episode 1 ーサリナ・カルナトリアー
薄く切れた真っ白い雲が、風に身を任せて大きく広がる。
まるで蒼い大空の全てを包み込んでしまうかのように、更に更に薄く延ばされていく雲。
しかし、その雲を目も離さずにずっと見ていた筈なのに、時が経つにつれ知らず知らずのうちに真っ青のキャンパスの彼方に掻き消えてしまう。――やがてまた、向こうの山から雲がやってきて、掻き消えて。今度の雲は少し厚いかな? そんなことを思っていても、また気付かぬうちに掻き消えて――。
その繰り返し。
私は地平線まで広がる起伏の無い青々しい草原に寝転びながら、手が触れんばかりに大きく近い、でも実際に見ている範囲で言うと狭くて遠い空を仰いでいた。
他の大陸から来た旅人ならば身震いするほどに寒いが、私にとっては心地良くも感じられる風が服の繊維の合間を通り抜け、右から左へ吹き抜けていくのが分かる。心を無にすれば、身体の中までも通り抜けていくようにも感じられた。
私はこうしているのが好きだ。
俗っぽい事柄から解放され、ただ消えゆく雲を眺める。
ただそれだけで、どこか満ち足りたような気分になる。
願わくば、ずっとこんなふうに時間を過ごしたいもの――。
「サリナ! 時間だ。街に帰るぞ!」
――どうやら時間がそうさせてはくれないらしい。
10パラト程離れた地点にある、荷馬車の上から大声で私を呼んだのは父。父は“狩人”を生業としていて、私達カルナトリア家はそれから得られる収入でなんとか安定した生活を保っている。家族構成としては、まず父と母、それから上に兄に下に妹。私も含めての五人家族だ。父が狩人という仕事をしている事を除けば、どこにでもあるありふれた家族だ。
「分かった、お父さん!」
私は大地から身体を起こし、軽く伸びをして立ち上がる。
その後私は父の下まで駆け寄り、今日の収穫を確認した。
「今日はどのくらい獲れたの?」
「そこそこだな、まぁこの時期にしては上出来だろ」
私が荷馬車の座席に座るのと同時に、父は後方を親指で指差した。
獣が数種に鳥形魔物が一体。父の言う通り、そこそこ良い結果かな。
「お父さん、この鳥は何ていうの?」
気になったので、鳥形魔物を指差して父に名称を訊いてみた。
「そいつぁ、“ヴェルバ”だな。弱っちいが一応風の魔法を使う。見てみろ、爪が緑色だろ? ここが魔法具の代わりになっててな、ここから風の刃を出すんだ」
父は私がした質問に懇切丁寧に回答してくれた。
しかし、何故か父はいつも私がした質問以上の事まで長々と話し出す。こうなるともう止まらない。この前は暖炉に使われている炎熱属の魔法の原理を訊いただけなのに、いつの間にか“エルフェルムの種火”とかいう伝承上のマターについての話までに飛躍した。
今度は風に関する伝承上のマターについての話になりかねないので、早めに流すことにする。
「へぇ~、ありがとうお父さん。じゃあ街に戻ろう!」
「――まず風のマターの使い手っていうのが……え、あぁ、そうだな、それじゃ帰るとするか!」
あ、危なかった……。
私は心の中で安堵しつつ、家路についた。
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道の無い草原を方位磁針を頼りに突き進む。
するとそのうち、最低限ではあるが十分悪路の類に入る、荷馬車を走らせるには少し手狭な道路が草原の中に顔を出した。
馬が一歩進むたびに、道路に転がる石ころにぶつかり車輪が浮く。
結果、生まれるのは激しい揺れ。
父は慣れっこだと言うが、私はどうにも慣れそうにない。
「そういえばサリナ、お前も明日で一周期だな」
揺れる馬車の上、手綱をしっかりと握り前を向きながら、父はふと呟いた。
一周期。それを迎えるということは、私たちの住む街“フェルフオルム”では子供から大人として認められることを意味する。酒、葉巻、博打の権利を与えられ、何かしらの仕事に就く義務も与えられる。
……私と生まれが近い街の子たちは、少し前から仕事探しで色んな仕事場に手当たり次第当たっている。一定の周期で若い衆が仕事探しで方々を駆け巡るのは、もはやフェルフオルムでは風物詩と言っていい程だ。その中でも早めに仕事が決まった子などは、すぐに戦力になれるように今のうちから研修をする子も少なくない。
かくいう私も、その一人。
