連載第一回
序
ここは大坂船場。伏見町の北側という割と良えところにある、漬物屋「山紀屋」でございます。先々代が店を興し、先代も一生懸命働いて、今では立派な大店になっております。今日も店の者が忙しう働いとおります。その一番奥に引っ込められてしもてる男。これが当代の店の主、長太郎でございます。
「番頭はん、いつもお世話になってますお昆布屋の不二屋さんからお使いの方がお見えでございますが。旦那さんにご挨拶をとおっしゃって」
丁稚が番頭に伝えますと番頭、丁稚に向かって渋面作って人差し指を口に当てます。
「大きな声で言いな。うちの旦那さんと言うたら……あれやがな。店の者も取引先もみんなあれが役に立たんちゅうことはわかったあるのやがな。不二屋さんかてほんまに旦那さんに会いにお越しやない。いつものように、傳次郎さんに出てもらえ」
丁稚もしくじったという顔で傳次郎に伝えますと、傳次郎も全て納得づくで頷きます。
「ん、不二屋さんか。いま行くさかいそうお伝えしなはれ」
傳次郎、手早く身なりを整えますと店に出ます。
「いやあ不二屋さん、いつもお世話になっとおります。何をおっしゃる、不二屋さんから良えお昆布や昆布塩をいただけなんだらうちの店日干しになってしまいますのんで。申し訳ない、兄の長太郎ちょっと外しておりましてな。代わって私が承りますが……」
このやりとり、奥へ全て筒抜けでございます。少ぉし前に先代の親旦那が死んでいきなり店の頭首になった長太郎、好むと好まざるとに関わらず跡取りという立場が転こんで来るのはもう前々からわかっておったことではございますが、やっぱり人には向き不向きということがございます。その点この長太郎という男は良うわかっておりまして、自分には商売は向いてへんしやる気もないということで何を言われようが気にする素振りもございません。毎日毎日碁盤を前に詰碁の本見ながら碁石並べて低ーい声で歌うように言うております。
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば……」
長太郎の目の前には碁石の白と黒。飴色に使いこまれた碁盤の木目。窓の外には青い空。どこか浮世離れしたもののように見える白い雲。ちゅんちゅんと忙しうに働いているようにも遊んでいるようにも見える雀たち。
(働く……働くなあ……もっと何かおもろいこと、他に無いのんかいなあ)
しばらく窓の外をぼーっと眺めながら考えたあと、また長太郎は白石と黒石の織りなす世界に没入していきます。
「左右対称中央に目ありとか……ここの手やろかな」
まるでこの長太郎の周りだけが時の流れに取り残されているようでございますが、やはり雀は飛び回りますし雲は流れていく、時分が来たら日が沈んで翌朝また日は昇ります。そしてこうやって詰碁やってるだけの長太郎でもやっぱり時間が来たら何ぞ食べんなりまへん。
(ほんまに誰の目からも逃れられる幽霊みたいなもんになれたら儂の気がなんぼ楽になるやわからんな)
ふとそんなことを考えてみる長太郎でございますが叶わんもんは叶わん。今は店の奥で誰にも見られず詰碁解いているのが望む幽霊に一番近うございます。
(次のこれはハサミの手やろ……)
一章 能面の女子衆、来たる
古いお話でございます。人間がまだ頭にちょんまげというものを載せていた、そんな時分のことでございます。ちょっとおかしな男の話を語らせていただきます。
ここにございます漬物屋の山紀屋、今日は先代の四十九日、忌明けでございます。先代があの世へ旅立ちましてから、店を切り盛りしていたのは先代のふたりの息子のうち弟のほう、傳次郎でございますが、名前だけなと当主は兄の長太郎でございます。そやさかい、やはりお葬式も喪主は長太郎でございましたし、この忌明けも長太郎が仕切った、ことになっとおります。
初代は頑張って店を保たせる。初代の頑張りを見て育った二代目は受け継いだものを残し、でけることなら少々でも商売を大きしたいと一生懸命に働く。生まれたときから金持ちでお金の有り難みというのがわかってない三代目がどうしようもないというのがこの時分の商売人のお決まりやったんやそうで、大体店のお金を使うて放蕩三昧。
ところがこの山紀屋の三代目というのがどうしようもないことは間違いないんですが他所とはちょっと変わっておりまして、小男の痩せた体で、無愛想。何やら本ばかり読んでおります。お客さんがお越しになってもいらっしゃいのひとこともないこともあります。とてもやないがこんなんが店に出てたら商売が流行るわけがない。それでも、名前だけは当主というのがこの時代の決まりでございますな。坊さんにお経を上げてもろうて、法話も聞いて無事ことが済みます。そこで長太郎、店の者に話を始めます。
「えぇ、皆のお陰で、こうして先代の忌明けもきちんと済ますことができました。礼を言います。ところで、皆にひとつ言いたいことがある」
何やな、と店の者皆が思たんです。皆の前で言わんならんようなことがあるような人ではございませんので皆が訝しむ。そして続いた長太郎の一言に皆びっくりいたします。
「先代の忌明けも無事済んだところで、儂は今日限り隠居さしてもらいます」
はあ、てなもんでございます。何せこの三代目、歳はまだ二十三でございます。他所様やったらまだ若旦那てなことを言われていてもおかしない。弟の傳次郎が慌てて引き止めにかかります。
「隠居て兄さん、あんたまだ二十三でっしゃないか。これからこの店支えていかんならんのに、何を言うてはりますねん」
「店を支えるて言うたかてな、これまでもお父っつぁんが患うている間、儂ゃ何にもすることがなかったやないか。店を支えてきたのは、傳次郎、おまえじゃ。違うかえ」
実際そやったんですな。大体兄弟というのは、ものすご似ているか正反対か、どちらかですな。この兄弟は正反対の方で。弟の傳次郎は体も立派、そこそこ男前でそこへ持ってきて愛想が良えと、こう来とおります。根っからの商売人ですな。
「店の皆かてそうじゃ。商売してて何や困ったことがでけたなあと思たら、儂に聞いても埒が明かんことは皆分かったある。皆傳次郎にどないしまひょかと聞くのんじゃ。先代が寝込んでからこっち、そうやってうちの身代は保ってきたんじゃ。ええ機会じゃ。こんなに皆が寄って話しよてなこともそうそうあろまい。これから店をどうしようという話、きちんとしとくのもお父っつぁんのええ供養にもなるやろ。さあ、店の者皆にも聞きたい。儂の言うこと、間違うてますかえ」
そやおまへん、旦さんはこの店に居ってもらわんと困るお方や、この店の大黒柱心柱や……てなこと言う奉公人ひとりも居りませんな。長太郎が居らいでも傳次郎さえ居れば店はうまくいくことは皆分かったある。誰も何にも言わんとしーんとしております。
「ほれ見てみ、儂ゃどうでもこの店に居らんならん人間やないのんじゃ。お客さんにも奉公人にも儂は要らんと思われてる。傳次郎、お前かて胸の内ではそう思てるやろ。そういうことやったら、名前だけの当主とほんまに店を動かす主と、別々に居るというようなややこしいことよりは、傳次郎、お前に任せておいたほうがよほどすっきりする」
「そやかて兄さん、あんたまだ若いんでっせ。何年隠居しはるつもりでんねん」
「そんなもんわからん。人間誰しも明日をも知れぬ身やないか。明日死ぬか十日後死ぬか十年になるや五十年になるやそらわからん。神さんの御心ひとつじゃ。ただ、分かったあるのは、その間無理して店の当主なんかやっとったら、店にとっても儂にとっても良えことは何もないということじゃ。儂の言うこと、違うてるかえ」
傳次郎ももう言うこと無うなって黙ってしもた。
「知ってのとおり、儂ゃお茶屋遊び金のかかる芸事習い事、一切せん男や。一日三度のご飯とあとはせいぜい本代くらいあれば生きていけるのんじゃ。なんぼかんぼというて高い小遣い銭ねだるようなことはまあないわい。いるときはこんだけいるとはっきり言うさかいその分だけくれたら良え。滅多なことで十両の二十両のてなことは言やせんわい。どや、これで儂がどうでも当主続けんならん訳が、何かあるかえ」
もうこうなったら誰も何にも言いませんな。
「皆分かってくれたようじゃな。奥の離、あれを隠居小屋にするさかい、荷物やみな運んで欲しい。今日は出入りの熊五郎は来る日やったな。あれをちょっと今日一日借りたい。熊五郎が来るまでに掃除しときたいのんで女子衆で手の空いてる者、手伝うてんか。そういうわけで、皆頼んだで」
ぽかーんとしてる皆を尻目に見ながらさっさと己の用事にかかる長太郎でございます。
そんなこんなでひと月あまり。母屋の奥から、さらに奥へ長太郎が引っ込んだだけで、実際何の障りもございません。
「やっぱりご隠居はんはこの店には要らなんだんやなあ」
てなことを店の奉公人もささやき合うております。
そんなある日。
「ご隠居様、お部屋を整えに参りました」
そう言うて隠居小屋へ母屋からやって参りましたのが、年の頃なら十七、八。長太郎にとっても初めて見る女子衆でございましたが、およそ惚れた腫れたに心の動かん長太郎もちょっとどきっといたしましたな。まあ滅多にお目にはかかれんような別嬪でございます。目元涼やかにして鼻筋はあくまで真直に、口元は穏やかにして瓜実顔っちゅうやつでございます。髪は烏の濡れ羽色、どこをとっても非の打ちようのない別嬪でございます。長太郎、この女子衆が紅白粉というものを一切しとらんことに気が付きましたが、そんなもん無うても良え、いやむしろあったら邪魔やてな顔。肌きめ細やかにして頬はほんのり桜色。色はくっきりと白く透き通るようでございます。この別嬪が継の当たった店のお仕着せを着まして長太郎の隠居小屋へやって来た。
見てる間に部屋の掃除に布団干し。部屋を整えるといいますと洗い物を手早くまとめまして、母屋へ帰っていきます。ただその間、ほとんど口を開くことはございませんでした。
その女子衆が母屋へ帰っていくらもせんうちに、傳次郎が珍しく隠居小屋へやってまいります。
「もし、兄さん。いまちょっとよろしか」
「ああ、儂ゃ大概暇じゃが。お前がここまで来るというのも珍しいやないか」
「そうでんねん。実は店のほうで困ったことがでけたんで」
「この店に困ったことなあ。大体うちはおかげさんで平穏無事に過ごしているもんやと思とったが。困り事というのは何やねん」
「さいぜん、この離の掃除やら何やらしに女子衆が来ましたやろ」
「ああ、来たなあ。初めて見る顔やったがあら新しく来てもうたんかえ」
「そうでんねん。半月ほど前になりますが、口入屋へ頼んで来てもうたような具合で」
「ほたらあの女子衆が来たと。妙じゃな、だいたいうちのやり方では、あまり別嬪の女子衆を言うたら奉公人連中内心穏やかでないで、まあ言うたら悪いが不細工な女子衆をいつもお願いしているんやなかったかいな」
「そういうことにしてるんですけどな、あの子が来てしもて」
「はあ、わかった。定に口入屋へ行かしたやろ、あの定吉に。面倒なようでも丁稚に行かしたらあかんやないか。手間取るようでも手代に行かせちゅうてな。言うとるやろがな。大方番頭か誰かに小遣い銭掴まされて『別嬪の女子衆お頼申しま』てなこと言うたに違いない」
「さあさ、それわたいも思いましてな。後で口入屋さんに聞きに行たところ、定はいつものとおりあの店の人の顔見るなり大きな声で『なるたけ不細工な、山から這い出してな、人三化七の女子衆お頼申しま』とこう言うたらしいんで」
「それが何でああなる」
「そこだんねん。定がそう言いよりましたらな、あの子が『それなら私行かせてもらいます』と手ぇ上げたらしいんで。そういう子がひとり居ったら『いやその子よりあたいの方が不細工や、うちが行きます』てなこと、言う子は居りまへんわな」
「……変わった子じゃな」
「変わった子でんねん。まあ何はともあれ、せっかく来てもうたんやったら働いてもらおうということでうちへ入れましたんやけどな。これがまことに良うでけた子で」
「ん、さいぜんもな、儂の部屋整えるのもそらもう手際良うてきぱきとしてな。仕事に無駄も斑もない。見てて気持ちの良えくらいじゃったで」
「実際良うでけた子でんねん。掃除さしたらまことに手際良う隅々までぴかぴかにしますしな。洗濯も嫌がらんと黙々とやってさらのように洗い上げますし、針仕事や何かも器用にやりますし飯炊きやらしても花生けさしてもきちんとやりますし字ぃも立派に書いて丁稚の手習いなんかも任せられますし帳面付けまでやりますしな。それでいて便所掃除なんかさしても不服たらしいことのひとつも言わんどころかちらっと顔に出すこともなく見事にこなすんで。何も言わなんだら言われん先から仕事を探して回ってやってくれます」
「そら店の方ではえらい助かってるじゃろ」
「それがそうもいかんので」
「何でいな。別嬪で働きもんが来たちゅうたら、店の方でも活気が出るじゃろ」
「ところがなあ、そうやないんで兄さん」
「なんぞあの子に悪い癖でもあるのんかいな」
「聞きますけど、兄さん、ここであの子、お芳て言いまんのやけど、あのお芳が働いている間、ずっと見てなはったか」
「まあ、他にすることもないでな。ずっと見てたような具合じゃ」
「その間、いっぺんでもあのお芳笑いましたか」
「……そう言うといっぺんも顔を崩さんかったように思うが」
「そこだんねん。あのお芳、ここへ来てからいっぺんも笑ろたことがないんで。最初は別嬪の女子衆が来た言うて丁稚連中まで浮き立ったような具合でんねけど、一切笑わんあの子見てだんだんみんな怖おうなってしもたようなこって」
「まあ、そういうことなら、そうなるやろな」
「愛想笑いのひとつもでけんような子、店の方に出すわけにはいかんし、上の方の仕事さそうにも店の者がみな気味悪がってしまうし、大体上の方の仕事てそないあるもんでもおまへんしな。かと言うて口入屋から店へ来て半月そこそこで足が上がったてなことになりますとあの子の将来も心配やし、正直持て余しとりまんねん。二つ名がついておますわ。『能面のお芳』言うてなあ」
