前編
前編です。
空に手を伸ばし、焦がれるだけの一生だった。
秋中香は生まれた時から足が不自由で、体も弱かった。入退院を繰り返し、義務教育も満足にこなせなかったものだ。
事実、香は数日しか通学してない中学生活の途中で、あっけなく命を落とした。
車椅子でも平気な中学校を、久し振りに通学していた時だ。反対側の歩道を歩いていた小学生を、蛇行運転の車から庇った。
今でも不思議に思う。人生の半分以上を病院で過ごしていた私が、あの瞬間あの場の誰より俊敏に反応出来た事。筋肉皆無な腕で回した車椅子の車輪の速度、薄っぺらい女子中学生の体一つで守れた幸運。
庇った私が言うのも可笑しいが、よく無事だったなあの小学生。
もしかしたら蛇行運転していた車の運転手が、寸前で気付きブレーキを掛けていたのかもしれない。そして私よりよっぽど元気で健康そうな小学生も、奇跡的に軽傷で済んでいたかもしれない。
私が庇ったせいで無駄に大事になったのなら、逆に申し訳なかった。最早確かめようも無いか。
仰向けに転がった私は、ピクリとも動けなかった。漠然とした終わりの気配を、自然と体が受け入れていた。抵抗の余地は無いので、受け入れるも何も無いのだが―――。
これが『死』だと理解した私は、最後の光景に目を奪われていた。
薄情な事だが、私が目を奪われた光景の中に、人の姿は欠片も無かった。
涙を浮かべて呼びかける同級生は、車椅子の私を励まし続けてくれた友達だ。視界の端には、混乱した様子の小学生が座り込んでいる。傷付いた様子は無い、良かった。
少し遠くで携帯に怒鳴る大人の姿、相手が救急車なら私のかかりつけ医にも繋いでほしい。自慢じゃないが救急車を呼ぶ回数なら此処に居る誰よりも経験者だ、声すら出ないので証明出来ないが多分。
それらを意識の外に捨てて、瞳は真っ直ぐ上を見る。
私はただひたすらに、青く美しい空に見惚れていた。
徐々に狭まる視界で、香は生涯最後の空の青さに感謝する。
神様が居るのなら、私の小さな願いが届いたのだろう。
見慣れた白い天井ではなく、青い空の下で死ねた。
叶うなら、次の人生でも青い空の下で死ねますように。
それだけが、私の願い―――――――――
「……だったんだけどなあ」
半開きになった木製の窓から差す日の光で目を覚ました私が、無意識に呟いていた。
秋中香の死の瞬間を夢に見た衝撃で口を出た言葉は、誰にも聞かれないまま空気に溶ける。一緒に寝ていた筈の母は隣に居らず、既に寝台は冷たかった。
今の私には高い寝台を、後ろ向きにゆっくり降りる。やはり木製の扉と壁に向かって、たどたどしい足で歩いた。短くて柔らかく、とても速度の出る足ではない。
しかし立てる、立って歩けている。
それだけで私には感無量だ。
「あら、おはよう。今日も一人で起きれて偉いわね」
「おはよう、おかあさん。わたしお水くんでくる」
「お願い、無理しちゃ駄目よ?」
「はーい」
軋み音の酷い扉を慎重に開き、私は外に出た。初めてこの行為が出来た時、感動して涙が溢れたものだ。両親の困った表情も記憶に新しい。
込み上げる感動を抑え、我が家唯一の車輪付き台車を押す。父の職業と実績で特別に与えられたこの台車は、稀に隣人にも貸す一品物だ。その台車に空の木製桶を乗せ、村の中央まで進んで行く。
「おはよう、朝からお手伝いかい?良い子だねえ」
「おはようございます、マリアナおばさん」
腰の曲がったマリアナおばさんが、私が台車に乗せている桶と同じ物を持って、村の共有井戸に居た。朝は村中の女性が水を汲みに来る、何も不思議は無い。
笑顔を絶やさないマリアナおばさんは、子供好きで有名だ。息子夫婦が早死にし、孫も家を出て長いそうで、よく村の子供を孫のように可愛がっている。御年七十を越えていると噂されているが、誰も本当の年齢を知らない。
井戸の縄を引き、桶に入った水を私の桶に注いでくれた。
