝いさん達に新たな指示を出し、父はこの世界の絶対神に感謝した。ただ毎日を生きているだけの田舎者でも知る神は、幸福や奇跡、豊穣や繁栄といった慶事を与えるとされる存在。
ファンタジーな世界であっても、私は神の存在が胡散臭いと考えている。しかし今の喜びに水を差してまで指摘する事ではないし、私にその気力は無かった。
棒となった足で開いたままの扉を通り、廊下に置かれた椅子を目指す。
「フラノ?」
椅子にはルグとゲイボルが座っていた。分娩室から漏れる声に、最悪の事態を避けた事を察して表情から硬さが抜けている。
父の命を助けてくれたお礼も伝えたかったが、今の私には意識を保つ事も難しいのだ。
力を無くした膝が、廊下の床に落ちた。
「フラノ!?どうしたんだ!?」
「待て、揺らすな。こっちに寝かせろ」
この病院内で最も落ち着いているゲイボルが、私を抱えて別の部屋に運ぶ。寝かせた私に背を向けようとするゲイボルの服を掴んだ。医者を呼んでも無駄であると伝えたいが、目がもう限界だった。
「おねがい、だいじょうぶ……だから。お父さんも、お母さんも……すこし、ねむいだ……け……」
「だが……」
「ほんとう、よ……おねがい。ねえ、ルグ」
「フラノ……!?」
「わたしに、おとうとが……できるの……。なかよく、して……ね……」
「フラノ……?フラノ!フラ―――
何も問題は無かった。
沈んでいく私の意識は、何の心配もしていなかった。
分かっているのだ。
叫んでいる母も、これから出てくる弟も、どちらも無事であることを。
次に目が覚めた時、私は四人家族の長女になっているのだ。
「―――お姉ちゃん!」
「大丈夫だから、そこで見てて―――ティリド」
この辺りで一番高い木のできるだけ高く丈夫な枝に、私は立っている。此処からでは下で叫んでいる弟のティリドが、豆粒に見える程だ。
遥か下方からの心配を振り払い、私は顔を叩く風に向かい合った。
村を覆う森の木をほぼ見下ろせる高度に立っていても、雲に刺さる目前の山は更に高い。村には生まれてこのかたあの山の麓にも行ったことがない者が大半で、狩人の父ですら山の中腹までしか足を運んだことが無いという。
胸が躍る。
私は今日、その山を越えるのだ。
最終確認をする。
飛行の妨げになりそうな物や服装ではない、天候は正に青天、そして背中の物との接続は良好だ。
安全ベルトも本体の動作に乱れも無い、オールグリーンである。
「良し!じゃあ―――」
「フラノオオオオオオ!!!お前……また一人でやろうとしてるな!!!?」
「げ」
下方からティリド以外の声、怒気の主は考えるまでもない。
「あああ……早かったね?」
「お前兄貴を食いモンで買収して足止めさせてたな!!?蜂蜜なんて何処で手に入れた!?」
「この前の試験飛行の時に……、あ!勿論ティリドとルグの分はちゃんと確保してるから!」
「やったー!」
「フラノ!!ティリド!!」
ボルテージの上昇を察知、実験を早々に開始した方が良さそうだ。ルグも私ほどではないが、木登りがかなり上手である。もたもたしてると上ってきて引きずり降ろされかねない。
実験を始めて数年、成長した私は力と知恵を付けた。その最大の成果が今、証明される。
迷いも恐怖も無い、懸念など欠片も無い。
私は自身を宙に跳ばし、全身を風に任せた。
「フラノ―――!!」
「お姉ちゃん!!!」
見上げて叫ぶ懸念を蹴飛ばし、私は一秒早く宙に出た事を悟る。敏感に逆立つ神経が、望む風のタイミングを計算。このままでは風を受ける前に墜落すると、理性が私を責めた。
一秒早く跳んでしまったなら、一秒分宙に留まれば良い。
「【吹け】」
落下の風圧に消えそうな声が、空気に混ざり波紋を作る。
そして明らかに自然ではない風が、私に掛かる重力を吹き飛ばした。まるで森が一斉に息をしたような上昇気流で、私の体が宙に止まる。