長太郎も思わず苦笑いを思わず浮かべましたな。
「要するに、変わった子が来たで、変人の儂に何とかする手立てを尋ねるためにわざわざあの子をここへ来さして、おまえも無いことにここまで来たと、こういうことやな」
「……面目ない、まあ、早よ言うたらそういう具合で」
「ん、わかった。心当たりがないわけでもない、一種の気病じゃな。何ぞ事を思いつめててその現れじゃろ。今日からあの子を儂の係りということにして、毎朝起きたらここへ来るように言うてくれ。儂の方で預かるさかい」
「良う言うとくんなはった。助かります」
てなわけでこの女子衆は長太郎の言わば専属というようなことになります。
この時分、男の奉公人は店へ完全に入り込みまして、丁稚から手代、番頭と出世して別家、暖簾分けというようなことになるわけでございますが、女の奉公人、女子衆と申しますが、これは口入屋という、まあ今で言いますと人材派遣業とか人材紹介業とかいうことになるような、そういうところにまず行て、そこから節季ごとに仕事に行ったもんやそうでございます。奉公先で気に入って貰らやあ、次の節季もその次もということで長年勤めまして、場合によっては嫁入り道具まで揃えて貰うて嫁ぐというようなことにもなったんやそうでございますが、一方でこのお芳のように困ったことがありますと、一期で辞めんならんというような事にもなったわけです。店の方から「もう来んでも良え」と言われることを「足が上がる」と言うたもんやそうでございますが、せめて半期は勤めんと、途中で足が上がったてなことになったらあと受け入れてくれる店もない。というわけで店から見ても困ったからと言うて簡単に放り出すわけにもいかんことにもなるわけでございます。
この時分の奉公人と今の会社勤めと、何が一番違うと言いますと、奉公先は奉公人の衣食住を全部面倒見るわけでございます。お仕着せと申しまして、木綿の粗末な着物がございまして、それを支給されます。ご飯も奉公先で皆で食べます。そして店の屋根の下、皆で寝起きするわけでございますな。もう家族のようなものであったといいます。
こうして、変人の隠居と変わり者の女子衆と、怪体な者同士の主従関係が出来上がります。
次の日の朝。
「ご隠居様。火鉢に火を入れに参りました」
朝にお芳が隠居小屋を訪れます。この時分、朝一の家事はと申しますと何と言うても火鉢に火を熾すことでございます。お茶を淹れるのはもちろんのこと、飯炊きから風呂焚きからたばこ飲むのまで全部この火鉢が頼りでございます。まあ、このご隠居はたばこは飲みませんがな。そやさかい、真夏でも火鉢に火を熾すところから一日の始まりですな。母屋の方はもう皆動き始めてまっさかいに火は熾っております。だらしのう朝寝坊しておりますのはこのご隠居だけでございます。母屋の方からお芳が火種を持ってまいりまして、隠居小屋の火鉢に火を入れます。
長太郎の方はと言いますと、起きてすることもないさかい、まだ眠っておりますな。
「ああ、お芳か、ご苦労はんご苦労はん。いま何時や」
「五つになります」
「そうかあ……あと半時寝かせとおくれ」
「起きて下さりませ、無用に朝寝をなさいますとお体に毒でございます。お眠いようでしたらご飯を召し上がってからござを敷いてお昼寝をなさったらよろしうございます」
「厳しいなあ……起きんとしょうがないな。あーあ、改めてお早うさん」
「お早うございます。すぐに朝ご飯をお持ち致します。お手水のご用意はこちらにございますのでまずはお顔のお清めを」
「いやいや、朝ご飯持ってくるのも手水も良えが、ちょっと待っとおくれ。おまはんは朝ご飯は済みましたのか」
「私はもういただいております」
「そうかあ……傳次郎から、旦那から、おまはんは儂の係りや、てな話はあったか」
「はい、平生はご隠居様のお身の周りのお世話をするよう仰せつかっております。母屋の方で手が足らないことがあらば呼ぶのでその時は母屋の方へ来るようにと」
「そういう話がでけてんのやったら話がしやすい。おまはん朝早よ起きてお腹も空くじゃろうとは思うがな、そこちょっと我慢して貰ろて、ご飯は大体こっちまで来て儂と一緒に食べてくれるようお願いはでけんかな」
「ご隠居様がそうおっしゃるのならばそのように致しますが、お食事をおひとりでなさることに何か故障でもございましょうか」
「いやいや、大した訳はないのんじゃ。ただなあ、儂もこっち来てから身に沁みたが、ひとりでいただくご飯は味気ないな。大人げないと思うかもしれんが、話し相手のいるご飯が有難いということに気付いてな。悪いけど儂の話し相手になってほしいというようなことじゃ」
「はい、ではご昼食よりそのように致します」
この時分、船場の商家の食事と申しますのは、今から考えますと信じられんくらいお粗末なもんやったそうでございます。大体のところ、朝は温いご飯にお漬物。ご飯だけはなんぼ食べても良かったんやそうでございますが、昼は温いご飯に何かおかずが一品つきます。そして夜ご飯は冷や飯に漬物と。こういうもんやったんやそうです。よっぽど良えとこになりますと、朝ご飯に味噌汁がつきます。この山紀屋がよっぽど良えとこかどうかは何とも言えまへんが、商売が漬物屋でございますのでね。漬物はふんだんにございましたし、この時分、味噌やら醤油やらというのも漬物屋の商品やったんでございます。そんなわけで、朝ご飯に味噌汁はついておりました。
お芳がお盆に乗せて長太郎の朝ご飯を運んでまいりまして。
「ご隠居様、朝ご飯でございます」
「ああ、おおけご苦労はん。ははは、ご飯もお味噌汁も儂が朝寝をしてたもんやさかいもう生温うなったある。はははは。たしかに朝は早よ起きたほうが良えようじゃな」
そんなことを言いながらこのご隠居、朝ご飯を食べております。その間、お芳は黙って給仕をしておりましたが、そうなると長太郎のほうが気を使う。
「いやいや、儂のご飯の給仕にかかりきりになってもらうことはいらんで。しゃべりもってご飯いただくのは昼からで結構じゃ。己で食べるさかい自分の用事にかかってや」
「私の用事は布団干しにお部屋のお掃除と埃の立つ用事ばかりでございます。ご隠居様に埃の舞う中御膳を召し上がっていただくわけにはまいりません。御膳が終わるまでは、お待ち申し上げます」
「埃が立ったかてどうということはないがな。味噌汁に入ったかて汁の実がひとつ増えたてなもんじゃ。用事にかかってもうて良え」
「いけません。ご飯をいただくときはご飯をいただく。別の用の時はその用にかかる。御膳とお掃除とが一緒になるなどということは、だらしのないことでございます」
「……そうか。おまはん、えらいきっちりしてるんやなあ……。よっぽどようでけた親御さんに育てられてるんじゃろ。まあついでと言うて聞くのも悪いが、おまはんのご両親はどんなお方じゃ。まだご健在じゃろな」
「私は早うして両親に死に別れております。殊に父は早うに亡くしまして、あまり思い出もございません。母は私の十二の歳に病に倒れましてそのままあの世へ逝きました。それ以来今日まで、あちらこちらで奉公人として使うていただいて、生きてまいりました」
「えらい悪い事聞いてしもたな。ごめん……そやけど、おまはんの身元を引き受けてくれる親類や何かもなかったんかえ」
「はい、私は身寄り頼りの少ない身でございます」
「かわいそうに。そやけど、親御さんはかなり良え家のお方やったんやないかえ。それだけきっちりしつけが行き届いているところを見ると……」
ここでお芳は目を背けましたな。
「ご隠居様。申し訳ございませんが、私は親の話は好みません。これより深くはお聞きにならないでくださりませ」
(わけありか)
と長太郎も思いましたが、ここでは深入りしませんでした。
「そうか、えらい悪かったな。十二の歳から奉公人かいな。よほど良えとこを渡り歩いてきたんじゃろうな」
「ご大家ばかりではございませんでしたが、行く先々では可愛がっていただきました」
「いやいや、おまはんのそれだけの器量、仕事の真面目さ、なかなか良えところで長年勤め上げることがでけたはずじゃ。またそういうところで勤めあげてこそのおまはんのその品の良さということもあろう。良うこんな漬物臭いところへ来てくれた」
「使うていただける奉公先に貴賎があるわけでもございません。私、お漬物は好きでございます。良えお味噌を使うて毎日おみおつけがいただけることが幸せでございます」
「そうか。そう言うてもらえると、迎えた家の者として嬉しう思うが。そやけどおまはん、今までかなり良えところへ奉公に上がってたんやないかいなと思うがどうや」
「なぜそう思われます」
「言葉がな、根っからの商売人の言葉やないと思うんや。さいぜんの『故障があるか』やら『貴賎がない』やらな。そらちょっと商売人で大きなった人間の使う言葉やないで。ひょっと違うたら堪忍やが、お侍の……」
「違います!」
切り捨てるようにお芳が否定致します。
「お侍様のお屋敷に奉公に上がったことがございまして、その時に身についた癖でございます」
「えらい悪かったな。お侍様への奉公か。大変じゃろな。良う働くことも要るじゃろし、またそこそこの見栄えも要るじゃろ。その別嬪が役立ったんと違うかえ」
「ご隠居様……無理にお褒めあそばさないで下さりませ。私も自分の器量が悪いということは、自分で良うわかっております」
「べんちゃら言うてるのと違うがな。おまはん、かなりの別嬪や」
「私は……自分の顔が嫌いでございます」
「ほう。なんで嫌いや」
「どこもかしこも……良えところなどひとつもございません。ことに笑うた顔が醜うございます」
「はあ……傳次郎も言うとった。おまはんが笑わんてな。そんなに嫌かえ?どこがそないにあかんのや」
「歯が……歯が外を向いて生えております」
「ちょっと見せてくれて言うたらどうする」
「ご勘弁を」
「ほなこう言わしてもらおか。儂ゃ主じゃで」
しばし目を伏せましたお芳でございますが、嫌そうに少しだけ口を開けました。長太郎の方はと申しますと、ここで真っ向からそんなことはないと言ってしまうとかえってお芳の心が意固地になると思いましたんで、敢えて否定はいたしません。
「はあ、まあ、言われてみればそんな気がせんこともない、というくらいじゃな。まあわしは嬶探してるわけやないんで、おまはんの顔がどうであろうが、おまはんが笑おうが笑おまいが、どっちゃでも良えことや。ただ、おまはんが良う働くということは、この家の者、皆わかってるでな。笑えんということやったら店へ出てお客さんとの応対は無理やろうが、中の仕事は皆任せられる。大きい顔して、うちへ居ったら良え。そのことだけ、お腹の中に置いといて欲しい」
「ありがとうございます」
「さ、話が長ごなった。掃除に布団干し、やってくれるか。わしゃまだ眠たい。ござ敷いて昼寝をさせとおくれ」
障子襖を開け放ちまして、部屋中に外の風を通します。だいたい物臭な長太郎でございますが、じめじめしたのが好きなわけやないんで、天気の良え日にからっとした風を隠居小屋に通しますと気分も自ずと晴れやかになる。またお日さんの香りというのは独特な気持ちよさがあるもので、長太郎もお日さんの香りが自分の使うてる布団に染みこんでいくのを何とのう嬉しいような気持ちで見ております。
それが済みますと部屋の掃除でございます。大体出したもんを片付けるということをせんのがこの長太郎でございます。書見台の前の自分が座るところに自分が座るだけの場所を空けておりまして、読みそうな本やら使いそうな道具は全部自分の手の届くところに置いたある。これが合理的やという考えの人間でございますな。でもお芳はそうやない。
「ご隠居様、お叱り申し上げるようで恐縮でございますが、使うたものはもとのところへお戻しなさりませ。一回一回は手間なようでも、周りへ置いておきますと無くしたり踏み壊したりして結局損が行きます」
「ああ、それやったら気にしてくれんでも良え」
「なんででございましょう」
「儂が散らかすのをおまはんが片付ける。たとえ母屋の方でおまはんの仕事が無うなっても、儂が散らかす限りおまはんの足は上がらんと、こういう段取りになったある」
「……ご隠居様。私は真面目に心から申し上げております。真剣にお考え下さりませ」
「半分は真剣に言うたんじゃがな」
「半分はご冗談でございましょう」
「やっぱりおまはんはきっちりした性分じゃな。まあ儂も一日二日で改まるほどこの性分の根っこが浅いところにあるわけでもない。追々直していくで、それで堪忍しておくれ」
これはここで良いのか、これはどこへ片付けるか、ひとつひとつ確かめもってお芳がきれいに片付けますというと、部屋も広なったように思えます。その広なった部屋へお芳が寝ござを敷きまして、畳表を使いました涼し気な昼寝用の枕をそこへチョンと置きます。昼寝の床の出来上がりでございますな。
「ご隠居様、お昼寝のご用意ができましてございます」
「おおけありがとう。ほなら、夢の続きを見さしてもらうわ」
「お昼時にまた参ります」
「いっぺん目ぇ覚ましてしもたさかいに、案外寝付けんかもしれんがな」
洗濯物だけ持ってお芳が母屋へ帰ります。長太郎はごろりと横になり……案の定すぐに眠りに入ってしまいまして、だらしのう寝とおります。
昼時になりまして、お芳がご飯を持ってまいります。大坂の町というのは、東にお城を戴きまして、その西側に船場が広がっております。ここは太閤はんの時代に、大阪城の城下町を作りたいということで商売人を集めて作られた新開地やったんですな。さらにその西側というと海になります。だいたいが東西の道を通り、南北の道を筋と申しまして、メインストリートになるのは通りやったんでございます。