「ありがとうございます!」
「いいんだよ、ミレアちゃんは頑張ってるからねえ」
「マリアナおばさん、ミレアちゃんは村長の娘さんだよ。今年で十三歳」
「おやおや、そんなに大きくなって……ルグちゃんも一杯食べて、早く大きくなるんだよ?」
「マリアナおばさん、ルグくんは男の子だよ」
子供を特定出来ないのも、いつもの事だ。目が悪いらしいが、マリアナおばさんのチェル団子は村一である。ハズレは酸っぱくアタリは甘いチェルは、熟練の目利きでも判別が難しい。マリアナおばさんはそのアタリチェルを一個も無駄にしない、甘い物が大好物な子供達にとっては救世主だ。
村人全員がご近所のようなこの村で、マリアナおばさんを蔑ろにする馬鹿はいない。
水を零さないように帰宅すれば、丁度朝食の用意が済んでいた。私が台車を使いなんとか運んでいた水入り桶を、母が軽々調理場へ運ぶ。この村で非力な女は赤ん坊と子供くらいだ。
生きていくなら、最低限水の入った桶を担げるぐらいの筋肉は必要である。
子供用の椅子なんて無い、手を着いて昇る様に座った。名前の知らない山草だけのスープに、干した鹿の肉が少しとチェリの実。
スープが塩の味しかしない事も、チェリの実が酸っぱいだろう事も、食べる前から分かった。しかし塩がどれだけ貴重かは理解してるし、私の手の平より小さい肉がどれだけ特別か、離乳食が終わった二年前から知っている。
私はお隣より豪華だろう朝食を前に、笑顔で木製のスプーンを握った。
「いただきます!」
「はい、召し上がれ」
昨日までの朝食と殆ど変わらない料理を食べながら、私は現状を改めて振り返る。
元女子中学生秋中香。現在は五歳、もう直ぐ六歳の少女フラノ。
異世界に転生したようです。
お世辞にも前世と比べ美味しいとは言えない朝食を終え、私は遊びに―――ではなく家の手伝いをする。
二本の足で己を支え、その足の幅に合った範囲を自由に走り回りたいお年頃。積極的に家の手伝いをしようとする私を褒めつつ、母は遊ぼうとしない娘を心配した。別に友達がいないとかインドア派とかではない、好きで手伝いをしている。
前世でやりたくても出来なかった一つに、母の手伝いが在るのだ。下半身不随の子供の世話に家事と、忙しそうだった前世の母。その背中を見ている事しか出来なかった記憶が有れば、自然とお手伝いに手が伸びるもの。
前の親にはもう何も恩返し出来ないなら、せめて今生の親に返したい。
それに立って歩けて、走れるだけで嬉しいのだ。この喜びは本人にしか理解出来まい。
しかし五歳児に出来るお手伝いなんて、高が知れている。
遊んでいらっしゃい、と追い出された私は村の周囲を歩いていた。子供なら余裕で潜れる木の柵に守られたこの村は、子供が柵を越えても誰も気にしない。村の中で遊び回られても邪魔だし、スカスカの柵の内側から広い平原はよく見える。
村の正面に位置する平原で、数人の子供が獣ごっこに興じていた。獣役と逃げる役を決めて、獣に掴まったら負け。ようするに鬼ごっこの異世界バージョンだ。
「そうなんだよな……いせかいなんだよな……」
走れる喜びで常に満ちている私だが、獣ごっこをする彼らから遠ざかり、適当な石に座った。手頃な枝を拾い、地面に文字を書く。
識字率五パーセント未満の村で幼女が文字書いてたら目立つ、例えその文字が誰も読めない物でもだ。なので書いては消してを繰り返す、憶えるのにはやはり書くのが手っ取り早い。
書くのは異世界だと確信した理由、直ぐに消すので単語だけ。
『人種』
外人要素入った鼻高めの人種なのに、普通に言語が日本語。髪の色は黒とか茶髪、後身体能力凄い。外出経験無しだった前世の私が知らなかっただけで、友達も木登りとか楽勝だったのだろうか。羨ましくて見なかったオリンピックとかどうだったんだろう、百メートル五秒とか?
