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ハジメテの再会2

寮に帰宅し自身に宛がわれた部屋の扉を閉めた途端、十夜は深く溜息を零す。

自身の音に足らないと言われる部分を埋めるためにわざわざ普通科の進学校へ編入し、是が非でも不足を埋めようと行動を開始した第1歩は概ね無事に終わったと考えて良いだろう。

少なくとも自分の好みに合うかは別としてクラスの主要人物のグループに近づけたというだけで、明日からの学園生活は格段に楽になるはずだ。

十夜は規定通りにきっちりと着こなしていた制服のネクタイを解き、胸元を緩めると鞄を床に放り出した。

どうせ入っているものは筆記用具とメモ帳だけなので、乱暴に放り投げたところで壊れるものなど何もない。

適当に靴を脱ぎ捨て、さっさと室内に上がると真っ直ぐにリビングに着いた。

学生向けの寮なのに小さなキッチンを内包したリビングと私室の2部屋もあるというのは破格の待遇だと思う。

備え付けの家具であるソファセットとテレビを一瞥し、1人用の小さなダイニングテーブルに目を向ければ、朝出しっぱなしにしたままミネラルウォーターのペットボトルが残っている。

中身の空になったソレを持ってキッチンへ向かい、これまた備え付けのゴミ箱に放り込むと冷蔵庫を開けて新しいペットボトルを取り出し、封を切った。

そのままペットボトルを片手に廊下へ戻ると、十夜は私室にあたる部屋のドアを開く。

教室を後にする時、クラスメイトには荷物を片付けるという口実を使ったが、彼の部屋は既にきちんと片付き生活出来るように整えてある。

蓋を閉めたペットボトルを学習用の机に置くと、十夜はウォーキングクローゼットへ向かい制服を脱ぎ捨ててラフな私服へと着替えてしまう。

演奏の邪魔にならないように首元の広く開いたトレーナーとジーンズのズボンに着替えてしまえば十夜は高校生というよりも大学生のような大人びた印象に変わる。

十夜の部屋は、まだ入居して僅かということもあり生活感を感じさせないほど片付いてはいるのに、何故かベッドの上とサイドテーブルだけは散らかって見えた。

何枚もの紙が床やベッド、サイドテーブルの上に散らばり、ベッドの上には黒いケースが置かれている。

ケースが独特の曲線を描いているので、その中身はバイオリンだと一目で分かってしまう。

散らかっている紙はよく見れば何枚もの楽譜で、その1枚1枚に1小節単位に1つや2つという密度でびっしりと書き込みがされていた。

十夜はその惨状をチラリと見ると、部屋の奥に置いていた譜面台を持ってきて散らばった楽譜を揃えて乗せる。

そのまますぐにケースから楽器を出して演奏を始めても良かったが、そういえば昼食がまだだと思い当たって楽器の代わりに上着を手に取ると財布と携帯をポケットに突っ込み玄関へ向かう。

そのままスニーカーをひっかけ外へ出る。

最初はコンビニで適当に買ってこようかとも思ったが、せっかく近場に飲食店があるのだし利用しない手はないと手近な飲食店を物色し、その中で手頃な価格ながら落ち着いた雰囲気のチェーンのファミリーレストランを選び足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ~、おひとり様ですか?」

にこやかな笑顔と明るい声で出迎えてくれた大学生くらいのウェイトレスに頷くと、お席へご案内しますと言って先導される。

その時、店の奥で明るい声が弾けて思わず顔を向けると、見知った顔と目が合った。

十夜の感覚では、つい先ほど別れたばかりのクラスメイトの姿があったのだ。

「あ、十夜~こっちこいよ!」

当然というかなんというか、十夜を見つけた赤也の明るい声が店内に響く。

平日昼間ともなれば客の数はそんなに多くないとはいえ、自然と注目を集めてしまって実に居心地が悪い。

席に案内をしようとしてくれたウェイトレスも、苦笑を浮かべてではお友達のところへどうぞと言って去って行ってしまった。

諦めて彼らのいる方へ向かうしかなく、十夜はコンビニで済ませればよかったと心の中で毒づきながら彼らのいる方へと歩く。

どうやら半個室のような席になっているらしく、扉は閉められるようになっていて、たまたま開いていた時にたまたま十夜が見つかったという、実に腹立たしい偶然の産物ようだ。

