悪竜退治 (”餓えしものどもに捧ぐる賛歌”に関する補稿)
本作中の登場人物については、内面・外面とも著者の独自の解釈が多分に含まれています。また、作品内世界設定についても同様です。
本作には、「ログ・ホライズン」本編に関する内容が断片的に含まれています。ご了承ください。
アットホームな雰囲気が売りの〈三日月同盟〉にも、時折それとなく皆が各々のプライベートを尊重するタイミングがある。
〈雪季祭〉の最終日、昼食時には少し遅めな昼下がり。小竜と飛燕の二人が出場した〈円卓会議〉主催の〈黒剣杯〉が大盛況のうちに終了した後、〈記録の地平線〉の直継に誘われたギルドマスターのマリエールが、向日葵みたいに眩しい笑みを浮かべながら直継と肩を並べて去ってゆく。その背中を見送った〈三日月同盟〉の面々は、暗黙の裡に夕刻の宴までの時間を自由時間と了解して、各々心に決めた相手と手を繋ぎ、或いは肩を組み、或いは微妙な距離を保ちながら、天頂から傾き始めた冬の陽の下、思い思いにアキバの街に消えていった。
申し訳なさそうに頭を下げ、けれど嬉しそうに連れの猫頭の紳士と手を繋ぎ、ポトフの美味しい店を案内してもらうのだというセララを安心させるように笑顔を見せて送り出してから、溜め息を吐いてよく晴れた午後の冬空を見上げたヘンリエッタは、レイネシアの〈水楓の館〉にでも顔を出して今夜の宴の催し物の最終チェックでもしようかしらん、と上の空で考えながら、五平餅だの、味噌おでんだのと云った和風のファスト・フードの露店の間をふわり、ふわりと所在無げに歩いていた。
実を云えば、宴の段取りなどはとうの昔に完璧なものに仕上げてあり、今更最終チェックなどは必要ない。〈天秤祭〉の経験もある。〈料理人〉の〈冒険者〉や、徒弟の〈大地人〉たちの士気も旺盛だ。防御魔方陣の効力が消えて半月経つが、警備を担当する戦闘ギルドの練度も上がっている。何より旧世界では警察や警備関係の職業に就いていた〈冒険者〉たちは、今まで発揮する場の無かった自分たちのリアルスキルを存分に振るい、防御結界があったころよりも却って生き生きと職務に精励しているくらいである。
要するに、世はすべてこともなし、順風満帆で怖いくらいの祭の最後の夜を、アキバの街は今まさに迎えようとしているのだ。
トラブルさえなければ、運営側の仕事というのはまず無いと云っていい。
(・・・・・・得てしてこういう時よね、自分が案外、要領が悪いと気づかされるのは)
休日の午後、独りで街を歩くと云うのは、現実世界にいたころのヘンリエッタにとっては馴染みの習慣のひとつだった。学生時代は自分の隣を男性が歩いていたこともある。ヘンリエッタだってその余裕がありさえすれば、付き合いたいと思うような男性の一人や二人は見つけられたし、男性のほうから付き合いたいと伝えられたことだって一度や二度のことではない。しかしそれも、余裕がありさえすればの話だ。就職し、仕事が忙しくなるにつれて、ヘンリエッタがプライベートを誰かと一緒に楽しむ時間は、会社のデスクでPCの前に座っていなければならない時間と反比例して減少した。そうした時間が減るにつれて、そもそも『誰かと一緒にいたい』という欲求そのものが減少しているような気がする。妙齢の女性としては憂慮すべき事態なのかも知れないが、かといって、仮にそうした欲求を増大させたところで、結局はその欲求を満たすに足るだけの時間が不足しているのだ。ならば今の状態のほうが現実に即していて都合がいい、そう割り切る程度には、ヘンリエッタの性格は合理的だった。
唯一の例外は、特に希望したわけでもなく、中学の担任に勧められてなんとなく進学した女子高で出会った、ひとりの友達の存在だった。
愛嬌があり、誰にでも好かれ、みんなに心配されるくらいにあけすけで裏表のない、ついでに云えばヘンリエッタと対照的に胸の大きなその娘は、出会った時点で十二分な数の友人に囲まれていたにもかかわらず、なおヘンリエッタと”ともだちになる”ことを躊躇う様子はまるでなかった。最初はよくいる、携帯の電話帳の登録数が人間の価値を決めると無邪気に思い込んでいる類の人物かと考えていたヘンリエッタは、数日後、早くも自分が抱いた偏見を恥じることになる。聡明なヘンリエッタにはすぐにその娘、マリエという名前のひまわりみたいな笑顔と魅力の持ち主が、驚くほどに誰に対しても、彼女なりの真摯さで親身に付き合っていることが理解できたのだ。
その日からマリエは、ヘンリエッタの人生で一番最初の”特別”になった。
〈エルダー・テイル〉をはじめたのは、就職してだいぶ経ってからのことだった。