『文字』
話す言葉は日本語なのに、村長が一度だけ見せてくれたこの世界の文字は、平仮名でも漢字でもローマ字でもなかった。カタカナと記号が、こう、複雑に噛み合ったような文字だ。いつかちゃんと習いたい。
『魔物』
異世界強ワード魔物、この単語が存在するならほぼ間違いなく異世界じゃないか?だが実物は見た事が無い。もしかしたら普通の猪とか鹿が狂暴になっただけで、凄く強くて暴れん坊だから魔物と言ってるだけかもしれないのだ。
村のあの柵で防げる程度ならあまり心配いらない、村の男勢に任せよ。
また単語を消して、次の単語を書こうと枝を地面に付ける。少しだけその態勢のまま、迷いを絶つように単語を書き殴った。
『魔法』
まさに異世界、これ以上の異世界証明ワードが在るだろうか、いや無い。
しかし問題があった。魔法を使える人間は希少らしい、絶滅危惧種レベル。村には勿論魔法使いは居ないし、魔法を見た事がある人も居ない。そんな村で私だけ、なんてご都合展開も無かった。これが現実の異世界転生かよ、絶望した。
勿論五体満足の体で生んでくれた両親には感謝の意は絶えないし、科学文明の不足は在っても生きていくには申し分ない。それでも絶望感は消えない、初めて知った時は膝から崩れ落ちた。おぅ……。
その時の絶望感がぶり返して、しばし傷心。次の単語を書こうとして、一人村から離れる子供を見た。
今の私より大きい男の子で、短い茶髪。何度か遊んだことがあるので思い出した。村から一番近い森の端っこに入り込み、姿が消えた。
子供だけで森に入るなと、親からも近所隣人からも口を酸っぱくして言われている。男の子は森の中かその手前か、微妙な位置でしゃがんでいると思う。
大丈夫とは思ったが、森は森だ。枝を捨て、私は男の子を追い掛けた。
村が十分見える距離で、木の影に隠れ座り込む子供。思った通り、近所のルグくんだ。村の子供の中では理性が有り、親分的存在感のルグ。親の教育が見て取れるルグが、村中から言われている森接近禁止令を破るとは。
まるで親と喧嘩して拗ねた子供を表した三角座りのルグを、私は驚かさないように近付いた。
「ルグ~、なにしてるの?」
「!?うっ、うるさい!こっちくんな!」
驚いて振り返ったルグは何と半泣きだった。ルグが隠れている木を挟むようにして座り、落ち着くのを待つ。
「どうしたの?おにいちゃんとケンカしたの?」
「…………おやじ、と……」
「え、ゲイボルさん?」
この村唯一の鍛冶師ゲイボルさん、気難しく人付き合いが苦手な人だ。特に私とか子供を相手にする時、どうすればいいか分からないって顔をする。
ルグはそのゲイボルさんの息子で次男。あの固い性格で子育てをすれば、ルグのような子供が育っても可笑しくはないだろう。私から見ても、ルグは良く出来た子である。
だが子供なのだ、七歳の子供が不貞腐れて泣いていても別に年相応だろう。
感情の整理に戸惑うルグを、辛抱強く待った。
「お、おれ……かじし、ひぐっ……いやなわけじゃ、ないのに……」
思い出しては涙が零れ、呂律が回らないようだ。何時までこの癇癪が続くか、事情を知らない時点では推測も出来ない。待つのは良いが、待ち惚けるのは苦痛である。
「うちこない?」
「へ?」
擦って目元を真っ赤にしたルグの顔を覗き込み、見られた恥ずかしさに慌てる手を掴んだ。無理矢理立たせ、家に引っ張って行く。
年下に手を引かれながらも、行先が親父の居る家ではないならと、大人しく付いて来た。
「ただいまー!ルグくんきた!」
「おかえり、ルグ君?いらっしゃい」
「こんにちわ、おじゃま、します」
やんちゃ盛りにしては丁寧な挨拶のルグ、その目の赤さに気付いても、母は笑顔を変えなかった。母親の鏡だ、好き。
その後もルグは私の家に居座り、夜ご飯もウチで食べた。帰って来た父と楽しそうに話す表情は、一時的にでも父親との喧嘩を忘れられたらしい。
ルグって何故か私の父に懐いている。もしかして私と遊んでくれるのは私が父の娘だからか、確かに父は男が憧れる筋肉質な体型だが……。一瞬良からぬ妄想をしてしまった、この世界同性愛存在するのかな。
ゲイボルさんには母が話しをしてくれた。歩いて二分も掛からないのだ、一泊ぐらい心配にも及ばないだろう。
多少気が紛れさせても、根本は解決していない。私は例え父繋がりであろうと、仲良くしてくれているルグに恩返ししようと考えた。