確かにコレなら高校生が多少騒いだところで他の客の迷惑にはならないだろう、と十夜は半個室の部屋の中に足を踏み入れた。

そこそこ広い部屋で、半円形に近いテーブルを囲んで座っていたクラスメイトたちの視線が十夜に向く。

時計回りに拓海、祐一、瑞貴、赤也と座っていて、赤也の隣と拓海の隣にはまだ各1名以上は座れそうなスペースが残っている。

「偶然だな」

十夜の姿を認めるなり、祐一が驚いたような声を上げる。

それはこちらの台詞で迷惑な偶然だと言いたいのを堪え、十夜は曖昧な笑みで会釈を返した。

「テストの答え合わせをするって言ってなかったかい?」

十夜の記憶が確かならば、中庭にいるはずと説明されたハズなのだが、何故彼らはこんな場所に現れたのだろうかと疑問を込めて言葉を投げかける。

「購買も食堂も今日は休みって言われたから仕方なくな」

流石に昼飯時に何も食べずに勉強の話はしたくなかったのか、拓海が肩を竦めて見せた。

チラリとテーブルに目を向ければ、そこには確かに今日の問題用紙と手でつまめる種類の軽食類が広げられている。

「まあ、座れって」

立ったままの十夜に、空いている場所を示しながら赤也はテーブルの上のサンドイッチに手を伸ばした。

「それじゃ、失礼」

本当ならさっさと1人で気楽な昼食を済ませたいところだが、捕まってしまった以上は諦めるかと十夜は大人しく席に着く。

流れの都合上、十夜は大人しく赤也の隣のスペースを選んだ。

「佐伯、好きな物頼んでいいぞ。今日は瑞貴のおごりだとさっき決定したからな」

席に着くなり、祐一がメニューを手渡しながらそんなことを言いだす。

「それは…」

どうしてそうなったのか知らないが、一般的にそれはイジメとかそういうやつなのかという疑問を浮かべ十夜が苦笑する。

自分には関係がないが、いくらなんでもソレはダメじゃないのか、というのが割と常識人として育ってきた十夜の心境だった。

別に自分以外の誰がドコでどんな扱いを受けようが知ったことではないが、あまり褒められた行為とは言えない。

しかし十夜の見る限りそういう関係には見えなかったしむしろそういう輩は排除しそうな印象だったので少しだけ意外にも感じていた。

「厳選な賭けの結果だから、気にするな。正確にはテストの成績の問題だ」

その答えは拓海から告げられる。

イジメでも何でもなく単純にテストの成績だけで勝敗を決めたと拓海は言い切った。

「…毎回同じ結果だと思うのは僕だけかな」

手元の問題をさっさと片付けながら、瑞貴が小さく笑う。

その様子に、十夜は成程納得済みなのかとあっさりした感想を抱いた。

「十夜が賭けに加わったところで、さっきの結果じゃオマエの負けは変わらねーよな、絶対」

やけに自信たっぷりに言うと、赤也は瑞貴に意味ありげな笑みを向ける。

「まだ解答は公開されてないのに、よく正確な点数がわかるね」

テストの点数で賭けていたことを文脈から察した十夜は空気を壊さないように軽く話題に乗ってみせた。

恐らく全員見切りで点数の概算を出しているのだろうと勝手に想像する。

まぁ何にせよ、少なくともテスト時間の3分の1は確実に寝ていた瑞貴がまともな点数だとは思えないので赤也の評価に異を唱える気はない。

「あぁ、いや点数が分かるわけではない。各自答えに絶対の自信が持てない箇所に印をつけておくというのが最初のルールだ」

そう根本となるルールの説明をしてくれたのは、祐一。

彼は自分の問題用紙を広げると、こんな風に、と問題部分に○を付けて解答を走り書きしてある個所を見せた。

「で、答え合わせと称してその数の確認と、その問題の答えに自信がある人間による解説で概ね全員の成績が分かるというワケだ。似たり寄ったりだけどな」

祐一の説明に重ねるようにして拓海が肩を竦める。

似たり寄ったりという表現に疑問を覚えないでもないが、答え合わせというよりは復習を兼ねた勉強会に近いと状況を理解した。

「あ、瑞貴、何さっさと問題片付けてんだよ。なー、数学の最後から2つめの問題って分かったヤツいる?」

既に問題を鞄に仕舞ったらしい瑞貴に文句を言いながら、赤也が自分の問題用紙片手に周囲を見渡す。

問題用紙を家に置いてきた十夜は一瞬どんな問題だったか思い出そうとしたが、数学の後半は割と難しい問題が多かったような気がするという程度しか思い出せなかった。

「どんな問題だったかな」

覚えていないので、十夜は首を傾げて見せる。

確かにいくつかは解けないかあまりにも計算が面倒で放棄した問題があった気もするが、分かる問題であれば教えてやるくらいはしてもいいと人の良さそうな笑みの裏で考えていた。

ここで恩を売るというか一定の信頼を得ておけば明日からの学校生活がもっと楽だと考えたからだ。

「この問題だな」

そう言いながら問題用紙を見せてくれたのは、正面に近い場所に座っている拓海だ。

覗きこめば、拓海はその問題には何も書いない。

一見、さほど難しい問題には見えないのだが、そう言えば自分も解いた記憶がないと十夜は問題を考えるべく眺めた。

log10の2乗=0.3010、log10の3乗=0.4771とする、問1、3の33乗は何桁の整数か、問2、3の33乗の最高位の数字は何か、という問題だ。

「なぁ、logって授業でやったっけ、どんなんだっけ」

真面目に考えている十夜の向こうで、実際に解けなかったらしい赤也がのんびりとそんなコトを口にしている。

計算式忘れちゃって解けなかった、と軽く笑いながら言う赤也に十夜は軽く呆れてしまう。

「…別に、コレ別にlog使わなくても解ける問題だよね」

赤也の手元にある問題を覗きこむようにしてそう言ったのは、瑞貴だった。

「そうなのか!?」

その言葉に驚いて顔を上げたのは言われた赤也ではなく、祐一だ。

「素直に計算しても解けるよ、時間かかると思うけど。要するに3の33乗さえ計算すればイイんだから。この問題、たぶん浅井先生はサービス問題のつもりだったんじゃない?」

