36.禁忌
「あれ……? 私、何を……していたんだっけ……?」
気付けばティエラは、聖女の間で呆然としていた。
先程までの記憶が完全に抜け落ちている。
どんな事を言ったのか。
何を話したのか。
ただ教会の者達の言葉だけが、頭の中を駆け巡る。
「あの者は、聖女様に近づき過ぎました」
「今後は私達が、お引き取り下さいますよう手配します」
「ご安心ください。元より分不相応な立場だったのです。これで聖女様は気兼ねなく祈りを捧げ、この国の繁栄を願う事が出来ます」
「ご両親も、きっとお喜びになる事でしょう」
ティエラは震える両手を握りしめ、聖女の間で一人、祈ろうとした。
今までと同じように、聖女の務めを果たそうとした。
しかし、祈り方が分からない。
今までどうやって力を行使していたのか。
分からない。
頭がぼうっとするばかりで、何も分からなくなっていた。
「私は……どうして此処にいるの……? 今までずっと、皆のために祈って来たのに……私の、望んだものは……全部、遠くなっていく……」
ヴァロムはもう、二度と来ない。
他人の婚約者となった以上、聖女との面会が許される訳もない。
分かるのはそれだけだった。
どれだけ祈っても、何も叶わない。
望んだものは自分の手から零れ落ち、ひたすらに他者に奪われていく。
どうして、ティエラは思った。
一体、何の権利があって自分達を引き離すのだろう。
何処の誰とも知らない女が、どうして彼を奪っていくのか。
自分を一人孤独にする事が、そんなに楽しいのか。
憎らしい。
妬ましい。
次第に手の震えに、嫉妬と怒りの感情が混じりあっていく。
「こんな所、もう……」
『無くなってしまえば良い。そうよね?』
不意に、何処からともなく声が聞こえる。
以前にも聞いた事のある女性の声だった。
ティエラは辺りを見渡したが、やはり誰もいない。
声を上げれば神官達が駆けつける筈なのだが、そんな気にはなれなかった。
自分の心を代弁したその声に、抵抗はなかった。
「……?」
『可哀想な愚妹。聖女として祭り上げられた結果がコレだなんて。貴方だけは私の手で殺してあげようと思っていたけれど、もうそんな気も失せたわ』
「だ、れ……?」
『代わりに、貴方の願いを叶えてあげましょう』
空間を裂くように現れた黒髪の女性が、背後からティエラを優しく抱きしめた。
振り返ることは出来なかった。
願いが叶う。
そんな言葉と、懐かしい人肌の温かさが、穴だらけの心に浸透していく。
黒髪の女性、スティラ・シュヴェルトは、そんなティエラを甘い言葉で導く。
視線は誘うように鋭い。
そこには魔女としての、確かな魔力が込められていた。
「願いが……叶うの……?」
『先代が遺した召喚の儀は持っているわよね? それを使うのよ』
「アレ、を?」
『本来は呼び出す事も出来ない大悪魔でも、私達が力を合わせれば呼び出せる。アレを呼び出せば、一晩で幾つもの国を滅ぼす事だって出来るわ』
ティエラはかつて仕舞い込んだ、悪魔召喚の陣を思い出す。
先代聖女が隠し持っていた、古ぼけた紙片。
アレが、全てを叶えてくれる。
全てを壊せる。
そんな考えばかりが、ぬるま湯のように広がり、彼女の思考を支配していく。
「全てを失って、全てを奪われて……恨めしいのでしょう? 憎らしいのでしょう? ティエラ、貴方の気持ちは良く分かるわ。私も、貴方と同じだもの。もう、こんな場所にいる必要なんてないわ。全てを……全てを壊しましょう?」
「こわ……す……」
「そうよ。聖女と魔女……姉妹、仲良くね?」
思考が纏まらない。
スティラの言葉も殆ど聞き取れない。
それでもティエラは、無意識の内に先代が遺した魔法陣を取り出した。
●
「ヴァロム様! お戻りください! 貴方は既に婚約者という立場です! 勝手な真似は許されません!」