私は『魔法』が使えるようになった。
ティリドが母の腹の中で放出していた魔力を私が抑え、気力を使い果たし気絶した後である。体内に魔力が溜まっていく感覚を覚え、困惑した。
精神年齢だけは既に成人しているので、一人試行錯誤して検証。この魔力が私ではなく、ティリドから流れてきている事を知る。原理とか理屈はさっぱりだが、切っ掛けはなんとなく分かった。
誕生する前からその小さい体に収まりきらない魔力を持ったティリドは、生存本能が無意識で魔力の主導権を私に渡した、と思われる。両親にも本人にも言えないが、結果的に私が家族を守ったと思えば納得できた。
それからは魔力の制御に時間を費やし、誰の指導も得られないまま魔法の習得に至った。
村にある数少ない本を読み漁ったが、魔法についての記述はほぼ零だ。村には当然魔法関係の知識を持った村人は居らず、偶に来る商人も噂話程度。
曰く、『魔法』とは神に近づく手段である。
意味が分からなかったので、私が使える魔法は一つだけだ。一つだけでも使えるようになっただけ褒めてほしい。何もわからない状況で、よく魔法を会得した。私凄い。
たった一つの魔法で、私は空に飛んだ。
「やっほおおおおおお!!!」
推測通りの強風を受け、背中の人工翼が重力に逆らう。風の隙間を縫うように滑る翼の角度を全身で調整し、風力が足りないなら魔法で注ぎ足す。家の屋根や地面すれすれの高度で練習した通りに、ゲイボル特製グライダーが風に私を乗せてくれた。
最初が大丈夫なら、後は態勢の維持に努めるだけだ。風の道を滑る感覚を掴んだ私は、改めてその光景を見渡した。
「……ああ……なんて、綺麗な世界なんだろう」
異世界で第二の生を授かり十二年、一度も離れた事が無い村の外。親ですら足を伸ばせていない場所もその更に向こうも、私は遥か上空から一望した。
白く輝く太陽の光が世界を照らす、雲の影が森を漂う様子まで観察できる。
青い空と聳え立つ山波の境目が、ゆったりと弧を描いていた。
一番近い位置の雲に触れながら、私は眼前の絶景に涙を零す。
ずっと飛び出したいと思っていた村でさえ、視点を変えれば全く違った景色になる。この感動は一生忘れないだろう。
だからこそ、私の願望は強さを増した。
「―――!!―――、―――!?」
「おっと、そろそろルグの心労が頂点だ」
魔法が風関係だからか、音や声に敏感になった私。数百メートル離れていても多少声が聞こえるのだ、特に弟の声はよく届く。
青く美しい空を自由自在に飛ぶ私の姿は、弟の大きく綺麗な瞳をキラキラと輝かせた。そのまま純粋に育ってくれ弟よ、ルグのような心配性になったらお姉ちゃんティリドの胃に穴が開かないか、逆に心配になる。
私は山の向こう側を一瞥し、螺旋の軌道を描いて降りていく。一度掴んだ風は二度と離さない。
ルグが怒りの第一声を放つ前に、私は大声で宣言した。
「私次の生誕祭で、村を出る!」
「……はあああああああああ!!!???」
年に四回だけの、夜が明るい日。
季節ごとに行われる生誕祭は、自然の移り変わりが同じ時に生まれた者達を纏めて祝う村の行事だ。対象者は灯りとなる焚火から火の着いた枝を拾い、各家の古い物や不要な物を集めた山に火を移す。それらを与えて下さった聖天神に感謝を捧げながら、火の着いた山を中心にして飲食を楽しむのだ。
分かりやすく、田舎らしい祝いである。嫌いじゃないです。
マリアナおばさんのチェル団子を最後に、私は満腹を得られた。この村で一番贅沢なデザート。
子供用の酒精の無い飲み物を貰い、火から少し離れた場所に座った。
大きな火の山を中心に、男達は酒を飲んで女達は笑っている。子供は走っているか食べているか寝ているかのどれか、毎旬の行事なのだ、誰も特別な事はしていないし感じてもいないだろう。