問題を確認し終えて興味を失ったのか、瑞貴はどうでも良いことのようにあっさりとそう言い切った。

本人が解いたかどうかは別として、寝ていた割には的確な分析だと十夜は少しだけ驚く。

「…因みに、答えは何桁?」

真面目に3の33乗を計算しようとでも思ったのか、赤也がシャープペンシル片手にそう問いかける。

果たして馬鹿正直に計算できる桁数なのか、と気になったのだろう。

「俺は確か16桁って書いた気がするが」

バッサリと切り捨てるような口調で祐一がそう言った。

「…おい、そんな桁数、バカ正直に計算出来るかよ!」

がばっと顔を上げると赤也が吠える。

その言葉に十夜は確かにそうだなと苦笑してしまった。

「馬鹿正直に計算すれば問2の最高位の数字も解るし、この問題は解けると思うぞ」

からかうような口調でそう言ったのは拓海で、言外に計算方法を忘れているお前が悪いと赤也を揶揄しているようだ。

「くそぅ…。ええと、9、27、81、243、729、2187、6561…14683…?」

開き直ったのか赤也が計算を始めるが8乗くらいまで計算した辺りで急に計算速度が落ちる。

いくら簡単な計算でも桁数が増えればそれだけ厄介なのは当然だろう。

というか本当に馬鹿正直に計算する必要があるのだろうか、と十夜は素直な性質らしい赤也に一種の好感を覚えると同時に同じくらい呆れていた。

「頑張れ、赤也」

計算している赤也に対し、祐一が面白がるような人の悪い笑みを浮かべてエールを送っている。

誰も計算方法を教えようとしないことに冷たいと言うべきか、忘れている赤也の自業自得だから仕方ないと言うべきか、この場合は少し悩むところだった。

「真面目に計算するとたぶん5559060566555523…かな?赤也、本当に16桁計算するの?」

携帯の電卓機能で追いかけようにも桁数オーバーで計算しきれない桁数の数字を並べ、瑞貴が心底呆れたような視線を赤也に向ける。

その数字の羅列がどこから出てきたのかは知らないし合っているか確認する術もないが、記憶しているにしても計算したにしてもどちらにしても何かがおかしいと十夜は表情を引き攣らせた。

寝ていたくせに何故と疑問に感じているのは十夜だけのようで、恐らく計算式で解答を弾き出しているらしい祐一や拓海はただ苦笑しているだけだし赤也はピタリと動きを止めると謎の呻き声をあげて頭を抱えだしている。

「チクショー!!今回も負けたっ!」

雄叫びを上げて、赤也が不貞腐れたように机の上に潰れた。

その様子は見慣れた光景なのか十夜が眺める中、潰れた赤也に対して三者三様の笑顔を見せる。

どこか人を食ったような一見相手を馬鹿にしているようにも見える上から目線の笑顔を浮かべたのが祐一で、おかしくて仕方がないといった笑いを無理やりかみ殺しているような何とも言えない笑みを浮かべたのが拓海、そしてしょうがないなと困った弟を見るような柔らかい笑顔を向けていたのが瑞貴という具合に実に統一性のない個性的な集団だ。

じゃあ自分はどんな表情を作ればいいのだろうと十夜は内心考えたが、結局ただの苦笑しか思いつかずにその表情を浮かべるしかなかった。

「赤也は放っておいて、佐伯も何か頼めばどうだ?」

机に潰れたままの赤也を一瞥したあと、祐一はあっさりと話題を転換して十夜に視線を向ける。

「それとも適当に軽食を頼んで並べるからつまむか?あ、ドリンクバーを取ってくるけど、佐伯は何がいい?」

祐一に促されるままメニューに視線を落とした十夜に、拓海が矢継ぎ早に問いかけた。

何だかもう色々とどうでも良くなって、足りなければ帰りにコンビニに寄ればいいやと曖昧に考えると十夜はメニューを閉じる。

「じゃあお任せしようかな。飲み物は、自分で行くよ。1人で全員分は持てないだろう?」

トレイを使えば運べるだろうが、最初から図々しい奴という印象を持たれたくないという判断で十夜は席を立つ。

そのまま拓海と連れだって半個室を出て行けば、後ろからオレ、メロンソーダという赤也の声が追ってくる。

ドリンクバーまで行くと、拓海はすぐに飲み物を入れるのかと思いきや手近な店員を呼び止めドリンクバー1つ追加と軽食メニューを幾つかオーダーした。

その様子に、十夜は午前中学校で小学生と同レベルと評した点を僅かに改めて一部の生徒はちゃんと大人びた視野を持っているんだなという評価に変える。

人数が増えたのだからそれに合わせてオーダーしなければならないという当たり前のことなのだが、若者に低脳が増えたせいで故意に言わなかったり本当に失念していたりという光景をたまに見かけていたので、十夜はコイツは馬鹿じゃないんだなと頭の中のメモに再び書き加えておいた。