「馬鹿を言え! あんなものは、おじ……国王が勝手に言っているだけだ! 大体、投票戦も始まってないのに、会って話したこともない人と婚約だなんて、意図が透けて見える!」
「し、しかし……王の命令である以上は……!」
「命令だろうが何だろうが、知った事か! 彼女は、ティエラは待っていると言ってくれたんだ!」
その日、ヴァロムは早馬で教会へと向かっていた。
何故だか分からないが、言い知れぬ予感を抱いたためだ。
今行かなければ、取り返しのつかない事が起きると。
それ以外にも、唐突な婚約宣言は彼を狼狽えさせるには十分だった。
隣国の第一王女との婚約。
本来それは、国同士の関係を結ぶ重要な話だ。
聖女の婚約へ志願したと言うのに、それらを全て飛ばした上での強制勧告。
父であるランドルフも、あまりに早過ぎると納得できていなかった。
「な、何だ? あの真っ黒な雲霧は?」
「あんなものは今まで、見たことがない……。あれは、教会から……?」
すると照り付けていた日差しが一気に遮られ、ヴァロムも上空を見上げる。
今まで見た事もないような、真っ黒な雲が広がっていた。
自然に発生したとは思えない。
あまりに不気味で、距離が近づくにつれて空気が揺れる振動音すら聞こえ始める。
ゴゴゴという音と共に、漆黒の雲は雨も風もなく広がり続ける。
木々にいた鳥たちも、鳴き声を上げて飛び出していく。
追ってきた従者たちが、思わず馬を引いて立ち止まる中、ヴァロムは速度を緩めなかった。
彼に忠実な黒馬も、止まることなく走り続ける。
「ヴァロム様!?」
嫌な予感がする。
ティエラの身に何かあったのではないか。
彼はそのまま教会に向かい、黒い雲へと飛び込んでいった。
●
既に予感は的中していた。
聖女の間に暗澹とした空気が蔓延する。
床に灯るのは、悪魔召喚の魔法陣。
その中心に佇むのは、白髪赤眼の老人。
人の形をしているが、人ならざる気配を纏う者が、魔法陣の中から現れた。
「大悪魔・アグレアス。召喚の儀に応じ参上した。まさか儂を呼び出せる者が、未だこの現代におろうとは……」
アグレアスは物珍しそうに二人へ視線を向ける。
それだけ召喚が困難で、強力な存在という事か。
魔女・スティラは、目当ての悪魔を引き当てた事で僅かに笑みを浮かべる。
「これが、アグレアス……太古から存在する、最強の使い魔……」
「聖女と魔女か。成程、それも道理か。ならば儂は、その望みを叶えるまで。お主達は、何を望むのだ? 富か? 名誉か? それとも……」
アグレアスは主たる彼女達に問いを投げ掛ける。
あらゆる願いを叶える、神にも等しい存在が、今だけは忠実に従っている。
そう、神は存在した。
今まで祈りを捧げてきた報いが、此処に顕現したのだ。
スティラは悪魔を見上げるティエラの手を引き、耳元で囁いた。
「ティエラ、先ずは貴方が答えるのよ」
「わ、たし?」
「そう。貴方の恨みを、怒りを全て伝えるの。そうすれば、彼は全てを叶えてくれるわ」
「ぁ……」
「大丈夫。私も一緒に答えてあげるわ。さぁ、口を開けて」
抗う必要は無かった。
願いは叶う。
叶えられる。
何もかもを奪い去っていく者達への、心の奥底に封じていた闇を引き摺りだす。
言葉を紡ぐため、おもむろに口を開けると、後ろから別の声が響く。
「な、何奴!? 聖女の間に、無断で入り込むとはッ! き、貴様達、一体何者だッ!」
知らない声が聞こえる。
分からない。
知った事ではない。
此処で止めれば、全ては水の泡になる。
また閉じ込められ、孤独の中に置き去りにされてしまう。
そんなのは、もう嫌だ。
ティエラはただ、耳を澄ませた。
魔女の言葉に合わせて、声を振り絞る。
「制裁を、与えるのよ」
「制裁を……与えて……」
「此処にいる全てを、聖女を崇め魔女を憎む、忌まわしい教会を」
「ここにいる……皆を……」
もう、我慢する必要なんてない。
