表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/40

40.春が来る




シトリーは恋情の悪魔である。

恋愛感情を巧みに操り、相手を望むままに従わせる。

人の心が渦巻く世では、最も求められる力だろう。

新参者である彼女は座に付いて以降、直ぐにその任に就いた。

何のことはない。

ただ相手の望むように、人の心を操るだけ。

右も左も分からないままだったが、それでも彼女は召喚に応じた。


「あの人を振り向かせてほしいの!」


召喚者はシトリーにそう言った。

地下の密室。

呼び出した黒魔導の魔法陣が散乱する中、人間の女性が彼女に契約を求めた。

かなりの魔力を持った魔法使いのようだ。

そうでもしなければ、悪魔の召喚は叶わない。

故にシトリーは告げた。


「人の心を動かすには、それ相応の代償が必要。その意味が、分かっているの?」

「分かっているわ! あの人が手に入るなら、他には何もいらない! あの人を、そしてあの人に群がる薄汚い豚共を一掃して頂戴!」


人の欲を叶えるのが悪魔としての務めだ。

醜い嫉妬心を剥き出しにする主に、シトリーは契約を交わした。

元は主の事を意識もしていなかった青年の恋心を操作し、女性を溺愛するように仕向けた。

それだけではなく、恋路を邪魔する他の者達すらも遠ざけた。

これで二人を妨げる者はいない。

主が願う恋は叶ったのだ。

故にシトリーは代償を奪う。


「どうして……? やっとあの人と一緒にいられるのに……何も、何も感じない……?」

「代償は、貴方の恋心。他者の恋を操ったのだから、分相応でしょう」

「あ……あぁぁ……」

「その空虚な心で、手に入れた愛を語り合うと良いわ。語り合う心が、まだ残っているのなら」


またある時は、何処かの富豪の男に呼び出された。

様々な召喚士を呼び寄せ、資金を注ぎ込んで召喚したらしい。

何事かと思ったが、願う者は富豪ただ一人だった。

相手がどんな者であろうと、地位があろうと、願いは何も変わらない。

男は自身の欲を告げた。


「あの娘を虜にしたいんだ! 頼む!」

「随分と、歳が離れているようだけど?」

「それが、どうした! 歳の差など、愛があれば直ぐに埋められる! あの娘だって、私と共にいる事こそが、幸せな筈だ!」

「……良いでしょう。でも一つだけ条件があるわ」

「条件……?」

「あの子はまだ若い。他の男性からのアプローチもある。でも決して、嫉妬心を抱かない事。貴方は大人として、毅然と振る舞うのよ」


ならばと思い、シトリーは契約を結ぶと共に試すことにした。

本当に彼が愛だけを望んでいるのか。

無償で少女の恋心を男に差し向け、その願いを果たすように仕向ける。

代わりに他の心には手を付けなかった。

代償は富豪が他の者へ嫉妬心を向けた時に奪うと。

当初は富豪自身もそれを確かに了承した。


しかし、人の欲とは収まらないものだった。

少女の美しさに惹かれ、彼女を求める者が次々と現れる。

最初は毅然としていたものの、次第にその思いは積り、遂に富豪の男は他の男達に堪え兼ね、嫉妬心を露わにする。

その命を奪おうと、新たな策略を練ろうとしたのだ。

故にシトリーは代償を奪った。


「約束を破ったわね」

「な!? こ、これは……これは違う……!」

「そんなに一緒にいたいのなら、そうしてあげる。貴方の望み通りにね」


翌日、富豪は姿を消した。

代わりに富豪が愛していた少女の家に、一輪の薔薇が咲いた。