十夜はドリンクバーに視線を向け、珈琲は豆を挽くところからしてくるようだったのでカプチーノを選択する。

拓海が戻ってくる前に、珈琲の抽出時間が暇だからという理由もあって唯一オーダーの分かる赤也所望のメロンソーダも入れておいた。

戻ってきた拓海がそれを見て一瞬だけ驚いたように目を丸くしていたが、すぐに親しみを込めた笑顔になってありがとうと口にする。

結局他の人には何を用意するのか分からないので見ているだけだったが、人数分の飲み物をトレイに乗せて拓海が席に戻って行く。

十夜の珈琲も一緒に乗せるかと聞かれたが、さすがにソレは自分で運ぶよと断った。

連れだって席に戻ると、当然のようにおかえりと迎えられる。

戻った時にはテーブルの上は片付けられており、空いた皿やグラスなどがひと塊になっていた。

拓海はそれぞれの前に入れて来た飲み物を並べ、手に持っていたトレイの上に纏められた空の食器を乗せていく。

手馴れているように見えるので、もしかすると飲食店でのバイト経験でもあるのかもしれない。

「そういや、せっかくだから詳しく自己紹介しない?お互いにさ」

飲み物が行き渡り、店員が追加で注文したメニューと運んできて軽くひと心地ついた頃、いきなり赤也がそんな提案を口にした。

確かに今の状態では十夜からすれば彼らの名前と外見的特徴しか知らない。

逆に彼らからすれば十夜に対して同じだけの情報しかないだろう。

「ついでに恐らく広瀬先生が教え忘れている学校の決まりなども一部教えた方がよかろうな。疑問に思ってることもあるだろうし」

名案とばかりに同意し、さらにはそんな言葉を重ねて祐一がしたり顔で頷いた。

「じゃあ言いだしっぺの法則でオレから自己紹介するな。っても名前はもう言ったから後何言えばいいんだ?」

「名前、部活動、趣味、特記事項、得意教科、くらいでいいんじゃないか?」

意気揚々と自己紹介を始めようとした赤也だったが、既に名乗っているので他に何を告げればいいだろうと首を傾げた。

そこに呆れたような目を向けて拓海がテンプレートを口にする。

概ねそれで問題ないと思うが、その特記事項っていうのは何だろうかと十夜は心の中でため息をついた。

「じゃ改めて。新田赤也、科学部部長。得意教科は当然科学。あ、そうだもう1つあったな。趣味と特記事項は正義の味方全般」

明るく笑って赤也は自己紹介を終える。

最後に追加された謎の発言に、十夜はコイツは幼稚園児か何かかと軽い頭痛を覚えた。

高校生にもなって正義の味方とか恥ずかしげもなく言える赤也に衝撃を覚えたせいで、活発そうに見えるのに運動部に所属していないという不思議な点はあっさりとスルーしてしまう。

