【06】 思い出あずかり屋のお客様②
メアリは、目の前にいる男を知っていた。
名を、ユリウス・アールグレーンという。
真昼の月のような白に限りなく近い金の髪、湖面に張った薄氷のような淡い青の目。スッと通った鼻梁に口元のほくろが妙に目を引く。そのほくろのことを街の人たちがこっそり「エロぼくろ」と呼んでいることは、うわさ話に疎いメアリの耳にさえ届いていた。
しかし、メアリがユリウスを知っているのは、うわさ話のせいではない。
うわさを聞く以前に、彼のことは何度も見かけていた。
来客がない限り、飽きもせず店の奥にある作業部屋で機械いじりばかりしている彼女は、働いているという免罪符を掲げて、舞踏会にすら参加していない。
物言いたげな父には「婚約破棄されて傷心の娘に舞踏会へ行け、なんて言いませんよね?」と泣きまねでもしておけば問題なかった。
貴族令嬢としての義務を放棄し、街の人たちとも最小限しか交流しない彼女が、なぜこの男を知っているのか。
答えは簡単。
彼女の行動範囲に、ユリウスがいたからである。
この街には、国に貢献してきた英霊たちが眠る有名な墓地があり、隣にあるルフナ教会が彼らの安らかな眠りを守っている。
ユリウスは、そのルフナ教会にて住み込みで働いているのだ。
墓地の数ある墓石のひとつに、メアリが心から尊敬してやまない、偉大な発明家の名前が刻まれている。
【ルカ・ブレゲ】
ブレゲとは縁もゆかりもない間柄だけれど、メアリは彼のことを崇め、師匠と慕っている。
彼への尊敬の意は、誰にも負けないと自負していた。
機械いじりが思ったようにうまくいかなくて煮詰まった時、メアリは彼の墓の前へ座り込み、彼と対話する──つもりで自問自答を繰り返す。
すぐに答えが出る時もあるし、答えが出ない時もある。
だけど、作業部屋で一人悶々とし続けているよりは早く解決するので、メアリは師匠のおかげだと思うようにしていた。
冷静に考えてみれば、店から墓地までの間の散歩にしては長い距離を歩いたおかげで脳が活性化されただけなのだろうとわかるのだが、メアリはあえてそう思うことにしている。
墓地へ行ったときはたいてい、ユリウスを見かけた。
どうやら彼は、高齢の神父の代わりに墓地を管理しているらしい。
墓地の周囲をぐるりと囲むバラの木の手入れをしていたり、故人に会いにきた人と立ち話をしていたり。メアリは直接話したことはなかったけれど、何度も通えば名前くらいは耳に入ってくる。
はじめて名前を知った時、あれがうわさのエロぼくろの人か、とメアリは感想を抱いた。
確かに、うわさ通りの綺麗な男だ。
口元にほくろがあるせいで、唇に目がいってしまうのも頷ける。
(まぁ、私には関係ないですけれど)
メアリはユリウスに対して、それほど興味が湧かなかった。
彼に恋した少女がこぞって墓地の見えるカフェに押し寄せる中、メアリはその隣をブツブツ呟きながら通過していったし──奇婦人の出現に少女たちは引き潮のようにサッと彼女に道を譲った──意を決した少女が墓地に足を踏み入れ、胸が張り裂けそうなくらいの緊張を抱えてユリウスを待っている時も、彼女は目の前をスタスタと歩いていった。少女は黒猫が前を横切った時のような気持ちになって、その日告白することを諦めたとかなんとか。
とにもかくにも、メアリはユリウス及び彼の周囲にはこれっぽっちも興味がなかった。
(好きにしていて。私には関係ないし)
今は綺麗でも、いつかは老いていく。
そんなものに夢中になる彼女たちの気がしれない。
それよりも気になるのは中身。しかもメアリの場合、内面や性格といった意味合いではなく、言葉のまま骨や内臓を意味する。
つまり、健康的でお金をガッポリ稼いできてくれる人ならば、誰でも良かった。
雲が多いロディムの空の下では、ユリウスの白い肌は不健康そうに見える。
初めて視界に捉えた時はゴーストかと思って喜びかけたくらいだ。生身の男だとわかるとすぐに興味を失ったが。
それに、うわさによれば彼は聖人らしい。
独断と偏見かもしれないが、聖人や聖女というのは慎ましやかな生活を送るものだろう。
余分なお金があったら、貧しい人たちに配ってしまうイメージがある。
メアリの家が復興するほどの大金なんて持っているわけがないし、これからだってないはず。
つまり、彼の見た目がどんなに優れていようと、メアリにとっては射程範囲外の男なのである。
実は一度だけ彼と話をしたことがあったのだが、考え事をしている最中のことだったため、メアリの記憶からはすっかり抜け落ちていた。
(清廉潔白が服を着て歩いているような聖人様が、こんな珍妙な店にやって来るなんて……)
黒猫横丁は、聖人様が訪れるような場所ではない。
思い出あずかり屋も、しかり。
むしろ一生縁がない場所なのではないだろうか。
つとめてミステリアスな微笑を浮かべ続けるメアリを前にして、ユリウスは落ち着かなげに視線を巡らせる。
何か言いたいことがあるのに言う決心がつかない、もしくは言いづらいことがあるけれどどうしても言わなくてはならなくて困っている、とそんなところだろうか。
(聖人様が来るなんて……一体、どういった用件なのかしら?)