大学卒業後、家事手伝いとは名ばかりのニート生活に飽き始めていたマリエが、なにか面白いものはないかと捜し歩いて出会ったのが、当時から世界最大の接続数を誇るオンライン・ゲームだったのだ。
一緒にプレイしようと誘われて、最初は仕事が忙しいと断っていたヘンリエッタは、プライベートの時間が少なくなるにつれ、時間も手間もかからない手軽なチャット・ツールのようなものだと思い直して、マリエに数か月遅れて〈エルダー・テイル〉を始めることにした。思えば、それはまさしく運命の分かれ道だったのだ。
二人は結局、随分長い時間を〈エルダー・テイル〉の中で過ごした。回復職と支援職の組み合わせは、パーティーにも誘われやすく、二人は同じようなペースで順調にレベルが上がっていった。ログインする時間は勿論マリエのほうがヘンリエッタよりずっと多かった筈なのに、レベルが上がるペースがほぼ一緒なのは、マリエの要領が悪いのか、ヘンリエッタといる以外の時はサブ職の〈木工職人〉のレベルを上げていたのか、或いはチャットでもして過ごしていたのか。(どれも有り得る、いやきっと、全部ひっくるめて正解なのだとヘンリエッタは思っている)
それとももしかして――――忙しい自分に合わせて、レベルアップのペースを調節してくれていたのか。他の誰でもなく、ヘンリエッタに歩調を合わせて。
(・・・・・・流石にそれは、自惚れ過ぎかしらね)
休日の午後の街を独りでぶらつくにしても、女友達のことばかり考えているのは流石にどうなのか、と思わないでもないが、かといって現状アキバの街に、ヘンリエッタが憂い顔で想いを馳せながらひとり溜め息を吐く様な、好みに合った男性と云うのはそう多くはない。理想が高いつもりは毛頭ないのだが。まあ要するに、ヘンリエッタの”そうした欲求”が減少しているという、これは証左に過ぎないのであろう。
かといってこういう時、男性の顔がまったく浮かばないと云う訳でもない。けれどまあ、一歩引いた特等席から舞台の上の悲喜こもごもを眺めると云う無上の楽しみを放棄したいと思うほどには、彼に対して積極的になる気も今のところはない。
(だからわたしはまあ――――このくらいが丁度いいってワケなのよ、マリエ)
空を見上げて、ひそやかに洩らした忍び笑いを、しかし見咎める者がいる時もある。特にこんな、祭の午後の陽の下では。
「独り笑いなんてヘンリエッタ、あんたにしちゃあ珍しい。なにかいい事でもあったのかい?」
雑踏の中から奇襲めいて突然掛けられたその声に、思わず肩がびくりと震える。
ひょい、と横から顔を出してきた、大きな狐耳が印象的な肉感的な美女は、悪戯っぽく微笑みながら、ヘンリエッタの頬をやわらかな人差し指でぷにぷにと突いてきた。
* * *
「あらやだ、ナズナ。わたし、笑っていましたか?」
「そりゃあもう。シロの奴みたいになんか企んでるに違いない、ってえイイ笑顔で」
「あらやだ」
レイネシアの〈水楓の館〉でもよく顔を合わせる、アキバ有数の戦闘ギルド〈西風の旅団〉の〈神祇官〉ナズナは、ばつの悪そうなヘンリエッタに向かってにんまりとゆるく微笑んでみせた。見れば、ナズナも珍しく独りの様で、笑顔の端には暇を持て余すようなオーラがゆらゆらと陽炎のように揺れている。
「ナズナこそ珍しい。お一人ですか?」
「ああ、そりゃ、たまにはね。ソウジロウを若い子たちに譲ってやらないと。こういう祭の日くらいは、意地の悪いお局の目を気にせずにソウジロウと遊びたいだろうし」
「それはそれは」
〈天秤祭〉の時の、ソウジロウを取り巻く花のような女の子たちの様子を思い出して、ヘンリエッタは思わず苦笑した。〈西風の旅団〉は公称メンバー120人、定期的にレイドやギルドイベントに参加する実質的なログイン実態がある人数に限っても、60人以上のメンバーがソウジロウ唯一人を常に取り巻き活動している。つまりはそれだけの人数のライバル同士、しかも殆どが成人前の若い女の子(全員が女の子と云い切れないところがソウジロウの恐ろしいところだ)が、ソウジロウ一人を巡って日々鎬を削っているのだ。他人事ながら、そんな女の子たちを取りまとめるナズナの苦労が偲ばれる。
ヘンリエッタにとって、ナズナは比較的話し易い相手だ。〈エルダー・テイル〉の中に入ってみると、学生でもなく、主婦でもない若い女性のプレイヤーというのは意外と数が少ないことに気付く。日本人プレイヤーに限って云えば、恐らく学生と主婦が女性プレイヤーの八割方を占めるだろう。学生や、まだ子供のいない主婦のような、比較的時間の自由が利く立場の女性のほうが、当然〈エルダー・テイル〉にのめり込む確率は高い。逆にヘンリエッタやナズナのような、職を持った独身の女性プレイヤーの割合と云うのは、全体から見れば決して多くないのである。性格はヘンリエッタとマリエが違うのと同じくらいに違うナズナであるけれど、そういう共通点がある同年代の女性というだけでも、学生の子や主婦プレイヤーとはまるで違った気安さがある。セララや明日架では話が噛み合わない、かといってマリエに深刻に相談するような話題でもなく、どちらかと云えば部外の人間の意見を参考にしたい、そんな小さな雑問題を気安く相談できる〈水楓の館〉でのナズナとのひと時は、これでなかなかに貴重な時間であった。
