【15】 聖人ユリウスの憂鬱な平日
「は?」
その瞬間、ジョギン! と鋭い音がして、薔薇が落ちる。
大切な薔薇を意図せず切り落としてしまったというのに、ユリウスの目は一点を見つめたまま動かない。
彼の視線の先には、一人の女性がいた。
深い緑色のドレスを身にまとう彼女は、どう見ても貴婦人。
その姿を見るのは二度目だなと思いつつ、視線はその隣へと向かう。
貴婦人の隣には、異国の民族衣装を着た人が立っている。
東の国のその服は、確か男性が着るタイプのものだったはずだ。
ということは、隣の人は男なのだろう。
男は、長い三つ編みを肩に垂らし、片腕を貴婦人──メアリに貸している。
背はユリウスほど高くないが、だからこそ背の低いメアリにはちょうど良い高さで……。
「誰だ、あいつ……」
出したこともないような低い声が漏れ出る。
ユリウスの発した獣の唸り声のような声に怯えたかのように、風に吹かれた薔薇の葉が震えた。
メアリから「明日はお休みなので、あさってお会いしましょう」と言われたのは昨日のことである。
恥ずかしながら、言われてはじめて、思い出あずかり屋に休みの日があることを知った。
それは、メアリに対して気を遣っていなかったせいというのもあるが、ユリウス自身に休日がないために思い至らなかったのである。
基本的に、教会に休みはない。
教会へ入ることが不可能な日があってはならないからだ。
その代わり、ユリウスには息抜きをする時間を与えられている。
午前中のお茶の時間帯は、そのための時間なのだ。
休日の代わりに与えられたこの時間を、思い出あずかり屋でメアリと過ごすためだけに使うことに、ユリウスはなんの疑問も抱いていない。
ずっと居てくれたらいいのに、と思っていた人と過ごしているのだ。むしろ当然の流れと言えるだろう。
メアリがいれば、煩わしい視線も声もない。
思い出あずかり屋の中は、まるで結界の中のような安心感がある。
ゆったりとした空気が流れる中、コーヒーを片手に機械談義。
メアリは素人であるユリウスにもわかるように、丁寧に教えてくれる。
馬鹿馬鹿しい初歩的な質問にも嫌な顔ひとつせず、わかるまで熱心に答えてくれた。
遠目で見ることしか叶わなかった機械を間近で見せてもらえる上、つくった本人からの解説付き。
これが贅沢と言わずして、何を贅沢というのか。
少々早口ではあったが、メアリの話は興味深いものばかりだ。
なにより、目をきらめかせて生き生きと解説してくれる彼女は、普段の大人びた微笑を浮かべる彼女とも違って見えて、なぜだかずっと見ていたくなる。
今日はどんな機械を披露してくれるのだろう。
どんな顔で解説してくれるのだろう。
朝起きたその瞬間から、彼女との時間が楽しみでならない。
店へ行く途中、彼女のことを考えながら菓子を選ぶ時間も、ユリウスにとっては楽しいひとときである。
しかしそれはあくまでユリウス主観の話であって、もしかしたらメアリは迷惑に思っていたのかもしれない。
厄介な客が居座って困っていると、そう思っていたのかもしれない。
早口なのは興奮しているからではなく、さっさと帰ってほしかったからなのでは。
そんな考えが頭を過ぎり、ユリウスは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
きっとメアリは、ユリウスのせいで休めなかったに違いない。
「すまない」
頭を下げて謝罪するユリウスに、メアリは「アールグレーン様のせいではありませんよ」と苦笑した。
「実は……アールグレーン様に見せたいものがたくさんありすぎて、つい休むのを忘れてしまったのです」
そう言ってメアリは、どこかをくすぐられたような、はにかんだ笑みを浮かべた。
目が合うと、ごまかすように苦笑いを浮かべるのがかわいらしい。
つられるようにユリウスも恥ずかしくなって、つい機械を見るふりをしながら視線をそらしてしまったが、内心は嬉しくてたまらなかった。
その代わり、今日はかつてないほど憂鬱な朝だった。
メアリと会えない。ただそれだけで、ユリウスの一日は暗澹たるものになるらしい。
さすが、魔除けの蹄鉄。
その効果は絶大である。
気持ちがふさいでいる時は、仕事までうまくいかないようだ。
いつもならばとっくに出かけている時間になっても作業は終わらず、ユリウスは黙々と続けるしかなかった。
薔薇を剪定しながら脳裏を過ぎるのは、やっぱりメアリのことだ。
霧に映像を映すミストプロジェクターなるものの話を聞いたのだが、それの利用方法について相談を受けていた。
ゆらゆらと実態のない霧は、ユリウスがよく知るゴーストたちと似通っている。
「ミストプロジェクターで人の姿を映し出したら……ゴーストのように見えて面白いかもしれないな」
ゴーストをよく知るユリウスなら、映像を撮るのにも協力できるだろう。
メアリはゴーストを見たくて仕方がないのに、ユリウスのように見ることは叶わない。
だから、疑似体験だけでもさせてあげたいと思った。
「幽霊演芸なんてどうだろう」
近ごろ王都では交霊会が流行っているというし、なかなか悪くない案のような気がしてくる。
とりあえず第一案はこれにしようと決めたところで、ハサミを持ち直すためにユリウスは顔を上げた。
まさにその瞬間、彼は見てしまったのである。
メアリが、男性と腕を組んで歩いていくところを。
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