【16】 嫉妬する聖人様
ユリウスは、メアリが楽しそうにしている姿が好きだ。
彼女はいつも、明るい未来しか知らない赤ん坊のように澄んだ目をして、弾むように語る。
欲にまみれた視線に晒されてきたユリウスにとって、それは一服の清涼剤のようだった。
淀んだ気持ちを押し流してくれる、さわやかな風のよう。
しかし、その対象が自分ではなく他の男となると話は別らしい。
男性と腕を組んで楽しげに歩くメアリを見た時、ユリウスは世界中の時が止まったような錯覚を抱いた。
動いているのはメアリと隣の男だけ。見ているユリウス自身でさえ、時が止まったように足が動かない。
やがて、メアリと男はカフェに入っていった。
何かあったのか、入り口近くで顔を見合わせる二人。息ぴったりの様子に、頭の中が冷水を浴びせられたようにつめたくなる。
「……っ」
胸から喉元に突き上げてくる冷たくて熱いかたまりが、飲み込んでも飲み込んでも突き出ようとしてきた。
めまいがするほど激しい感情が、胸を、心を圧迫する。
こんなにも強い感情を抱いたのは、初めてのことだ。
ごく自然のことのようにメアリを取られたという気持ちが湧き上がってきて、ユリウスは苛立ちと戸惑いを覚えた。
メアリは物じゃない。
取られると考えること自体が失礼なことだとわかっているのに、焦る気持ちを抑えることができなかった。
メアリを取られたくない。
なんだってするから、よそ見をしないで自分だけを見ていてほしい。
この感情はなんだろうと、疑問が浮かぶ。
だが、考えるよりも先にユリウスの身体は本能的に動いた。
持っていた剪定鋏を放り出し、ユリウスは駆け出す。
頭の中は、メアリの腕を一刻も早く男から引き剥がすことでいっぱいだった。
墓地を訪れていた老婆が、あいさつもせずに駆け抜けていく彼を見て目をギョッと見開く。
「あら、いやだ。墓泥棒でも出たのかしら。英霊たちの眠りを妨げるなんて、罰当たりなことをする人がいたものだね。きっと呪われてしまうに違いないわ」
老婆と話し込んでいた神父は、寝ているような細い目で彼を見て、
「いやいや、青春というやつでしょう」
と、やはり眠そうにぼんやり答えた。
ユリウスは通りを横切り、カフェへ駆け込む。
ズカズカとらしくもなく荒い足音を立てながら、店内にいるであろうメアリを探した。
ユリウスの登場に、店の中は騒然とした。
着飾った女性たちは、まるで女の子が好きそうなお人形のようだ。キャアキャアと叫ぶ声はさながら、おもちゃ箱をひっくり返したようなやかましさである。
「メアリ！」
店の奥へ向かおうとしている彼女をとうとう見つけ、ユリウスは彼女の腕を取って引き寄せた。
隣にいた男が驚いた顔をしているが、そんなことはどうでもいい。
とにかく今は、一刻も早くメアリを独占したくてたまらなかった。
自分以外のものを目に映さないように、しっかりと目を見る。
「……アールグレーン様？」
明るい茶の目にはきっと困惑の色がにじんでいるだろう。
だが、その目に映る自分の姿を見れば、きっとこの苦しみから解放されるはずだとユリウスは思った。
あと少しで墓地から通りへ出る──と、その時である。
「落ち着けぇぇぇい！」
地を震わせるような威勢の良い掛け声とともに、ブォォン！ と風を切りながら、見事な大剣がユリウスを襲う。
墓地に大剣。
わけがわからないながらも、ユリウスはさっと後へ飛び退った。
反射的にそれができたのは、ライルから教え込まれた護身術のおかげである。
感覚的に前髪くらいは切られていそうなものだったが、運よく躱せたらしい。
痛みがないことにホッと安堵しつつ、ユリウスは警戒しながら立ち上がった。
突然の攻撃に驚いたせいか、制御できない衝動はなりを潜め、ユリウスは落ち着きを取り戻した。
服の裾についた草を払いながら、周囲に誰もいないことを確かめたあと、小さな声で「ありがとうございます」とささやく。
