3.赤と黒(2/2)
自我の制御もままならないまま、奈々は力に翻弄されていた。正気を失ったまま、景光の元へ走る。
「――加藤、景光ッ!!」
少女とは思えぬ恐ろしい形相のまま、奈々は右手を振りかぶり、景光へ落とす。
「良い……だが!」
景光は彼女の右手首を握り、左の拳をみぞおちへねじ込んだ。
「あぐぅっ!? かはっ! はっ、は……」
「甘いな。力に浮かされ使われているだけで、勝てると思うなよ」
奈々はただ、叫ぶ。昨日までの彼女なら、抱きもしなかった感情をもって。
「殺す!」
憎悪にまみれた、瞳を向けて。
「殺す! 加藤景光、皆とお父さんの仇! お前を殺してやる!!」
景光は愉悦に満ちた笑顔を浮かべた。望みが叶った、と言わんばかりに。
「面白い、面白いな、嵐山奈々! 奴らの娘をここまで歪めることができるなどとは……!私は今、至上の喜びを噛みしめている……!」
景光は奈々の眼前に瞬間移動し、彼女の顎を掴む。
そして、爪で深く、傷を付けた。
「うあ……ああああ……」
奈々の目から、涙が一筋こぼれた。
なぜ、自分はこのような目に遭わなければならないのか。
なぜ、皆は殺されなければならなかったのか。
なぜ、あの優しい父が惨たらしく死ななければならなかったのか。
なぜ…………。
傷跡に血がにじみ、涙と共に頬をつたった。心と体双方の痛みに負けて、奈々の意識は途切れ、ガクリとうなだれて倒れ込んだ。
「愉しませて貰ったな、嵐山奈々」
景光は彼女にはそれ以上手を出さず、黒い翼を開き、教室にかけた術式を解いた。崩壊したそこから、飛び立つ。
傷だらけの少女だけが、そこには取り残された。
復讐鬼の天狗。
少なくとも景光は、そう認識している。
「……なんなのよ、これっ……!?」
隣のクラスの担任である女性教師は、恐ろしい光景に目を疑った。
教室の片隅には、ぼろぼろになった少女が一人。
彼女は、まだ知らない。
吹き飛ばされた机の下で、少年がうずくまり震えていることに。
香川光彦。
おびえて泣く彼は、誰を救うこともできなかった。
大切に思う女子生徒一人さえ。
この時は。
気付くと、奈々はベッドの上にいた。見知った天井。そこが自室なのだと理解するのに、さほど時間はかからなかった。
「……うち、なんだ」
声を出して初めて気付いたことが、いくつかあった。まず、口の中がカラカラに乾いていること。次に、喉がひどく痛んでいること。ほのかに鉄の味がすること。それらが要因となったのか、自分の声が妙に低く感じられたこと。
身体を起こそうとして、違和感に襲われた。奇妙なほど重く、思うように動かせない。それでも無理をして力を込めると、全身に激痛が走った。
「痛っ……!」
耐えきれず、奈々は力を緩めた。しばらく安静にしていたが、心の中にふと、黒い感情が生まれていることに気付く。痛みを堪え無理矢理腕を動かし、頬に手を当てた。
右目の下、右顎、左の頬。それらの部分に手当てがなされていた。ガーゼやテープが幾つも重なっており、そこだけ分厚くなっている。
「(あの時の傷だ。誰かが当ててくれたのかな……)」
景光に刻まれてしまった印だった。級友や春樹が殺された時のことを思い出し、かけ布団をたぐり寄せる。
「夢なら……夢だったら良かったのに……」
思うように動かない。腕に巻かれた包帯。患部にあてがわれたガーゼとテープ。そして、確かな心の痛み。そして、いやに鮮明な記憶。赤と黒に覆われた教室の惨状。一小学生でしかなかった自分の口から発せられた「殺す」という呪詛。
胸のうちには今も、景光を殺したい、復讐してやりたいという怨嗟の念が強くあった。染みついてしまったかのように鮮明で、常に心を焼いていた。
「皆が死んで、私は……生きてる」
目がぼやける。我慢しきれず、涙があふれた。
分からないことばかりだった。なぜ惨劇が起こってしまったのか。自室に連れてきてくれたり、治療してくれたのは誰なのか。
実の父親だと景光が言っていた、冬嗣とはどんな人物なのか。
襲撃前に呟いた一言が、はっきりと蘇る。
(「私は、誰?」)
嵐山奈々、十二歳。小学生。六年一組所属、だった。
義理の父親は嵐山春樹……生徒や自分を守るために、自身のすべてをかけた人。
本当の父親の名前は、冬嗣。春樹の兄。
実の両親について知りたい、と奈々はひそかに願っていた。まさしくそれは叶ったが、代償はあまりにも大きかった。
「私は、何、なんだろう」
景光の言葉が正しいのなら、彼女はすでに人間ではない。奈々は思う。封印が解かれてしまった以上、もう「天狗」になってしまったのだろう、と。
解除式を受けた時に、何かが外れてしまったような感覚があった。彼は「矩を超えた」と言っていた。奈々は、その意味を知っている。
人の道を外れる。転じて、異形と化す、とも。
以前辞書を引いていたとき、偶然その言葉を知った。
「私、もう人間じゃないのかな……」
なにもかもが唐突かつ衝撃的すぎて、とても理解が追いつかない。納得もいかなかった。
ただ、ぼんやりとした頭で思っていた。
「(喉は潰されなかったんだな……よかった。でも、自分の声じゃないみたい)」
自分の変化を感じ取りつつ、奈々はひどく哀しくなった。
喉は潰されなかった。