「ほいじゃ、次、瑞貴な」

十夜を最後にすると勝手に決めたらしい赤也は反時計回りになるようにと隣の瑞貴に勝手にお鉢を回す。

「…部活動はやってないし得意な教科も特にないかな。趣味は……たぶん読書とか?」

再び名乗る必要性を感じなかったのか、瑞貴は軽く考え込むような素振りを見せて言葉を続ける。

その内容は部活動もやっていない、得意教科もない、趣味も無理やりひねり出したような解答で実に味気のない中身だ。

その自己紹介に、思わずといった様子で赤也が吹き出した。

「オマエの趣味って毎週欠かさずのアレじゃなかったのかよ」

おかしそうに笑いながら、赤也がツッコミを入れている。

「アレは趣味っていうより、ライフワークじゃないかな…もう」

アレという指示代名詞で何を言われているか察したらしい瑞貴は苦笑でそう応じて小さく肩を竦めてみせた。

その表現で納得したのか、赤也は大きく頷くと次に自己紹介をすべき相手である祐一に手を向けて発言を要求する。

「クラス委員長の日下祐一だ。部活動はコンピューター部で得意教科は生物。趣味と公言出来るものはないが、最近、友人の影響でクラシック鑑賞を始めたところだ」

淡々と、という表現が実にしっくりくる様子で祐一が自己紹介文を読み上げた。

最後のクラシック鑑賞という言葉に、十夜は少し反応してしまう。

自分に最も身近な言葉だと感じたからだ。

「次は俺か?…黒島拓海、科学部副部長で赤也のストッパーだ。得意教科は物理だろうな。趣味というか祖父が居合道場をやっていてな。拓海と気軽に呼んでくれて構わない」

拓海はそう締め括り、持ってきたジュースに手を伸ばす。

クールそうな見た目なのに彼が入れてきたのはオレンジジュースというのが割とミスマッチに見える。

「それじゃ、次。十夜な」

ごく自然な流れで赤也が隣に座る十夜に目を向けた。

そもそもコレは十夜のために企画された自己紹介だ。

この流れで無視を決め込むことも出来ず、十夜は仕方ないと1つ頷いた。

「佐伯十夜。朝も言ったけど音楽科の学校から編入してきたんだ。部活動はまだ決めてないけど、音楽関係がいいかな。得意教科は数学だよ」

他にメンバーに則って必要なコトを並べていく。

「音楽科ってことは、楽器やってんのか?」

嬉々とした様子で赤也が問いかけてくる。

軽く頷いてやると、興味津々といった目を向けられた。

「何やってるんだ?」

「さぁ?当ててみてよ」

赤也があまりにも楽しそうに訊いてきたので、十夜はからかうような声でついそう言ってしまう。

深くかかわるつもりも慣れ合うつもりもなかったのだが、明るい雰囲気に飲まれてつい言ってしまったのだ。

「んー…楽器かぁ」

「一般的なのを挙げていくと、ピアノ、トランペット、オーボエ、フルート、ホルン、あぁ、大穴でハープなんかもあるな」

「拓海、それは音楽室にある楽器適当に挙げただけではないか?」

首を傾げる赤也に、片っ端から楽器を羅列していく拓海、それにツッコミを入れる祐一と、会話が思いのほか盛り上がっていく。

さぁせいぜい考えて悩んで当てるがいいと、どこか面白がる気持ちで十夜はそのやりとりを見守った。

「音楽科っていえば、ピアノってイメージなんだけどな、オレ」

「声楽も器楽もあるし、器楽なんてそれこそオーケストラで見る楽器のオンパレードだぞ」

勝手なイメージに凝り固まって頭を抱える赤也に、どこまでも選択肢を広げていく拓海を見て、十夜は少し愉快な気持ちで彼らを眺める。

「恐らく声楽ではなかろう。オペラで耳にするような声ではないからな」

「普段からあんな声で喋るヤツ、たぶんいねーよ」

選択肢を削りにかかった祐一に、間髪入れずに赤也がツッコミを入れた。

「じゃあ片っ端から楽器の名前挙げていくからイメージに合いそうなやつを選ぶか」

どうだ?と拓海が妙な提案をしている。

イメージって何だよと軽く呆れながら観察をしていると、不意にくすりと小さく笑う声が聞こえた。

声の主に視線を向ければ、控えめな笑顔を浮かべて瑞貴が3人を交互に見ている様子が映る。

「瑞貴、オマエも一緒に考えろよ」

選択肢を出し合ってどんどん深みへ嵌って抜け出せなくなっていく赤也が話し合いに参加しない瑞貴に不満そうな声をあげた。

「え?イメージで考えるんでしょ?」

微かな笑顔を浮かべたまま、瑞貴は完全に他人事のように頑張ってと無責任な言葉を返す。

「じゃあまず、佐伯に似合いそうな楽器を挙げていこう」

結局イメージで考えることにしたらしい拓海がそう言って赤也と祐一に視線を向け、確認のために声をかける。

「イメージって言っても、オレあんまり楽器の名前知らねーぞ?あんなのとかこんなのって表現だったら出来るけどさ」

「イメージで1本に絞ったところで、正解するとも限らんがな」

赤也も祐一も、結局コレという楽器を選ぶことは出来ないらしく思いつく限りの楽器の名称を並べながらああでもない、こうでもないと言い合いを続けていた。

当然思いつく限りの楽器の名前を挙げていくだけの拓海も、これといってピンとくる楽器はないようだ。

これがまともな会議なら白熱っぷりに賛辞を呈さないでもないが、単なる楽器当てクイズでこんなに盛り上がれるとはと十夜はやはり子供っぽいという感想のまま成行きを眺める。