二つの寝台をくっ付けて寝た、今日は四人で。増えたのは子供なので、狭さは感じない。時計なんて高価な物が無い我が家、狙った時間に目覚められるかは運である。
ぺちぺちぺちぺちぺちぺち
「ルグ、おきてー」
「うう……フ、ラ……?」
「そだよ、おきて」
疲れている両親を起こさないように、柔らかいルグのほっぺを優しく叩く。まだ薄暗い時間、眠気に抵抗して目を擦るルグをまた引き、静かに寝台を抜けた。
「なんだよぅ、べんじょ?」
「ちがう」
家を出る、古い扉の音には注意した。村全体が静かで、子供の息遣いも響きそうだ。
普段はまだ夢の中にいる時間の村、その違った景色にルグは口を閉じ忘れる。呆けてまだ頭が付いて来ていない内に、私は遠慮なく引っ張った。家の共同資産の一つである目的の物を発見し、ルグに片棒を担がせる。
子供二人でも持てた木製の梯子を、我が家の壁に立て登った。年下の女児が慣れた様子で登る梯子を、慎重に登るルグ。子供の頃は特に、高い所を忌避し特別に感じる。経験の無いルグを急かさず、自力で屋根に乗るのを待った。
「のぼれたー」
「ぶはっ、なんだよ!なんでオレここに!?」
「あっち見て、ルグ」
「はあ!?」
混乱を隠せないルグに、私は追い打ちを掛けた。ルグは屋根に両手を着いて、首だけで振り返る。
世界が光に包まれた。
遠く、正確な距離を全く掴めない山の影を消す、強い光。白い輝きが視界全てを照らし、世界の色を一変させる。
「―――あ」
豊な緑の葉が一枚一枚光を享受し、風と共に揺れ歌う。
世界の境界線を白く線引き、空と大地を別けた。
夜明けである。
電気の無い村では珍しくもない、人が活動を始める時間だ。しかし一度見方を変えれば、これ程世界を照らし彩る。二度と同じ朝の来ない、今だけの光景。
何度前世でこの景色を見ただろう、異世界だろうとこの感動は不変。無窮の空に必ず咲く、一日の始まりだ。
その度に夢を見た。ああ、もしも―――
「―――オレ、親父にウチの仕事つげって言われた」
飽き様の無い美しさに目を細め、私は懐かしい前世の痛みを堪える。隣で上がった声に、私は無言で返した。
「ウチの仕事が村にとってどんだけ大事か、わかってる。……でも……」
朝日に反射して揺れる瞳、零れて頬を滑る涙に私は何も言えなかった。
ゲイボルさんの酷いヘアースタイルと無精髭と年齢を変えたらこんなにかっこよくなるんだ、とちょっと空気読めない事考えました。ごめんなさい。
将来有望な美少年の朝日に照らされた横顔を鑑賞しながら、私はルグの想いを聞く。
「オレ本当は……村を出たい」
村人全員が親戚のような村だ。結束と団結が支柱の村で、この想いを吐く事がどれだけの決意を表しているか。
一度出た望みは、堰を切ったように唇から溢れた。
「村を出て、もっと大きな町を見たい!商人のおじちゃんが言ってた、さーかす、っていうのも見てみたい!……フラノ、オレいつか絶対!村を出るからな!」
屋根の上だった事を思い出したのか、慌てて伸びた膝を曲げる。子供の大きくてキラキラした瞳が、可愛いの何の。これが成長してゲイボルさんになるのか、嫌だな……。
恐らく父親との喧嘩の原因は今の話し、将来の夢だろう。父親は自分の仕事を村の為にも息子に継がせたい、息子は村を出て新しい事に挑戦してみたい。
どちらの事情も理解出来るし、この問題に正解は無い。
しかし忘れるなかれ、今の私は子供である。
子供は子供の味方をしても許されるのだ。
例えそれが、どんなに無謀と思える夢であっても。
私はルグの気持ちを汲みたい、その上で私の腹は決まった。
「だめ!!」
「ええ!?」
まさか駄目だしされると思わなかったルグに、私は強く肩を掴んで訴えた。
「もっととおくまで行こう、せかいはひろいんだよ!?」
「……なに言ってんだ?」
「わたしはもっと、ずっと、ずううう……と、むこうまで行きたい!だって―――」
指を立てて、私は朝日にそれを向ける。
光は絶え間なく、私達を照らしていた。
「だって―――空ってこんなに大きいんだよ!!」
病室の窓から、貴重な在宅時に家のベランダから、テレビ画面から。
前の私は朝日を眺めていた。どんなに手を伸ばしても届かない光と、その全てを包む空の雄大さ。
どれだけ望んだだろう、どれだけ焦がれただろう。
でも異世界なら、何も我慢する必要は無いのだ。
ルグに出来るなら、今の私にだって出来る筈だ。
寝起きと決意の塊が相まって、テンションが留まる所を知らない。鼻息荒く夢を語った。