「やっと我に返ったか。このやんちゃ坊主め」
「そうですよ。早合点すると良いことはありませんからね」
見上げると、大剣を担いだライルと、しれっとした顔をしたブレゲが中空に浮いていた。
さきほどの攻撃は、躱せたのではなく通過していったようだ。
ライルとともに埋葬された大剣は、主人と同じくすでに実体はない。
修行が足りないと注意するライルに、ユリウスは「精進します」と肩を落として答えた。
「暴走しているようだったから、見るに見かねて止めさせてもらったぞ」
太い腕を組んで厚い胸を張るライルは、厳しそうな声に反して顔がニヤけそうになっている。いや、ニヤけた。我慢できずに。
「暴走？ ああ、いや、……その通りですね」
「だろう？ 危うく、嫉妬に狂った無様な姿を晒すところだった。感謝してくれ」
取り繕った顔で、深く頷きながら偉そうに言うライルに、ユリウスは苦笑いを浮かべる。
「申し訳ございません。ありがとうございます、ライル」
本当に、良かった。
あのまま突っ走っていたら、どうなっていたことか。
心の準備もないまま、衝動のままに気持ちを吐露して、彼女を困らせたに違いない。
そうでなくとも、休みの日にわざわざ会うような男との時間を邪魔されて心象は最悪だというのに、さらに上塗りしているのである。
その上、場所はユリウスの味方だらけの、メアリにとっては敵地なカフェ。
ユリウスに好意を抱く女性たちがメアリに何をしでかすのか……大聖堂追放の理由を思い出して、ユリウスはブルリと震えた。
そうなれば、もう二度と、彼女は会ってくれないだろう。
たとえ蓄音機を理由に行ったとしても、使い方と保管方法を教えられて、これ以上踏み込んでくるなと言わんばかりに胡散臭い笑顔で「金輪際来ないでくださいね」と言われてしまうかもしれない。
そうならなくて良かった。
本当に、良かった。
しみじみとそう思い、ユリウスが安堵の息を吐いた時、ブレゲがスイっと寄ってくる。
「素直に謝れるのはあなたの美点ですね、ユリウス。そんなあなたに、良いことを教えてあげましょう」
「良いこと、ですか？」
「ええ。おそらくあなたが男だと思っているであろうアレは……」
ブレゲの細い指が、カフェを指差す。
もうそこにメアリと男はいないが、おそらくブレゲは男の方を指差しているに違いない。
ブレゲの真意を見抜こうとしているのか、ユリウスの眉間に皺が寄る。
お綺麗な顔が険しくなる様を見て、ブレゲはおかしそうに唇を震わせた。
「ワタシの姪なのですよ。正確にはワタシの姉の孫なのですがね。あの格好……長袍は男性服だと思われがちですけれど、実際は女性も着るものでして。よく男と勘違いされていますが、本人も後を継ぐつもりでいるから誤解を解くつもりもないらしく……まぁ、そんなわけで、アレは女です。メアリは親友だと言っていましたので、安心なさい」
「親友」
「ええ、親友です。ちなみにワタシは彼女の師匠らしいので？ 敬ってくださって結構ですよ」
「はぁ」
なんてことはない、馬鹿馬鹿しい勘違いに力が抜ける。
ブレゲの目元に光る眼鏡を見て、自身もそれが必要なのかもしれないなんて思ったのは、きっと現実逃避だ。
なんという、恥ずかしい現実か。
とんでもない勘違いで、ユリウスは気付かされてしまった。
「なんだ……そう、だったのか……」
メアリのそばがあんなにも心地よいのは、邪魔が入らないからではない。
「俺はメアリさんが……好きなのだな」
確かめるように、ユリウスがぽつりとつぶやく。
『ユリウスとメアリの仲を進展し隊』を結成するライルとブレゲがもちろん聞き逃すはずはなく、生暖かい視線をユリウスへ向けながら、二人は互いを祝福するように拳を突き合わせていた。
読んでくださり、ありがとうございます。
★やブックマークなどをいただけると、励みになります。応援していただけたら、嬉しいです！