意見を出し合う3人を眺めていた十夜だったが、ふと会話に参加していない瑞貴に視線を向け、おやと首を傾げた。

興味がないから無関心というわけではなく、瑞貴は訳知り顔で彼らの討論を聞いているように見えるのだ。

話を聞いていないわけでもなく、次々に挙がっていく楽器の名前に小さく目を丸くしていたり困惑の表情を浮かべたりしている。

瑞貴は十夜の視線に気づいたのか、軽く目を合わせると悪戯っぽく笑ってみせた。

もしかすると瑞貴は彼らとは違ったやり方で十夜の得意とする楽器に気付いたのかもしれない、という小さな驚きを覚える。

同時に、本当に当てられる物なら当ててみればいいという挑戦的な気持ちが浮かんだ。

「そろそろ時間切れだよ。何だと思う?見事当てられたら、ここはおごってあげようか?その代り、当てられなかったら明日学校でジュースでも奢ってよ」

ヒントも出さず、意地が悪いと思わないでもないが、これくらいならただの冗談で済むだろう。

十夜は未だ結論の出る様子のない彼らの会話を切り上げさせるようにそう言ってにっこりと笑って見せた。

ノーヒントで当てられるものなら当ててみろと挑発的な気持ちで4人を見る。

「それはたぶん、佐伯くんに分が悪いんじゃないかな…」

十夜の自信ありげな言葉に、瑞貴は控えめに言葉を返し先刻と同じようにどこか幼い笑みを浮かべた。

その瞬間、どこがだよと赤也が瑞貴を振り返る。

「おい、明らかにオレらが不利だろ、あの条件!」

「そんなことないよ?…一目でわかる特徴あるから」

赤也に追及の目を向けられ勢いよく制服を掴まれた瑞貴だったが、気にした様子も見せず苦笑を浮かべてあっさりとそう暴露した。

その言葉に、十夜は内心かなりの衝撃を受けた。

衝撃のあまり表情が固まってしまわなかっただけ褒めて欲しいと思えるくらいの驚きだ。

「ということは、お前は最初からわかっていて俺たちの会話を聞いていたということだな?」

「瑞貴。知ってはいたが、いい度胸をしている。というか人が悪いのではないか?」

拓海と祐一が口々に責めるような言葉を投げかけ、赤也はコノヤロウと軽く笑いながら小突いている。

本当に仲が良いんだなという光景を見せられ、十夜の思考に僅かな余裕が戻った。

「…それじゃ、解答を聞こうか」

じゃれ合う様子を見ている間に平静を取り戻した十夜は、それだけ自信があるなら聞こうじゃないかと挑戦的な気持ちを思い出す。

余裕のある口調で、答えを促す。

「バイオリン」

返された答えはたった一言、事も無げに正解が告げられる。

完全な断定で紡がれた言葉は、その解答が必ず正解であるという絶対の確信があるということに他ならない。

正解を告げられた十夜は心臓が飛び出す程の驚きとはこういう気持ちなんだなと考えてしまう程、本気で驚いていた。

当てずっぽうではなく、自信を持って正解を言われるとは思ってもみなかったからだ。

「…どうしてそう思ったのかな?」

内心の衝撃を隠しながら、十夜は好奇心半分対抗心半分でそう問いかける。

当てたからには、その根拠を知りたいと思うのは当然だろう。

「首の痣。左のね」

制服をきっちり着こなしていれば見えないだろう場所を指し、瑞貴はあっさりした口調で気付いた理由を告げた。

バイオリン奏者特有の痣、演奏を重ねるごとに色濃くなっていく文字通り練習の痕。

それを一目で見抜いた眼力はもしかすると相当のものかもしれない。

「すごいね。まさかこれでバレるとは思わなかった」

今度こそ本気で感心した十夜は降参だというように諸手を挙げ、先ほどの答えが正解であることを認める。

僅かにこの学校も楽しめる場所なのかもしれない、という気持ちが首を擡げた。

「わかっていたなら最初から教えてくれてもよかろう。そうすれば俺たちは悩まなくて済んだではないか」

やれやれといった様子で祐一が眼鏡の蔓を調節し、隣の瑞貴に冷やかな視線を向ける。

目は笑っているので、恐らくいつものじゃれ合いの一種なのだろうと推測できた。

「ヴィオラと悩まなかったのか?似たような楽器だろ?」

他の弦楽器ならまだしも、この2台はどちらも同じような弾き方をする。

その事実に思い至ったのか、拓海がそう問いかけた。

確かに自信を持ってバイオリンだと言われたが、その可能性は考えなかったのかと言われれば十夜もそれは気になるところだ。

その1点だけは当て推量だったということだろうか。

「そこは何となくだけど。……ほら、バイオリンを弾ける人だとヴィオラもある程度弾けるわけだし、練習するなら前者じゃないかと思っただけだよ」

楽器を確定させた根拠について、少しだけ考えるように首を傾げると瑞貴はさらりとそう言う。

途中に妙な間があったのは、もしかすると他の根拠があったのかもしれないし、適当に言葉を選んだだけなのかもしれない。

最後の最後は適当かよと十夜はいつもなら呆れてしまうところだったが、何故か今日は愉快な気持ちになっていた。

こうやって無為な時間を過ごしてみるのも、思っていたほど悪いものではないのかもしれない。

「そういえばさ…」

話を切り上げて帰るコトと会話を続けるコトを天秤にかけ、珍しく後者に傾いた十夜はふと学校から寮までの道で疑問に思った内容を思い出し口を開いた。