「なら、独り者同士ちょっと付き合っていただけません? 昼食はもうお済みになりましたかしら、ナズナ?」
「いんや。どうしようかと悩んでたとこさ。どっかお勧めでもあるのかい?」
マリエ以外の同性をデートに誘うのも、アキバの街に来てからは慣れっこになってしまった。週に一度はシロエに許可を取ってアカツキを(半ば無理矢理)アフタヌーンティー・デートに連れ出しているし、〈水楓の館〉からの帰りにリーゼやカワラ達とお茶をすることも珍しい事ではない。
なんにしても、現実世界の忙しさから否応なしに引き離された今となっては、暇を持て余す時間を他人と共有するのは楽しいことだ。〈円卓会議〉が立ち上がって以来、シロエに負けず劣らず忙しい時間を過ごしているヘンリエッタだが、社畜生活と呼んでも差し支えない現実世界の生活を思い起こせば、この程度の忙しさなど忙しいうちに入らない。マルチタスクをこなす能力にかけては、同年代の同僚の中でも群を抜いて優れていたのだ。
「そうですね・・・・・・心当たりがありますわ。最近見つけたお気に入りなんですけど」
お正月モードの盛装なのであろう、ゆるく着崩してはいるものの、巫女服をファンタジー風にアレンジしたような白と赤とに染められた凛としたナズナの装いを見てピンときたヘンリエッタは、日本人ならやっぱり暮正月は和食よね、と心の中でいくつか候補を並べる。それもただの和風にあらず、ちょっとピントを外し気味の、ユニーク・ジャパニーズなんてのはどうだろう。
面白がるような表情のナズナに、ヘンリエッタは自信ありげに挑発的な微笑を返すと、先に立って歩き始める。
さあ、楽しいランチタイムのはじまりだ。
空色の麻布に白く〈マスター・ウエストウインドのファンタスティック・スシ・ワゴン〉と染め抜かれたノレンを潜ると、「エーラッシェー!」と多少イントネーションがおかしいものの、威勢のいい声が掛かる。
祭の神輿みたいな勘違い和風の装飾が施されたこじんまりとした屋台には、気後れする者が多いのか客足はまばらだ。椅子は一つも置いていないので、立ち食いかテイクアウト専門なのだろう。
「マスター・ウエストウインドの屋台は、見た目ちょっとアレですけど・・・・・・味は保証しますわ」
ノレンを腕でまくり上げ、手招きしながら微笑んでヘンリエッタ。こちらは些かも気後れした様子もなく、むしろもの珍しそうにシャチホコやタヌキを指でつつきながら、招かれたナズナがノレンを潜る。
「見た目アレだなんてとんでもない、いい趣味してるじゃないか」
カウンターに描かれた富士山と鷹と茄子を題材にしたウキヨエの表面を指で撫でながら、ナズナはにんまりゆるく崩れた笑みを、奥で寡黙に包丁を動かしている〈料理人〉に向けた。カウンターの向こうでただ一人、黙々と調理を続ける〈料理人〉・・・・・・殺気と見紛う真剣極まりない剣呑な空気を纏う板前は、空色の頭巾を被り、鋭い目元以外を鋼の面頬で覆い隠している。白い割烹着を羽織った下には目の細かい鎖帷子。そう、板前があからさまにニンジャなのだ!
ニンジャの板前は楽しそうなナズナの声に、わずかに頭を下げてオジギをした。
「ドーモ、マスター・ウエストウインドです」
「西風か、気に入ったね。ところでもしかして、龍や夏もいたりするのかい?」
「・・・・・・あやつらは〈大災害〉の際にはログインしていなかった。ゆえにこの屋台は、いまや私一人が火を灯し続けている」
「はは、成る程成る程。いいねヘンリエッタ、あたしは気に入ったよ、ここ」
ナズナがにやりと訳知り顔に笑みを浮かべると、板前も面頬の下でひそやかに微笑する気配がした。なんだか初対面の二人が異様に通じ合っているような雰囲気だが、オールド・ゲーマーならぬヘンリエッタにはまるで分らぬ領域だ。空色頭巾のニンジャ・イタマエと狐耳の〈神祇官〉との間に通う、余人には理解不能な奇妙な共感は棚の向こうに置いておいて、ヘンリエッタは早速木札に書き付け並べられたお品書きを眺め始める。マグロ・スシやグンカン・スシ、オツキミ・ソバなど容易に想像できるものから、スシ・ソバやオモチ・ロールなどといったまるで意味の分からないメニューまで、ニューヨークの和食レストランのようなカオスな料理名が並んでいる様は、ある意味壮観であった。