となりますと、海からの浜風が一年中通りを吹き抜けることになります。もちろんアスファルトもコンクリートもない時分でございますので地道を砂埃が舞います。大坂の丁稚というと店の前を箒で掃いているというイメージもございますがあながち間違うてるわけでもございません。埃が立たんように始終道を掃いて、打ち水をする。これが一番下の丁稚や女子衆の役目でございました。
埃が立つのも何も店の前だけではございません。今から考えたらだいぶ埃っぽかったんでございますな。午前中寝てただけの長太郎の部屋も何とのう埃っぽくなっております。というわけで午後もまた掃除。年がら年中掃除してるようなもんやったんですな。
次の日、長太郎、午後もまたお芳を母屋へ帰します。そして例によって寝ござに横になりますが今度は眠りに落ちません。目を瞑って考え事でございますな。
(あのお芳……本人はああ言うてるが、あらやっぱりただの商売人ではないとしか思えんな。どこまで仕込まれた女子なのか、ちょっと探ってみようかな)
そのまた次の日。例によって朝寝を決め込む長太郎でございます。朝ごはんを済ませまして、同じようにお芳が部屋を整える。
「ご隠居様。今日もお休みになりますか」
「ああ、そうさしてもらうわ。人間な、これだけは眠らんならんという長さはひとりびとり顔が違うようにみな違うというのが儂の言い分でな。儂は殊に長う眠らんならんようにでけてるらしい。お昼になったら起こしておくれ」
「かしこまりました。ではそうさせていただきます」
というわけでだらしのう二度寝の長太郎。一方お芳は母屋の方で午前中はきびきびと働きまして、お昼でございます。ご飯も済みまして、その後の時間でございますが。
「お芳。今日はこの後、母屋の方でどうでもせんならん用事はあるかえ」
「これと言うてそういったことも仰せつかっておりませんが」
「ほなら、ちょっとこっちに居ってはもらえんかな。だいたいが儂は昼下がりから夜までというのは本読んだりして過ごすのじゃが、ちょっと飽きが来てな。話し相手になってくれるだけで良え」
「私のような者に務まるどうかはわかりませんが、そのようにおっしゃるならそう致します」
「そうか。おおけありがとう……と言うても、いざ構えてしまうと話すことというのもあんまり浮かばんもんじゃな。なんぞ良え話ないかいな」
「では、この店のお話をお聞かせくださいませ。これほどの身代がどのように出来上がったのか、知りとうございます」
「そうか。ほなまあ、そうしようか。儂は、この店の三代目ということになるなあ。そやさかい、えろう老舗というわけでもないのんじゃ。初代が儂のお爺さんやな。子供の頃のことを覚えてるが、遊んで貰ろたというような思い出はほとんどないな。若い時分は八百屋へ奉公へ行っていたと聞いているが、もちろんその頃のことはわからん。その奉公先が、割と早ように無うなってしまったと聞いているが、それも詳しい事情はわからん。
とにかく手代くらいの頃に自分で身を立てんとならん事になったらしいんじゃな。また一からの奉公というわけにもいかず、貯めていた僅かな銭と、店が無くなるときに貰うた銭をみなつぎ込んで、紀州から梅を仕入れて、梅干しにして担いで売って歩いたところから始まったと聞くな。それで稼いだ銭を、また梅干しに全部つぎ込む。なんぼか余裕が出てきたら、柔らかい梅から、実の固いカリカリ梅というものにまで品数を広げたが、終生梅干しにしか手を出さなんだ。そやから、儂の子供の頃も『漬物屋』やのうて『梅干屋』と言われてたような覚えがあるで。うちの印の山形に紀も紀州の紀らしい」
「お働きになられたのでございましょうね」
「そうやなあ。儂の数少ない思い出でも、ああでもないこうでもないと梅干しの味見てた背中しかないと言うても良えなあ。こっち向いて言うのはいつも『味見てみるか』やったな」
「質実剛健なお方でございましたのですね」
「まあ、商売にかけてはヘンコやったのは確かじゃな。このお爺が割と長生きしたんじゃな。嫁とるのも子どもができるのも遅かった。この息子が、儂の父親じゃな」
「どのようなお父様でいらしたのですか」
「漬物気違いやったことは間違いないが、頑固で一途いう性分ではなかったな。店の品数を増やして『梅干屋』を『漬物屋』にしたのがこの親父じゃ。そしてまたいろんなことを思いついて試してみようという新しいもの好きの性分でもあったな」
「例えばどのようなところで新しいものをお試しになられたのでしょう」
「うちの店今でもそうじゃが、日本中に人を遣わせて買い付けの旅をさせてるじゃろ。あれを始めたのが親父じゃ。近いとこではうちの店には京から酸茎が届くじゃろ。あれは元々買い付け人が京の酸茎は味が違うということで始めたもんじゃ。大坂にでも酸茎は売ったあるで。そやけど酸茎というのは出したらじきに酸っぱなってしまうもんやさかいな。大坂ではなかなか美味しい酸茎には行き当たらん。そんなわけで、うちの良う売れる品物に入ったある。うちの店に時々遠方から珍しいもんが届くのはこの親父の考えたことや」
「ご商売が上手かったのですね」
「失敗もあったで。毎朝の味噌汁に使う味噌、度に摺るのはしんどかろうということで、摺ってから売ったんじゃ。ところがこれがさんざんの不評でな。味が飛んでしもてるというてな。そういう時にこだわらずにすぐ止めるというところは潔かったな」
「過ちて改むるに憚ることなかれという言葉もございます。お考えの深い方でございましたのですね」
(来た)
と長太郎は思いました。十二の歳から商売人のところばかり渡り歩いてきた女子衆の口をついて出てくるような言葉やない。やはりこのお芳には何かある、そう確信いたしましたが、顔には出しません。商売人には向いたないということでございまして、お腹の中だけで考えて顔には出さんくらいの器用さは持っているのがこの長太郎でございます。
「深かったかどうかはともかく、あんなことしてみよう、こんなことしてみてはどうかといろいろ考えて、それでまたやってみたというところが我が親ながら偉いと思う。そしておまはんの言うとおりじゃ。失敗したことにこだわってはいかんな。ちゃんとした石に座らなんだら三年経っても悟りは開けんわい。そういう意味では柔らかい頭の持ち主ではあったのかもしれんな」
「そのお父上が、患いつかれたと伺うておりますが」
「そうやな。その間だけ儂は名前だけこの店の主やった。儂はこんなあかん人間やけど、親がまだ生きているうちに隠居して身代弟に譲るというほどには親不孝ではないでな。親父が死んで、忌明けの日に儂は隠居すると皆に言うたさかいほんまに三代目やったのは親父が死んでから四十九日間ということになるかな」
「旦那様に……弟様に譲られたのには何かお考えがおありなのですか」
「うーん、深う考えてのことやない。兄弟がふたりしかおらんさかいな。儂がやらなんだら弟がやるしかないわい。儂がこんな性分やから傳次郎が自ずと覚えていったんか、元々のあれの性分なのかはわからんが、子どもの頃からあれは愛想も良うてな。どこがどうなったもんか顔も体つきも同じ親から生まれたものとは思えんくらい違うじゃろ。兄である儂が言うのも何じゃが、まあ良え男の方に入ると思わんか。
女子のおまはんにこんなこと言うのも変かもしれんが、傳次郎、あれでなかなか遊び上手なんやで。自分から花街に行くてな事はせんわい。商売人がそれやりだしたら終わりじゃ。商売人の分を過ぎんように、付き合いで行くことはある。そんな時でもな、得意先を上手いことその気にさすな。商売人の遊びで、何が一番大事やと思う」
「わたくし女子でございますので全く思いもよりません」
「そうか。そらそやな。商売人の遊びは、自分が遊ばんと得意先を遊ばすことじゃ。得意先を気持ち良う遊ばすためには、得意先の気に障らんように周りに気を配りながら、自分も楽しう遊んでおりますというところを見せないかん。先方様が、こいつ儂といるのが嫌なんと違うか、と思ったらもう座が白けるでな。いかにも自分も楽しんでおりますと見せながら、先方様は心の底から楽します。この頃合いが難しいで」
「私には考えも及ばんことでございます」
「まあな、お座敷というのは、女将が居って芸姑が居って舞妓が居って幇間が居ってチャンチキチャンチキ賑やかにやるんやさかい、楽なもんと思うかもしれんが、実は商売で一番しんどいのがここじゃ。女子も幇間も必ず上手いことやるとは限らんわい。そういう連中がしくじったらちょっと座が寒なるさかい、持ち直すのが大変なそうな。傳次郎のやつ、そういう時にあっという間に座を温めなおす芸ちゅうのがあるらしい」
「旦那様、お堅い方と思うておりました。その芸というのはどのようなものなのでしょうか」
「実は儂も知らん。これはわたいが編み出した秘芸やさかい兄さん相手にも良う教えんと言うてな。教せてくれんのじゃ」
「常日頃の旦那様からは想像もつきませんが」
「そうじゃろ。花街というのはな、なんぞかんぞと言いながらもてたければ金を使うのが一番という場所じゃ。傳次郎のやつ余程のことでない限り弁慶やのに良うもてよるで。一見え、二男、三金、四芸、五精、六オボコ、七台詞、八力、九肝、十評判てな言葉聞いたことは……ないじゃろなあ、おまはんみたいなきちんとした娘が……まあ男の間でな。女子に好かれたかったらこの十のうちひとつでも身につけぇということなんじゃが。一見え、つまりなり形やな。傳次郎のやつ平生は継ぎ接ぎの当たった木綿物着とおるが、ちょっと繰り出そかというようなときにはこれぞという一張羅出してきよる。それでいてもてなさんならん相手よりは格下という着物上手いこと見つけてくるな。二男、あのとおり背も高い、男の背の高きは七難隠すとか言うな。それでいて、顔も手の出せんくらいということもないちょうど良え具合に整うてると思わんか。三金。さいぜんたいがいは弁慶やと言うたがな。使わんならんときはケチケチせんとぱっと使う。四芸、今言うたとおり取っておきがあるらしい。五精、平生は良う働いとる。六オボコ、背が高いさかい割に年上に見られるのじゃが、弟のせいか良え具合に甘え上手なところがあってな。年増に良う可愛がられとる。七台詞、大向うに啖呵切るような男やないが、何とのう雲行きが怪しくなりかけた話を和やかに戻すのは至って得意じゃ。八力……は、大したことないな。九肝、儂みたいな穀潰し飼うてくれてるのやから、まあ肚の大きいやつやろう。十評判……こら知らんな。そやかて兄である儂が数えてもこんだけ揃たある」
「ご商売にふさわしいお方でございます。ですがご隠居様、わかりかねることがございます。さいぜんからおっしゃっている弁慶というのは何のことでございましょう」
「あっははは、おまはんみたいな堅い女子が知ってるわけのない言葉じゃな。儂もうっかりしとった。花街やら行くとな。人が銭出してくれる遊びについていく人間のことを弁慶と言うねん。武蔵坊弁慶はもちろん知ってるじゃろ。源義経公の一番のご家来じゃ。そこから来た言葉で、一番偉い人にひっついてる客のことを弁慶と言うのんじゃ。言葉だけ聞いたら勇ましいようなが、花街で弁慶言われるのは、あんまり良えことやないな。たいがいは弁慶や、なんて言われたら嫌われてると思といたほうが良えわ。傳次郎のやつがそこそこ好かれとるのは、いざというときにはわっと使うて、後腐れのうしゅっと引き上げるからじゃろな」
「普段の旦那様からは全く考えもつきませんが、人は見かけによらないというのはこの事なのでございますね」
「商売人は豆腐のようであれ、とも言うでな。堅いだけではいかん。四角四面で柔らかく、お腹の中もあくまで白くとな。全く何でここまで似てへん兄弟ができたものやらな」
「お兄様としても、やはり違っていると思われますか」
「そら違うで。一見え、儂は体が小さいさかいな。何着ても肩が落ちるねん。どういうわけか誂えて貰ろた着物でさえそうなるな。良え着物来ても栄えんわ。二男、まあ、見てのとおりじゃ。三金。傳次郎のような上手い使い方良うせんのが儂でな。お茶屋遊びなんかしてても、このお銚子がいくら、このお造りがなんぼ、そればっかり考えてな。消えていくもんに銭使うのがかなんねん。まして芸姑の踊りがなんぼかんぼと言われても何のこっちゃわからん。それでいて心斎橋界隈なんかにたまに行たら本は買い込んでしまう。これでは好かれんわ。四芸。何にもない。五精。自分で言うのもおかしいが儂ほど働かん人間も少ないで。六オボコ。チマチマとした小狡い知恵だけは回るな。可愛げのない。七台詞。人前に出るのがまず嫌いじゃ。八力。この体見てのとおり、体のどこにも力なんぞありゃせん。九肝、儂ゃだいたい気の小さい人間でな。肝とは無縁じゃ。十評判。世間様で儂のこと良う言うてる人はまあないじゃろ。見事に揃た無いな」
「ご隠居様、ご自分のことをそう悪う言うておりますと、本当のお人柄も悪うなっていきます。どうかそのような、自分を見下したことは仰らんようにお願いをいたします」
「そうか。ほなら止めるが、困ったことになあ、己で考えても、良えところがひとつも思い浮かばん。なんぞ良えところがあるとしたらそれがどこか、おまはん言うてくれるか」
「ええと……」
「ほれ見てみ、考えんとないじゃろ。儂ゃそういう男や」
からからから、と長太郎が笑いますと、お芳の頬がごくわずかだけ緩みかけたのを、長太郎は見逃しませんでした。面白いことを面白く思う心は間違いなく、むしろ人並み以上に持っております。ただ、それを表に出すことに何か引っ掛かりがある。その詰めを抜いてやらんことには、この子が抱えるものも表には出てこんじゃろうなあ、と内心長太郎は思案いたします。
「そや、良えことを考えた。おまはんはこれから、儂の良えところを探す係りじゃ。山紀屋の長太郎という男にはこれこれこういう良えところがある、という評判がでけるまで、おまはんは儂の良えところを見つけてくれないかん。それが出来ん限り、たとえ傳次郎がお前はもう要らん、出て行けえ、とおまはんに怒鳴りつけたかて儂が良う辞めささんぞ。覚悟して儂のそばに居れよ」