その時ふと、メアリは思い至ってしまった。
ユリウスは聖人様なのである。
そして、この店は見るからに胡散臭い。
(若い女性がこんな店をやっているなんてけしからん! と説教するつもりなのでは……?)
そんなのはごめんである。
メアリの眉間に皺が寄り、無意識に警戒する。
その姿はまるで、懐いていない猫がシャー! と威嚇しているようだ。
もっとも、おっとりとした親しみやすい顔だちをしているメアリの威嚇なんて、子猫レベルではあるのだけれど。
(説教なんて不要なのです! それに……聖人様がうちに来たと知られたら、彼に恋する少女たちは何をしてくるか……さっさと帰ってもらわなくてはなりません!)
メアリは無言で「帰れ〜帰れ〜」と念じた。
睨むような強い視線に、ユリウスがたじろぐ。
彼のしぐさにこれは効果があるのかもしれないと思ったメアリは、もっと強く念じた。
まさか彼女は思いもしなかっただろう。
熱心に念じるあまりに彼女から香る匂いが強まり、ユリウスの理性を揺るがしていたなんて。
ユリウスは帰るどころか「うっ」と小さくうめいて顔を背けた。
それから言いづらそうに首の後ろをこすったあと、メアリと視線を合わせないようにしながらこう言った。
「ここは思い出をあずかる店なのだろう? 俺も、依頼することは可能だろうか?」
ユリウスの申し出に、メアリはパチパチと目を瞬かせた。
虚をつかれて思わず、
「ええ。可能、ですけれど」
と言ってしまう。
(ああ、さっさと帰すつもりだったのに……!)
奇婦人が店に聖人様を連れ込んだ──なんて、そんなうわさはごめんだ。
聖人様に恋する少女たちが、連日連夜嫌がらせしてくるのが目に浮かぶようである。
(ああ、終わった……)
投げつけられるのは石だろうか。
腐った卵のほうが生存率は高そうなので、そちらにしてもらえるとありがたい。
あとできれば、トマトもやめてほしい。酸っぱくて、好きじゃないから。
嫌がらせについて考えているメアリの前で、ユリウスが爽やかに微笑む。
「ああ、良かった。では、さっそくお願いしても?」
「……お高いですよ?」
悪あがきだとわかっていても、言わずにはいられない。
これで逃げてくれと一生懸命逃げ道を用意してあげたのに、メアリの気持ちは彼に届くことはなかった。
「大丈夫だ。それなりに持っている」
無造作に財布の中身を見せられて、メアリは言葉を失う。
(聖人様って……聖人様って……!)
「結構持っていらっしゃるのですね」
あ、と気づいてももう遅い。
恥ずかしそうに顔を俯けたメアリに、ユリウスがクスリと笑う。
「足りるか?」
「十分足ります」
「では、よろしく頼む」
「かしこまりました」
その日、メアリは思い込みって怖いなと思った。
慎ましやかな生活とは? と頭にクエスチョンマークが無数に湧いてくる。
──聖人様の財布には、メアリが欲しいと思っていた蒸気自動車を購入しても余るくらい、入っていた。
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