正気を取り戻した少女は、戸惑いながらも花を育てる。

今までの事は一時の気の迷いだったのだと思い込みながら。


「これで愛する人と、ずっと一緒。美しい花なら、彼女とも分相応ね。でも薔薇はとても繊細よ。上手く育たずに腐ってしまえば、直ぐに切り落されるでしょうね」


慣れたものだった。

何も、変わりはしないからだ。

慈悲を与えても、人は何処までも乾ききっている。

それ故に直ぐに、底なしの沼に嵌っていく。

罰が待ち受けていると知っていながらも、足を踏み入れるのだ。

当然だが悪魔を呼び出す者など、簡単には現れない。

年に数人いるかいないか、といった所か。

しかし地獄の蓋を開ける者は、尽くが哀れで愚かだった。

新参者である筈の彼女も、直ぐに人の本性を理解した。

そうして、いつもと同じように異界へと戻る。


悪魔の住まう異界に、これといった特徴はない。

人間達の住む下界を闇に反転させたような場所だ。

悪魔以外は存在できず、また個々に立ち入る領土は限られている。

その地を統治する貴族と考えても良い。

悪魔同士の交流は許されない。

許されるのは自身に従う眷属のみだった。


「人の心は、どうしてこうも愚かなのかしら」


孤独はない。

悪魔は孤独を感じない。

元より人の欲から生み出された概念的存在だ。

老いることもなく、時と人の流れに身を任せる。

そうしてある日、シトリーは自身の領地で、とあるモノを見つける。


「これは、先代の手記?」


茨の城にあったのは、先代が遺した日記。

先代・シトリーは自身と入れ替わりで消滅したと聞く。

確か悪魔にとって絶対である規則を破ったとか。

何故そんな禁忌を先代は犯したのだろう。

興味本位で、彼女はその内容を読んだ。


『ワタシはずっと一人。規則のせいで、悪魔同士の干渉も許されない』

『人の心は分からない。誰も彼も、醜い愛情を見せつけるだけ。人とは愚かな生き物だ』

『いつか物語で読んだ白馬の王子様は、本当に存在するのだろうか』

『きっと夢なのだろう。人間に本物の愛情などない。全て偽物。だからこの力で、偽りの感情を植え付ける』

『しかし、アグレアスが近々厄介な事が起きると言っていたが、何事だろう』

『気になるし、手ごろな人間を捕まえて探りを入れてみよう』

『――見た。見てしまった』

『愚かな女を守る一人の青年。あの大悪魔に向かって、全てを捧げると迷わず誓った人を』

『あんな人、始めて見た』

『あれは、何だ? まさかアレが、本物の愛情?』

『本物の人間――本物の王子様――?』

『――欲しい』

『カレならきっと、本当の愛を知っている。空っぽなワタシに与えてくれる』

『そのためなら――ワタシは――』

『大丈夫。きっと上手く行く。あの哀れな姉妹を使えば――きっと――』


最後の方には、そう綴られていた。

最初の頁の頃とは一転して、盲目的な感情すら伺える。

この様子を、シトリーは知っていた。

自身を呼び出す召喚者達と、酷似していたのだ。


「もしかして、先代は誰かを愛していたの?」


分からない。

既に消滅した先代の心情を知ることは出来ない。

ただ一つだけ理解する。

愛とは人だけでなく、悪魔すらも狂わせる凶器なのだと。


それから下界に換算して、5年以上が経った。

既にシトリーも先代の手記と下界の欲望を目にして、恋愛という感情を煙たがりつつあった頃だった。

唐突に来客が現れる。


「先日、光影こうえいの魔女が死んだ」


上官のアグレアスがシトリーの領地に赴いて、そう言った。