「わたし空をとんでせかいじゅーいく!色んなまちとか、うみも見る!」
「うみ?」
「すごくおおきいみずたまり!下も上もあおいんだよ!きっとすごくきれいだよ!」
掲げた目標は果てしなく、ハッキリとしたゴールの無い夢物語。だが一度着いた胸の火は、簡単に消えはしないのだ。
「そのためには、まず……空をとぼう!!」
「何言ってんだフラノ!?」
大きな声で喚く私達は、数秒後村人に見つかり説教を受けた。
母親の怒りを浴びながら、熱を持つ心が私の異世界生活を彩る。
はい、ここからが本番です。
あの日から少しだけ成長した手足を駆使して、私は木に登った。
納得のいく高度を確保した私は、背に担いだ物の最終確認をする。壊れそうな部分は無いか、木登り中に欠けた所は有るか。
問題が無いと分かれば、もう待てなかった。
「よし」
強く紐を握り、物を離さないようにする。
私は一拍を置いて、大いなる夢への一歩を踏み出した。
「フライ……ア、ウェ―――
「ばっ、この……バカ!!俺が来るまで待てって言っただろうが!?」
「待てなかった、こうかいは無い」
「バカ!!」
「はんせいはしてます」
大人しく頭を下げる私に、少ない語彙の罵倒を叫ぶルグ。ルグがまだ来ていない時に実験を行って、見事一秒と保てず墜落したのだ。本当に悪いと思っている。
私が空を飛ぶ、と宣言して約一年。暦も無く時間の経過は自然任せの村で、正確な日時を示すのは難しい。春夏秋冬は同じなので、季節ごとに生まれた者を一斉に祝い、年齢を数えているのだ。
もうじき夏の誕生祭が在る。春生まれの私は、無事に年を取っているという事だ。
私が異世界に転生して、七年が過ぎました。
七歳児の女の子らしく、今日も飛行実験に励んでいます。
夢に向かって本格始動を始めた私は、今日も試作滑空機を作り飛べるかどうか、体を張って試していたのだ。勿論、飛び降りる木の高さは考えていた。
それでも殆ど風を滑らない内に滑空機は大破、地面に叩き付けられた私はルグのお説教を受けている。
ルグはあれからも考えを変えず、父親と喧嘩継続中らしい。鍛冶技術は学びながら、村を出る為の準備をこっそり進めていた。
私はその行為を黙認し、偶に手伝っている。もしかしたら私も一緒に村を出るかもしれないのだ、手伝いは当然。
しかし今一番時間を使っているのは、失敗したばかりの滑空機の開発だ。コレの完成無しに、私の村脱出計画は立ち行かない。打撲や擦り傷を恐れない実験の様子に呆れ、無謀な姿に恐れ戦いたらしいルグが、実験の手伝いを申し出てくれた。忙しいルグの時間を貰うのは申し訳ないと最初は断ったのだが、どうしてもと言われ承諾。今ではすっかり無茶する私への説教係だ。
ルグの怒声を横に、背中に担いでいた木製の翼を下ろす。半ばから折れ、墜落の衝撃で無残に砕けていた。
出来るだけ乾燥させ軽くした木材を、ルグの家から失敗作の刃物を借り、削って形にした羽。魔法が使えず燃料も無い現状、空を飛ぶには滑空しか手段が無い。そう考えた私は、ハンググライダーの製作を開始した。女児が手に入るグライダーの材料といえば、精々浅い森で拾える物ばかり。石は重いし土は固める手段が思い付かないので、木を削るしかなかった。
「うううんんん……」
「聞いてるのかフラノ!?」
「きいてるきいてる」
「……絶対反省してないだろ、お前……」
「はんせいしてるよ、失礼な!やっぱり木だけじゃ羽は作れないね、少なくともこの辺の木じゃむり」
「違うだろ!!?」
冗談だ。顔を赤くして起こるルグを嗜める、反省してます。
実際、今回の実験で手詰まりを感じている。私一人では、これ以上の進展は望めないだろう。新しい発想、又は技術が必要だ。
進展を求める私の隣では、ルグは成長し滑らかになった舌で延々と私の行動を駄目出ししていた。
「ということで、コレ作って!ゲイボルさん!」
「……何の話しだ……?」
改善を求められる先は、こんな辺鄙な村じゃ限られる。この村唯一の鍛冶師の下を訪ねるのは、自然な流れだろう。空気は読んで、息子は連れて来なかった。
金属を打つ甲高い音が、鍛冶場の壁を越えて響く。騒音で揉めるのは互いの望むところではないので、村の家々からは離れた場所に在る。秘密の相談をするのにも、鍛冶場は絶好の環境だ。
暑くなってきた今日この頃、絶えず燃える火の傍に好き好んで近寄ろうとする物好きはいない。私以外は。