「ヘンリエッタに任せるよ」
「あら、それじゃあ・・・・・・お正月だし、このサクラ・オゾーニをふたつ。テイクアウトで」
「ハイヨロコンデー!」
紙椀によそわれた熱々の雑煮を両手で包むように捧げ持ち、ヘンリエッタとナズナは座れる場所を探して中央広場に向かって歩いていた。
昆布出汁のきいた澄まし汁に、程よく焼いた餅が二つ。ミツバと桜の花びらを象った五枚の薄切りの蒲鉾が添えられており、中心には、ほんのり香る桜の花の塩漬けがあしらわれている。桜の花びらは、〈大災害〉直後に〈ウエノ盗賊城址〉の八重桜を採取しておいたものだと云う。保存はどうしたのかと尋ねたナズナに、ニンジャの板前は〈風乗り人の氷室〉を使ったのだと教えてくれた。〈風乗り人の氷室〉は、本来は中に収納した投擲武器や矢弾に冷気属性の追加ダメージを付与する秘宝級のベルトポーチだが、これを持ち運び可能な冷蔵庫として利用したと云う訳だ。
「〈大災害〉直後から、脇目もふらずそういう事だけを考えて実際の行動に移すなんて、まさに職人と云う感じですね」
現実世界より平均気温が低いこの世界では、〈大災害〉直後の時期にも僅かに桜の花が残っていた。皆が混乱するさなか、誰も気付かなかった、気付く余裕すらなかったその一点に目を向けて、ただ旨い料理の工夫をする、そのためだけに知恵を凝らすと云う事は、これでなかなか途方もないことではないか。ヘンリエッタは、同じ〈冒険者〉たちの絶望の声が満ちる街路を歩くニンジャの視線が、ふと見上げた路傍の桜の梢に僅かに残った薄紅色の可憐な花に注がれるその様を想像して、ただただ感嘆するのだった。
「どうも職人気質ってのはそう云うもんらしいね。〈アメノマ〉の多々良だって、〈大災害〉の次の日には、自分の目でいちばんいい鉄を見つけるために鉱床巡りをしていたっていうよ」
「わたしたちみたいなものからしたら、想像もつかない話だわ、ほんとうに」
「班長といい、多々良といい、実際すぐれた職人の目ってのは、あたしらゲーム脳の連中の目なんかより、よっぽど世の真理がよく見えてるんだろうねえ。本人たちにとっては当然のようにそこにある、ごく自然な理でしかないのかもしれないけれど」
「まあそれでこそ、その当然の理が見えていた一部の職人たちとわたしたち一般の冒険者との間に生まれた認識の隙間に、シロエ様が乗じることができたのでしょうね。”糾える縄の如し”とは云うけれど、善きに転ぶも悪しきに転ぶも、ほんの小さな発想ひとつの差、というのは面白いですわ」
「違いない、って危ないっ!!」
「っきゃ!?」
突然ナズナが大声を出した理由を悟る暇もなく――――ヘンリエッタは忽然と街路の中央に聳え立つ、大きな岩のようななにかに強かに顔面をぶつけて悲鳴をあげる。
ヘンリエッタが胸の前で捧げ持っていた紙椀は、中身ごと冗談のように弾け飛び、綺麗な放物線を描きながら、呆然と見守るヘンリエッタとナズナの目の前で、まるでスローモーションのようにゆっくりと、その岩のようなもののてっぺんに――――紫色の長髪に囲まれた大男の顔面に、これ以上無いくらいに見事な角度で命中した。
「ギャアアア!? っつ熱っつあちゃあああっっっ!?」
なんとも形容しがたい形相で絶叫した大男の顔面に、二つの餅がべったりとくっついている。ただ熱い汁が掛かっただけならすぐにでも落ち着くのだろうが、熱々の餅がへばりついているこの状況は、顔面に炎熱属性の継続ダメージ呪文を喰らい続けているようなものだ。大男は悶絶しながら餅を引き剥がそうとのたうち回って格闘しているが、そうそう簡単に引き剥がせるものではない。
「ご免なさいっ! 大丈夫ですか!?」
慌ててヘンリエッタが差し出したハンカチを乱暴にひったくり、顔を拭いながら大男が憤怒の表情を二人に向ける。
「っざっけんなこのクソ女がっ! 顔が取れるかと思ったぞ顔がっ! こちとらアンパンマンじゃねえんだ莫迦野郎っ!!」
一息にそう云い切った男の身なりは、頑丈そうな革の装束に剥き出しになった太い首や二の腕、金属製の籠手とブーツに包まれたごつい拳足。典型的な〈武闘家〉の装備である。身長は、女性にしては高いほうのナズナより更に30センチ近くは高い。肩幅は広く、胸は厚く、全身に絡みつく太い縄のような筋肉の束は、〈冒険者〉としての高い筋力と敏捷性を併せ持っていることを窺わせる。
一番最初に、お互いのネームタグに注意を向けたのは、一歩引いたところで事態の推移を眺めていたナズナだった。
(あれ・・・・・・こいつ・・・・・・?)