ここで普通なら、にっこりと微笑んで、てなことになるんでっしゃろがそこは能面のお芳でございます。表情ひとつ変えずに
「かしこまりましてございます」
とだけひとこと言いますな。それでもお芳の心に、安心の火がおこたのようにぽっと温かく灯ったことだけは、感じ取る長太郎でございます。
「さあ、話している間にもだいぶ埃っぽなった。大坂という町は難儀じゃな。ちょっとはたき掛けなとしてくれるか。儂は隅のほうで滑稽本でも読んでるさかいに」
「はい、すぐに致します」
目の隅でお芳を見ながら滑稽本を開く長太郎でございますが、目は文字を追うてはおりません。このお芳の正体どう暴こうかという思案でございます。
(まずは、お芳の昔をたどってみようか)
二章 長太郎、動く
次の日。長太郎は珍しく割に早う目を覚ましまして、お芳と一緒に朝ごはんを食べます。お芳には今日は出かける、ひょっとしたら帰りは夕方になるやしれんと言うて、握り飯をふたぁつ作らせます。腰に矢立を挿しまして、傳次郎にひとこと言うてさらの帳面を一冊持ちます。珍しいこっちゃさかい家の者が不思議がりますわ。
「ご隠居様、今日はどちらへお出かけで」
「いや、どこということはないのんじゃ。ただ本読んで昼寝してというのにちょっと飽きが来てな。大坂の町を当て所も無うふらふら歩いてみようかなという、それだけのことやさかい、気にしてもらわいでも良え」
「帳面と矢立はどういうわけで」
「歩いてるとな、いろんなことが頭に浮かぶじゃろ。それをな、書き付けてみようと思うてな。改めて後から見たらしょうもないことや知れんで。そやけどひょっとしたら思わぬ名案が浮かぶかもしれん、そんな頼んないことを、つらつらと書いてみようというそれだけのことや」
奉公人も呆れ返って、ああ左様か、てな顔してますな。
「ほなまあ行てくる。夜になるようなことはめったにないと思うが、もし戸が閉まってたら叩くさかい開けとおくれ」
「ご隠居はん、おはようお帰りやす」
「おはようお帰り」
こんな長太郎でもこうやって気持ちよう見送ってもらえるのが店の主筋の得なところでございますが。そんな声に見送られて長太郎歩き始めます。まずはお芳が来た時に居った口入屋へと足を運びますな。
「口入屋さん、毎度お世話になります」
「おや、こらお珍しい。山紀屋のご隠居様やおまへんか。おーい店の。おざぶ持っといでおざぶ。お茶もすぐに淹れさしまっさかい」
「いやいや、どうぞお気遣いのないように。そちらのご商売にはならん用向きでここまで来ておりますのでな」
「手前どもの商売にはならん御用と。うちからそちらへ遣らしてもうた女子衆がなんぞ失敗でもしましたかな」
「いえいえ、そんなことは決してないのんで。こちらから来てもらう女子衆はみな良え子ばかりでな。良う働きますし下仕事から店の応対、家の中の仕事まで器用にこなしてもらえますで、こちらとお取引させて頂いてることに家の者皆ありがとう思とおります」
「おおきに。こちらも良えお店やと請け負うてお世話さしていただいております。しかしそうなりますと、今日はどういう御用でこちらへ」
「一番最近にこちらから来て貰ろたお芳という女子のことでんのやが」
「へえへえ、良う覚えとおります。変わった女子でしたな。おたくの定はんが『不細工な女子ひとりお頼申しま』言うて大きな声で尋ねなはったら手ぇ挙げて『ほたら私行かせてもらいます』言うた」
「そうそう、その女子のことです」
「あれが何かご都合の悪いことでもございましたか」
「いやいや、良う働く女子でな。何でもそつ無うこなしますし、することがなかったら仕事を探して回ってやってくれるという、ほうら良うできた子です」
「ほならなぜ今日はこちらへお越しに」
「そのお芳の、まあただひとつの困り事と言うてよろしいやろうと思うんですが、笑うということを一切致しません。何やらしても器用に熱心にやってくれますで、店の方では重宝しておりますのやが、愛想笑いのひとつもでけんようでは店先へ立たすことだけはでけんなあ、というわけで、今は私の世話役が一番の仕事で、手が空いた時に店の中の仕事をやらしているというような具合で」
「左様かぁ。えらいご迷惑をおかけいたします。何やったらすぐにでも代わりの子を」
「いやいや、実は私はお芳のことをごく気に入っておりましてな。甲斐甲斐しゅう面倒見てくれますで、弟が辞めろと言うてもわしが絶対に辞めささんとお芳に言うとるくらいで」
「と言いますと今日お越しになったのはどういうわけで」
「笑わんというところにちょっと引っかかりましてな。気病の中にはそういうものもあるというのを私は本で読んだこともございますし、もし昔何か嫌なことがあって今日笑うことが嫌な気持ちになってしもとおるのやったら、それを取り除いてやりたいとこう思いまして、お芳の昔を辿ってみようというわけで参っております。お芳がここに来る前に何をやっていたか、もしご存知やったらお教え願いたいと思うて今日は参じました」
「なるほど、承知を致しました。こちらでもあの子引き受けるときに今まで何してきたというのは控えておりますので、そこに書いてあることやったらわかります。確かあの子をそちらへ遣らしてもうたんはそんなに前やおまへんな。この帳面の前の帳面になるかな。おーい店の。今の帳面のすぐ前の帳面持っといで。これに載っとるはずでございます。ええとお芳お芳と……ここにございます。染物屋、反物屋、小間物屋と、割と良えところ回っておりますな。しかしあの歳でこれだけの店を回っているということになるとあまり長うは勤めておりませんなあ」
(侍の家がない)
長太郎はそれを確認いたしましたが口には出しません。
「これ全部控えさしてもろうてよろしか」
「ええ、かましまへんどうぞ控えとおくれやす」
「ほなまあ、お言葉に甘えて……」
長太郎、お芳のこれまでの奉公先を全て帳面に控えます。
「どうもお手間を取らせましてお邪魔を致しました。自分の用向きだけ済ませてすぐに失礼をするようでございますがお許しを」
「なんのなんの。うちから遣らしてもうた女子のことでございましたらいつ何時でもお申し付け下さい」
「ありがとうございます。お芳のことを探っておりますのはあくまでも私ひとりでやっていることでございますので、他所様はもちろん家の者にもどうぞ仰らんようにお願いを致します」
「かしこまりましてございます。またよろしお頼申します」
こうしてお芳の過去の奉公先を調べあげました長太郎。最近の奉公先から順繰りに遡ってまいります。
「お邪魔を致します」
「へえへえどうぞおこしやす。これ、お茶とおざぶ」
「いやいや、お気遣いのないように願います。ちょっとものを尋ねに参っただけのこってございます」
「はあ、左様か。まあ何にせよ立ち話もなんですし、お掛けなしとおくれやす」
「では失礼を致します。お尋ねに参りましたというのが、こちらにちょっと前までお芳という女子衆がおったと思いますが」
「へえ、確かにおりました。その子が何か」
「実は私、そのお芳の今の主でございます。訳あってお芳の昔を探っております。いやいや、怪しいということではございません。ただちょっと変わり者ですんで、いつ頃からそうなんかなあという、単なる隠居の暇つぶしでございます。そのお芳でございますが、こちらのお店に奉公に上がっておりました頃はどんな具合でしたかな」
「そうでんなあ。良う働く女子ではございました。そこは良えんですが、とにかく顔を綻ばすということがないもんでっさかい、愛想笑いもでけんようでは店には出せん、家の中の仕事だけさそうにも中の仕事て言うてもそないあるもんやないんで、結局一期で辞めてもうたようなこってございます」
「結局こちらへ上がっていた頃にも、やっぱりいっぺんも笑わんような具合でしたか」
「まあ少のうとも、奉公人に目ぇ配っております番頭の私は見ませんでしたな。うちの主も、奉公人もおよそ見とらんのと違いますかな。そんな女子やさかい、笑うようなことがあれば見た者は店中に言うて回ると思います。そういうこともございませんでしたので、やはり一度もなかったかと」
「はあ、やはりこの店にいる時分からそないでしたかなあ」
「失礼でございますが、さいぜん今のお芳のご主人とおっしゃっいましたが、どういうお方でございますか。こうして拝見しますと、ずいぶんお若いようにお見受けいたしますが、お召し物はご隠居様のように思いますが」
「そうです。私は隠居でございまして、その面倒を見る係りというのが今のお芳の仕事になっとおります」
「失礼ですがお歳はお幾つで」
「二十三でございます」
「二十三でご隠居ですか」
「そうです。どうも性分が商売に向いたないということがございまして。弟の方がずっと商売人らしいという次第で、譲って隠居してしもうた、そういう身分でございます」
「はあ、左様か。良えご身分だんな」
「これだけ聞きに寄せてもらいました。お商売中にえらいお邪魔を致しました。一文の買い物も良うせんと心苦しい限りではございますが、これで失礼をさせていただきます」
「へえ、もしご縁がございましたらまたのお越しを」
そういうわけで長太郎は腰を上げて立ち去りますが、
「あの年で隠居やて」
「変人の女子衆にはまたそれなりの怪体な主がつくもんやなあ」
てな会話が聞こえてまいります。それから順繰りに遡り数軒回りますがどこへ行ってもお芳が笑うたという話は出てまいりません。その度ごとに、怪体なやっちゃ変人やと言われ続けております。そんなことを気にして隠居が務まるかと大坂中を歩きまわりまして、辿れる限り最初のお芳の奉公先へとやってまいります。結論としては一緒。この店でもお芳はいっぺんも笑ろたことがない。そこで長太郎、尋ねてみます。
「このお芳がこの店のお世話になる前、何をしていたかご存知やございませんか」
「うちでは初めての奉公やと言うとりましたで。何でも母親と一緒に長屋暮らしをしていたけれどもその母親が亡くなってしもうたとかいうことで行き先が無うなって、奉公人として住まわしてもらえるんやったら何でもすると言うて、うちへ参りましたな」
「左様か。その長屋というの、どの辺かおわかりですかいな」
こうして長屋の場所を聞き出しますと、長太郎、駄菓子屋へ寄りまして、安いおもちゃやら駄菓子やらをいくらか買い込みます。そして長屋へ行きますというとまずは大人をつかまえまして話を聞きだします。
「正直、長屋では浮いたはりましたな」
「せやなあ、もともと長屋住まいするような身分やないような、そんな感じやったで」
「我々長屋衆を馬鹿にしているようなというわけやないんで、むしろお母さんのお咲さんという人は誠に愛想のいい人で、この長屋の一党でなんぞしようかというようなときには先に立って働いてくれたような人やったで」
「せやったなあ。そやけど、むしろ何事につけ丁寧すぎるくらいに丁寧な人で、我々長屋の者から見てきっちりしすぎてかえってやりづらかった」
「元はよっぽど良えとこの人やったんと違うかな。ここ来る前にはどこに住んでたとかおよそ話したことのない人やったけどな」
「せや、良えとこの人みたいやったで。うち、隣やったんやけど、おかはんが『お父上に恥じんように生きなさい』てなこと言うてるのが壁越しに聞こえてきたことがあったで」
なんぼ聞いても長屋暮らしの似合うような親子やなかったんですな。そこで長太郎、今度は子どもたちに声をかけます。ここで効いてくるのがさいぜん駄菓子屋へ寄って買うてきたお菓子やおもちゃやお菓子。
「坊ん、ちょっとこっちおいで」
「何やおっさん、若いのにご隠居みたいな服着て怪体やな」
「そやねん、怪体なおっちゃんやで。そやけども悪い人間やない。このお菓子あげるさかい、ちょっと話聞かしてほしいねん。おっちゃん人探ししててな。この辺りに住んでたことのある人らしいと聞いたんで、ちょっと昔のこと思い出して欲しいんやけど、お願いでけんかな」
「ほんまに、これ、くれるの。ほなもらうけど、おかはんには言わんといてや。知らんおっちゃんからお菓子貰ろたてなこと聞いたらうちのおかはん怒るさかい」
「言わへん言わへん。ばれんようにここで食べてしまい」
「ほな食べるわ。で、人探しゆうのは何やねん」
「昔、そうやなあ五年くらい前までやろうけどな。この長屋にお芳言う名前のおねえちゃん住んでなかったかいな」
「お芳さんなあ……おったようなおらんような……」
「わからんか」
「もう一個お菓子貰ろたら思い出せそうや」
「現金な子やな。ほならあげるわ。どうやおったか」
「ん、おったなあ。思い出したわ」
「どんな子やった」
「いつもひとりやった。割にべっぴんさんやったけど、おもろいことがあっても笑わんしからかわれても怒ることも泣くこともないし、何や気持ち悪いさかい誰も近づかんねん」
「他に何か思い出すところないか」
「遊びも知らんみたいやった。鬼ごとやらかくれんぼやらだれでも知ってるようなこともやったことないみたいやったな」
「そうか。何でも良え他に思い出すことあったら言うてんか」
「うーん、もうないわ、おっさんおおきにさいなら」
子供は行ってしまいます。
「ちぃと子供過ぎたかいな。今度は少々年嵩の上がった子に尋ねてみようかな」
とひとりごとをつぶやきますと長太郎、今度は十五そこそこかいなあという、割におとなしそうな女の子に目をつけます。
「お嬢ちゃん、ちょっと良えかいな」
女の子、露骨に怪しんでる目で長太郎を見やります。
「どちらはんですか」
「いやいや、怪しい者やないんで。ちょっと人探ししてましてな。五年ほど前までこの長屋に住んでたんやないかという話聞きまして、そいで来ましたんやが、お話を聞かせてもらえんかと思うて」
「はあ……」
「つまらんもんやけど、こんなもんがお礼では物足らんかいな」
買うてきたおもちゃの中から女の子向けの物を選びまして紙袋ごとその子に渡します。
「まあ……話だけなら」
「おおけありがとう。五年ほど前まで、この長屋に住んでいたらしいお芳という女子の子のことを探してまんのやけど、覚えないかいな」