幼い頃から父の仕事に関心があった私は、一周期の話題が出た瞬間に狩人の道に進むことを即決。女性の狩人というのは物珍しいものだが、迷いはなかった。
家族は特に反対しなかった。寧ろ「サリナのやりたいことをやればいい。」と、私の意思を尊重してくれていた。
――そして今、その最後の研修期間として父の狩りに同行している。
「明日から狩人、でしょ?」
「はは、そうだな。人手が増えて助かる。……で、どうだ? “アレ”は上手くいきそうか?」
父の言うアレとは、魔法の事である。
人は、一般的な子供でも一種か二種かのマターを体内に宿すことが出来る。そのマターがどんな種類か、というのは多種多様だが、とにかくマターさえ宿せれば魔法は扱う事ができるのだ。
しかし私はというと、どんな物質のマターも抽出することが出来なかった。
水、火、土、木、草、石、鉱石……。
手当たり次第に様々な物質を試してみたが、どれもマターを抽出するに至っていなかった。やり方が悪い、という訳ではない。マターの抽出は習えば子供でも可能だ。何故か他人の所有物だけは抽出できないという不可解な謎があるが、基本的には物体に対して手を翳して軽く念じればマターは体内に吸収され、物体は魔体崩壊現象が起きて魔粕という役割を失った灰のような物質に変化する。
要するに、肉体はマターを溜め込む器だ。
しかし私がそれと同じ事をしても、どうにもマターが身体に吸収されることはなかった。
「……ダメ。いろんなモノを試してみたけど……」
「そうか」
父は顎に手を置き、何やら考え込むような素振りを見せた。
そして少し間を開けてから、話し出した。
「まぁ、焦る必要はないさ。マターを扱えない人間ってのは聞いたことが無いし、後天的に優れた才が開花するって話もあるくらいだ。その時をじっくり待てばいい」
「うん……」
……なんというか、ほんの少し憂鬱な気分だ。
一周前の霧氷の明、私と同じ明生まれの子たちはとっくの昔に魔法を使い始めている。私だけが、しかも狩人を目指す身でもある私だけが、一切の魔法が使えないという事実は、少し前から私に不安と焦燥をもたらしている。
「はぁ……」と、物憂げな表情でため息を一つ。
馬車の揺れとごろごろとした砂利敷きの悪路の併せ技が、無慈悲にも私の臀部に痛みを与え続ける。
それは自分が魔法が使えないことへの苛立ちを助長させ、やがてその苛々は態度にも表れてきた。
「なんで私だけ――」
ついに行動にもそれは出、ドンと荷馬車の足台を蹴飛ばす。
「サリナ」
父が私の名前を呼んで、静止させる。
その顔は普段の優しい父の顔ではなく、怒っている顔だった。
「……ごめんなさい」
私が謝ると、スッと普段の父の顔に戻る。そして、和めるようにこう言った。
「焦るな、サリナ。魔法が使えないからといって、狩人が出来ない訳じゃない。……確かにお前と同じ明生まれの子たちは魔法を使える。でもな、その子らはお前みたいに剣が上手く振れるか? 獣や魔物についてよく知ってるか? ……サリナ、周りは気にしなくていい。お前はお前なんだ」
「……うん」
私は父の言葉を深く受け止め、頷く。
「よし……。さて! そろそろ街に着くぞ? 母さんが手料理を作って待ってる!」
「……うん!」
父が雰囲気を変えるように言うと、私もそれに応えるように返事をした。
文中で言及できなかった新出語句等はここに書き記しておきます。
基本的に頭の中だけで管理をしているので、不備がございましたらご一報ください。
狩人=依頼を受けて獣や魔物を狩り、それの謝礼金や素材を売って生計を立てる者。
獣=主に魔力を持たず、一定以上の知性を持たない人間以外の害のある動物。食料や武具の素材、毛皮などは衣類、巨大な個体の骨であれば建材になどにと、用途は様々。
魔物=主に魔力と魔法具の代替になる部位、“魔司部”を持っていて、一定以上の知性を持たない人間以外の害のある動物。狩猟後の扱いは獣とほぼ変わらないが、しばしば魔体を抽出され魔粕になる事もある。魔司部は魔法具に加工される。
エルフェルムの種火=公開不能情報
ヴァルバ=鳥形の魔物。大ぶりな翼とは対照的に、小さい身体を持つ。風の魔力を持ち、魔司部は爪。全身が淡い緑色の羽毛で包まれており、状態が良ければ枕や布団の材料として重宝される。羽毛と同じく、舌も淡い緑色をしている。