もう、何も欲しくない。
ティエラは混濁した意識の中で、アグレアスに告げた。
「消して……! 皆、消えて無くなって……!」
「……良かろう」
失望するようにアグレアスは息を吐き、そして目を伏せた。
●
「ウッ!? こ、これはっ……!」
教会に辿り着いたヴァロムは、そこにある惨事を目の当たりにして、思わず身構えた。
本来は教会に至るまでにも衛兵達が居座っている筈だったのだが、引き止められることはなかった。
何故なら、そこにいる全員が身体を引き裂かれ、命を落としていたからだ。
教会内部も、それは変わらない。
戦いの後も、悲鳴すらも聞こえなかったというのに、皆が一斉に息絶えている。
シュヴェルト家の当主たちも、例外ではなかった。
まだ死後、数分も経っていない。
ヴァロムは生存者を探したが、見込みのある者は誰もいなかった。
「何てことだ……皆、死んでいるのか……? 誰がこんな……! そうだ、ティエラ……! ティエラ、いないのか!?」
教会内部に灯っていた筈の火は、全て消え失せている。
暗闇ばかりが辺りを支配していた。
何の騒ぎもなく、一瞬でこれだけの人数を殺すなど有り得ない。
何か人智を越えた現象が起きたのだろうか。
まるで、悪魔の所業。
沸き上がる恐怖心を拭い去り、ヴァロムはティエラが閉じ込められていた聖女の間へと進んでいった。
見渡す限りは、死体ばかり。
あまりの光景に吐き気すら感じとる。
すると長い廊下の先で、何者かの声が聞こえた。
「どういう事!?」
「契約の代償を知らぬわけもあるまい。儂はそれを執行したまで」
「何を言っているの!? どうして私だけが! あの子も同じ事を願ったでしょう!?」
「あの娘は、恐慌状態にある。このような悪行へ導いたお前さんから、先に封印しただけの事だ。その悪しき、魔女の力からな」
「く……!」
黒髪の女性が、ヨロヨロと引き返してくる。
あの先は、ティエラが住まう場所だ。
思わずヴァロムは剣を抜いた。
纏う衣服からして外部の人間で間違いない。
走り迫りながら、その女性に詰問した。
「お前は何者だ!? 教会の人間ではないな!」
「ヴァロム・ユースハイム!? こ、こんな時にッ!」
「答えろ! この惨事は、お前が引き起こしたのか!? ティエラは、無事なんだろうな!」
「答える理由などないわッ!」
敵対する意志が見えた瞬間、ヴァロムは一気に飛び込んだ。
加減をすれば、こちらが殺される。
目のも止まらぬ速さで、間合いまで距離を詰める。
女性も舌打ちをしながら手を翳すが、同時に何かに気付いて息を呑んだ。
「し、しまった! 私の力はもう……!」
気を払う余裕はなかった。
刃の側面で、女性の胴を叩き払う。
俗に言う、峰打ちだ。
そのまま女性はヴァロムの剣の前に気を失い、その場に倒れ込む。
明らかに魔法を行使する体勢だったが、魔力が編めなかったのか。
彼は息がある事を確認しつつ、その正体を探った。
「この女性は一体……」
ようやく見つけた生存者ではあるが、ただの被害者には見えなかった。
凄惨な現場を前に平然としていた様子に、加害者の文字が浮かんでくる。
加えて先程の会話、この先にまだ誰かがいるのか。
ヴァロムがそう思った瞬間。
「いやあああぁぁぁぁ!!」
「っ!? 今の悲鳴は!」
ティエラの悲鳴が響き渡った。
反射的に彼は女性を置いて、聖女の間へと駆け出した。
螺旋階段を上り、数人の衛兵の遺体を越えて、現場に駆けつける。
するとそこには、その場に崩れ落ちるティエラと、それを見下ろす老人の姿があった。
「この悪行、最早救い難し」
ドサリという音が聞こえ、ティエラが倒れ伏す。
考えている暇はない。
ヴァロムは彼女の元に駆け出し、その身体を抱き起した。
「ティエラ! ティエラ、しっかりするんだ!」
久しぶりに見た彼女は酷く痩せ細り、目に下には大きなクマが出来ていた。