「お芳さん……どんな人やったかいなあ」
「ここにいた頃はどうやったかわからんが、とにかく顔に気持ちが出るということが一切ないという話なんやが」
「ああ、あの能面のお芳さん、覚えてます。何しても顔色が変わらんさかい、気色悪がってみんな近づかんかったわ」
「いつ頃ここへ来て、いつ頃出て行ったか、わからんかいな」
「出て行かはったんはうちもはっきり覚えてるわ。お芳さんが十二のとき。お母さんのお咲さんが急な病で逝ってしまはって、身寄り頼りがなかったみたいで、奉公に出るいうことで出て行かはった」
「やっぱりそうか」
「この長屋の家主さんと店子一党でお葬式しましたんやけど、たったひとりの母親亡くしても涙の一粒もこぼさんところ見て、わたいぞーとしたわ」
「なるほどなあ。いつ頃から来たかということはわからんか」
「その頃はまだわたいも子どもやったさかい良う知らんけど、わたいのおかはんが言うにはそのお芳さんが五つ六つの頃やったとは聞くわ」
「他なんぞ思い出すこと、何でも良え聞かせてくれんかな」
「うーん、もうないわ、おっさんおおきにさいなら」
「相手は子供やさかいなあ。これ以上話聞いても何も出てこんじゃろなあ。仕方がない、今日は帰ろか」
そんなわけで日もだいぶ傾いた夕景に店へと長太郎戻りました。
「ご隠居はんお帰りやす」
「ご隠居はんお帰り」
店の者の声に迎えられて隠居小屋へ戻ります。もう食事の用意はできておりまして、お芳がすぐにでも食べられるように整えております。
「ご隠居様、お帰りなさいませ。御膳の用意ができております」
「あ、おおきにおおきに。ちょっと足だけ洗うてな。いただくとするわ」
「今日はまたずいぶん長いことお散歩されていたようでございますが、どちらへお出かけになられていたのですか」
「どこということはないねん。当ても無う大坂中をぶらぶらしとったんや。平生めったに表へ出ん儂がたまに出ると見るもん見るもんが面白うてな。こんなもんまで買うてしもた」
長太郎、そう言うと駄菓子屋で買うたお菓子の残りを懐から出します。
「まあお珍しい。ご隠居様がお金遣いなど」
「まあそう大層に言うてくれな。お茶屋で散財したわけやなし、皆寄せても十二文かそこらや。ご飯食べ終わったらお茶淹れておくれ。こんなもん長いこと取っとくようなお菓子でもないさかい、食べてしまおう」
「お菓子でございますか」
「時々妙にこういう安いものが食べとなる時がないか」
「私食べ慣れておりませんので」
「ほなら勉強のつもりで食べてもらおう」
「ご隠居様がそうおっしゃるならいただきますが、まずはお食事でございます」
そういうわけで晩ご飯の準備が整います。
「珍しいな。今日は晩御飯におつゆがつくのかいな」
「はい、買い付けの方が尾張の方で有名なお味噌があると言うて買うて送って来られたのを試してみようということで作りましてございます」
「こら珍しい。初物や。七十五日寿命が伸びるがな。赤だしやな。うん、割にしっかりした味やな」
「私には少々辛うございます」
「そやけど、良う味おうてみ、こら塩の味やないで。相当寝かせて造るんやろう、熟れた味や。儂こんなん得意や。騙されたと思うて、母屋へ行て山椒の粉取ってきてくれるか」
そう言うてお芳を母屋に走らして山椒の粉を用意いたしますと、長太郎、ふたりのお椀に一振りづつ振り入れます。
「これでだいぶ変わるはずや。もういっぺん飲んでごらん」
「いただきます……ほんに。ずいぶんと味が上品になりました」
「こら、食べ方もあわせて教えながら売ったら売れるで。明日になったら儂の方から傳次郎に言うておこう。こら良え」
こら良え、こら良え、とご飯を平らげました長太郎。食後にはお茶を淹れさせて駄菓子の味見でございます。お芳の方はこんなもん食べ慣れておりませんので、何か分かったような分からんような顔で食べておりますが、とりあえずそれも平らげますというと一日歩き通しだった長太郎、疲れておりまして早々に眠ってしまいます。
翌朝でございますが、平生はめったに外へも出ん長太郎が珍しく一日歩きまわったさかい、きっちりお礼が返ってまいりますな。体中が痛うなっております。
「あいたたた……」
「ご隠居様、お体の調子でも」
「いやいや、そやない……いたた……日頃めったに動かん儂が急に一日歩いたりしたさかい体中身が入ってしもとおる。今日はおとなしいしてるわ。隅の方に居るさかい、部屋整えてくれるか」
「すぐにいたします。お待ちくださいませ」
長太郎のほうはと言いますと、部屋の隅の方へ置物みたいにチンと座っております。お芳が例によって手早う片付けながら、長太郎へ説教を致しますな。
「ご隠居様、人というのは毎日お仕事をしながら生きていくように体ができておるそうでございます。ご本を読まれるのもお昼寝をされるのも結構でございますが、折を見ては時々外をお歩きにでも出られたらいかがでございましょう。ほとんど毎日このお部屋でお過ごしになりながら昨日のように急に一日歩きづめということになりますと体のほうがおかしくなるのはことの道理でございます。これをきっかけに少し外にお出になられては」
「そうやなあ……考えるわ。そやけど今日は体中が痛い。とりあえず今日は横にならせとおくれ。この痛みが引いたら、なんぞ外に用事見つけて出歩くこと考えるわ」
「では今日もござをお敷き致しましょうか」
「そうしておくれ」
そうしてお芳を母屋へ送った長太郎。横になりながら考えます。
(とりあえず遡るだけ遡ってみたが、あの長屋でその糸も切れたあるな。長屋連中の言うてたことを考えると、元々は長屋暮らしするような身分やなかったようなな。お芳はお侍様のお宅へ奉公に上がったことがあると言うてたが、その様子もなかった。お侍様と何か関わりがあると考えたほうが良さそうやな。表向きは伏せとかんといかん何かの関わりが……。とりあえず、そっちから探るより他なさそうな。どこか他の長屋から移ってきたんやと考えるなら、でけることは大坂中の長屋虱潰しすることしかないのやさかいな。
あともうひとつはお芳という女子の人柄じゃ。確かにここにずーっと居ったんではお芳の人柄のほんのちょっとしか見えんやろう。儂も部屋に籠もりきりは良うないと思うということを言い訳にして、お芳をいろんな所に連れ出してみよう。どういう振る舞いをするかでだいたいのところがわかるじゃろう。そしてまた、酷なようなが、どういうふうにあの能面が出来上がったのか、直に訊くこともせんとあかんやろうなあ……)
考えながら、眠りに落ちてしまいました。まことに良う寝るこの長太郎でございます。
次の日。長太郎は夕景から出かける準備を始めます。
「ご隠居様、どちらへお越しで」
「たまにはしとかなあかんやろうと思うんで、御塩噌方のお侍様のところにご挨拶に行てくるわ。尾張から届いた珍しいお味噌があったじゃろ。あれ三百匁ほど丁寧に包んでんか。ちょうど良えお遣い物になるじゃろ。おそらく遅なるやろと思うさかい、戸は閉めといてくれて構わんで。帰ってきたら戸を叩くさかい。ほなまあ、ちょっと行てくる」
この時分と申しますのは、江戸はやはりお侍の町でございました。人口のおよそ半分くらいがお侍とそのご家族であったと言います。一方で大坂は「商都」やとか「町人の都」などと言われまして、人口のうちお侍様とそのお身内は二割くらいにより過ぎなんだんやそうで、あとの八割は町人でございます。そんなもんでっさかい江戸時代の大坂を舞台にした話にあまりお侍の出てくる話は残っておりません。
しかし一方では大坂というのは西国諸藩に睨みをきかす一大軍事基地大坂城を頂点に戴く幕府直轄の軍事拠点でもございます。戦の準備はいつでも整うておりましたんやそうでございます。
戦に必要な物と言うてもいろいろございますな。もちろん刀やら鉄砲やらというのもございますが、それに負けんくらい大事なのが食べ物でございます。「腹が減っては戦はできぬ」てな言葉も残っております。食べ物で何が一番大事かと言いますとやはり米でございますが、意外なことですが米を買い込んで持っておくという仕組みはなかったんやそうで。まあ米というのは置いとくとネズミがついたり腐ったり致しますのでその加減でしょうか。大坂には日本一大きい米相場もございますんで、米はすぐにでも手回ったということもあるか知れませんな。
米の他にもうひとつ重要なものがございます。それが塩。何と言うてもこの時分の戦というのは、典型的な肉体労働でございます。汗をかけば塩も欲しなるというもので。そしてまた味噌というのも塩と一緒に管理されたもんやそうです。管理役として御塩噌方与力という職分が設けられておりました。その御塩噌方与力の部下ということになりますとこれが御塩噌方同心。まあ実務はこの辺りで回されておったのかも知れませんな。長太郎、商売が漬物屋でございますので、その長太郎が御塩噌方同心に会いに行くのは何もおかしいことはなかったわけでございます。御塩噌方同心のお屋敷に着きますというと長太郎、まずは味噌の話から話し始めます。
「山紀屋か。早々に隠居し弟に家督を譲り弟が店の運営に当たっておると聞いておる。隠居自ら出向いてくるとは珍しいの」
「は、尾張より取り寄せました珍しい味噌が手回りましてございます。かなり長い間寝かせて造る味噌と見えまして熟れた味がいたします。もしもの際にはお役立ていただけるのではないかと思いまして、お味見程度ではございますが持参いたしましてございます」
「それが先ほど家人に手渡しておった味噌か」
「左様でございます」
というわけで、味見用のお椀が運ばれてまいります。
「ふん……いささか辛いの」
「万が一戦など起ころうかという時には皆様汗をおかきになろうかと存じます。汗に混じって塩気が体から抜けた時には舌に心地良う馴染もうかと。また日頃使いの味噌と致しましても山椒の粉を一振りしていただきますとかなり味が落ち着きましてございます」
「なるほど、それで山椒が用意されておるか。……なるほど、味が落ち着くようであるな」
「よろしければ買い付け人に命じまして送らせますのでご一考の程を願わしう存じます」
「なるほど、その方の言わんとする所はあいわかった。しかし山紀屋、その方は本当にその件だけで本日参りおるか」
「は」
「先代の働きにより急速に大店となった山紀屋を現在切り盛りするその方の弟は商売の手腕極めて優れ、早々に投げ出した隠居であるその方は日々をだらだらと無為に過ごしていること、塩噌方で知らぬ者はない。その怠け者がわざわざ出向いたとは、単に味噌の売り込みだけをしにきたのではないと推量しても不思議はあるまい。まっすぐに申し述べよ」
「全てお見通し、まことに恐れ入ります。実は二月ほど前に当家に参りました女子衆でございますが、いささか変わっておりまして、私は隠居の身、暇にあかせてその女子衆の昔を探っておる次第でございます」
「変人のその方が変わっておると申すとは、余程変わっておろうの。如何程に変わっておろうか」
「面白い、悲しい、腹が立つ、およそ気分を顔に出すということがございません。当家におきましても『能面』の二つ名を取っております。本人の申しますとおり十二の歳から様々な店に奉公に上がり生きて参ったようでございますが、調べのつく限り遡りまして……およそ五、六歳の頃までは調べがついたのでございますが……昔からそのような女子であったようで。
言葉遣いなどもただの商売人とは思えぬところがございまして、本人はお侍様のお宅に奉公に上がった際に身についた癖と申しておりますが、手前におきまして過去を遡りましてもそのようなこともなく、あるとすれば幼い頃に何らかのご縁がお侍様との間にあったものと思われます。そうなりますと今を遡ること十二、三年前ということになりますが、その頃に六つほどの女子とその母親らしき者と何かつながりのあったお侍様はいらっしゃらんかと、確かめに参りましてございます」
「それを知りとうて、儂のところへ来たと申すか」
「まことに申し訳ございません」
「いや何、調べぬことはない。しかし、わかっておろうの」
「はい、隠居の身でございますので大層なことはできかねますが心ばかりのお礼はさせていただきます」
「ならば良い。何か分かり次第、家人をその方宅に向かわせる」
「まことにありがとうございます。厚かましいことは承知しておりますが、今ひとつお願いがございます」
「まだあるか。何じゃ申し述べよ」
「このことは家の者皆にも、その女子衆本人にも知らせずに調べ歩いております。もし何かお分かりになった時に私を呼びにお越しの際も、女子衆の話をしに来たとは仰らぬようにお願い申し上げとうございます」
「うむ、了解した。では暇ができたゆえ碁の相手をさせたいということで呼びにやることに致す。それで不服はあるまい」
「何から何まで、まことに恐れ入ってございます」
というわけでお侍の方面の情報源は確保した長太郎でございます。あとはお芳のほう。いろんなことをさせてみてその観察をしようということでございますな。とりあえずは取っ掛かりとしてまず芝居でも見せてみようというわけで、店のある伏見町からほぼ南へ南へということになりますが道頓堀にまでやって参ります。話のあらましは前日の夜に済んでおります。
「明日は芝居見物にでも久しぶりに行こうと思うんじゃが、お芳おまはんなんぞどうでもせんなんことはあるかいな」
「私はご隠居様の係りでございますのでご隠居様がついて来いと仰るならおつき致しますが、芝居見物というのは大層お金のかかるものと聞いておりますがそちらの方は大丈夫でございましょうか」
「いやいや、そら、この店一党で見に行て、桟敷に場所を取って芝居茶屋から折詰運ばせてということになるとえらい金はかかるが、ひとりふたりが立ち見で見るということなら安いものや。幕間がそれなりに空くさかい、お弁持って行て茶店で使わしてもろたらそう高い昼飯代もいらんわ。木戸銭も立ち見なら安いもんやし、青田切るのも面白いで」
