17.夢の具現
突然聞こえた老爺の声にティエラ達は驚く。
すると同じバルコニー、対面する程の近さに、その人物は佇んでいた。
いつの間に、いたのだろう。
白髪赤眼の貴族然とした老人が、二人を無表情に見据えている。
全く気配を感じなかった。
加えてヒンドリー家の者ではない。
只ならぬ予感を抱き、ティエラは声を震わせた。
「だ、誰……?」
「儂の名はアグレアス。以後お見知りおきを、と言うべきか」
老人、アグレアスは静かにそう言った。
その言葉に、真っ先にヴァロムが反応する。
彼はティエラを庇いつつ、警戒心を露わにしていた。
明らかに、その老人の正体を知っているようだった。
「……どうして、アンタが此処にいるんだ?」
「それは貴様も理解しているだろう。ヴァロムよ」
改めて言う必要などない、とアグレアスは宣告する。
風貌は厳格であり、それ以上の畏れを揺り動かす雰囲気を放っていた。
ヴァロムは彼の素生を知っている。
会話からもそれは間違いない。
だが知っているのは、ヴァロムだけではなかった。
「何……? この胸騒ぎ……?」
「ティエラ!?」
「私は……知ってる……?」
ティエラは凍えるような感覚を抱いていた。
身体の体温が一気に下がったようだった。
佇むアグレアスに気圧されただけではない。
拭いきれない恐怖が迫り、かつての記憶が呼び覚まされたのだ。
一体何に、と考えた彼女は、そこでようやく思い起こす。
「貴方は……あの悪夢に出てきた……!」
それはティエラにとっての転機。
何度も見た、血の惨劇に自分一人が残される悪夢だ。
悪夢の中で彼女の前に現れるのは、強大な黒い影。
影は全てが命絶えた場所で、夢の終わり際に言い放つ。
『その悪行、最早救い難し』
あの声、あの姿、あの雰囲気。
紛れもなく、あの悪夢に現れた影はアグレアス本人だった。
ティエラは数歩後退るが、それ以上は動けない。
恐怖が全てを支配していたからだ。
これは、どういう事なのか。
何が起きているのか、全く説明出来なかった。
悪夢から甦ったアグレアスを、怯えた目で見る事しか出来ない。
すると彼は身体を震わせる少女をチラリと見て、直ぐに視線を外した。
「お前さんに危害を加えるつもりはない。儂の目的は、ただ一つ」
「……オレ、か」
ティエラを背で庇っていたヴァロムは、目を伏せる。
人間の少女に興味はなく、悪魔である彼に用があると言っているのだ。
そして逃げ切れないと悟ったのかもしれない。
ヴァロムは背を向けたまま一歩踏み出した。
「悪い、ティエラ。急用が出来たみたいだ」
「どういう、事……?」
「大丈夫だ。これが片付いたら、直ぐに戻る」
あくまで安心させるように彼は告げるだけだった。
突然の事に、ティエラの思考は追い付いてこない。
多くの疑問が浮かんでは、意味もなく消えていく。
そして考える暇を与えないように、二人の姿が蜃気楼のように揺らめいていった。
「ヴァロム!」
名を呼んだが返事は来なかった。
直後、二人の姿は闇の中へと消えていった。
●
「見逃してはくれないのか?」
「先に破ったのはお前だぞ、ヴァロム。悪魔とは、規則に忠実であらねばならない。それが契約に生きる私達の存在理由。以前もそう教えた筈だ」
「……そうだな。よく知っているよ」
ヴァロムとアグレアスは、別の空間で相対していた。
周囲の光景はヒンドリー家のバルコニーなのだが、その様子は元いた場所とはまるで違う。
全ての表面が黒く塗り潰され、現実ではない異界であると一目で分かる。
そんな中で、ヴァロムは現れた悪魔に悪態をつく。
「相変わらずの頑固爺め。私情よりも規則を重んじるやり方、オレは治した方が良いって言っただろう?」
「上に立つ者として、規則の遵守は絶対だ。そうしなければ、お前のように反抗する者が現れる。周りに示しがつかないのだよ」
「そのために、わざわざご足労したってのか。全く、仕事熱心が過ぎる」
あっけらかんとするヴァロム対して、アグレアスは微動だにしない。
退く様子もない。
目の前の悪魔が適当な言い訳で帰る訳がないと、既に彼は理解していた。
だからこそ、手中に深緑色の弓矢を出現させた。
それは今までヴァロムが見せた事のない、必殺の武器。
狩人として、全力を振り絞るという意志表示でもあった。
「オレはまだ、やらなくちゃいけない事があるんだ。だから此処で、終わる訳にはいかない」
「どうする気だ?」
「アンタを退かせる」
「ほう。随分と大見得を切るではないか」
対するアグレアスは何の武器も持たない。
無手のまま静かに笑う。
だが同時に、紅い瞳が眼光を増して見開かれた。
「大悪魔である儂に、勝てると思っているのか?」
瞬間、アグレアスの周囲が白く罅割れる。
漆黒の空間に亀裂が走り、その歪みが一気にヴァロムに迫った。
●
取り残されていたティエラは、二人の姿を探したが何処にも見当たらなかった。
どう見ても、あの消え方は人の行える技ではなかった。
魔法であっても、完全に姿や存在を消せる術などない。
彼女は現れたアグレアスが、人間ではないと理解した。
