小さな夢
銘尾友朗様主催『冬の煌めき企画』参加作品です。
彼に振られた。会社を辞めた。SNSアカウントを削除した。
あっという間に、三つの居場所を失った。急に自分の輪郭が無くなって、雑踏の中に溶けて消えてしまいそうな気がする。
ハローワークの帰り。信号は赤。降り出した雨に、傘をさす気力もない。救急車がサイレンを響かせて、目の前を通り過ぎて行く。その音に、遠い昔の記憶がよみがえる。
小さい頃は身体が弱く、夜中に喘息の発作を起こしては救急車で運ばれ、目を覚ますといつも病院のベッドの上にいた。
(眠っている間に、どこか知らない場所に連れて行かれるかもしれない。もう二度と目が覚めないかもしれない)
まだ幼くて、死とは何かを理解していなかった。でも何となく、自分は大人になれないような気がしていた。高熱でお風呂に入れない日が多く、清潔に保つために髪はずっと短いままだった。
だから、子供の私には、こんな小さな夢があった。
「お姉ちゃんになって、髪を伸ばして、ポニーテールにしたい」
大きくなるにつれ、喘息の症状は治っていった。クラスメイトと一緒に合唱に参加したり、マラソン大会に出場したりできるようになった。
「ひゅー、ひゅー」と濁った音を立てていた喉から、まっすぐ声が出るようになった。音楽の授業が楽しくて、歌うことが大好きになった。
就職してすぐ、念願のボーカルレッスンに通い、弾き語りの練習を始めた。優しい恋人にも恵まれ、毎日が新鮮だった。
ある程度のライブ経験を積んだ後、生演奏ができるレストランやバーを渡り歩くようになった。早く一人前になりたい。その一心だった。
仕事を終えるとライブ会場に直行し、終電で帰宅する毎日。生活は荒れ、彼が私のもとを去って行き、学生時代の友人とも疎遠になった。
散らかった部屋を眺め、ふと思った。
(こんなに頑張ってるのに、どうして自分は──)
その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、何にも手がつかなくなった。
あれから三ヶ月。
陰鬱な気分のまま駅に着いた。平日の昼間だというのに、慌てて電車の座席を確保する自分に苦笑する。
音楽を聴こうにも、プレイリストのどの曲も気分に合わなかった。
何となくラジオを聴き始める。往年のアイドル歌手が、軽快なMCで当時の裏話をしていた。
「下積み時代、先輩アイドルのライブに行って、すごく腹が立ったの。私だってあの子と同じように頑張ってるのに、どうしてこんなに立ってる場所が違うのかって。何ひとつ、夢なんて叶っていないんじゃないかって」
私と同じ気持ちだった。
「でも本当はね、沢山の小さな夢が叶ったから、その場所にいたんだよね。進んできた道は間違っちゃいない。焦らず小さな夢を叶え続ければ大丈夫だよって、あの日の自分に言ってあげたい」
懐かしい曲がフェードインしてくる。明るいガールズロックが、私の背中を押してくれた。
(また、歌いたい)
イベント情報を検索すると、近くのライブ喫茶がヒットした。
「本日オープンマイク。集客ノルマなし。気軽に楽しく、弾き語りしませんか?」
家に着くと、トレードマークだったポニーテールを結い、大急ぎで支度を始めた。
駅前の小さなライブ喫茶は満員御礼。控え室はない。勇気を出して、輪の中に飛び込んでいく。
「すみませーん。お隣、失礼します」
居合わせた出演者どうし、飲み物片手に親交を深め、順番が回ってくると、客席からそのままステージに上がる。
キッチンで手一杯のマスターに代わり、常連さんが慣れた手つきでセッティングを手伝ってくれた。
「改めまして、こんばんは。今日は久しぶりのステージです。ちょっと危なっかしいかもしれませんが、一生懸命歌わせて頂きます。それでは、聴いて下さい──」
小さな夢が叶った。これが私の再出発の曲。
大きな機材も派手な照明もないけれど、今迄で一番幸せなステージだった。
これから先、小さな夢を叶え続けて──いつかきっと、大きな夢を掴むんだ。
ライブハウス等、人が集まる場所ではコロナウイルス感染防止への配慮が特に必要です。お世話になったライブ喫茶の思い出と、こうしたイベントを安心して開催できる日が来るようにとの願いを込め、当時の盛況をそのまま書かせて頂きました。何卒ご了承下さい。
Where there is a will, there is a way.