「ご隠居様、何でございましょうその青田を切るというのは」
「下足番の目ぇ潜って木戸銭払わんと入ることを青田を切ると言うのやな。これ、やってみる気はないか」
「ご隠居様、それは不正ではございませんか」
「まあ不正てな言葉使うたら大仰なが、ちょっとしたごまかしや」
「ご隠居様」
お芳の声の調子が一段低くなります。
「僅かなお金でも不正は不正。そのようなことを、軽々しく口にされるべきではございません。旦那様とはまた違う有りようで、この店の方々に範を示すのがご隠居様のお役目ではございませんか」
「ま、まあそう怒りな。冗談やがな」
「冗談に致しましても……」
「わかったわかった、もう言わん。ちゃんと木戸銭払うて、立ち見で見よう」
「お気をつけ下さりませ。わたくし芝居見物というのは初めてでございますが、どのようなものでございますか」
「役者が出てきて物語を演じるのじゃが、舞台も衣装もそら絢爛豪華なもんやで。時代物と世話物があるが、いま出てるのは世話物やな。『心中刃は氷の朔日』と言うて『小かん平兵衛』とも言われるな。悲恋の物語やが、見てみたいと思わんか」
「見たことがございませんのでどのようなものか見当もつきませんが、ご隠居様のお出向きになられるところならどこへでもお供いたします」
てなわけで今日の芝居見物。立ち見で見ておりますな。小かん平兵衛のお話というのは鍛冶屋の弟子平兵衛と遊女小かんの恋物語。最後は心中で幕を閉じるという話でございます。これを頭から最後まで見まして、一服しようかというわけで茶店へ寄りまして団子をあてにお茶を飲んでおります。長太郎の方はと言いますとボロボロと泣いております。
「いやあ、泣いた泣いた。お乳母はんから和田伝内に託された小かんの母親の手紙、あれは来るな。ふたりで泉屋を飛び出てからいろんな心中思い出しながら北野の藍畑までやって来て剃刀で己が惚れてる女子をずたずたに切り裂く平兵衛の気持ちを思うとな。そしてまた遅れてならじと己が首を掻き切る。これは悲恋じゃな」
「左様でございましょうか。正直なところを申し上げて、私良うわかりませんでした」
お芳の方は相変わらずの能面でそう感想を漏らします。
「ほう。どうしてそう思う」
「死んで花実が咲くものか、というような言葉もございます。例え本意無い別れで別々になりましても、生きている限りもしかしたらということは必ずあると思います。私には、生きて目出度う会える日の来ることを諦めて、あの世でともにという綺麗事に逃げ込んだようにしか思えません」
「はあ、なるほどそう思うか」
「他の人たちから見たら醜いということになるのかもしれません。しかし、いかに醜かろうが、いかに後ろ指さされようが、自分の幸せを求めて貫いてこその人生ではございませんか。あの世できっと幸せに、というのは、この世の幸せを諦めた弱い方のおっしゃる言葉であると私は思います」
「うーん、なるほどなあ。そう言われると、そんな気もするなあ。なるほど醜くても何でも生きてこその幸せか。こらまた、ひとつの考え方じゃな」
「はい、どんなに辛くても、生きていてこそ、いつか幸せはやってくるものと、私は信じております」
「なるほど。おまはん、なかなか強い気持ちの持ち主じゃな。まあそういう捉え方もあるか。言うとくけど、芝居てなもんはみな心中する話と違うで。割と世話物はこういう悲恋物が多いか知らんが、時代物ということになるとこらまたがらっと趣向が変わる。今度は時代物が出た時に見に来ようか。そっちはおまはんの気に入るやわからんで」
「私は、ご隠居様の向かわれるところにお伴させていただくだけでございます」
まあこんなわけで、お芳に芝居を見せてみるのは終わりました。
数日後。
「ご隠居様。御塩噌方の同心様から、暇ができたので碁の相手をせよとのことでお使いの方がお越しでございます」
日も傾いたころ、お芳が隠居小屋へ呼びに参ります。
(何かわかったのかな)
そう思いつつ長太郎、羽織を着ます。表に出る前に母屋へ寄りまして、傳次郎に金の無心を致します。
「傳次郎、まことにすまんのやが、今日は三両だけ何とか都合つかんかな」
「兄さんの方から金の無心とは珍しございますが、なんぞありましたんかいな」
「いやいや、別に無駄遣いしようということやないねん。この前、儂が一日中ぶらぶらしてた時にちょっとやくざ者に絡まれかけてな。そこを助けてくださったのが、同心様とそのお伴のお侍様なんじゃ。暇がでけたら碁でも打とうやないかというのはその時でけたお約束でな。そんな事情やさかい、こないだ味噌だけ持ってご挨拶に行たら少々気まずいことになってな。今日は手ぶらではお伺いしにくいのんじゃ。三両だけ白紙に包んで持って行きたいんやが、ちょっと何とかならんかなと」
「そんなんやったら三両てなこと言うてたらあきまへん、何をおっしゃる。五両にしときなはれ、包みますで持って行って丁寧にお礼を言わなあきまへんで」
こうして五両の包を懐中に持ちまして、御塩噌方同心のところにやって参ります。なんぞわかったことがあったら記録しとかんならんもんやさかい、きっちり帳面と矢立も目立たんように持ってきております。
「山紀屋か。先日その方の申し述べた件、調べてみたところ、該当の例が一件のみ見つかった。それをその方に知らせようと思うて、今日は呼びにやらせた」
「ありがとうございます。隠居の身ゆえまことに些少ではございますがこちらが御礼でございます。それで、該当の例というのはどのようなものでございましょう」
「それがいささか不穏な話になる。吟味役与力の嘉納源右衛門なる御仁がいらっしゃった。この御仁が、破損奉行様に逆賊の疑いをかけ謀反反逆を企んだとて責を受け切腹に処されており、お家財産召し上げの上奥方とご息女が御城下より追放の処分を受けておる。これが十二年前、ご息女がこの時六歳じゃ。その後、奥方とご息女の行方は杳として知れぬ。儂の方で調べがつく限り、その方の申し述べし内容に一致するのは本件だけであった。これでその方の用は足りるか」
「お手数をおかけいたしました。その嘉納様の遺した品は何か残っておりましょうか」
「そう言うと思うてな。用意しておいた。財産が召し上げになっておるゆえ値打ちのある物は何も残っておらぬ。ただ筆まめな御仁であったと見え日記書簡の類が数多く残っておる。それらは、用意致した。全て離に運ばせてあるゆえ、見たいだけ見るが良い」
「まことにありがとうございます」
こういうわけで長太郎の前に帳面やら手紙やらがずらーっと並びますな。何はともあれまずはお芳のことに触れたところを探さんとしょうがない。己が娘と手紙やりとりしているはずはないのんで、日記の方から手を付けます。割に簡単にお芳のことについては見つかります。
「本日、我ガ子誕生ス。女子也。我ガ子乍、此ガ赤子カト見紛フ程眉目整フ。慶ビ大也」
(そらそやわなあ)
と長太郎も思います。初めての我が子、それがあんな別嬪。かわいいと思わなんだはずがないのでございます。ただ、これがお芳かどうかは何とも言えんのでございます。と申しますのも、昔は女子の名前と言うのは「ない」もんやったんでございますな。そらもちろん、ほんまはございます。ただ、両親と亭主、これ以外の人間には知らさんもんやったんでございます。偉い人になるほどそういうもんでございまして、時代劇なんかで出てくる武将の奥方様のお名前なんかもほんまのところはわかってないことが多い。大概はそれが単なる「あだ名」やったからでございます。だいたいお侍の家というのはこういうことで通っております。
話を戻りまして長太郎が繰っておりますこの日記。この子のことについて書いてあるところをまずはざっと見てみましても、名前は出てまいりません。ことに身分の高いお方ということになりますと、女子の方は本名を知られるというのはいわば裸見られるようなもんでございます。この嘉納源右衛門様というお侍様、かなりきっちりしたお人やったんやなあ、というのが日記から読み取れます。
「娘、我ガ指ヲ握ル。掌、温カク柔ラカシ」
「娘ガ掌ヲ持チ體ヲ引キ寄セタル処、娘首ヲ起ス。首据リシ証ト言フ。生育順調也」
「鰹ト昆布ノ出汁ニテ味ヲ付タル重湯ヲ飲ム。食欲旺盛也。體良ク肥エ良ク眠ル。體健ヤカナル証也」
本当に筆まめなお方であったと見えまして、娘さんの細かい成長の記録がまことに緻密に残っております。とりあえずは長太郎、日付とともにその記録を持ってきた帳面に書き写していきます。この日記の娘さんがこの後どうなるのかは毎日のように細こうつけられた日記を繰っていかんとわかりませんが、とりあえずわかっているのは、お芳が歳をごまかしてるというようなことがない限り、歳勘定だけは合うてるということでございます。
細こう読んでいるうちにかなりな時間が経っておりまして、ご家臣が呼びに参ります。
「山紀屋、そろそろ終わりにするようにとのことである。まだ時はかかるか」
「これほどの仰山の手紙日記、とてものことにこれだけの間に見きれるものではございません。何度かに分けて見せていただきたく存じますが」
「しかし、破損奉行様に逆賊の疑いをかけるという大事の記録の故、証拠の品として管理されておりその方が読み終わるまでここに置いておくというわけにも行かぬのじゃ」
「それならば、毎月一のつく日、一日、十一日、二十一日にご用意いただくわけにはまいりませんか。商売の名目で伺いますので、通らせていただけますれば離れの方で読ませていただくことができようかと思いますが」
「……ならぬと言うたところで、その方は納得すまい。その方の言うように致す故、好きなだけ読むが良い」
「まことにありがとうございます」
こうして調べる道筋だけつけました長太郎でございます。
そしたら間は何をするかというとお芳を連れてあっちこっちに行ってみようという観察の続きでございます。
「お芳、明日は暇かいな」
「私にとりまして他の用事がございましてもご隠居様のお傍にお仕えするのが私の役目でございますので何でもお申し付けくださいませ。お出かけのご用事でもお有りでしょうか」
「ご用事というたら大層なが、寄席てなところへ行ってみようかと思うてな」
「寄席というのはどのようなところでございましょうか」
「お祭りやらある時に大道芸人が仰山出るじゃろ。あんなんばっかりを集めて常打ち小屋を作ったもんと考えたらわかりやすいかな。要は遊びじゃな。一緒に行かんか」
「お役目ですのでお供いたします」
寄席というのができはじめたのがだいたいこの頃やと言われております。この時分、お祭りやらがございますと大道芸人やら見世物小屋が並んだわけでございます。見世物小屋は、売り文句で期待さすだけさしといて、中へ入ってみたらしょうもないもんが展示してあるてな、インチキ小屋も多かったんやそうでございますが、そういうのんと混じって発達したのが今日の落語の元のようなものでございます。上方落語は大道の芸から発達しておりますので道行く人を足止めささんなりまへん。
というわけで特徴がございまして、小道具を目の前に置きましてガチャガチャと賑やかに叩く。道行く人はそれだけで「何じゃいな」というわけで足を止めるわけでございます。そういう手法がいつできたのか、それは良うわかりまへんが、はっきりわかっておりますのは娯楽としては大変安すつくもんやったということでございます。高い遊びは良うしませんが安い遊び大好き。これがこの長太郎という人間でございます。
狭い小屋にお座布団が敷けるだけ敷いてある。一枚が一人前のスペースですな。その前に高座がございまして、そこへ出てきた芸人がチンと座る。その上でわかったような分からんような噺をするわけでございますが。噺があったり、合間に色物があったり。
長太郎というのは至って気楽な男でございますので噺聞いて大笑いをしておりますが、ふと気が付くとお芳は隣で赤い顔して俯いてる。なんぞがあったんじゃ知らん、体の具合でも悪いんかいなと思うて声をかけようとした時に長太郎も気が付きます。肩が細こうに震えている。つまり笑うのを我慢しているわけでございます。面白いものを面白いと思うという気持ちは持っているわけでございますな。ただ、自分は醜いと思い込んでおりますので、相好を崩そまいと必死で耐えている。決して心の動きのない子ではないわけでございます。
その日の晩のご飯の時のことでございます。
「なあお芳、今日寄席に行ってみてどない思た」
長太郎が尋ねましてもお芳は相変わらずの能面で。
「誠に役に立たないお話と思いました」
「まあ、それはそやな。やけど、娯楽、楽しみというのは、おおよそ役には立たんところにあるもんやで」
「はい、心得ております。そうですので、今日のお話も誠に役に立たない、楽しいお話と思いましてございます」
「おお、わかってくれてるだけが嬉しいがな。おまはん俯いてたさかいわかったが、赤い顔して笑い堪えてたやろ」
「お気づきでしたか。まことに恥ずかしいことに存じます」
「何が恥ずかしいことあろか。面白いことがあったらわははと大きな声で笑や良え。面白けりゃ笑う、悲しけりゃ泣く、これはいわば人が人である証じゃで」
「そうおっしゃっていただきますと気が楽でございます」
「……なあ、おまはんには酷なこと訊くのかもしれんが、もし良ければ話してはくれんかな。何でそこまでして顔を崩すのを嫌がるのや」
「……どうしても、申し上げねばなりませんか」
「始終一緒にいると、やはり気になる。何ぞ事が胸へつっかえて笑うことがでけんのやとしたら、そのつかえを下ろしてやりたいと思うのが、やっぱり主人の心というものじゃで。儂でどこまで役に立てるかわからんが、人に話すだけでも楽になるということがあるがな。いっぺんに全部とも言わん。ここまでは今日話そう、明日はここまで、それでも構わん。口にできるところまで、言うてはくれんかな」
「……私は、醜うございます」