平謝りのヘンリエッタに怒鳴り声を返す巨漢の〈武闘家〉を、狐と云うよりは猫のように目を細めながら観察する。その名前は、そしてそのギルドタグは、〈大災害〉直後のススキノの惨状を知る者であれば、当然見覚えのある名前だった。禍福は糾える縄の如し・・・・・・先ほどのヘンリエッタの台詞が甦る。それでもこうして街を歩けば、時にはこんな珍しい出会いもないではない。
「ほんとうに、申し訳ありません・・・・・・」
「申し訳ありませんじゃねえぜ、リアルだったら熱いじゃすま・・・・・・ね・・・・・・え・・・・・・?」
次にネームタグに注意を向けたのは、大男のほうだった。頭を下げるヘンリエッタの、蜂蜜色の髪の毛の更に20センチほど上を凝視したまま、あげかけていた怒声を急に萎ませる。
「・・・・・・すまねえ、もういい、おい、あんた。頭を上げろよ」
「・・・・・・はい?」
訝しげに顔を上げたヘンリエッタは、乱れた長髪の下からやぶ睨み気味に自分を見据える男の視線が、先ほどまでとはうって変わって、至極真剣な、ともすれば必死の形相を浮かべていることに気が付いた。吹き荒れていた乱暴な気配は鳴りを潜め、なにかを懇願するような光を湛えた男の瞳に、疑問符を浮かべながらも向き直る。
「・・・・・・あんた、〈三日月同盟〉の人間か」
ヘンリエッタが頷く暇もあらばこそ、
「・・・・・・おれはデミクァスだ。〈ブリガンティア〉のデミクァスだ。あんたに頼みたいことがある」
続いて男が口にしたその台詞は、ヘンリエッタの表情を、一瞬にして凍り付かせたのだった。
* * *
〈ブリガンティア〉のデミクァス。
その名前は、ヘンリエッタたち〈三日月同盟〉の面々にとっては、少々特別な意味を持つ。それも良い意味ではない、悪い意味だ。
〈大災害〉の直後、彼女たちの大切な友人、〈三日月同盟〉の〈森呪遣い〉セララを毒牙にかけようとした悪党として、そして混乱期のススキノの街を蹂躙した不良プレイヤーとして、デミクァスは〈三日月同盟〉のメンバーの深甚な怒りを買っている。ススキノから帰ってきたセララの心の傷は決して小さいものではなかったし、小竜や飛燕などは、直接顔を合わせる機会があれば、ぶん殴らなければ気が済まないと公言しさえしたものだ。ヘンリエッタだって、間違っても積極的に会いに行きたい相手ではない。
しかし――――しかし、ヘンリエッタとマリエールは、〈奈落の参道〉の冒険から戻ったシロエと直継の二人から、デミクァスの変化と、冒険の中でこの野蛮な〈武闘家〉が果たした役割について、かなり詳しく聞かされていた。
すっかり陽の落ちた冬の夜、〈記録の地平線〉のギルドハウスでランタンの明かりを囲み、ヘンリエッタ、マリエール、セララ、にゃん太の四人を前に、弁は立つくせに”語ること”が苦手な眼鏡の青年は、ところどころつかえながら、それでも時折入る直継の合いの手に助けられ、ぽつり、ぽつりとススキノと〈奈落の参道〉で過ごした数週間を、固唾を飲んで耳を傾ける四人に向かって何時間もかけて語って聞かせた。シロエたちに打ち倒されてから、〈シルバーソード〉にも叩きのめされたデミクァスが――――それまで自分が拠り所としていたものの殆どを失ったデミクァスが、一体どんな思いを抱きながらその数か月を過ごしてきたのかを。〈奈落の参道〉でシロエや、直継や、てとらや、ウィリアムや、〈シルバーソード〉の面々と肩を並べて戦い、寝食を共にしたデミクァスが、戦いの日々の中でどのように気持ちを変えていったのかを。そして何より、オウウの昏い地の底深く、太古の供贄が築き上げ、悠久の時を暗黒に閉ざされ続けてきた古代の回廊の片隅で、シロエとデミクァスがいかなる言葉を交わし、いかにして奇妙な折り合いをつけるに至ったのかを。
シロエはセララに対し、デミクァスを赦せとは一言も云わなかったし、そもそもそんなつもりも毛頭無い様子であった。ただ長々と語り終えてから、窓の外の白みはじめた東の空を一瞥し、にゃん太が淹れ直したロシアンティーを一口すすると、”〈雪季祭〉の期間中に、デミクァスがアキバの街を訪れるかも知れない”とぽそりと口にした。それからロシアンティーをもう一口すすり、溜め息を吐いて、詳しい要件は知らないが、てとらが呼びつけた様子であると付け加えた。セララに対してシロエが云ったのはそれだけだった。
ヘンリエッタとマリエには、シロエはなにも云わなかった。その態度は、無責任な判断の丸投げのようにも見えたし、その一方で、ギルド〈三日月同盟〉の考えを尊重し、彼女たちが下す結論に余計な異論を差し挟むつもりはないと云う意志表明のようにも見えた。
このとき、マリエはどう思ったか分からないが、ヘンリエッタは正直云って途方に暮れた。問題としては、結局のところセララの意志ひとつの問題である。セララがデミクァスを赦そうと、赦すまいと、その選択にヘンリエッタたちが異議を申し立てる権利はない。しかしだからと云って、それがセララの問題だからと一切の干渉を放棄することもまた許されることではない。なんといっても、セララは未だ高校二年生の少女に過ぎない。未成年の彼女が有無を言わさず投げ込まれたこの異世界においては、マリエールやヘンリエッタは彼女の最も身近な大人として、謂わば彼女の保護者代わりとして、彼女の行く末にある程度の責任を負わぬわけにはいかないからだ。人の親ならぬ身のヘンリエッタたちにとって、その責任はとても大きく、重いものに感じられて、果たしてどう答えを出したらいいものか、まるで見当がつかなかったのだ。