私にとっては、最後かもしれない生誕祭だ。
俯瞰する瞳が、波打ったような気がした。
「フラノ?何でこんな端の方に居るんだ」
「ルグ」
少々くたびれた様相のルグが、離れて祭りを見る私の隣に来た。ルグが疲弊している理由は知っているし、最近では珍しくもない。私はニンマリと口を模り、飲みかけのジュースを差し出した。
「今回もモテモテだったね、生誕祭だと女子はいつもより積極的になる。祭りの雰囲気かな?」
「もてもて……?意味は分からないけど、馬鹿にされてるのは分かる。そっちこそ村長が息子を勧めてたの、知ってるぞ。……なんて言ったんだよ」
「いやナイナイ。昔私のグラ……滑空機にちょっかい出して壊した奴なんて、普通に無理。向こうも嫌そうだったし、平和的に解決出来ました」
「まあ……三つも年下の女の子に殴られて泣かされれば、そういう目で見ようとすらしないか」
「村長も狩人確保したいからだろうけど、私なんかと結婚させられる人が可哀想だよ。それに申し訳ないけど、私は狩人になりたくないし」
今日の生誕祭で十三歳になった私は、約三年前から父に狩人の技術を教わっている。私が積極的だったので問題なく狩りの腕を鍛えているが、父は娘を狩人にしたくないらしい。
しかし男のティリドは身体能力が低く、とても狩人になれる見込みは無かった。なので仕方なく私に技術を伝授している。村長はそれを知っていて、将来の狩人確保の人柱として息子を推薦したのだ。
村の将来が大事な村長、村も大事だが家族を一番に考えたい父。
どちらも正しく、どちらも正解は無い。
「フラノ、は……本当に村を出るのか?」
「うん。家族には話してある、数日中には出るよ」
「……そうか」
私は。ルグの問いに使われた助詞の意味を、私は深く考えなかった。視線を地面に向けて、影を落とすルグが口を開くのを待つ。
燃え盛る焚火の光が、揺れる瞳に反射した。
「……懐かしいなあ。……昔俺が親父と喧嘩して、不貞腐れてた所をフラノに見つかったんだっけ」
「泣いてたよね」
「うっ!……そんで無理矢理家に引っ張られて、朝早くに叩き起こされたと思ったら……村の梯子盗んで屋根に上ってさ!」
「盗んでない、ちょっと借りただけ」
「ティラさんに俺まで怒られた!でも、屋根から見た朝日が、すごく……綺麗だったな……」
顔を上げたルグは、あの時から少し伸ばした茶髪を乱し、美しい過去に唇を噛み締めた。
まるで焚火の中に思い出をくべて、燃やしてしまったかのように。炎の灯りに照らされ惜しみ悲しむルグの表情に、私は空気も読まず色気を感じた。こりゃモテても仕方ないな。
心中を零さない私に、ルグは口を開く。
「あの時の、夢を二人で叫んだ日から……俺はずっと、楽しかった。無茶するお前を止めたり怒ったりしながら、親父に鍛冶を教わって。役に立ちそうな技術や知識に片っ端から手を出した。満たされてたんだ。本当に……夢を忘れそうに、なるくらい……」
木のコップを潰さんと両手で強く握り、力の入った歯をこじ開ける。ルグは己の心を曝け出す痛みに耐え、口を閉ざす辛さに耐えられなかったのだ。
「思ったんだよ……このまま村に居てもいいだろって。村の皆が居て家族が居て……フラノが居れば、無理に親と仲違いしてまで、外を目指す必要は無いんじゃないか、て……!だって……こんなにも……」
「幸せ?」
「え?」
「分かるよ……だって、私も今凄く幸せ」
懺悔を肯定されルグの丸くなった目を見返し、私は笑った。
ルグの気持ちも痛みも、とても理解できる。大事な日常を守る為に生きる幸せも、幼い自分が抱いた純粋な願いの裏切りも。
大きな災害に見舞われることもなく、村が二分するような問題も無い。小さな幸せを大事にして生きるのに、この村以上に平和な場所は無いかもしれない。そんな場所から出ようと考えた幼い頃の私達が馬鹿で、愚かなのかもしれない。