汗と鉄が焼ける匂いで、鍛冶場はちょっとした地獄である。子供は親に言われなくても近寄ろうとしない、何故ならゲイボルさんは自他共に認める強面なのだ。転生という特殊な精神状態の子供と知らなければ、わざわざ注意する親はいまい。
一応私がルグの村出たい発言に同調している事は知らない筈だ。ちょっとした子供の発想みたいなノリで頼み、本当に作ってくれたらラッキー、新しいアイデアが浮かべば御の字である。
ゲイボルさんは私が服にも袋にもならないぼろ布に描いた図を、眉間に皺を寄せて眺めた。睨んでいる訳ではないと知らなければ、物凄く怖い顔である。そりゃ子供が近寄らん訳だ。
「…………こりゃ……何だ?」
「かぜの上をすべる!」
「はあ?」
図はインク代わりの葉の汁で描かれていて、かなり簡単な構図でないと絵にならなかった。なので私が布に描いたのは羽の部分だけ、風を受けてその力で飛ぶ構図。
ゲイボルさんの顔面に押し付けていた布を引き、指で羽の形をなぞる。
「とりの羽みたいでしょ?それを作りたいの!」
「……可笑しな事言うな。そんなモン、真似てどうすんだ?」
「とぶ!」
「羽作るなんて聞いた事もねえが……危ねえぞ、やめとけ」
「やだ、作る」
「……テメエで出来ないなら、諦めな」
「だれだって全部はできないよ!だからたすけあうんでしょ?」
家族にも口少ない人だ、他所の子供なんて本来真面に相手もしたくないだろう。私はそんな不器用な人の攻略方法を知っている。
押して押して押して押しまくる、とにかくイエスと言わせれば後は何とでもなる。
攻略ではなくて脅しでは?いいえ攻略です。こういう人は他人に対して、深く考え過ぎて決断するまでが長い。しかし一度決めれば約束は守ってくれるのだ。鍛冶師のような職人気質なゲイボルさんなんて、まさにその典型ではないだろうか。多分。
短い足で踏む小さい一歩が、ゲイボルさんを一歩後退らせた。
「じゅうようなのは軽さとがんじょうさ、重いととべないし固くないとおれちゃうの!」
「……木でも重いのか」
「りそうは木をほねぐみにして、布で風をうけたい!こことここと、あとここがほね!」
「ほう……だが、ちょいと大き過ぎるな。横を縮めて……縦に、こう、伸ばせないか?」
「とりっぽくしたいの!とりだって羽をよこに広げるでしょ?」
「そうか、風を受ける面積を……!なら外郭の線はもっとなだらかに、布も服に使うような柔いモンじゃ耐えられねえ」
素人意見を恥ずかしげもなく述べる子供に、ゲイボルさんは真剣な顔で付き合ってくれた。新しい物への好奇心は、幾つになっても男心を擽るらしい。
気付けば夕焼けの光が鍛冶場に入り、窯の温度が下がっていた。
私は基本良い子なので、夕日が暮れる前に帰る。小さい村なので、村中の大人が帰路を教えてくれた。急かされる、という理由もあるが。
家に帰れば母が台所に立っていた。光景としては日常だが、ここ数か月では異常なものだ。
「だめだよお母さん!私がするから座ってて!」
「あら、見つかっちゃったわ」
過保護な言葉を掛けられ、笑って椅子に座る母。ゆっくりと、二人分の体重を背もたれに預けた。
手を腹に乗せ、優しく摩る。もうかなりの大きさだ。
「頼りになるお姉ちゃんで、この子もきっと喜んでるわ」
母の妊娠が発覚して、もうすぐ五ヶ月。母の体調不良からの妊娠騒ぎは、我が家をひっくり返す程の騒動となった。父は半泣きで喜び、私は同じベッドで寝ていたのに何時まぐわったのだと驚いた。
前世でも妹が居たが、今世はどちらだろう。医療機器なんてない魔法世界だ、生まれるまで性別はお楽しみ。その日、我が家の食事はちょっと豪華だった。
穏やかな表情の母を横目に、慣れてきた食事の用意を進める。
妊娠する前に死んだ私は、一般的な知識しかない。確か体調不良は妊娠から二ヶ月、それから約五ヶ月経過した今、殆ど赤ん坊は出来上がっている筈だ。
出産は妊娠八ヶ月~十ヶ月なのだが、前世より医療機関が万全ではないこの世界は、出産で本当に命を落とす事がある。出産予定日が近づいてきた現在、油断は禁物だった。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
「おかえりー!」
「おお!フラノは今日もお母さんの手伝いか、なんて賢い子だ」
「お父さん、そういうのおやバカって言うんだよ」
不安も有るし問題も多い、しかし今日も我が家は家族みんなで食事をしている。
それさえ出来ていれば他の事は、まあ、どうにかなるだろう。
ガシャン!
