【31】 奇婦人メアリとバルガーな男
初めての道を、メアリは迷いなく歩いていた。
気分は冒険家、この先には何があるのだろうと好奇心がうずく。
冒険家らしく陽気な歌を歌いながら行進のまね事をしてみたり、時折漂ってくる飲食店のおいしい匂いに立ち止まってみたり。
たまにはこういうのも楽しいわね、とメアリは笑みを浮かべた。
「すっかり楽しんでしまったけれど、時間はまだ大丈夫かしら?」
不意に立ち止まって、ポケットから懐中時計を取り出す。
時間を確認すると、そろそろ急いだ方が良さそうだった。
「あらあら。楽しみすぎてしまったようね」
苦笑いを浮かべながら、懐中時計をしまう。
再び歩き出そうとしたその時、背後から人の気配が近づいてきた。
(こんな時間に、こんな場所に人が来るなんて。私以外の物好きもいたものね)
一体、どんな人物なのか。
好奇心から振り向こうとした瞬間、強い力で肩を引っ張られる。
「きゃあ……!」
メアリは反射的に腕を引いた。
遠心力に引きずられるように、体がグルンと回る。
濡れた道で転べばどうなるか。
せっかくのおめかしが台無しになるかも、とメアリは必死で踏ん張った。
努力の甲斐あって、なんとか危機を脱する。
ホッと息を吐きながら前を見ると、背の高い男が立っていた。
傘が邪魔をして、顔までは見えない。
しかし、男は雨が降っているというのに傘も差していなくて、メアリは訝しげに眉をひそめた。
「奇婦人メアリって、おまえのことだろう?」
クツクツと笑いながら、男は言った。
聞き覚えのない声だが、男の方はメアリを知っているようである。
確認しようとわずかに傘を上げてみると、下卑た笑みが見えた。
「コンラートに捨てられた、奇婦人メアリ」
知っている名前に、ピクンとメアリの肩が揺れる。
(しまった……)
これでは、自白しているようなものだ。
男の笑みはますます深くなり、もはや言い逃れはできなさそうだった。
心の中で「ああ、もう」とつぶやき、メアリは観念したように大きなため息をひとつ吐く。
「そうですが。あなた、ヴェルマー様とお知り合いなのですか?」
「まぁな」
少なくとも、メアリの記憶に目の前の男のことは残っていない。
彼女が知る限り、コンラートの知り合いにこんな下品な男はいなかったはずである。
(私に会わせなかっただけか、それとも私と婚約破棄したあとからの関係か……)
普段は忘れっぽいメアリだが、コンラートと婚約していた時はかなり気を張っていた。
コンラートは、些細なことをチクリチクリと嫌みったらしく指摘してくる男で、さらに二度間違えると「おまえは馬鹿か」と罵倒された。
馬鹿扱いは、メアリにとって非常に不名誉なことである。
だから、忘れるなんてことはないはずだった。
「それで……私に、何かご用でしょうか?」
「用っていうか……」
まさか、用事もないのにわざわざ話しかけてきたのだろうか。
(コンラート様に婚約破棄されてから、だいぶたっていますけれど⁈)
随分な暇人もいたものだ。
舞踏会から逃げるための言い訳にすら使えなくなってきたというのに、今更すぎる。
メアリは呆れ返って、棒のように突っ立ったまま、傘の柄を見つめた。
(ああ……なぜ今持っているのが日傘ではないのでしょうか……今、日傘がここにあったなら……目の前のおかしな男に向けて実力行使に出られましたのに)
「悔やまれますわ」
「婚約者に捨てられたかわいそうな女に、救いの手を差し伸べてやろうと思ってな」
つぶやくのと同時に男が喋ったので、メアリは聞き取れなかった。
聞き返そうと見上げると、おもむろに男の手が伸びてくる。
逃げる間もなく、メアリは顎を掴まれた。
そのままグイッと上に向けられて、メアリは嫌でも男の顔を見ることになる。
見たところで、やはり男は知らない人だった。
茶色の髪に茶色の目。これといった特徴のない、凡庸な男。
身なりからして、ほどほどに裕福ではあるようだ。
可もなく不可もなく……と言いたいところだが、美貌の聖人様を見続けて目が肥えたのか、生理的な嫌悪感が湧いてくる。
「へぇ……よく見たらおまえ、なかなかかわいい顔をしているじゃないか。頭のおかしな変人だって聞いていたけど、おとなしくしている分には結構見ていられるな。コンラートにしつけられたのか? あいつ好みっていうのは癪だが、悪くない」
つぶやきながら、男はジロジロとメアリの顔を覗き込んできた。
品定めするような視線は、初めて会った時のコンラートと同じで、非常に不愉快だ。
メアリは負けじとにらみ返す。
同時に身を引こうと頑張ってみたのだが、男は許してくれなかった。
それどころか、掴んだ指に力を入れて、ますます顔を近づけてくる。
「コンラートから聞いているぞ? おまえ、なんでも言うことを聞くんだってなぁ……」
何をするつもりですか、なんて聞いてはいけない。
聞いたところで、メアリに不利に働くだけだからだ。
ジロジロと舐め回すような視線は、ひどく感じが悪いものだった。
今すぐにでも、この場から逃げ出したくてたまらない。
(でも、どうやって?)
少なくともメアリの顔は気に入っているようなので、安易に顔を殴ったりすることはなさそうだ。
となると、今、メアリにできることと言えば、目の前の男に従順な態度を取ることくらいだろうか。
(隙を見て脱出……できたら良いのですが)
返す返すも残念である。いつもだったら、仕込み日傘も髪飾り代わりのねじ回しもあったのに。
(おしゃれなんて、するんじゃなかった)
らしくないことをするから、こんな目に遭うのだ。
恐怖と怒りと悲しみと。あらゆる感情がごちゃ混ぜになって、メアリの頭の中を引っ掻き回す。
全身がカーッとなって、目に涙が浮かんだ。
涙が出るのはきっと、まばたきを忘れて男をにらんでいたせいに違いない。
「アールグレーン様……」
彼の名前をつぶやいてしまったのは、約束を守れないかもしれないという申し訳なさから。
決して。決して、他意なんてないのだ。
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