だからその時のヘンリエッタは沈黙を選んだ。後々必ず直面せねばならない問題にしても、もう少し考える時間が欲しかったのだ。
(・・・・・・そうして答えを先延ばしにしたツケが、今、私の目の前にやってきている)
時間は遅かれ早かれいずれ万人のもとにやってくる――――すべてを清算するために。そして神ならぬ定命の人間に、時間の歩みを早めることも、遅らせることもできはしない。
「無理は承知だ。あんたに頼みたいことがある。ほかでもねえセララのことだ」
デミクァスが静かに繰り返す。雑踏の音が遠くなる。人の流れが自然と彼らを避けて流れ、ヘンリエッタはこの世のすべてに置いてけぼりを喰らったような、そんな奇妙な孤独感に身を苛まれた。
「・・・・・・なんでしょう。わたしにできることならば、お伺いするに吝かではありませんが」
自分の言葉が、遠くの舞台の上で名も知らぬ俳優が口にする台詞のように、現実感が希薄に感じられる。だがその非現実感に流されるわけにはいかない。千々に乱れるヘンリエッタの気持ちとは関わりなしに、現実にデミクァスはそこにいる。ヘンリエッタの目の前に、花崗岩の塔の如く確固とした質量を備えて決然と佇んでいる。セララに近しい大人の一人として、今のデミクァスを見極める責任が彼女にはある。
逃げるわけにはいかない。逃げることなく、聞くべきを聞き、確かめるべきを確かめ、答えるべきを答えねばならぬ。逃げれば自分を恥じて生きることになる。自分を許せぬまま生きることになる。ヘンリエッタは、そんな生き方だけは御免だった。
「その、セララのことだ。ああ、なんだ。あいつにその、ススキノではすまなかったと、それだけ伝えてくれねえか」
――――ああ、そうか。やはり。ならば。
求めているのは和解ではない。赦しでもない。きっと彼のほんとうの願いは、ただひたすらに償い続けると云うその意思を、セララに伝えることだけなのだ。
なればこそ、セララの生き方だけではない、デミクァスの生き方さえも縛りかねない、そんな無責任な言葉を操る術も、権利も、ヘンリエッタは持ち合わせていない。彼女に出来るのはたったひとつ、偽ることなく、公正であり、誠実であるということだけだ。
「・・・・・・それは、軽々しく、『承諾します』とは云えませんわね」
強いて厳しい表情を作り、強い意志を視線に込めて、ヘンリエッタは大柄な〈武闘家〉の、巌の如く険しい貌に目をやった。背丈で云えば頭一つ半の差――――しかし横幅は倍近く、質量で云えば倍以上になろう。まさしく大人と子供だ。大きさと云う意味でも、また身体能力的な意味でも、である。
抑えようとする咽喉を抜けて、自然とため息が漏れる。
「どうしてわたしたち、ここで出遭ってしまったのかしら。こんなところで出遭わなければ、私も面倒を抱え込むこともなかったし、貴方も余計な悩みを抱え込まずに済みましたのに」
努めて突き放すような口調を心掛ける。自分自身でも保証できぬことについて、徒に相手に希望を持たせるのはただの残酷だ。何者に対してであろうと、それこそ相手が親の仇であろうと、そうした無邪気な、無自覚な残酷さを発揮する人間に、彼女はなる気にはなれなかった。詐欺師の輩に自分を貶めるつもりは毛頭ない。
「今貴方が仰った貴方の望みは、飽く迄も貴方とセララちゃんの問題ですわ。肉親でもなく、当事者と云う訳でもない、ただゲームの中で、たまたま同じギルドに所属するだけの私たちのような人間が、貴方は兎も角、セララちゃん自身の――――それも決して些細なものではない、寧ろ彼女のこれからの生き方に影響を及ぼすようなセンシティブな問題について、彼女に頼まれもしないのに仲介役を買って出ると云うのは、無責任なお節介にしかなりません」
ゆっくりと、しかしはっきりと、慎重に言葉を選びつつ、けれど場合によっては相手を傷つけることも厭わぬという確固たる意志のもとに紡がれるヘンリエッタの言葉のひとつひとつに、〈ブリガンティア〉のギルドマスターは、怒るでもなく、否定するでもなく、ただ黙したまま耳を傾けていた。
傍から見守るナズナの目には、石のように変わらぬデミクァスの表情が、けっして捨て鉢ではなく、非難だろうが罵声だろうが相手の言葉の一切合財を、否定も反論もせずただ黙って受け容れる、静かな覚悟に満ちているように見えた。それは、ともすれば母の機嫌が直るまで、いつまでも涙を堪えて許しを乞い続ける幼児のような、子供じみた頑迷さと紙一重ではあったものの、その一方で――――彼女自身そんなものは生まれてこのかた一度も見たことが無いにも拘らず――――黙然と刑場に牽かれる殉教者を思わせて、そんな途方の無いものを相手にしているヘンリエッタを僅かなりとも励ます様に、なにか言葉を掛ける代わりにその細い肩に気遣わしげな視線を送った。
「だからわたしには――――あなたの言葉をセララちゃんに伝えることはできません」
それが、ヘンリエッタが出した結論だった。
確かにデミクァスの言葉をそのままセララに伝えるのは簡単だ。それをセララに伝えたところで、彼女はただ頷いて納得し、二度とデミクァスのことを話題に上らせることはないであろう。デミクァスもまた、ヘンリエッタがそれを承諾すれば、きっと静かに立ち去って、二度と自分からセララの前に姿を現すことはないであろう。だがそれは、果たして最良の結果と云えるのか。