「―――お母さん!!?」
椅子から崩れるように転がり、体を倒す母。無意識なのか、大きいお腹を守るように腕を回している。だがほぼ無防備に倒れた母に、私と父の顔は青くなった。
「おい!?どうしたんだ!?ティラ!!」
「お父さんアリオさん呼んできて!!」
「あ、ああ!」
古い家の床を攻撃する走りで、アリオを呼びに行った父。この田舎村唯一の医者のアリオ、担当は外科。しかし医療の知識があるだけで何でも頼られるのは、田舎の村あるあるだ。
綱渡りで生きているこの村で、母は一つの命を産もうとしている。
苦しそうに腹を抱える手に、私の手を重ねた。
「お母さん、頑張って……!」
まだ見ぬ家族と目の前で苦しむ家族の無事を、子供の私は祈るしか出来ない。
開いたままの扉から、複数の足音が聞こえた。
「―――ふざけるな!!!」
村の病院に相当する建物中、父の叫びが響き渡った。外の強くなってきた夜風を物ともしない怒声。診察室には父とその兄弟がアリオの話を聞いていて、僅かに開いた扉の隙間から怒りの経緯が漏れる。
アリオの話では、母のお腹にいる子は異常な魔力を保持しているらしい。それが母体に影響を与え、出産は通常のそれより何倍も苦しいものになると。しかも影響は出産後の母体の生死に関わり、腹を裂いて赤ん坊を取り出す他母体が助かる方法は無い。だが此処はこの世界でも劣悪な医療環境、必要な薬品の不足。帝王切開での赤ん坊の生死は、保証できないそうだ。
母の命かお腹の子の命、どちらか選べと言われた。
選択を示したアリオに掴みかかろうとする父を、父の弟が羽交い絞めにしている。隙間から見えるアリオの表情は、とても苦しそうだった。
私達家族も、恐ろしい選択を迫るアリオも、誰もが後悔する二択。
「……ぅぅ……ああああああ!!!」
「大丈夫、大丈夫よティラ……!」
それ程広くない病院だ、寝台で苦しむ母は隣の部屋である。父の弟の奥さんが手を握り、必死に母を励ましていた。母は痛みで涙を流し、励ます奥さんは聞こえた医者の診断に涙を流す。
父と母に挟まれた廊下で、私は立ち尽くした。
ただ、平和な一日が欲しいと願っていた。
「…………おかあさん、おとうさん……」
突如目前に示された家族の危機に、私は悲しみを覚える。世界は平等に不幸を振りまく、幸せは個人で勝ち取るしかないのだ。
そうだ、勝つしかない。
幸せは世界と戦った者にしか、道を示さないのだ。
私は現状の打破に、勝利条件と敗北条件を脳内で箇条書きする。
勝利条件、母子共に無事の出産。敗北条件、家族の欠如。
無事な出産を妨げているのは、お腹の子供の魔力だ。ならば魔力を抑える方法を探せば良い。
しかし魔力は魔力を持つ者にしか操作出来ないし、個人の魔力を別の誰かが操作する事は不可能である。この世界に魔法が在ると聞いて調べた時、村の共有教科書で読んだ。書物が貴重な世界では、田舎村にある本は基本的な事しか書かれていない。
汚されないように見張りをしていた村長が引く程、目を皿にして読んだ。魔力を持たない私には、その情報を信じるしかなかった。
頭を抱えていると、教科書のある一説が脳裏を過る。
雷が走った私は、診察室の扉に体当たりした。
「アリオさん!魔力を抑えられる物はありませんか!?」
「え、フラノちゃん!?魔力を、抑える……?」
「村のきょうかしょで読みました!人体の魔力せいせいきかんにえいきょうを与える、しょくぶつやこうぶつが有るって!お腹の赤ちゃんに効くのはありませんか!?」
「!?」
七歳の子供の戯言だと、吐いて捨てる薄情な者がいない事こそ、この村の魅力だろう。目を丸くしたアリオが、棚に向かい引き出しを片っ端から開けていく。
「これは違う……有った、これも……駄目だ……これなら……!」
