2.悪魔・ヴァロム
ティエラは数年前から夢を見るようになった。
大事な人が奪われる孤独と憎悪。
沸き上がった嫉妬心。
果てにしでかした悪行によって、周り全てを破滅させる悪夢だ。
両手から滴り落ちる血が、周囲に倒れ伏す人々が、それを確かに物語っていた。
あるのは罪悪感、身を滅ぼしそうな程の後悔。
そうして膝を屈したティエラの前に、決まって黒い影が現れる。
『この悪行、最早救い難し』
巨大な影がそう言った瞬間、目が覚める。
何度も見る内に彼女は悟った。
これは間違いなく、自分の身にこれから降りかかる災厄なのだと。
故にティエラは善良であり続ける事を誓った。
同じ夢を繰り返さないため、驕らず、優しさを以って接する。
そうしていつしか彼女は、第一王子であるフェルリオと婚姻を結ぶまでに至った。
確かな恋愛はなくとも、自分自身で築き上げた地位があったのだ。
次第にあの悪夢を見ることも無くなり、彼女は惨劇を回避できたのだと思っていた。
だが全て、無駄だった。
待っていたのは魔女という謂れのない冤罪だけ。
一体、今までの努力は何だったのか。
何のために今まで生きてきたのか。
燃え盛る炎が迫る中、ティエラの胸中には怒りに似た感情が沸き上がった。
「私は、まだ……」
死ぬ訳にはいかない。
地位も名誉も、家族すら奪われる、そんな現実など絶対に認めない。
思わず歯を食いしばると、その直後に脳裏でとある光景が思い起こされる。
今までも見た悪夢の一場面。
血の海と化した場、その傍らで光る漆黒の魔法陣が、唐突に思い浮かんだ。
何故かは分からない。
しかしそれと同時に、ティエラの思考が魔法陣と同調する。
空想である筈の魔法陣が、脳内で徐々に光を増し、明確な力を放ち始める。
まるで彼女の激情に呼応するように。
『絶対に、死なせるか……!』
聞こえたのは若い青年の声。
直後、ティエラは炎の中で意識を失った。
●
次に意識を取り戻したのは、それから一週間が経った後だった。
「ん……」
目覚めたティエラは、自分が横になっている事に気付く。
瞼を開けると、見知らぬ質素な天井が視界に広がった。
一体、何が起きたのか。
ぼんやりとした思考の中で、彼女は上体を起こす。
長い間、眠っていたような感覚が全身を取り巻いていた。
磔にされていた時とは違い、手足を拘束する物はない。
多少硬いが、その柔らかさから自分がベッドに寝かされていた事も分かった。
何処かの寝室のようだ。
纏まっていなかった思考が、段々と元に戻ってくる。
「ここは……?」
「やっと、目が覚めたみたいだな。良かった」
すると唐突に声が聞こえてくる。
視線を声の方向に向けると、椅子に座った青年がベッドに寝ていたティエラを見ていた。
透き通った青色の短髪、容顔美麗な美青年。
身に着けるマントと衣服は狩人を彷彿とさせる。
全く見覚えのないその姿に、思わずティエラは両手で身体を庇った。
「っ! な、何っ!?」
「安心してくれ。オレはキミの敵じゃない」
「敵じゃないって……! 貴方は一体……!?」
「……分からない、か。オレは他の誰でもない、キミに呼び出されたんだ」
「よ、呼び出す? 何を言って……?」
「やっぱり、事情を理解し切れていないみたいだな。いや……あんな状況なら無理もない」
青年は顎を手で触れながら、勝手に納得する。
訳が分からない中、ティエラは彼に敵意がない事に気付く。
断罪を宣言したフェルリオや聖女のエニモル達のような、悪感情は見当たらない。
寧ろ優し気な態度で接してくる。
信用できるのか。
そう思った彼女に対して、彼は指し示すように、右手を彼自身の胸へと当てた。
「オレの名はヴァロム。所謂、悪魔ってヤツだ」
「え……あ、悪魔……?」
見た目は人間にしか見えないヴァロムは、自身を悪魔だと言った。
訳も分からず、ティエラは思考を巡らせる。
悪魔については聞いた事がある。
禁忌の儀式により、特異な才能を持つ者だけが召喚できる存在。
召喚者の願いを叶える代わりに、大きな代償を支払わせるという恐るべき使い魔であると。
「悪魔って、あの伝承に聞く……?」