ただし傷はない。
気を失っているだけのようだ。
思わず安堵するヴァロムだったが、背後の影が彼の元に伸びる。
佇む白髪の老爺が、闇を背負い赤い目を光らせながら、二人を見下ろしていた。
「此処に、願いは叶えられた」
「!?」
「両契約者とも意識を喪失。規則に従い、刻限が来たるまで、次の指示を待つのみ」
事務的な言葉だけを述べ、老爺は沈黙する。
ひたすらにジッと、二人を見下ろしている。
明らかに普通ではない。
ヴァロムはティエラを庇いながら、手にした剣を向けた。
「お前は……一体……」
「……」
「き、聞こえているんだろう!? ティエラに、此処の人達に何をした!?」
「……契約者の指示がない限り、判断は自らの裁量に任される、か」
「何を言って……」
「儂の名はアグレアス。ティエラ・シュヴェルトによって召喚された悪魔だ」
「悪魔!? 望みを叶える代わりに、代償を支払わせるっていう、あの……!」
「この惨劇は儂が手を下した事だが、命じたのは他の誰でもない、そこにいる聖女だ」
「そんな……! ティエラが教会の人を、両親を皆殺しにしろと言ったのか!?」
「娘が持つ悪魔の陣が、何よりの証拠だ」
アグレアスは確かな事実を告げた。
ティエラこそが、この惨劇の引き金を引いた張本人であると。
愕然としたヴァロムは、抱えていた彼女から、悍ましい文字の描かれた魔法陣の紙片が落ちるのを見た。
悪魔の存在は、無論ヴァロムも知っている。
だからこそ、今の言葉が真実であると理解出来た。
理解、するしかなかった。
彼の手に、次第に力が込められる。
「キミはそこまで……そこまで追い詰められていたのか……? オレの責任だ……オレがもっと早く気付いていれば……!」
「……」
「何か方法はないのか!? こんなのは、あんまりだ! 誰も……誰も救われないじゃないか……!」
「儂は望みを叶えたに過ぎん。そしてこの悪行を覆す事は、人の手では叶わない」
アグレアスの言葉が、無情に突き刺さっていく。
聖女が悪魔を召還するなど、禁忌に触れる行為だ。
その上、教会の人間を皆殺しにしたとなれば情状酌量の余地なし。
断罪、処刑されてしまう。
これ程までに事態が悪化した今、ヴァロムの手ではどうする事も出来ない。
「どうすれば……どうすれば良い……!? このままじゃ、ティエラは……!」
もっと早くに分かっていれば。
周囲の反対を押し切ってでも教会から連れ出していれば、こんな惨劇は起きなかった。
一番近くにいながら、傍にいながら、それが見抜けなかった。
後悔ばかりが彼の身を縛り付けていく。
誰でも良い。
誰か彼女を、皆を救える者はいないのか。
ヴァロムは天にも祈る気持ちだった。
そうして視線を上げると、彼の目にアグレアスの、悪魔の姿が映った。
「悪魔との……契約……」
「……」
「アグレアス……お前はコレを、変えられるのか……?」
「何が言いたい?」
「聖女という存在がティエラを苦しめたのなら、こんな惨劇を生むなら、そんな力なんて必要ない……。彼女が聖女だという事実を、過去に渡って失わせる……!」
ヴァロムは自らを奮い立たせる。
この惨劇は、人の手では覆せない。
書き換える事など出来ない。
目には目を、悪魔には悪魔を。
悲劇を消すには、同じ悲劇を起こした力でなければ叶えられない。
彼は悲劇の権化である大悪魔に、アグレアスに相対する。
「大悪魔・アグレアス……創国期に天を引き裂いたと言われる存在なら、それが出来る筈だ……!」
「儂を知っていたのか」
「王家の文献で、一度だけ見た事があるんだ。アグレアスという、禁忌の名を」
禁忌という言葉にはそれだけの意味がある。
アグレアスを召喚した者は、人の道理を外れ、破滅の道を辿る。
今持っている全ての幸福を失うとされた。
確かにその通りなのかもしれない。
だが、ヴァロムは臆さなかった。