「うん、それは前に聞いたな。そやけどこの世の中、ま、言葉は悪いが不細工なお方というのは別に珍しいもんでもないで。そういう人が皆おまはんのように笑い堪えて生きてるわけでもないがな。どういう事情で笑い堪えてるんや」
「今は、まだ心の支度ができておりません。しばらく考えましてどこまでお話させていただくか決めますので、今日のところはご勘弁を」
「ん、わかった。じゃあ聞き様変えてこれだけ答えてくれるか。おまはんがこの家に来るようになったきっかけが、うちの定吉が口入屋さんの店先で『不細工な女子衆さんお頼申しま』と言うたことやと聞いてるで。その時定が言うたような、山から這い出し、人間三分の化けもん七分てな、およそこの世に居る限りの不細工中の不細工てな人を一、小野小町か楊貴妃かてな絶世の美女を十としたら、自分はいくつくらいやと思う」
「ご勘弁を。そのようなことを訊かれましても、一よりまだ下と申し上げるより他ございません」
「そうかなあ」
「ご隠居様は、どのようにお考えですか」
「儂に訊くか。まあ、隠居が女子衆を値踏みするようで何や嫌らしいが、数で言えと言われたら、そう七、八やと言わせてもらおうかな」
「ご冗談を」
「まあ、儂からはこれだけ言うておく。どこまで冗談かは今後儂を見て考えておくれ。儂は明日はちょっと出るさかい、今日は早よ寝よう」
次の日。これが一の日でございますな。
「傳次郎、今日はなんぞ目先の変わったお味噌はないかいな」
「また何でございます、藪から棒でっしゃないか」
「いやいや、大したことはないのんじゃ。ただ、この間尾張の珍しいお味噌を御塩噌方の同心様に差し上げたじゃろ。味噌でありさえすりゃ良えというようなものを戦の備えに置いておくよりも、ちょっとでも美味しい、食べて嬉しいような味噌を用意した方が戦の時にも士気の高さにつながるのではいうことでお考えになられてな。色々と珍しい味噌があったらお試しいただくというようなことで話がでけてある。今日はなんぞあるかいなあというのはそういうことなんやが」
「兄さん何言うてはりますねん、そら大したことやおまへんか。話の成り行きでは御用達の店になるやわからん、今日は地方から珍しいもんが届いてるてなことはおまへんが良う熟れた麹味噌が入っております。麹やさかい置いとけば置いとくほどよろしいで。これ店の。あの一番上等の麹味噌を三百匁包みなはれ。さ、これ持て行て、あんじょう売り込まなあきまへんで。ほな行っといなはれ」
というわけで御塩噌方同心のお屋敷へ。話はでけておりますので門番のお侍様にも味噌をお持ちしましたの一言で通れるようになったある。裏口から入りまして離へと入れてもらいます。
嘉納様の日記のとりあえず娘さんの話だけを順番に抜書きしていきますが。
「娘、本日寝返リヲ打チシトノ由。初ノ寝返リ見ル事能ハザル事誠ニ口惜シ。宅ニ戻リテ眺メタル処、数度寝返リ打ツ。何思ヒテ寝返ルカ推量シ面白シ」
「娘、亜乃至於ト聞コユル聲ヲ我ガ目ヲ凝視シツツ發ス。何事カ我ニ訴ヘ掛ケル何。我如何答ユル冪カ暫思案ス。樂シミ也」
毎日がこの調子でございます。
「可愛いてしょうがなかったんやなあ……」
その娘への温かい気持ちのこもった日記を長太郎、自分の持ってきた帳面に嘉納様の代わりをするような心持ちで細大漏らさず書き取っていきます。しかしその娘が三つ四つになると少々具合が変わってまいります。
「娘ニ己ガ醜貌ヲ言ヒ聞カス。醜貌故、女子ガ技藝、度量無カリセバ生クル途無シト」
「萬壱ニシモ容貌ニ驕リテ他人ヲバ軽ンズ様等身ニ付カバ、娘一生ノ不幸ノ源タラン。溺愛スハ易シ。此母親ガ務也。突放シ世ノ厳シキヲ教フ、此父親ガ務ト信ズ。将来必ズ娘我ガ意ヲ知ラン」
長太郎、ここで矢立の筆を一旦止めまして、お腹の底から、
「そうやったんか……」
とつぶやきます。
(こら、あのお芳のお父上に間違いはないわ。あれだけの別嬪が別嬪鼻にかけて世の中舐めるようなことにはすまいと父親として思ってはったんやろなあ。敢えて可愛いとは言わず厳しいこと言うてはったんや。
ほんまやったら、あれだけの別嬪でもお高くとまるようなこともなく、家事一般からおそらくお琴のひとつも嗜むような、ほうら申し分ない女子に育ったはず。婚礼の時にでも嘉納様から本心を聞かされてめでたしめでたし、こうなったはず。しかしそうはならなんだ。なぜ。嘉納様が謀反逆賊をたくらみ、お腹を召されることになったから)
罅の入ったお皿同士がぶつかるような嫌な音が長太郎の頭の中に響きます。これだけの子煩悩にして質実剛健なお方が、謀反。何のために。戦乱の世の中においては相次ぐ戦のために民百姓が疲弊して鬱憤が溜まり、それを平定すべく謀反に立ち上がったお武家様は数多くいらっしゃったということは長太郎も本など読んで知っております。しかし世は長く太平を保っております。この大坂なんかではお侍様より良え暮らししてるような町人かて珍しいもんやない。そうなると謀反に大義がございません。にも関わらず謀反の企てという事なれば、あり得るとすれば私利私欲。私利私欲とこの嘉納様のお人柄が長太郎の頭の中にどう考えても両方すっきり収まりません。どうもこれは何か裏がある。
「山紀屋、本日はもう閉門の時間によりこれまでと致せ」
「は、では本日はこれにて失礼をいたしますが、十日後またお願いを致します」
帰り道も長太郎の頭の中は罅の入ったお皿ががちゃがちゃ言うとおります。
(我が娘にこれより上はない愛情を注ぎつつも、その子の将来を思うて敢えておまえは醜いと言い続けた、お堅いお父上。それが己が私利私欲のために逆賊。嘉納様の遺された日記書簡に何か書いてあるかも知れん。これまではあのお芳が嘉納様の娘か否かというところしか注意して見てなんだが、こら他のところもきっちり見とかんならんようなな)
そう思いつつ、店まで帰ってまいります。
「いま戻った。開けておくれ」
「ご隠居はんお帰りやす。えらい遅いこってしたな」
「儂も儂なりに商売気張って話が長ごなったんや。疲れたさかいに早よ寝るわ」
というわけで、その日は終わります。
二、三日後。
「お芳、今日は母屋の方で大事な仕事はあるかいな」
「本日は旦那様よりこれということは仰せつかっておりません」
「ほなら儂の相手をしてても良えということじゃな。おまはん、碁て打ったことあるか」
「以前ご奉公させていただきました先の旦那様がお好きで、打ち方だけ教わったことがございます」
「ほうか。それだけでも有難い。ほなら、儂の相手になってくれんか」
「せいぜい一生懸命務めさせていただきます」
「碁盤はここにあるな。そこに紙が四角う畳んであるじゃろ。そうそうそれそれ。それこっち持ってきとおくれ」
「この紙は何に使うものでございましょう」
「この碁盤は十九路盤というてな。一番大きい碁盤なんじゃ。それだけに布石やら駆け引きするだけの間が十分あるな。解ってる者にとっては一番面白いんじゃが、慣れてない者には難しいで、その紙をこうかぶせるとな。真ん中の九路だけが出たある。九路盤というのは最初の取っ掛かりとしてはやりやすいさかい、まずこれでやってみようやないか」
「良くわかりませんが、務めさせていただきます」
「知ってるということなら話がしやすいが、碁というのは陣取り合戦なんじゃな。自分の色の石でこの盤の上の目をどれだけ取れるかという遊びじゃ。石が置いてある目は自分の陣地やないさかいに、無闇矢鱈と石を置いていきゃ良えというもんでもない。まあ、何はともあれやってみよう。黒のほうが先手やさかい、おまはんはまず黒を打ってみ」
「打ってみろと仰せられてもどのように打つか皆目見当がつきかねます」
「そうか、そらそやな。まずは隅の方から囲うのが定石というやつじゃ。守りの打ち手は隅から二目置いて三線めに打つことが多いな。攻め手は四目めから来る。どうする」
「それならば私は守りに入らせていただきます」
「なるほどな。それを受けて儂の方じゃが、自分の陣を取るか相手の邪魔をするかという二手が考えられるな。儂はここで自陣を取ることを攻めて考えて反対の隅を四線めと行こうか」
「今度はまた私の番ということになるわけでございますね」
「そういうことじゃ。儂が一石置いてるさかいに、おまはんとしても自陣を堅牢にするか儂の邪魔をするかという二手考えられる。自陣を延ばしつつ儂の邪魔をするという一挙両得の手もあるな。どう行きたいと思う」
「わかりかねますが、どこにどのように置いたらどういう意味があるのかお教えください」
「守りに入ったらここじゃろうが、儂としてはこの辺りに来られたら一番嫌じゃな。攻めつつ守るとしたらこの辺かと思うが、それだけに攻めにも守りにももうひとつ力強さを欠くのがこの手じゃな。さあどうくる」
まあこんな感じでもってふたりで碁に興じるわけでございますが、お昼ご飯も済んで昼下がりくらいになりますと九路盤では長太郎のほうが劣勢になってまいります。長太郎も余裕がなくなってまいりまして。
「うーん……ありません。はぁ、こない早よ強なると思わんかったで。よほど向いてるんじゃろうなあ。よし、ほなら十九路盤でちゃんとやってみようやないか」
「ご隠居様、十九路盤ということになりますと時がかなりかかるのではございませんか」
「そやな。まあ玄人の碁打ちともなると一局に何日てなことも珍しいことではないらしい」
「私、そろそろ母屋の方で晩御飯の支度をお手伝いしなければなりません。十九路盤はまた日を改めてお教え下さいませ」
「もうそんな刻か。ほならしょうがないが、おまはんやりこんだらかなり強なるで」
「ご隠居様のご命にございましたのでお相手を承りましたが、碁を打つのは奉公人の仕事とは思えません。私はご隠居様のお相手を、ご隠居様のお気の向きました時にのみ務めさせていただくつもりでございます」
「なるほどなあ。まあ、おまはんの言うことのほうが正しいのかも知れん。そやけどおまはんやったら十九路盤でもあっという間に上手なるで。芸は身を助くとも言うでな。ことに年寄り相手なんかやったら重宝がられる。これからはちょいちょい打とうやないか」
「ご隠居様のお気持ちのままに、務めさせていただきます」
そう言ってお芳は母屋に戻っていきます。
(おそらく、打ち方だけ教わったなんていうのは嘘やろうなあ。幼いころは嘉納様に、その後はお母上かな。仕込まれてたに違いない。そう思うとますます元はお武家様と考えたくなるもんやが……どうしたもんかな)
長太郎も思案いたしますが、いま「おまはん、嘉納源右衛門様のご息女様じゃろ」といきなり切り出してお芳がはいと言うとも思えません。とりあえず嘉納様の日記書簡を調べ尽くすというところまでしないと、そこから先は進まんな、それだけ考えて、この日の夜は暮れます。
次の一の日がやってまいりました。
「兄さん、今日も御塩噌方同心様のお宅に行かはりますか」
「ああ、そういう約束がでけてあるが」
「ほなら今日は桜味噌の良えのが入ってまっさかいに持って行っとくなはれ。田楽味噌に良う使いますが、これけっこうご飯のあてとしてもよろしい。握り飯に塗って焼いたりしたら辛い味噌とはまた一味違うて美味しいときっちり売り込んどおくなはれ。それから今日は酸茎が京から入ってまっさかいに、これはあくまでもご挨拶として」
てなわけで、御塩噌方同心のお屋敷にまでやってまいります。手順としては一緒、裏から入って離へ。相変わらず用意されております嘉納様の日記書簡。今日は日記の一番初めから「破損奉行」の文字を探して読んでまいります。
「破損奉行様、先日来遊興豪奢也。不要ナル豪遊、士分トシ好マシカラズ。機有ラバ一言御進言申上ル可」
(これがどうやら最初らしいな)
と長太郎、見当をつけます。破損奉行様がどうやら遊びの度が過ぎると。
破損奉行というのは、元々は材木奉行と言いまして、大坂の町ができはじめた頃には御公儀の建物の普請を担当したお奉行様ですな。大坂の町がおおよそ出来上がりますと、建物の中でも壊れたものを直すのが仕事の破損奉行という職分に改組されました。
(ただこれだけではちょっと弱い)
長太郎は考えます。
(破損奉行様はお三方いらっしゃる。どの破損奉行様なのかがまずわからんな。それから遊びの度が過ぎるだけでは、ただ「少々慎まれたほうが」というようなことを申し上げるだけで終わりや。決め手にはならんな)
いずれにせよこれが最初の取っ掛かりでございます。
「破損奉行様、御忍ビニテ市中歓楽街ニ繰出サレシ御様子。萬壱事アラバ大事也。直接御進言申上ゲルトモ受入ラレル事期待ヲ得ズ。先ヅハ其行先ヲ特定為可」
(つまり、町人に身を窶して遊びに繰出してはったんやろうなあ)。
このころの大坂を治めてはったお侍様の職務分担でございますが、先づは将軍家のいわば名代と言えます城代。これをトップに頂きます。其の直属の部下ということになりますのが定番がふたり、町奉行、大番がふたり、下番が四人とこういうことになっております。定番というのは大阪城の玉造口と京橋口を警備した譜代大名でございますな。破損奉行というのはこの定番の下に置かれた役職でございます。そやさかい、そこそこの大役であったわけでございますな。
一方の嘉納様の御吟味役というのはどこにいるかというと町奉行様の部下でございます。ですので単純に順番だけから申しますと嘉納様と破損奉行様というのは同じところにいるわけでございますが、定番様が譜代大名であったのに対して町奉行様というのは旗本でございますんでね。立場の上下というのは確かにございました。そやから、気安うに「ちょっと慎まはった方が方が良えんと違いますか」てなやりとりがでけるような仲ではなかったわけでございます。またそれだけのお方なればこそ、嘉納様の「何かあったらえらいことや」というご心配もあるわけでございます。
しかしいずれにせよこれだけではこれだけではまだ誰やわからん。長太郎、先を読み進めます。
「破損奉行様、時々ニ行先ヲ御変ニ為ル由。特定ノ歓楽街、特定ノ茶屋ヲ贔屓ト為サズ。遊興先ヲ事前ニ知ル事難事也」