彼はその権威ゆえに、個々の悪魔に接触できる数少ない大悪魔だ。

そんな者が、聞き覚えのない魔女の死を伝えに来る。

シトリーは思わず聞き返した。


「誰のことですか?」

「下界に存在する、聖女信奉の王国は知っているな」

「……確か、先代が悪魔の規則を破って消滅したという?」

「あぁ。そして先代・シトリーと契約していた者が、その魔女だった」


アグレアスは経緯を語り始める。

先代・シトリーを召喚した魔女は、極度の破滅願望を持っていた。

自分を捨て去った王国に復讐するため、恋情の力を用いて王宮の重鎮を掌握。

自らを聖女と名乗り、恨みを持つ者を次々と断罪したという。

しかし、計画は中断された。

召喚した先代・シトリーが暴走したためである。

結果として魔女は悪魔を失い、我に返った王宮の者達に拘束。

今までの行為を総括し、斬首刑と判決された。


本来なら此処で終わる筈だった。

だが時を同じくして、王国と海を挟んでいた帝国が攻め入ったのだ。

魔女の手によって、王宮の力が弱まったことを好機と見たのである。

当初は魔女を帝国の差し向けた間者として、刑をすぐさま執行すべきという声も上がったが、それを引き止める一派があった。

魔女が王国に恨みを持つ理由、その経緯を知った上で、国の体制にも問題があると。

斬首刑となるまでに、自らの罪を償わせる機会を与えたいと述べたのである。

事実、魔女には兵士達とは格の違う力があった。

あらゆる拘束を施された上で、温情は許されたのである。


すると魔女は、そこから密かに活躍を果たしていった。

表立って名乗りを上げることなく、一兵卒に紛れて淡々と帝国兵を退ける。

自ら王国を追い込んだにも拘らず、王国を守るために帝国兵と戦った。

今更、地位と名誉は必要ない。

結果として魔女の力は、王国全体の兵力に擬態。

数年の時を経て、王国側に有利となる和平条約を結んだのだ。


魔女は密かに王国を救った。

大勢の民衆が、それによって救われた。

だが王国を窮地に陥れ、王族を殺害したのも事実だった。

故に刑は取り消されない。

温情もそこまでだった。

それでも魔女は一切、恨み言は言わなかったらしい。

泣くことも、叫ぶこともなく、ただゆっくりと瞼を閉じて。

執行日、断頭台でその首を刎ねられたという。


「王国を混乱に陥れながら、王国を救った魔女。奴の存在があったからこそ、歴代聖女の行く末は暴かれ、聖女至上だった王国の考えを変えた。そしてその最期から、密かに光影の魔女と呼ばれたそうだ」

「そうですか……。それでその、私と何の関係が? その魔女とやらは、とうに処刑されたのでしょう?」

「……」

「アグレアス様、貴方がそのために私の管轄に現れたとは思えません。何か他に要件があるのでは?」


シトリーはようやく口を挟む。

アグレアスは先代と関係があるために魔女の顛末を語ったようだが、そもそも自分には何の関わりもない。

魔女の生き死になど、どうでも良い事だ。

所詮は本題に入るための前置きだろう。

そう言うとアグレアスは少しだけ沈黙し、そして宣告した。


「これからお前は、その地に呼び出されるだろう。それを予告しに来た」

「……予告?」

「あぁ。ただし特例だ。お前の手で、その召喚者を殺しても構わない」

「どういう、ことですか?」

「言ったであろう。特例であると。コレはお前が、今まで充実に人の欲を掻き出した報酬だ。この場合に限り、規則違反はない。お前が疎ましく思ってきた人々の心を、その者に晴らすと良い」