「助けられるのか!?」
「いや、一番重要な花が無い。この辺りに自生しているとしても、今晩は月が細い。とても山中を走るなんて……」
「どんな花だ、言ってくれ!!」
渋い顔で正論を説くアリオに、必死で問いを投げる父。村では狩りを担当する父だからこその強気に、微かな可能性を見たアリオが花の特徴を話した。
月明かりがよく届く場所で、極端な温暖差が無い地域ならどこにでも咲く花らしい。しかし夜に咲いているとはいえ小さい花だ、詳細を口頭で伝えるだけでは、不安が尽きないだろう。説明をしながら、アリオの表情は暗くなっていく。
「―――けど、自生場所を見つけるのは本当に難しい花なんです。魔力を吸う性質上、他の植物が生えている場所では咲きませんし、抜いてから出来るだけ早く処置しないと効能が落ちます。根っこから抜けば多少保ちますが、そもそもこの辺りに生えているか……」
魔力持ちが村に居らず、その植物が必要になるとも思っていなかったのだろう。絶望の影を濃くするアリオの肩を、父は乱暴に掴んだ。
「必ず探して戻って来る!だから……妻と子を頼んだ」
「まっ……ドノフさん!?」
現実的な静止の言葉も、父には意味を持たない。私の頭を優しく撫でると、強張った顔のまま病院を飛び出した。
「待てドノフ!!」
「……ガリフさん、お父さんを助けてあげてください」
「フラノちゃん……」
「私は、お父さんにも死んでほしくありません」
父の弟にもう一人の家族を託し、私は困惑を隠せないアリオに向き直る。希望が見えたとはいえ、その光はか細い。とても安心して病院に居られなかった。
「アリオさん、その花は魔力をおさえてくれるんですか?」
「……正確には魔力を凝縮して、種を作る。だから他の植物と混ぜて、魔力を抑える効果を持つ薬にする。一度根付けば自然に繁殖するけど、周囲の魔力が枯渇すれば枯れてしまう。この辺りには魔力溜まりは無いし、もし生えていても数は多くないだろう。薬効は弱いかもしれないけど、他の薬品と合わせてなんとか……」
医者としての矜持が燃えている、七歳児への説明なんて彼の頭からは消えていた。それでいい、母を助けようと必死になってくれる人だから、信頼して任せられる。
苦しそうに呻く母は、私が傍に来ても気付いた様子は無い。涙が止まらない叔父の奥さんが握る手を握り、母共々渾身の願いを込める。
「……っ……お母さんを、お願いします」
「フラノちゃん……?」
病院を飛び出す私を止める人はいない。新しい命と生きる母もそれを救おうとする医者も、いっぱいいっぱいなのだ。誰もが限界のギリギリまで振り絞って、幸せを掴もうとしている。
私だって頑張りたい。
こんなちっぽけな子供に過ぎない私だって、幸せの為に頑張って良い筈だ。
「―――ゲイボルさん!!!」
「ぶふうぅ!!??ゲホッ、え……フラノ!?」
夕食を終え外は陽が落ちている、村の誰もが寝台に入る準備をしていただろう。母の状態が悪くなければ、村中が新しい命を待っていたかもしれない。しかしアリオの判断で母の早期出産はまだ広まっておらず、ルグも居るゲイボル宅は私の登場に虚を突かれた。
ルグは井戸から汲んだ水で体を拭き、就寝準備をしている。上半身裸だったが、私は先日十歳になったばかりのお子様の裸に欲情する変態ではない。
奥の部屋からゲイボルが顔を出す、不機嫌そうな表情だがデフォルトである。
「……どうした」
「お父さんを助けたいんです、きょうりょくしてください!!」
「ああん?」
出来るだけ要点を搔い摘み事情を早口で述べれば、ゲイボルとルグの顔色が変わっていく。事態の大きさを理解したゲイボルに、私は要求を伝えた。
家族を助けるんだ。
続きます。