「どうしてこの学園て、制服の色が4種類もあるんだい?分布も均等じゃないみたいだし、コース選択も関係なさそうだけど、一体なんの違いかな」

ただの会話のきっかけのつもりで十夜は素朴な疑問を口にする。

「あぁ、コレか。今年から施行された新しい校則の都合で、支持勢力を分けてるんだ」

十夜の問いに、自分の臙脂色のブレザーに手をかけてそう説明したのは拓海だった。

「支持勢力?4種類あるのかい?一体、何を支持するっていうのかな」

説明された内容が今一つ理解出来なかった十夜は、重ねてそう問いかける。

もしかすると重要な内容ではないのかもしれないが、明日からの学校生活に何か関わりのあることなのだろうか。

「いや、勢力は2つだ。基本的に生徒は臙脂色か紺色で支持勢力を示す決まりだ。つまり俺の支持勢力は赤也と拓海にとっては敵対勢力というわけだな」

続きを拾って説明したのは祐一で、成程、確かに彼の纏うブレザーの色は紺だ。

「それじゃあ、チャコールグレーや白って言うのは?」

勢力が2つしかないのであれば、自分のチャコールグレーや瑞貴の白は一体どういうことなのかと十夜は首を傾げて見せる。

「あー…チャコールグレーはまだ支持勢力の決まってない人間が仮に着るヤツだな。1年が入学してきたら、1か月くらいはずっとチャコールグレーのブレザー姿を見るコトが出来ると思うぜ?まぁ、最終的にはどっちを支持するかって決めなきゃなんないけどな」

だから十夜も早めに支持勢力を決めろよ、と赤也が笑って説明した。

それでいくと、白だけが謎の色になってしまう。

「僕の場合、支持勢力を公に出来ない立場だから白。佐伯くんには関係ないから気にしない方向で」

十夜の疑問が伝わったのか、最後に瑞貴がそう付け加える。

支持勢力を公に出来ないとは、ますます意味がわからない。

そもそも、何の支持勢力なんだろうかと十夜は首を捻る。

「ぁー、わかんないよなーやっぱ。ええと、オレと瑞貴が戦うじゃん?オレを応援するなら臙脂で瑞貴を応援するなら紺、みたいな?」

「赤也、校則第1条1項に抵触しかねない発言だぞ、ソレ」

無理やり選択肢を捻り出して説明を始めた赤也に、即座に拓海の指摘が飛んだ。

そして戦うってどういう意味だ、討論会でもするつもりなのか。

いや、その場合瑞貴も紺じゃないとおかしいんじゃないか、と十夜は思ったがそもそもソレ以前の疑問で止まっているので追及はしない。

「まぁ、そのうちわかるだろう、としか言えんな。詳しく説明はまかりならんと校則で明文化されてしまったからな」

仕方なかろうと祐一が肩を竦めてそう告げた。

詳しい説明が出来ないようになっている校則という単語にも疑問を覚える。

「部活動勧誘週間でも始まれば、嫌でもわかるから大丈夫」

最終的にそう言ってこの話題はここまでとでも言うようにぶった切ったのは瑞貴だった。

心配しなくても大丈夫という意味の大丈夫なのか、瑞貴は未だ疑問符の海から抜け出せない十夜に柔らかい笑顔を向ける。

「ったく、どこぞの生徒会長サマが新しい校則なんて施行するからこういうややこしいコトになるんだよ」

生徒会長に何やら個人的な恨みでもあるのか、赤也がわざとらしく盛大なため息をついた。

「…あの校則がなければ赤也たちの勢力が相変わらず不利なままだと思うが?文化祭以降、割と散々な結果だったろう?」

不満たらたらな赤也を宥めるでもなく祐一はからかうような口調でそう言う。

その言葉に、赤也がますます不満そうな表情を浮かべた。

「意味不明な会話だと佐伯が困るだろうから、そこまでにしとけ。それより、たぶん広瀬台風が説明し忘れただろうことを教えておく方が大事だ」

十夜にとってはわけのわからない内容で会話をしていた赤也と祐一を尻目に、拓海が建設的な提案を口にする。

「うちの高校は全生徒が必ず部活動か委員会に所属しなければならない。たぶん説明されていないと思うが、1年に混ざって部活動勧誘週間に色々回ることを勧める」

拓海は重要事項とでも言いたげにそう説明した。

「どうしても既存の部活動でやりたいものがなければ同好会の申請も出来るっぽいけどな」

横から立ち直ったらしい赤也がひょいっと口を挟む。

「部活動か委員会か、強制なのかい…」

それはまた珍しい、と十夜は苦笑した。

一応部活動には所属するつもりではあったが、全校生徒に強制とは珍しいのではないだろうか。

「校則で明記されているからな。少なくとも今年の生徒会でその校則に手が加えられる可能性は、恐らくなかろう」

十夜の疑問に、祐一があっさりと終止符を打った。

校則で決まっている上に変わる予定も見込みもないと言われれば大人しく部活動を考えるしかない。

「あとは特殊な教室は鍵がかかってて、学生証ないと入れなかったりするから忘れてくんなよ?」

例えば各特別教室の準備室なんかは、部活動で関係してる生徒くらいしか入れない。

解りやすい場所で言えば、放送室や暗室、コンピュータールーム、それに生徒会室なんかも含まれる。

赤也は思いつく限りの教室を挙げていき、他に何かあったかなと首を傾げた。

どこも基本的に自分には関係のなさそうな教室ばかりだったので、十夜は深く考えずにとりあえず学生証と生徒手帳はセットにしてブレザーのポケットにでも放り込んだままにしておこうと結論付ける。