ほんとうに伝えなければならないことを、伝えることができるのだろうか。拾い上げねばならないものを、すべて拾うことができるのだろうか。救われるべき者を、皆救うことができるのだろうか。癒されるべき疵は、ほんとうに癒しを得ることができるのだろうか。
それでは伝わらないと思った。それでは拾えないと思った。それでは救えないと思った。それでは癒せないと思った。
彼女が果たすべき責務はそこにはないと、ヘンリエッタはそう思ったのだ。
「あんたがそう云うのは当然だ」
果たして巨漢は、怒りも失望もなく、ただ当然の事実を述べるように淡々とヘンリエッタの言葉を肯定した。
「そうだな。あんたの迷惑を考えていなかった。すまねえな」自然石がごろりと転がるように、うっそりとそう口にした〈武闘家〉は、くるりとヘンリエッタたちに背を向ける。「埒もねえこった、忘れてくれ。あばよ」
なにかがヘンリエッタの胸の奥を叩いた。
たった今、ここで交わされた会話は、外形的にはかつての加害者が、かつての被害者の友人に身勝手な伝言を頼み、それを断られ立ち去ろうとしているに過ぎない。
デミクァスは、己の身勝手さを承知のうえで、ヘンリエッタがそれを断る可能性を当然のものと受け容れながら、敢えて彼女にセララへの伝言を依頼した。
ヘンリエッタは、端から相手が無理を承知で依頼してきた伝言を、己の良心と良識のもとに当然の選択として拒絶した。
・・・・・・そうだ。きっとデミクァスは、セララにその言葉を伝えたいのではなかったのだ。当然断られることを前提に、敢えてヘンリエッタに、〈三日月同盟〉の人間に、拒絶されるのを承知で声を掛けたのだ。自分の罪が忘れられぬように。自分の罪が風化せぬように。
だからデミクァスは、自分の頼みを断ったヘンリエッタを憎みもせず、恨みもしない。それは当然叶わぬ望み。報われなくて然るべき、拒絶されるために発された言葉だったのだから。
無論ヘンリエッタには落ち度はない。彼女は自分の能力と良心の及ぶ限りの選択をした。それは彼女が発揮できる最大限の公正さであって、そこに嘘偽りは微塵もない。
――――けれど、それでも。
(このままじゃ、いけない。なにかが足りない。きっとなにかが。このまま彼を行かせたら、きっと彼は救われない。巡り巡ってそう、セララちゃんも、わたしたちも)
それはいつもの彼女なら、きっと一笑に付すような、理屈に合わぬただの感傷、取るに足らないただの”予感”であったけれど。
ヘンリエッタたちから遠ざかろうとする〈武闘家〉の広い背中は、奇妙に幼く、大きいくせにひどく頼りなく、きっと忍び難きを忍び、語りたくても語ることのできない、形にすらできないなにか渦巻く混沌のるつぼのような様々な想いを抱え込んでいるように見えたから。
(――――ああ、こういう時、マリエだったらどうするのかしらね――――)
普段であれば理と利を旨とするはずの聡明なヘンリエッタは、
「・・・・・・わたしたちでは貴方の希望に添えないかもしれませんけれど」
自分の胸に溢れだす、この打ちひしがれた巨竜の如き無頼漢に対する紛れもない惻隠の情を、溢れるに任せてそのまま言葉にして紡ぎだし、デミクァスの背中に投げかけた。遠ざかりかけていた〈武闘家〉の背中が、ぴくりと僅かに震えて止まる。
「きっとセララちゃんにもっと近しい人ならば――――例えばそう、ススキノからこちら、ずっと彼女の傍に寄り添って、彼女を支えてきた人ならば、行き場の無い貴方のその気持ちに、何がしかの答えを出してくれるかもしれませんわ」
にゃん太からしたら、こんな無茶振りは迷惑極まりないだろう。
心の中で、やさしいひげの猫頭の紳士に何度も頭を下げながら、それでも穏やかな声ではっきりと、ヘンリエッタはそうデミクァスに告げた。
彼女が誰のことを云っているのか、〈武闘家〉のほうではすぐにぴんと来た様だった。
厳しく顰められた瞳に即座に理解の色が広がって、への字に結ばれた口許が、ほんの一瞬、今にも泣きだしそうに引き歪んだように見えたのは、ヘンリエッタの勘違いだったろうか。
”そのこと”を彼に告げたのは、果たして正しかったのか、間違いだったのか。ヘンリエッタにはまるで自信はなかったけれど。
デミクァスは、ほんの少し口を開きかけ、何かを云おうとして、思い直したようにぐっとそいつを呑み込むと、ヘンリエッタとナズナに向かって僅かに顎を引いてみせた。
その張りつめた様子が、なにかとても痛ましげに見えて、再び翻るデミクァスの背中に向かってヘンリエッタは更に言葉を投げかけようとする。
「・・・・・・あの、余計なお世話とは思いますが」
「余計な世話なら、要らん世話だ。俺には必要ねえ、他の奴の為に取っておきゃあいい」
今度はデミクァスが、ぴしゃりとヘンリエッタの言葉を遮った。思いの外強い口調になったことに自分自身で驚いたのか、二の句が継げず黙り込んだヘンリエッタの表情を見て、しまった、という顔をしてみせてから苛立たしげに舌打ちをする。その舌打ちが、彼女に対する苛立ちからくるのではなく、不器用な自分自身に対する苛立ちからくるのだと云う事は、説明されずとも理解できた。
「あの・・・・・・まさしく余計なお世話でしたわ。申し訳ありません」
「いや、すまねえ。余計な世話だ、確かに余計な世話だがな――――その世話を焼こうと思ってくれた、あんたの心根に感謝する。今の俺には分が過ぎる。返しようがねえ」
デミクァスは、ほんの僅かではあるけれど、はっきりとヘンリエッタに向かって頭を下げる。