慈しむように、気を失ったティエラの頬に触れる。
「分かったんだ。聖女は国を繁栄させるだけの道具だった。洗えば洗う程、心は摩耗していく。心の病は、確かに存在するんだ。オレも同じだった。窮屈に感じていたからこそ、あの時、森に駆け出した。だから、助け出したい! ティエラは、ただ幸せを願っただけなんだ! ただの偶像じゃない……!」
「……」
「頼む! アグレアス! オレと契約してくれ!」
自分はどうなっても構わない。
あの時に助けられた恩を、ここで返す。
それは紛れもない、ヴァロム自身の意志だった。
千に届く人間を一瞬で殺した悪魔を前に、彼は立ちはだかる。
するとアグレアスの赤い瞳が、少しだけ見開いた。
「契約者からの指示がない限り、自らの裁量によって、か。お前は、その意味が分かっているのだろうな?」
「……!」
「聖女の力を消すと言ったな? 聖女という存在は、その娘の根源そのものだ。封印する事は出来ても、消す事は出来ん」
「だったら……!」
「過去に渡っての封印は、それまでの人々の記憶を、道筋を大きく改変する。加えて、一度果たされた他者の願いを覆し、その契約すらも上書きするという行為が、どれほどの代償を生むのか。それは最早、人が叶える願いの範疇を超えている」
そこまで聞いて、ヴァロムも思い当たる。
悪魔召喚に関する、忌むべきモノだと知らしめるために伝えられた代価の存在。
大き過ぎる願いを悪魔に叶えさせた場合、召喚者はどうなるのか。
「過ぎた願いは……契約者の魂を、存在を、永久に縛り続ける……」
「やめておけ。お前には何の得もない」
あえてアグレアスは言った。
わざわざ止めに入るという事は、それだけ理に適っていないのだろう。
見返りなど返らない。
報われるものは何もないと仄めかす。
だが、ヴァロムは視線を逸らさなかった。
「損得だけで考えるなら、それは今までの人達と何も変わらない」
「……」
「オレは約束したんだ。此処から連れ出すって。教会が何だろうと、聖女が何だろうと、関係ない。もう、彼女からは何も奪わせない」
「全てを失うことになるぞ?」
ティエラが生誕した時点まで、聖女の力を永久に封印する。
時間を巻き戻す。
そうすれば、彼女が聖女として目覚める心配はない。
聖女の力がなければ、教会に閉じ込められ、偶像の如き扱いを受ける必要は無くなる。
元の貴族令嬢としての暮らしを送っていくのだ。
そこには本来あるべき、手に入る筈の確かな幸せがある。
ヴァロムの願いは、貴族令嬢として、一人の少女として生きていてほしい。
何故なら、それは。
「好きになったんだから、仕方ないだろ? 初めてなんだよ……こんな気持ちは……」
「……」
「全てを巻き戻してくれ! 彼女の対価も全て、オレが引き受ける!」
全ては一目惚れをしてしまった、愛する者のために。
意志が変わらないと知り、遂にアグレアスは息を吐いた。
しかし、そこに失望はない。
「人の心は、推し量れぬものだ。二重契約とは、七百年ぶりか」
次いで、周囲に纏っていた闇がヴァロムを取り巻いていく。
力ある渦で、彼の身体に次々と入り込んでいく。
莫大な代償を支払うための源泉。
彼自身を対価とする強大な呪いだった。
「良かろう。長らく適合者が見つからなかった、第8位が残っている。お前ならば、その座に相応しい」
「――!」
「その魂、その存在、己が代償を支払うための奴隷となるが良い」
渦に呑まれるヴァロムは、眠るティエラを手放した。
その直後、全ての光景が揺らぎ、消えていく。
今まであった惨劇も、彼女の姿も、悪魔すらも幻想の彼方へ向かう。
代わりにあるのは、自分の存在が脅かされる感覚。
だが恐怖はなかった。
これで良い。
これで救われる。
後悔は安堵へ変わり、彼は薄れゆく意識の中、目を閉じる。
そうして今まで見えていた光景が、走馬灯が消えた。