「でも、もう遅いよ。知ってしまったから」
「何を……」
「求めるものを手に入れた時の喜びを、未知に秘められた可能性を。確かに家族は大事だし、村を捨てたくない。でもそれを切ってでも……私は、あの空の先を見てみたい」
星空に手を伸ばす、見ているだけでは絶対に届かない無窮の高み。その美しさと、そこから見える雄大さを知ってしまったのだ。
「もしも此処で足を止めてしまったら、私は今日の私を憎んでしまう。心から望んだものの為に歩けなかった自分の弱さに、一生自分を恨んで生きる。その痛みに、私が耐えられないだけ」
「それが、どんなに危なくても?」
「危険が無いと約束された未来なんて無いよ。ただこの痛みを抱えて生きていける程、私は強くない」
「……お前は、強いよ……俺なんかより」
「この歩き方は、ルグから教わったんだよ?」
不安に濡れるルグの目は、火に充てられ金色に瞬いた。
思い出すのは、前世の記憶を取り戻す前の自分。普通の村の子供だった。親が大好きで元気に駆け回る子供、特別な要素なんて何もない。
そんな私が唯一誇れていたのは、ルグの存在だった。
誰にでも優しいルグが同年代のやんちゃ共の中で頭一つ抜けていたのは、子供にも理解できる特別だ。村で唯一の鍛冶屋の息子で、容姿も子供達の中では飛びぬけていた。そんなルグと最も仲良くなったのが、当時のフラノだ。ルグはフラノを殊更構い、よく遊び相手になってくれていた。
今思えば村で一位・二位を争う屈強な父に憧れていて、その娘を大切にしていただけだろうが、肉体も精神年齢も幼い私には誇らしい事だったのだ。
前世の記憶が戻ってからも、ルグの特別は際立っていた。村の子供、大人達ですら漫然と日々を生きる環境の中であって、ルグだけが明確な夢と憧れを持って生きている。眩しかった、こう在りたいと思ったのだ。
歳を重ね現実の見方を変えたルグの悩みは、実に正当で論理的な思考である。非現実的なのは私で、理由に正当性もない。
幼少の夢を成長しても持ち続ける者が、どれだけ居るだろうか。上っ面だけ聞けば美談でも、内容は全く具体的ではない。家族の苦い顔が、今でも脳裏に焼き付いている。
そんな私の絵空事を、最後には受け入れてくれた。
無理矢理に作った笑顔で、家族は私の夢を応援してくれたのだ。
家族の愛に応えたいから、自分の心に嘘は吐けなかった。
「……ルグは付いて来なくてもいいよ、て……言えたら良いんだろうけどね」
ルグに渡したコップを奪い、中身を飲み干す。何時の日かの屋根の上でそうしたように、私は座り込むルグに手を差し伸べた。
「ルグにも私が見たい景色、見てほしいから。だから――― 一緒に行こう?」
目の前に差し出された手に、ルグは―――
― ― ―
向上心の無い商人は珍しいと、よく後ろ指を指されていた。
男にとって商人とは、遠い場所に物資を届ける為の職業であって、他人を蹴落とす手段ではない。他人の不幸を嗅ぎ取り金を巻き上げる商人に言われても、全く気にはならない雑言。しかしそんな人間が多い職業を選んだことは事実だ、男の商売を聞いた客が驚いても不思議は無かった。
魔物の被害がほぼ無い事以外、特徴の無い辺境の村。そんな場所へわざわざ向かう商人は、自分しかいないと男は知っている。
だがこれこそ男が目指した商人。誰も予想出来ない外の世界を渡り、物という形でそれを多くの人に知ってもらう。男の持ち込む物には、世界の欠片が詰まっているのだ。
一番近い村からも十数日掛かる道のりも、年月を重ね慣れてきた。村に近づけば自然と魔物の脅威が消える事を知っているので、男は注意すべき地点だけを警戒し村を目指す。
油断していたのだ。
ガアアアアアアアアアアアアァァァ!!!!!!