最悪忘れてもクラスメイトに頼めば必要な場所を開けてくれるかもしれないが、彼らとはそこまで仲が良いわけでもなく、忘れたので開けて欲しいなどと恥ずかしい真似もしたくない。

その後他にいくつかの注意事項の説明を受けてそれぞれに愉快な掛け合いの会話を聞いてから、ふと時計を見れば時刻は14時になろうかというところだった。

さすがにいい時間だと誰もが思ったのだろう、その場はこれで解散となる。

長時間の拘束からようやく解放されると思う反面、知識面で助かった以上に少し楽しかったと感じている自分に驚きながら十夜は帰路につく。

寮までの短い距離を歩きながら、帰ったら何の曲から弾こうかと頭を切り替えた。

因みに祐一は十夜と一緒に店を出て別れたが、他の3人は少しだけ別の用事があると言って残ったようだ。

徒歩15分程度の距離を歩き、寮に戻ると十夜はさっさと部屋へ向かった。

手を洗うついでに、ふと鏡を見れば確かに首のあたりにくっきりと痣が残っている。

これでは指摘されるのも仕方がないと自嘲気味に笑って十夜は自室へと引っ込む。

部屋を後にした時のまま、譜面台には楽譜が揃えられベッドの上には自分の相棒でもある楽器が置かれていた。

ケースを開け、中がらバイオリンを取り出す。

寮が防音であることを良いことに早朝も弾いていたため、緩めていた弓を張りなおせばいつでも音が出せる状態だ。

相棒を構え、集中するために深く空気を吸い込むと、ゆっくりと弓を弦に当てる。

お互いが惹きあうように自然に触れた場所から、音が紡がれ出す。

そこからはもう、流れる水のように曲を奏でるだけだった。

まるで濁流のような激しい音だと評されることが多い十夜の音は空気を震わせ、部屋中に広がる。

奏でる曲は、パガニーニのカプリース24番。

クワジ・プレスト、僅か16小節の主題があらゆる技巧の為に展開される超難易度の楽曲。

独奏曲の中でも最高難易度、超絶技巧を必要とすると言われる難関中の難関曲は、既に旋律は完全に記憶されるほど弾き続けている曲の1つだ。

1度として満足の出来る演奏が出来た試しがなく、ただの技術面ならばギリギリ弾きこなせそうなものなのに旋律を追うだけで必死で、表現の部分まで手が回らない。

手を慣らす前に弾くような曲ではないのだが、数多く弾けば弾くだけ上手くなれそうな気がしていつも弾いてしまう。

そしてやっぱり満足のいく演奏が出来ないまま精根尽き果てて結局違う曲でお茶を濁すというのがここ数か月ずっと続いている。

これが弾きこなせるようになれば、次は悪魔のトリルに手を出したいと思っているのに、まだまだ全然辿り着けそうにない。

重音やピッツィカートが多様され、旋律を追うだけでも必死になる曲に5分強の拷問のようにも感じる曲だが、世の演奏家が必ず通る道だろう。

それに無伴奏曲なので1人でも練習がしやすいというのもこの曲ばかりを奏でている理由かもしれない。

本当にあらゆる形に変わりながらもどこまで行っても途切れることのない水のような演奏が出来れば、と心の底から思う。

せせらぎ、濁流、静かな水面、氷河、温水、激しい波に静かな波、空から降る雨に、雪。

どこまでいっても水は水なのに、あらゆる顔を見せるソレに近い演奏が出来ればどれだけいいか。

過去にたった1度だけ聴いた、自分の夢をバイオリニストに決定してしまった虹のように色鮮やかな音色を思い出し、十夜は深く溜息をつく。

技術的に言えば、幼い日に聴いたその演奏よりも今の自分の演奏の方が当然ながら圧倒的に上なのだが、表現力という面に於いては齢10に満たない子供だったその奏者に及ばないのだ。

拙い技術ながらも時に激しく、時に優しく、そして何よりも弾き手の気持ちが込められた、聞いているだけで楽しくなれるような音色。

思い出が美化されるというのはよくある話だが、十夜はその記憶が美化だけではないとはっきり思い出せるのだった。

もっとも、思い出せるのは幼い子供が華やぐ庭先で曲を奏でている映像と、その音色だけで、その子供に纏わる他のエピソードは全く記憶に残っていないのだが。

この日、十夜は日が傾き楽譜がオレンジ色に染まり出すまで演奏を続けた。

弾き続けた曲は1曲だけではないが、こんなに長時間続けて弾き続けたのは久ぶりのことだ。

それは新しい学園生活への前向きな展望からだったのかそれとも全く逆の感情だったのか、日が翳り出すまで無心で弾いていた十夜自身も何故こんなに長時間集中できたのか不思議に感じるものだった。



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