そんな考えを抱くことなど、今まではあり得なかったからだ。ごく普通の小学生として暮らし、春樹と楽しく、幸せに暮らす。時折寂しさに負けてしまっても、周囲の人々に支えられて立ち直り、また平穏な日常を送る。
昨日までは、それが当たり前に続くと信じていた。
しかし不意に断ち切られ、二度と戻ってくることはない。
「ずっと続くわけじゃないって、知ってたら、もっと……もっと大事にしていけたのに……こんなことになるのなら、もっと皆を信じていたかった。それなのに私は、誰に頼ることもできず、信じ切れずに疑ったり不安になったりして……私、バカだ。大バカだよ……!」
心はどこまでも沈んでいく。
窓から、柔らかな光が差し込んでいた。ベッドのたもとに置かれた、かわいらしい柴犬がデザインされた時計は、四時三十五分を示している。奈々は今になって知ったが、すでに夕方だったのだ。
「あれから、どれだけ時間が経ったのかな……」
襲撃後の経過時間が把握できない、と思ったその時、部屋のドアがノックされた。
「は、はい」
湧き上がる恐怖心を精一杯抑え、なんとか返事をする。
「ご安心を。危害を加えることは決してありません。私はあなたの味方です。――首藤茜と申します。遠野の里から使わされました、一天狗でございます」
「天、狗……なんですか?」
「はい」
少し悩んでから、奈々は彼女を招いた。
「……ど、どうぞ」
キイ、と音を立ててドアが開いた。そこにいたのは十六・七歳程度に見える少女だった。高校へ通っていてもまったく違和感がないほど若い。明るい朱色の髪をポニーテールに結い上げ、和服を着ている。垂れ目がちで、顔立ちもかわいらしい。
「(女子高生みたい)」
「此度の事件に関して調査することが、私の帯びた使命であります」
「事件の、調査……」
「ええ。遠野から離れた、今はなき妖の里。その首領であった加藤景光の所行……決して、許されることではありません」
「加藤、景光」
その名を聞いた瞬間、身体が熱くなった。心が憎しみで満たされていく。
「(先生や皆を殺した男。加藤景光)」
明確な殺意が蘇り、奈々の心を突き動かしていく。
「調べた後、あいつをどうするんですか」
奈々のひどく暗い声に、茜は重々しく答える。
「本来ならば、捕らえて情報を吐かせ、処刑することになるでしょう。封印は彼にとって無意味ですから」
「どういうこと、ですか?」
「彼はこの町へ来る前、厳重な警備のもと力を封じられ、拘束されていたのですよ。遠野の里には、悪しきモノを閉じ込めておく牢があるのです。彼は式もろとも無力化され、強固な結界の中にいました。十二年もの間、彼はそこにいたのですよ」
「十二年……」
奈々は数え年で十二になる。彼女が生まれてから今に至るまでの間、彼はずっと牢屋に繋がれていたのだ。春樹のクラスを襲撃し、教室を血の海に変えるほどの力と残虐性を持つ男。表に出られなかったのも当然のように思えた。
「人間と妖怪では、時間の感覚は異なります。奈々さんにとって十二年という期間は、とても長いものに思われるでしょうね。しかし、永い時を生きる我らにとってはさほどでもありません。――彼の所業からすれば、短すぎるほどです」
鮮血の光景を思い出し、奈々はうつむく。
「奈々さん」
茜に呼びかけられ、奈々は顔を上げた。
声は落ち着いていたが、茜はいたく沈痛な面持ちだった。かわいらしい顔立ちや、さほど高くもない背丈のためか、友人を心配する女子生徒のようにも見える。
「よく、頑張ったね」
一歩進んで部屋の中へ入った茜は、奈々を思い切り抱きしめた。
「あ……茜、さん?」
茜の柔らかな手が、包帯とパッチだらけの奈々の背に触れている。年の割に背は高くとも、元来華奢な奈々の身体は、憔悴しきって随分細くなっていた。自分でも驚いてしまうほど、彼女は痩せてしまっている。
「よく、よく頑張った! 生きていてくれて、本当に嬉しい……!」
いつの間にか、茜の言葉遣いは砕けていた。気を張り詰めていたのは、奈々だけではなかったのだ。
「わ、私っ……」
思いが、あふれる。
「私、ずっと痛かった、苦しかったっ……!な、なんでこんなことになったか全然っ、わからないし、み、みんなが死んじゃって……お父さんも、あんなに凄く頑張って戦ってたのに……殺されちゃった……私、私だけ生きてて、皆に申し訳ないって、生きててごめんなさいって思って、て……っ!」
奈々も、茜の背に両腕を回し抱き寄せる。彼女の身体は年頃の少女らしい細さで、柔らかく温かかった。天狗であることが信じられないほどに。
「申し訳ないだなんて、思わなくていいんだよ。……生きていてくれて、ありがとう……。あなたが今ここにいてくれて、生きていてくれる……それは、何に代えることもできないんだもの」
沈みかかった夕日が、強く優しい光を窓辺へ差し込み、部屋をゆるやかに照らしていた。
奈々は後々、幾度となくこの出来事を思い出すことになる。
すべてを失い、絶望に暮れ、その心が復讐に染まりかけてしまっても。それでも、自分を亜励まし、受け入れてくれる人がいたことを。
だからこそ彼女は、過酷な鍛錬のために地に打ち付けられ、心が折れそうになったときも自分を保ち、戦うことができた。
それはまた、後の話だ。