「ひいいい!!??」
巨大な四足歩行の獣、木々を軽々と薙ぎ倒す力と爪で男の馬車を追い立てていた。血走った瞳と涎を垂らした剥き出しの牙を見せつけ、追いかけっこは数時間になろうとしている。馬が限界に近い、ただでさえ物資という荷物がある中で、凶暴な捕食者に追いかけられるのは辛かった。
村までは恐らく後一時間強。しかし魔物の被害が無い事だけが取り柄の村に、戦力なんて期待できるものは無い。更にこのまま魔物を連れて行こうものなら、例え男が唯一村に来てくれる商人でも責任追及は免れないだろう。
商人の命に等しい物資を捨てるか否か、迷っている時間は無い。
手綱を離し馬車から転がり出ようと指が動く、その瞬間前方から風が吹いた。
「え……?」
ドン―――!!!
魔物が地面に叩きつけられた音だと、男は直ぐに気付けなかった。
話しかけた手綱の操作を取り戻し、馬車を止める。背後には魔物が倒した木々の残骸と、幹に円形の穴が貫通している奇妙な木が立っていた。明らかに魔物の破壊跡ではない穴が、男の危機を貫いたのだと察する。
村が在る方向から足音、現状では人というだけで男には救いだ。
口から出掛けた感謝の言葉は、振り返って喉から溢れた驚きに負ける。見覚えが在った。何度か村に行った時、よく妙な知識や物をせがんだ少女だ。
まるで何処か遠くに出掛ける様な、大きな荷物袋を背負っていた。更に荷物袋の上から何かを背負っている。妙な形の物だ、まるで町で偶に見るテントを折り畳んでいるような。
少女は馬車を通り越し、魔物へと近寄って行く。状況から見ても少女の助力によるものだが、あまりにも軽い調子で歩み寄る様子に慌てた。
「君……!?」
ガアアアアアアアアア!!!
魔物が跳ねるように飛び起き、少女に牙を剥いた。魔物の脅威と近い商人であっても、腰を抜かす光景だ。人間がどうあがいても生まれ持てない力が、一切の躊躇無く振るわれる恐怖。
これが世界の当たり前なのだ。
全人類が知っていなければならない、自然の産物。
そんな常識を知る必要のない村で生きていた少女は、眼前の死を前にして人差し指を立てた。数字の一を表すような手の形を突き出し、魔物の頭部に狙いを定める。
「―――『バン』!」
ド―――ン!!!
一言で空間を揺らし、魔物の頭部は爆散した。何が起きたのか、目は逸らしてなかったのに理解出来ない。一発目、男を助けた奇襲より重い音が鳴り響き、魔物に攻撃を加えた事実しか分からなかった。
「大丈夫ですか?」
「え、あ……」
咄嗟に言葉が出ない、商人として有るまじき失態。対魔物はともかく、対人で後れを取るなんて商人の名折れ。即座に表情を作るが、あからさま過ぎた。呆れられた、十以上離れた少女に。
「えっと……助かったよ、有難う!けどこんな所に一人で、どうしたんだい?」
「いえ、一人じゃ……」
「フラノ!!」
「げ」
「お前……遠距離から攻撃しといて、なんで止めは近距離!?危ないだろうが!?」
少女が表れた方向からまた一人、田舎村にそぐわない凛々しい青年が走って来る。この青年も少女と同じで、よく村に行く度声を掛けられた。礼儀正しくて、幼い頃からちゃんとした子だったという印象である。
親が鍛冶師だったので、商人が村で交渉する数少ない相手の息子さん。可能な限りの質問に答えていた。その隣に、少女もよく一緒に居たものだ。
懐かしさに耽る頭を振り、情報を更新した問いを再度投げる。
「あの、どうしてこんな所に二人で?」
「大体俺が援護出来る距離に移動するまで待てって……あ、俺達村を出て行くんです」
「そっかあ、村を…………えええええええええ!!!???」
驚愕する男に、二人の旅人は笑った。無謀だと思われていても、阿呆だと罵られても構わないと言う表情で、男の絶叫を受け入れる。
少女はどこか誇らしげに胸を張りながら、背負っている奇妙な物を揺らした。
何のことは無い。この世界の何処にでも在り得る、ちっぽけな冒険譚のほんの一部。
しかし世界にとってどれだけちっぽけでも、私達の人生に於いてこれほど大きな一歩は無い。
本日も晴天、世界は変わらず美しい。
これは、ちっぽけな私達によるちっぽけな〝大冒険〟である。
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