「人の心を……」

「生かすも殺すも、お前次第だ」


そうしてアグレアスは背を向けて去っていく。

相変わらず全く考えが読めない。

数千年の時を生きる大悪魔の胸中など、誰にも分からないだろう。

代わりに告げられたのは、殺人という名の恩賞。

本来は契約なく命を奪うのは規則違反なのだが、今回のみは罰せられないようだ。

ならば何の問題もない。

彼の言う通り、生かすも殺すも自分の思うままだ。

それにどの道、悪魔を望む者は自分本位な願いしか口にしない。

先に罰を与えても、文句は言われない。


「構わないわ……どうせ人間なんて、愚かな生き物なのだから……」


直後、シトリーに向けて一つの感覚が伝播する。

今までも何度も行われてきた、召喚の呼び声だ。

わざわざアグレアスが予告するような大層な力は感じない。

最早、杞憂か。

拒絶する意味もなく、シトリーは下界への道を開く。

開かれた門は二つの世界を繋げ、交わる事のない筈の者達を引き合わせる。


「幻は現に還る、か」


下界に旅立つ瞬間、去り行くアグレアスは小さく呟く。

その口元は、ほんの僅かに微笑んでいるように見えた。







呼び出されたと同時に、シトリーは目を細める。

陽の光だ。

今までとは異なる、太陽の光が彼女を照り付ける。

悪魔の召喚は、通常は地下や真夜中といった隠密に行う邪法だ。

真っ昼間から呼び寄せるなど、考えられない。

虚を突かれたシトリーだったが、我に返って辺りを見回す。

此処は巨大な屋敷の中庭のようだ。

庭には様々な花が咲き誇っており、風に靡いて僅かな花弁を散らす。

確かに感じる、春の香り。

やはりおかしい。

召喚自体に不自然さはなかったが、この状況には違和感しかない。

一体誰が、何のためにこの場所に悪魔を呼んだのか。

意味が分からないまま、シトリーはようやく、その場にいた召喚者を見つけた。


中庭の中心に、透き通った青髪の男性だけが一人佇んでいた。

年齢は20代前半と言った所か。

辺りの状況を見るに、この屋敷の主人だろう。

身なりも貴族然としており、かなりの格の高さを伺わせる。

男は俯いたまま、此方を見上げない。

現れた悪魔にも一切動じない。

微動だにしないので、仕方なくシトリーは問うた。


「私は恋情の悪魔、シトリー。私を呼び出したのは貴方?」

「……」

「確かめるまでもないようね。それにしても真昼に、こんな庭園の中心で私を呼び出すなんて、肝が据わっているのかしら? それとも、ただ間抜けなだけ?」

「……」

「まぁ、どちらでも構わないわ。貴方には呼び出した者としての責務を果たしてもらう。貴方の望みは何? 老若男女、あらゆる人の心を私が操ってあげる」


男が何者だろうと、シトリーにはどうでも良かった。

呼び出したという事は、叶えたい願いがあるという事だ。

どれだけ陽の光に包まれた華やかな場所であっても、人は欲望には逆らえない。

彼女はいつもの調子を取り戻そうと、男の欲を導こうとする。

さぁ、己の欲を口にすると良い。

先ずはその悪しき口から引き裂いてやろう。

恋情を求めた瞬間に裁きを与えようと、シトリーは手中に力を蓄えた。

すると男はゆっくりと顔を上げる。

青白い瞳が此方を見つめ、僅かに揺れ動く。

そして口を開いた。


「ただ……」

「え?」

「ただ、キミの幸せを」


蓄えていた力が解ける。

理解が出来ず、思考が止まる。

今、この男は何と言った。

聞き間違えかとシトリーは思い直したが、そんな訳もない。

ならば何故と見返すと、男は悲しそうに笑っていた。

眩しく見紛う程に。


「やっと会えたな、ティエラ」


ティエラ。

誰の事だ。

分からない。

そんな名前の女など知らない。

しかし胸騒ぎがして、シトリーは首を振った。


「……ティエラ? 誰の事? 私はシトリー、恋情の悪魔よ?」

「覚えていなくても、構わない。オレの願いは、ただ一つ。キミの幸せだ」

「な、にを……」

「本当はアラン達だけじゃなく、スティラにも会わせてあげたかった……。でも、代わりに託してくれたんだ。ティエラを、妹を救ってほしいと。だからこうして、オレはキミを呼び出せた」


