【36】 奇婦人メアリと苛立たせる者
光も差さない水底に、メアリの思考は沈んでいる。
小さな音がして、停滞していたメアリの思考をさらに鈍らせた。
遠慮がちに作業台の隅に置かれたカップに、彼女はため息を吐かずにはいられなかった。
作業の手を止めて、少し離れたところで手持ち無沙汰に立っている男をチラリと見る。
「デンバー」
名前を呼んだ瞬間、デンバーの表情がパッと明るくなった。
まるで、愛する主人に呼ばれた犬みたいだ。モフモフの尻尾が、ブンブンと左右に振られている幻覚が見えるようである。
(なぜ、そんなに嬉しそうなのでしょうか)
その顔は、胡散臭いくらい爽やかだ。
彼が下心ありきでやっているということは、メアリにもわかった。
(いい加減にして!)
本日何杯目か数えるのも億劫なくらいコーヒーを出され、メアリは怒っていた。
背面投影用のプロジェクターをつくるため、彼女は休日だというのに朝から作業部屋へこもっている。
どうしてそんなことになっているのかというと、ひと月後にルフナ教会の墓地で幽霊演芸を開催することになったからだ。
『ルカ・ブレゲの没後二十年記念に、ファンタスマゴリーを提案しても良いだろうか?』
ユリウスからその相談を受けたのは、改めて墓地をリサーチした夜のこと。
持っていったノートにびっちりとメモを書きつけ、これで送風機はなんとかなりそうだとウキウキで歩いていた時だった。
ルフナ教会では、英霊たちの節目節目にイベントを開催している。
今回はルカ・ブレゲの没後二十年記念ということもあって、機械が関わるイベントにしたかったらしい。
ブレゲの命日は、初夏である。
納涼のためというには少々早い時期ではあるが、ファンタスマゴリーを開催するには悪くない時期だ。
師匠の没後二十年記念と言われてしまえば、自称ブレゲの弟子としては断りづらいものがある。
店のこともあるので過密スケジュールになることはわかっていたが、逃げ道をふさぐように期待するような目でユリウスに見つめられると、難しいとは言えなかった。
とはいえ、ユリウスは「提案しても良いだろうか?」と言っていたので、きっとたくさんある案のうちの一つとして提案されるだけで、最終的には別の案に決まるだろうとメアリは思っていた。
予想に反し、ファンタスマゴリーが採用されたと聞いた時は驚いたものだ。
びっくりした拍子に転びそうになり、ユリウスに抱きとめられたことは恥ずかしい記憶としてメアリの心に刻まれている。彼の腕はメアリを抱きしめてなお、余っていた。
そういうわけで、メアリは今、けっこう焦っている。
送風機の方はすでに完成し、今夜にもユリウスの立ち会いのもと墓地で試験をする予定だが、肝心の背面投影のプロジェクターに手間取っていた。
(明るさが二千ルーメン必要なのに、まだ足りない……)
考えては試してを、もう何度となく繰り返している。
一体なにが原因なのだろう。
埋没するように考え込んでいたいのに、それを邪魔するようにデンバーがコーヒーを差し入れてくるものだから、集中が切れてばかりだ。
数日前、助けを求めてきたデンバーは、それ以来作業部屋で寝泊まりしていた。
毎晩遅くまで何かしているかと思ったら、どうやら交霊会の準備をしていたらしい。
駄目だと言ったのに懲りずに強行しようとしているから、
『ここから追い出されたくなければ、すぐにやめることね』
と脅したところ、渋々諦めたふりをしている。
今は甲斐甲斐しくメアリの世話を焼いて、懐柔しようとしているようだ。
懐柔どころか、メアリを苛立たせる天才かと言わざるを得ないが。
「僕に手伝えることはあるか?」
いそいそと寄ってきたデンバーに、メアリはイライラし通しだ。
どうして今日、店を休みにしてしまったのだろう。営業中だったら、店番を押し付けられたのに。
随分前にやめたはずなのに、爪を噛みたくてしょうがない。
分厚い皮の手袋をしていて良かった。嵌めてなかったら、とっくに噛んでいた。
メアリは険しい表情を浮かべ、ゴーグルをつけたままくるりと背後に体を向けた。
拡大された明るい茶色の目が、ギョロリとデンバーを捉える。
構ってもらってうれしい! と言わんばかりの様子に、文句を言おうとした口がつい閉じそうになった。
(こんなわかりやすい演技に騙されてはいけません! これこそがデンバーの手なのですから)
わかっていても絆されそうになるのは、何度目だろう。
可愛らしかった頃の彼と重なって、つい甘やかしたくなる。
メアリが自身を奮い立たせている間、デンバーはげんなりと彼女の目を見ていた。
拡大された人の目を、詳細に見るのは初めてなのだろう。
口元を隠して、気持ち悪そうに見つめている。
怖いものほど見たくなるたちなのか、少しずつ距離を詰めてきた。
「すごいな。人の目をこんな風に見たのは初めてだ」
侮蔑が混じった声で、デンバーは言った。
しかめられた顔には嫌悪感が浮かぶ。
心底理解できない、と彼の顔には書いてあった。
(アールグレーン様だったら、興味津々でゴーグルの仕組みについて聞いてくれそうなのに)
デンバーでなくユリウスがここに居たら。
そう思わずにはいられない。
ユリウスがいたら、もっと楽しく作業に取り組めただろう。
もっとも今彼は、自分のせいで過密スケジュールになっているメアリを慮って、午前のお茶の時間にも現れないのだが。
(せっかくの気遣いを無駄にしないためにも、頑張らなくては)
今夜は送風機の試験がある。
できれば、ユリウスに良い報告をしたかった。
「デンバー、コーヒーはもういらないわ」
接近していたデンバーを押し除け、メアリは作業へ戻る。
「じゃあ、何がほしい?」
デンバーのしなやかな腕が、メアリの肩に回される。
耳元へ寄せた唇が吐息混じりにささやいてきて、嫌悪感にメアリの肌が粟立った。
「なにも、いらない。邪魔だから、出ていって」
デンバーの顔を押し除けながら、メアリは一語一語強調するように言った。
「邪魔ってなんだよ。僕はおまえのためにやっているんだぞ」
何を言っているのか。
呆れながらメアリは、デンバーを胡乱な目つきで見た。
「私のため? 違うでしょう、デンバー。あなたは自分のためにやっているのよ。交霊会をしてもいいって、私から言質を取るために」
「……」
「何度も言っているけれど、無理よ。この店には秘密が多すぎる。何かあってからでは、遅いの」
「保管庫の鍵は、おまえと公爵夫人しか持っていないじゃないか」
「それでも。絶対に開けられないわけじゃないわ」
「この国一番の技術者につくらせたやつだって、公爵夫人が自慢していたぞ」
「……何度も言わせないで、デンバー。駄目なものは駄目よ。子どもではないのだから、聞き分けなさい」
言うだけ言って、メアリはデンバーを無視することにした。耳当てまでして。
だから彼女は気づかなかったのだ。
「馬鹿メアリ。子どもじゃないから、僕がなんとかしてやろうって言っているんじゃないか。少しでも、足しになればって思って……」
デンバーが憎々しくつぶやいた言葉は、メアリには届かなかった。
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