「そう。限られた人間が一度だけ行える、悪の召喚。それに呼び出されたのが、オレなんだ」
「じょ、冗談も大概にして下さい。そんな事がある訳が……」
「オレが悪魔かどうかを証明するには、これまでの事を話さなくちゃいけない。キミの身に何が起きたのか。キミだって、知りたいだろう?」
「それは勿論……」
「だったら話は早い」
説明の手間が省けたと分かり、ヴァロムは椅子に座り直して足を組む。
そして何処か飄々とした感じで、彼女に続けて問う。
「キミは火刑に処された。そこまでは覚えているか?」
「え、えぇ。私は確かに、磔にされて……まさかここは、地獄の世界……!」
「ここは地獄じゃない。王都から離れた森の中だ。あの火刑が行われてから、大体一週間は経つ」
「ど、どういう事……?」
「キミはまだ、生きている。オレが助け出したんだ」
端的に彼は言った。
火炙りにされていたティエラを救い出したのは、自分であると。
悪魔でありながら命を救った恩人であると、確かに打ち明けたのだ。
対する彼女は当然だが、困惑するしかなかった。
「悪魔が……私を……?」
「呼び出した召喚者を助け出すのは、応じた者として当然の責務だ。全く、ビックリしたよ。呼び出されたと思ったら、当の召喚者は火炙りの真っ最中なんだから。流石のオレでも、こんな呼び出され方は初めてだ」
「ちょ、ちょっと待って下さい……。あんな状況から助け出すなんて、それこそ悪魔でない限り……。つまりそれは、貴方が、本当に……?」
「あぁ。間違いなくキミがオレを、悪魔を呼び出したんだ」
「そ、そんな、嘘でしょう? だって私には、呼び出した覚えなんて……」
ある訳がない。
悪魔の召喚方法など知る由もないし、あれは世界中で禁断の術式と呼ばれる、焚書扱いの代物だ。
はいそうですか、と言って簡単に出せるものではない。
しかし一つだけ、心当たりがある。
火刑の最中に連想された、破滅の夢にあった、漆黒の魔法陣。
気を失う前、あの魔法陣は力を放ってティエラ自身を呑み込んでいた。
「まさか、あの時の魔法陣が……?」
「……心当たりはあったみたいだな」
「ど、どうして私が、そんな事を……!」
「それはオレにも分からない。オレはただ、キミの呼び声に応じただけだからな」
「やっぱり……私は魔女で……」
「いや、キミは魔女じゃない。そもそも素質さえあれば、魔女でなくても悪魔は呼び出せる。それに本当に悪しき強大な力を持つ魔女なら、わざわざオレを呼び出すなんて回りくどい事もしないだろう」
彼は本当に呼び出されただけで、召喚の経緯までは知らないらしい。
何故、悪魔の召喚方法を知っていたのか。
何故、自分がその召喚を行えたのか。
分からない事は山ほどある。
しかし、どうにか自分が悪魔を呼んだ事を受け入れる。
嘘ではない。
嘘なら、自分が意識を取り戻すまで待っている理由もない。
とにかく先ずは、助けられた礼をすべきなのかもしれない。
火刑から救い出したのは、間違いなく彼なのだ。
質問を繰り返してばかりだったので、彼女は令嬢としておずおずと頭を下げた。
「あの、悪魔に言って良い言葉なのか分かりませんが……。助けて頂き、ありがとうございます……」
「礼なんて言う必要ない。主を助けるのは、呼び出された者として当然の事だ。それにオレはキミを助ける事が出来て、本当に良かったと思っている」
「え?」
何故かそう返され、ティエラは困惑する。
どうにも彼の態度は、初対面相手に対するものではないような気がした。
まるで大切な人を助ける事が出来た安堵の思いが、伝わってくる。
「そのままの意味だよ。何か、おかしなことを言ったか?」
「い、いえ……。でも、そういうもの、なのかしら……?」
「まぁ、お礼を言われて嬉しくないと言ったら嘘にはなるけれど、オレには勿体ない言葉だ。オレは、ただの道具だから」
「道具?」
「それよりも今は、これからの事を考えよう」
あっけらかんと、ヴァロムは相変わらず口調を変えない。
自分を道具と言った事も撤回しない。
奇妙な青年、いや悪魔か。
そしてそのまま、彼はこれからすべき事を語り始めた。