「もしかしてあの人は、ヴァロムと同じ悪魔、なの? だとしたら、何のために……」
アグレアスはヴァロムに用があると言った。
悪魔が悪魔を探す理由は分からない。
そもそも悪魔が現界するには、術者に呼び出されなければならなかった筈だ。
何者かから命令を受けて接触したのか。
他に悪魔を召喚した者がいるのか。
有り得る可能性は幾つでも浮かんでくる。
ただ一つ確かなのは、今までに見た悪夢が空想の類ではないという事だった。
「あの悪夢は……ただの、夢じゃない……」
夢の中に現れた人物が、偶然一致する訳がない。
予知夢はまだ続いているのかもしれない。
しかし分かるのはそこまでだ。
アグレアスは言わば、ティエラが恐れてきた悪夢そのもの。
ヴァロムもいなくなり、不安ばかりが押し寄せる。
自分にはひたすら待つ以外に出来ないのだろうか。
そう思った時だった。
地中から固い物体を殴るような重い音が響いたかと思うと、突然足元が揺れ始める。
「な、何!?」
バランスを崩しかけるが体勢を立て直す。
そしてこれはティエラだけの話ではない。
屋敷にいた使用人達も俄かに騒ぎ始める。
地震だ。
揺れ自体は比較的軽度。
周りの家具が倒れるような大きさはなく、左右に揺れる長い振動が続いた後、次第に弱まっていく。
彼女も動揺しながらも、それ以上の錯乱はない。
すると暫くして様子を心配してか、アランがティエラを探しに来た。
見る限り、彼も特に大事はなさそうだった。
「ティエラ! 良かった、無事みたいだね!」
「アラン……! 今のは、地震?」
「そうみたいだ。全く何事かと思ったよ。この地域で地震なんて、滅多に起きるものじゃないんだけど……あれ? 君の従者は何処に?」
だがそう言われ、ティエラはハッとする。
彼女自身、地震を経験したのは本当に久しぶりだった。
そう思う程に、王国内での頻度は極端に少ないのだ。
しかしそんな地で起きた得体の知れない揺れ。
先程姿を消した彼らの存在。
今の自然災害が、ヴァロム達とは無関係だとは思えなかった。
「もしかして……!」
「ティエラ、何処に行くんだ!?」
「彼を探しに行くわ! 貴方は他の人達の無事を確かめて!」
当てなどなかった。
それでも探さなくてはならない衝動に駆られ、ティエラはバルコニーを後にした。
ヒンドリー邸を飛び出し、大きな庭園に辿り着く。
そこにいるという確証はない。
ただ、ティエラとティエラは契約を結んだ関係だ。
少なからず感じるものがあったのだろう。
彼女は次第に確信を持ちながら庭園を走り出し、声を上げた。
「ヴァロム!? ヴァロム、返事をして!」
「く……ぅ……」
「!?」
直後、遠くない場所から呻き声が聞こえた。
目の前にあったのは、庭園の中でも一際大きな樹木だった。
今は夜の闇に包まれ、黒い影を大きく落としている。
そんな大樹の下で、寄りかかりながら座り込むヴァロムが見えた。
彼女は急いで駆け寄ったが、徐々に見えてきた彼の姿に息を呑む。
「ヴァロム!」
「て……ティ……エラか……?」
「酷い怪我……! さっきの人にやられたの!?」
ヴァロムは頭部から血を流していた。
それだけでなく、身体全体に複数の切り傷があった。
立つこともままならない様子だ。
やはり只ならぬ事が起きたのだ。
ティエラは立ち止まった足を前へ進め、駆け寄っていく。
しかし同時に彼女の背後から、闇を掻き分けるようにアグレアスが現れた。
「言った筈だ。儂には勝てぬと」
アグレアスは全くの無傷だった。
一方的な戦いだったのか。
それだけの力量差があるようだった。
ティエラは恐れを抱きながらも、ゆっくりと後ろを振り返る。
恐怖そのものが、悪夢そのものが、そこにはいた。
今の彼では逃げられない。
そしてアグレアスも、彼を見逃すとは思えない。
だからこそティエラは赤眼の老爺に立ち塞がり、両手を広げてヴァロムを庇った。
「よせ……! ティエラ……!」
「彼は私の従者よ! これ以上は、許さない……!」
ヴァロムは苦しそうに顔を上げる。
自分だけでも逃げろと言いたかったのかもしれない。
確かに手も足も震え、酷く滑稽に見えているだろう。
だが、背を向けて逃げることは出来なかった。
ここで退けば、大切なモノを失う。
悪夢と同じく全てを失ってしまう予感が、ティエラにあったからだ。
必死にしがみ付くように立ち続けていると、アグレアスは意外そうな目をした。
「……契約者への危害は、規則違反か」
老爺がそこから踏み込むことはなかった。
彼女の意志を見届け、ゆっくりと踵を返す。
「良かろう。今回は退くが、次はないと思え。我々が契約に生きる存在であると、もう一度よく思い返す事だ」
冷たい風が吹き抜けると同時に、アグレアスは闇の中へ消えていった。
訪れたのは静寂だけだ。
悪夢は去ったのか。
詳しい事はよく分からなかった。
それでも彼女はその場に崩れ落ちず、倒れそうになるヴァロムの身体を支える。
確かな温もりを感じ、彼がまだ生きていると理解し安堵する。
こうして得体の知れない悪魔との邂逅は、終わりを告げた。




