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序曲

はらはらと桜の花びらが舞い散る幻想的な光景。

まるで夢の中にいると錯覚してしまうような、柔らかな春の陽だまりの中。

引っ越しの荷物の搬入を終え、気分転換を兼ねて近所の大きな川の土手に築かれた階段を登れば景観の良い風景が広がっていた。

河原は両岸に広く枝を伸ばして咲き誇る桜並木が並んでいて、遊歩道として整備されているらしい。

砂利を敷き詰められた道の隅には広いベンチが等間隔で置かれていた。

春の陽ざしの中で、ゆったりと本を読んでいる年配の女性の姿や、小さな犬と歩く若者の姿とすれ違いながら流れる水の音を聞きながらそっと目を閉じた時だった。

空気を震わせる伸びやかで優美な旋律が耳に届く。

聴きなれたバイオリンの音に耳を傾ければ、その音はよく知っている楽器の音でありながら全く知らない音のようでもあり、どこまでも滑らかで繊細な響きをもって流れるように音を紡ぎ出している。

こんな場所で遭遇できるような音ではなく、本来ならばコンサートホールでしか耳にすることが出来ないような本物の音に、もしや著名な演奏家ではないだろうかと勘繰ってしまう程だ。

紡がれた曲はショパンの別れ曲で、うららかな春の陽ざしの中に切ない旋律は似合わないのではないかと思ったが、奏者の腕が良すぎるのか果敢なさを孕む桜の花の下に自然と溶け込む音色だった。

一体どんな人物が弾いているのだろう。

深みのある音から察するなら、壮年の域を過ぎた老獪な音楽の賢者だろうかと想像しながら音のする方へと首を巡らせれば、あまりにも意外な奏者に思わず目を見開いて凝視してしまった。

川を挟んで向こう岸にいるその人物は想像していた人物像とかけ離れすぎている。

目深に被ったキャスケット帽とだらりと長い袖のニット編みのカーディガン、それに細いスキニーはいずれも黒で、カーディガンの下に覗いているゆったりとしたチュニックだけが白という完全なモノトーンの色調の小柄な人影。

バイオリンを構え嫋やかに弓を引くその姿と、響いてくる音色は完全に一致しているというのに、思わず他に奏者がいないかと首を巡らせてしまうほど、深い音色を奏でている奏者は若かった。

深く被った帽子のせいで目元は隠れてしまって顔の詳細までは分からないが、恐らくまだ高校生くらいではないだろうか。

そんな幼気な外見からは想像も出来ないような深く透き通った音色が響き渡る。

音色に合わせて揺れ動く影はまるで踊っているようだ。

キャスケット帽の陰から覗く口元を微かな笑みの形にしたその奏者は、気負うこともなく無駄な力を入れるでもなく、ただ自然にあるがままに音を紡いでいた。

ふっと音が止んだかと思えば、別れの歌の余韻に浸る間もなく別の音が流れ出す。

誰もが聞いたことのあるパッヘルベルのカノン。

静かで繊細でありながら揺らぐことのない音は、新しい曲を紡いでいた。

恐らく、即興のアレンジでメドレーにしてしまったのだろう。

華やぐ桜並木に新しい色を添えながら、歌うような音は続いていた。

バイオリンの音色はよく女性の歌声に喩えられる。

弾き手の年齢や性別はわからないまでも、その音色は音楽の女神の歌声だと言われても納得出来てしまうような天上に響く音色だった。

このいきなり始まった名もない演奏会に、遊歩道を歩く人影が思わず足を止めるのが見える。

当然だろう。

一生のうち、ミューズに愛された音色に出逢えるのはどれくらいの確率だろうか。

音楽の知識があろうがなかろうが誰もが足を止めて聞き惚れてしまう演奏。

前置きも解説も必要としない、誰もが惹きつけられる本物の音色。

理屈を抜きにして素晴らしいと思える演奏に、同じ楽器を扱う者として悔しいとすら思えずただただ感動した。

再び曲が変わり、シューベルトのアヴェ・マリアの旋律が響く。

天使祝詞の名に相応しい音色に、もしかするとあの奏者は人間ではなくてミューズそのものかもしれないと妙な幻想すら抱いてしまう。

弾いている曲そのものは、技術的に決して難しいものではない。

ほんの少しの練習で、弾くだけなら誰でも弾ける初歩の技術しか必要としない。

だからこそ、奏者の腕が際立つのだ。

誰でも弾ける楽曲を、誰もが紡げない至上の音色で奏でている。

それも本当に楽しそうに、自然体のままで。

奏でる曲によって音色がまるで違って聞こえる、七色の音だ。

よくこれだけ異なる音色を同じ楽器で同じ奏者が紡ぎだせるものだというくらい、一気に雰囲気が変わる演奏は、聴いていて飽きるということがない。

音が途切れる瞬間、目の前には大聖堂のステンドグラスの幻を見た。

これで終わりだろうかと奏者を見る。

しかし、楽器は掲げられたままで弓を下ろす気配もない。

口元に浮かぶ笑みが、僅かに深くなったような気がした。

急に明るく弾けるような瑞々しい音が跳ねた。

生き生きと紡がれた音色はモーツァルトのセレナーデ第13番ト長調。

アイネ・クライネ・ナハトムジーク、第一楽章。

先ほどまでと打って変わってどこまでも眩しい音の奔流が届く。

同じ人間が弾いているとは思えないくらい色が変わった。

くるくると回るように、水面を滑る花びらのように、音が流れていく。

跳ねる音は夜空に煌めく星のようで、色とりどりの音色は青空を染める虹のようだ。

どこまでもカラフルに響く音色と、奏でる事自体が倖せだとでもいうように全身で踊るように弾く奏者が、とても絵になっていると感じる。

偶然と言うべきか、セレナーデが途切れた瞬間にズボンのポケットに放り込んでいた携帯電話が振動した。

マナーモードにしていて良かったと心底思いながら取り出せば、休憩は終わりだと告げる無慈悲なアラームの画面。

深く息を吐くと、踵を返す。

気分転換以上の何物にも代えがたい時間を過ごせた。

こんな場所で、偶然にも音楽の天使と巡り合えるとは思ってもいなかったので、この出逢いは僥倖のようにも感じられる。

幼い日に出逢った音楽の天使の再来かと思うような、草花に祝福されながら演奏する姿をもう1度だけ見ると踵を返す。

そのまま至福の余韻に浸りながら足を踏み出せば、後ろから音楽が追ってくる。

エルガーの愛の挨拶、実に春らしい伸びやかな選曲だと少しずつ遠ざかる音に笑みを零した。





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