勝手な事を並べていく。

しかし、拒絶できなかった。

彼の言葉が、次々とシトリーの心へ突き刺さっていく。

そうか。

錯乱しているのだ。

私ではなく、この男がだ、と彼女は思い込む。

きっと始めから自分が何をしているのかも理解できていないのだろう。

悪魔を前にして、有りもしない者の名を呼び、悲しそうな笑顔を向ける。

それならこんなふざけた場所に呼び出した理由も説明がつく。

もう良い。

もう見たくない。

シトリーは手中から茨を生み出した。


「く、狂っているのね……! 自分で呼び出しておきながら、勝手な幻影を見て! 道理でアグレアスが、あんな事を言った訳だわ!」

「……!」

「もう良い! 裁定する必要もない! 貴方のような狂人は、此処で殺してあげる……!」


居ても立ってもいられず、男に向かって茨を放った。

二度とそんな世迷言を吐けないように。

所詮、人の心など壊れているのだと拭い去ろうとする。

だが男は避けない。

逃げもしない。

今まで代償を与えて来た人間は、シトリーを前にして恐怖に怯えるだけだったが、彼は真っ直ぐに瞳を向けてくる。


「ティエラ……!」


知らない名を呼ぶ声だけが聞こえる。

ただ、それだけの筈だった。

シトリーは呆気に取られて、視線を降ろす。

茨は、寸前で止まっていた。

そんな命令など出していないのに、放った筈の茨は、男の眼前で全く動かなくなった。


「な、んで? なんで、っ! 何で、動かないの!?」


胸が騒めき、シトリーは叫ぶ。

動かない。

まるで身体の自由が利かない。

締め付けられるような感覚すら沸き上がる。

知らない。

知りたくない。

そうして懸命に力を振るおうとした時だった。

手元にあった漆黒の茨に水滴が落ちる。

雨か。

いや、違う。

頭上には晴れ渡る青空だけが広がっている。

ならば何が、と思い彼女は気付く。

自分がいつの間にか涙を流している事を。


「どうして……? 涙……が……?」


シトリーは今まで、涙を流した事などない。

人ならざる存在、悪魔に感情などない筈だった。

それなのに、涙は止まらない。

自覚する毎に、胸は更に締め付けられていく。

辛い。

苦しい。

不意に男は静止した茨を掻き分けた。

そして手を伸ばす。

距離を縮めるように、埋められなかったものを埋めるように、一歩また一歩と踏み出す。


「約束しただろう? 必ず、連れ出すって」

「やく、そく」

「願いを叶える。叶わないなら、オレが探し出す。キミを人間に戻してみせる。二度と、後悔しないためにも」


遂に男は、悪魔の手を掴んだ。

愚かな人間達が求めるような、悪魔の力に向けてではない。

紛れもなく、シトリー自身に対する思いがそこにはあった。

その温かさ、その感覚には、何故か覚えがあった。


彼女の脳裏に、覚えのない筈の記憶が甦る。

ほんの僅かな残骸。

既に掠れてしまって、どんなものだったのかも分からない。

それでも何かを交わした。

何かを約束した、そんな気がした。

騒ぎ立てていた胸の内は、次第に波を立てて、沈んでいた思いを手繰り寄せる。

浮かび上がったソレは泡と消えず、バラバラに打ち上がっていく。

いつか投げ入れた、拾い上げられる事を願った、メッセージボトルのように。


「絶対に、手放さない」

「ヴァ……ロム……?」

「あぁ。オレは、ヴァロム・ユースハイムだ」


自然とシトリーは彼を呼んでいた。

自ら拾い上げたのだ。

それを知り、ヴァロムは強く頷く。

我に返った彼女は、手を振り解こうとした。

有り得ない。

こんなモノは、まやかしだと叫びたかった。

魂などないと訴えたかった。

だが、殆ど力は入らなかった。


「違う……私は……! わたし、はっ……!」

「今まで、よく頑張ったな」

「ち、が……」

「もう、休んで良いんだ」

「う……あ……あぁ……」


引き裂かれそうだった。

悪魔に心などない筈なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。

人間のようだ。

自らが操ってきた恋情と同じく、人間のように苦しみ、もがき続ける。

だがそこに深い悲しみはない。

あるのは恋焦がれるような思いばかり。

一体、自分は何者なのだろう。

シトリーは、ヴァロムを見返す。

彼の瞳も、涙を堪えるように揺れていた。


「苦しい……。胸の奥が締め付けられるの……。どうして……?」

「それは、キミが人だから。人の心を持っているからだ」

「人の……心……」


握られた手から温かさが感じられる。

こんな温もりは、今までになかった。

人の内にあるなど、信じられなかった。

だが彼は知っているのかもしれない。

本当の心を、本当の人間というものを。

シトリーはゆっくりと、その手を握り返す。


茨に花は咲くのだろうか。

直後、取り巻いていた茨が次々と光の粒となって消えていく。

古きしがらみから解き放たれるが如く、日差しの中へ呑まれていく。

その光景を、風に舞った花弁が覆う。

色とりどりの花びらが、絵の具を落とし、澄み渡る。


彼女は。

涙を拭わなかった。


「冬は終わったんだ。春が来て、雪は溶けて、花が咲き誇る。だから――」








ティエラ、一緒に帰ろう。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 凄く良い作品でした。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