(つまり行き先を変えてはったんやなあ。こら難しい。おそらく名前もその度に変えてはった事は間違いなかろう。遊びに行く先変えておきながら同じ芸妓を呼んでたとも考えにくい。お抱えの幇間もおらんかったやろうなあ)
「破損奉行様、材木問屋トノ会合頻繁也。先日来ノ豪奢ナル遊興、此ノ商人ヨリノ寄進ニ依ラバ是贈収賄也。直言申上ル可カ。悩ム」
(苦しんだはるなあ)
と長太郎も思います。それはそうでございます。この時分、お侍の役職というのは一応決まってはおりましたが、今の会社組織なんかから考えたらえらい良え加減でございまして、お役目の融通というのはかなり利いたもんなんやそうでございます。しかしまあ、いずれにせよ御吟味役与力様より破損奉行様の方がお立場が上なのは間違いのないところでございまして、役職の縦の列を乗り越えて「御奉行様、お慎みあそばされては」てなこと言うというのはよっぽどの事でございます。
そして──この時点ではまだ長太郎の推測でしかございませんでしたが──嘉納様はそのよっぽどの事をやって、裏目に出た。そう考えるよりしょうがないのでございます。
(ここから日記にはこの件一切出てないな……。日付が妙に飛んどるし、証拠として押さえられてる事はおそらく間違いなかろう)
そう長太郎は考えます。書簡類を見ましても見るべきものは何もございませんでした。
(このことで日記や書簡をこれ以上探ってもどうやらしょうがないような。あとはそうなると、おそらくお芳と思われる娘のことを拾い書きしていくだけのことやな)
これがまだまだございまして、これもまた次回へ持ち越しというようなことになるわけでございます。
二、三日後。
「お芳、今日は儂も出かけたいと思うんじゃが、おまはんを連れて行って良えものかどうか儂も迷うとるんじゃ」
「どちらへお出かけでございますか」
「相撲なんじゃ。久しぶりに相撲が見たいと思うてな。儂ゃ至って好きなんじゃが、おまはんも知ってるじゃろうが『奥方に 見せぬ諸国の 良い男』と言うて相撲というもんは女子は見たらあかんということになってるんじゃな。どうしたら良えもんかな」
「それならば近くの茶店ででも待たせていただくというのはいかがでございましょう」
「それをして貰えるんなら一番ありがたいが、一日中じゃで、おまはん退屈せんか」
「ご隠居様のご本をお貸しくださいませ。それがあれば私も退屈はいたしません」
「そんなんで良えのかいな。ほなまあ、好きなんを選んで風呂敷にでもお包み」
というわけで、お芳が選びましたのが『論語』でございます。
「そんな堅い本が良えのかいな。もっと滑稽本でも旅本でも何でもあるで」
「いいえ、私はこちらだけで結構でございます」
「そうか。まあおまはんが良えというのならそれで良えのやが。ほなまあ、行こか」
というような経緯でもって場所までやって参りますな。やっぱり華やかなもんでございますからなあ。見に来る人も多い。近場には茶店が争うように軒を並べております。その中の適当な一軒に目をつけましてふたりでとりあえずお茶とお団子だけ頼みます。これこれこういうわけでと店の主に話して聞かせますと
「ああ、かましまへん。どうぞ使うとおくれやす」
と話がまとまります。
「一朱渡しとくでな。お腹が空いたら何なとお食べ。暑いさかい、小まめに水気は取らんと後でしんどなるで。ほなまあ、長いこと待たせて悪いが、ちょっと行てくる」
いったん入ってしまいますと長太郎も我を忘れます。夕景になりまして満喫し切りました長太郎が観戦の終わった観客と一緒に出てくる。するとお芳が知らん人と話してる。どうやらかなり歳の行った人。どこかのご隠居はんかいなあという人でございます。
「女子の分際で相撲の場所に出入りするのみならず、学問の本などを読んでおる。誠にけしからん何たることか」
聞いてみりゃあ、何かそんなことを言っているようでございます。あえてここは長太郎も様子を見ることといたします。
「私はご隠居様のお側にお仕えするのが仕事の女子衆でございます。主が相撲を見たいとおっしゃったのですから、お側までお供するのが役目でございます。相撲というものは女子の見るものではない、良う存じております。従いまして土俵の見えるところには立ち入らず、この茶店で待たせていただいております。待っている間は私の手持ち無沙汰でございます。その間にご本を読ませていただくことがそれ程いけないことでございましょうか」
「土俵を見ぬなら見ぬでも良い。じゃがしかし、学問は女子には不要、このような人目の多いところで見てくれとばかりに書物を広げるとは何事か」
「そこまでおっしゃるならお尋ねをいたします。人としての正しき道というのは、男の方と女子で異なるものなのでしょうか」
「何を」
「先人の説かれた人倫の正しき道を学ぶ、それに男も女子もないと私は考えております」
「何をこの小娘生意気な」
御老人が杖を振り上げたところに長太郎出て参りまして杖を押さえて割って入ります。
「まあまあ、何も杖で打たいでもよろしいやおまへんか。私の方から後にあんじょう言うときますさかいどうぞお許しを。……そやけど、あんたかてちょっと悪いで」
「何じゃおまえは。この娘の主か」
「そうでんねん。言わせてもらいますけどな。この女子衆まことに良うでけておりましてな。字ぃも立派に書いて丁稚連中の手習いに不自由したことございませんしな。やれと言うたら帳面付けまででけまっせ。花生けても立派に生けます。縫い針から掃除洗濯、便所掃除なんかさしても不足たらしいことのひとつも言わんどころか顔に表すことも微塵もございませんわ。こんな良うでけた女子衆が世話役について私まことに重宝しておりますねん。そんな女子衆が、仕事の合間に暇がでけたなあ、手持ち無沙汰やなあてな隙間に本のひとつも読んで何があかんとおっしゃる」
「女子に学問は不要じゃ」
「何でだんねん」
「学問を齧った女子は、そうでない男を見下すようになる」
「ああ、それやったらご心配には及びまへんな。この子まことに働き者でっせ。上の者の目ぇ盗んでは手ぇ抜くこと考えてる丁稚やなんかよりよっぽど働きますわ。それでいてそういう丁稚連中見下すかと言うたらそういうことはない。良うでけてまっしゃろ」
「うんむ……だいたい何じゃ主というお前は。まだ若そうなが格好は隠居じゃな」
「間違いのう隠居です。若うても何でも身代譲って商売から身ぃ引いてしもたら隠居でっしゃないか」
「年はなんぼじゃ」
「二十三でございますが」
「二十三では身代譲るような子もおるまい。誰に譲った」
「ふたぁつ違いの弟に」
「それで隠居か」
「あかんというお上のお定めでもございますかな」
「全く……女子が女子なら、主も主じゃわい」
言い捨てるように去って行きます。
「ご隠居様、誠にご迷惑をおかけいたしました」
「いやいや、何の迷惑なことあろうか。おまはんには悪いがな、しばらく遠くから見せてもろた。胸がすーっとしたで。ほんまに良う言うたった。古くさいこと言いやがって言い込められたら手を上げようとする、あらほんまの阿呆じゃ。あんなんの言うこと気にしてたらあかんで。とりあえず、何か食べたか」
「お茶のみいただいておりました」
「何も食べてないのんか。そらあかんな。何ぞ食べな」
「私お腹は空いておりません」
「おまはんが気ぃ使うてそう言うてくれてるのは良うわかる。せやけどな。考えてみ。おまはんと儂、朝ここへ来てお茶とお団子いただいただけやで。それだけの銭で一日場所借りたてなことでは立ち辛いがな。ここはやっぱり何か一品か二品、頼んで帰らんと儂も去ににくい。とは言うてもあまりしっかりしたもんも今食べたら晩に障るな。そや心太なら腹に堪えんやろ。おおいお店の方。心太と、そいから甘酒、冷とうしてふたぁつづつ。心太にはせいぜい蜜張り込んどおくれ。……さあ、しばらく心太と甘酒を味わわせてもらお」
「ご隠居様、先程来この店の前をご立派な男の方が数多く通られますがあの方々がお相撲を取られるのでございますか」
「まあ、それはそうなんじゃが、我々も通るこのあたりを通るとなると、まああまり強い方ではないな。下の方で強い相撲の身の回りの世話してる付き人か、そやなかったら昔は相撲やったけど辞めて若者頭か何かやってるか、そんなところじゃろうなあ。上の方の強い相撲はそれだけの入り口があるでな。そっちへ行くじゃろう」
「そのようなお方でもあれだけご立派と言うことは、強いお方は相当なお体なのでございましょうね」
「まあ、おおよそはそうじゃな、大体のところは強い相撲ほど大きいわ。そやけど大きいだけで決まるもんやったら、別に組み合うたり投げ合うたりせんでも秤に乗せりゃ良え、そうは思わんか。体が小そうても技で大きいのを押し出したり投げ飛ばしたり。これは見てたらしびれるで」
「男の方が夢中になられるのがわかるような気がいたします」
「でもやっぱり心技体の揃うた上の方の力士が総力をぶつけ合うことこそが妙味じゃな。一番強い大関となると、横綱というのを締めて土俵入りというのをするな。出雲の神さんのところに行たら大きな大きな注連縄があるの、おまはんも知ってるじゃろ。あれの小さいようなのを腰の周りに巻いてな。天よ見たれとばかりに両手を大きく広げて、地に響けとばかりに力強く四股を踏むな。それはそれは勇壮なもんじゃで。生まれ変わりなんていうもんがほんまにあるんであれば、儂はああいう強い相撲に生まれ変わりたいなあ」
良え年をした男が叶いもせん夢を身振り手振りで語っているんでっさかい、普通やったら笑われても仕方のないところでございますが、このお芳にはその心配だけは全くございませんわ。
「男の方の憧れであるというのは、そういうところなのでございましょうか」
「まあいろんな見方があるんじゃろうが、儂はそう見てるしそういう人がまた多いのと違うかな。考えてもみ、この日本では、注連縄の中に居って良えのは神さんと大関だけじゃで。相撲というのは神さんごとでもあるのじゃな。そこがただの遊びとの違いじゃ」
「神事と言うことになりますと、いわばお正月と同じような重みがあるのですね」
「そういうことやな。さあ、ちょっと遅なった。あんまり遅いと家の者心配するさかい、去のか」
「では……ご隠居様、お着物が濡れております」
「ああ、これか。元から暑いところに持ってきて、皆が熱なるもんやさかい、桟敷に水打って回るねん。夏場所の風物詩じゃな」
「いけません。濡れたお着物に夕方の涼風が吹き抜けると言うことになりますと夏とはいえお体に障ります。一刻も早くお店へ」
そういうわけでお店の方へ帰って参りまして、夕食をいただきます。今日は少し疲れたので早めに床をとお芳に申しつけまして、お芳には母屋へ帰らせます。そしてすぐ寝るかというとそうではない。ひとり考え事をしたかったんですな。
(今日のお芳の気丈さにはびっくりしたなあ……選んだ本といい、年端もいかんうちから女子衆だけやってきたような女子ではないわ。今わかってることをまとめてみると……帳面と筆、いやあかんな、ひょっとお芳に見られたら心を閉ざしてしまうかもしれん。頭の中だけで……今わかっていることは、お芳は六歳の時から母親とふたり暮らし。母親はお咲さんと呼ばれていた。その母親を十二の時に亡くして、以降いろんな奉公先を転々とする女子衆暮らし。その間、ずーっとあの能面は変わらなんだ。そんで、お芳とお咲さんが母ひとり子ひとりの家になって長屋住まいを始めた時分と、嘉納源右衛門様が謀反逆賊の咎でお腹を召された時期が合う。その嘉納源右衛門様にはまさにお芳と同じ年頃のご息女がいらっしゃった。嘉納源右衛門様は生前、破損奉行様の遊興が過ぎることをあまり好ましくお考えでなかった。いつかひとこと御進言を、と思っていたことは間違いないが、それ以降のことについてはお上の秘密として儂に見ることはできない……どうしたもんか)
寝床の上に胡座かいておりました長太郎、ごろっと横になって続きを考えます
(これらのことを並べて考えると、嘉納様が破損奉行様の不正を糺そうと動いたところ、これを謀反逆賊の企みであると逆恨みを買うて切腹を申しつけられた上、御家族に至っては御城下を追放になった……わかりやすう考えるとそうなるな。やけどそう考えるにはまだ虫食いになってるところが多すぎる。あの能面がどうやってできたのかもまだわからんな……。大体、お三方いらっしゃる破損奉行様のどなたなのかもわからんし……)
──お奉行の 名さえ覚えず 年暮れぬ──
いきなり電光石火のように長太郎の脳裏に川柳が一句駆け抜けました。そうや『大坂武鑑』があるやないか。
先にも申しましたが、この時分の大坂の町というのは、いろんな意味で町人の町でございまして、お侍様の存在感というのはだいぶ薄かったんでございます。しかし一方で、町人の商売やら土木工事やらに、今で申しますと「許認可」の権限を持っておったのがお侍でございます。いないようで重要やったのがお侍ということになるわけでございますな。従いまして毎年のように、お侍の方々の役職やら、名前と地図が載っております今日で申します住宅地図のようなものですな、これらが発行されてたわけでございます。
今から十二年前後遡った大坂武鑑を手に入れて、その頃から面々がすっかり変わってしまっているのならば自分にはもうどうすることもできんやろうけども万が一その時の破損奉行様が今も残っていらっしゃるならばどうにかなるかもしれん。雲をつかむような話でございますが、今はそれしかできることがどうやらなさそうということに長太郎の肚が決まります。翌日早速古本屋を数軒回りまして、十五年前から十年前までの大坂武鑑を手に入れる。ついでに一番新しい大坂武鑑も一部手に入れますと、この長い期間、破損奉行を務めておられる方がおひとりだけいらっしゃいました。大久保允治郎様。この方が問題であるという根拠は何もございません。しかしそうでないと考えるならば一介の隠居である長太郎にできることは何もないことになる。とりあえずこの方の身辺を探るところから始めることにいたします。