あとは物も云わず、視線も合わせず。古木の根のような太い筋肉の束がうねる分厚い肩が、今度こそ決然たる意志をもって翻り、祭の最後の夜の期待にざわつく人混みの中に消えてゆくのを、ヘンリエッタとナズナは、憐憫と一抹の安堵を込めて見送った。
* * *
「・・・・・・あれでよかったのか、ほんとうに自信がありませんわ。まったく、高校生の子みたいだこと」
既に見えなくなった〈武闘家〉の背中が、目を凝らせばまだ雑踏の片隅に見える様な気がして、デミクァスの立ち去った方角に目をやりコートの襟を掻き寄せながら、溜め息まじりにヘンリエッタが呟いた。結局無責任ににゃん太に問題を丸投げしただけではないか。そう己を恥じる気持ちに押し潰されそうになっているであろう、ひどく寒そうなその背中を、ナズナがぽんぽん、とやさしくたたく。
「なあに、あんたはうまくやってるさ、ヘンリエッタ。あんたはあんたの最善を尽くした、それでいいじゃないか。あとはセララとあいつの、あの悪たれの問題さね」
「そう、でしょうか・・・・・・」
「そうさ。あんたはよくやった。出合い頭の不意打ちくらって、それでもなお、立派に悪竜を御してみせたんだ。胸を張ったっていいと思うよ」
「悪竜・・・・・・? 本当に彼は、悪竜だったんでしょうか」
ほんとうにそうだろうか。ヘンリエッタは自問する。セララがススキノから帰って来た直後、セララやシロエから聞いたデミクァスの、〈ブリガンティア〉の印象は、たしかに悪竜と呼んで差し支えないものだった。ヘンリエッタや〈三日月同盟〉の面々は、話に聞く彼らの所業が分かり易い悪しき行いであったから、素直にセララに同情し、素朴な義憤の感情に身を任せることができた。
だが、数日前にシロエが語り、たった今この場で対峙した、苦悩の表情を眉間に漂わせる〈武闘家〉は、そんな印象からはかけ離れていた。果たしてかつて話に聞いた男と、目の前の男は同一人物なのか。思わずそこを疑うほどに、話に聞いたデミクァスと、実際に言葉を交わしたデミクァスの印象は、180度違っていた。
八か月前のデミクァスの悪行について、セララやシロエが嘘を吐くなどと云う事はあり得ない。何故ならヘンリエッタは全面的に彼らを信頼していたし、そもそもからして、彼らは他者を貶めて自己の行いを正当化する必要を持たないからだ。あのとき彼らが語ったデミクァスの像は、実際あるがままを正確に描写していたのだろう。ならばこのギャップの理由は何だ? いや、そんなことは分かり切っている。
たしかに先日シロエが語ったとおり、デミクァスは大きく変わったのだ。きっと彼は、見た目よりもずっと若い――――いや、幼いのではないか。そんな彼を、この八か月の時間が、様々な経験が、出会った人々が、うんと大きく変えたのだ。ヘンリエッタには、彼が過ごしてきたそれらの時間を推し量ることはできないけれど、それでもきっと彼は、後悔と苦痛に苛まれる幾つもの夜を、血反吐を吐き、歯を食い縛りながら、必死に乗り越えてきたのだろう。
そしてそれは、ヘンリエッタも同じだった。きっと、この異世界に来たばかりの自分であったなら、デミクァスへの怒りに目隠しされて、そうした事実を認めることはできなかっただろう。誰も彼もが同じままではいられない。時は流れる。世界は移ろう。そして人の心もまた。そうして流れ移ろう時間は、ときに善き変化を人の子の上にもたらすこともあるのだと、今のヘンリエッタには確信をもってそう思うことができる。
それは虫の知らせのようにあやふやで、ヘンリエッタたち日本人にとっての信仰のようにかたちなく、拠って立つ場所もない曖昧な確信であったかも知れないが、不思議と抵抗なく受け容れることができる、奇妙にやさしい確信でもあった。
二人は、マスター・ウエストウインドの屋台に戻ると、頭を下げてわけを話し、もう一度金貨を差し出して、新しいオゾーニを作ってもらった。
寡黙なニンジャの板前は、何も云わずにオゾーニを紙椀によそうと、金貨と一緒にヘンリエッタに手渡した。金貨のほうは受け取れない、とヘンリエッタが断ると、空色頭巾のマスターニンジャは鋭い目で二人を見つめ、肩を竦めると冗談めかして
「私の屋台は、三十分の実食保証がついているのだ。無論相手は選ぶがな」
とだけ云った。それからまた、元のとおりに口を閉ざして調理に戻っていったので、二人は顔を見合わせてくすりと笑い合い、ニンジャに向かって再度深々と頭を下げると、素敵な屋台を後にした。
「悪竜も、きっかけさえあれば、善竜に変われるのかも知れませんよ、ナズナ」
狐色に焼けた餅を危なっかしく箸でつまみ、ふうふう吹いて口に運びながら、ヘンリエッタは同業の〈吟遊詩人〉の有名プレイヤーが作っていた〈エルダー・テイル〉の世界観をまとめたブログの中にあった、ドラゴンにまつわる伝説のひとつを思い出して、ほんの少しの懐かしさとともにそんな言葉を口にした。たしかその伝説はエッゾの民話集の一編で、何人もの猟師を食い殺したドラゴンが、浚ってきた一人の娘がまるで自分を恐れないのに困惑し、なんとか娘を怖がらせようとしているうちにその娘のことが好きになって、人を食わないやさしいドラゴンになったという筋だったように記憶している。
「違いない。だが、善でも悪でもドラゴンはドラゴンさ。見てるこっちが息苦しくなるくらい、プライドの高いことじゃないか。しかも肩肘張って無理をして、随分生き急いでいるもんだ」
「そうですわね。それは当然ドラゴンですもの、一筋縄ではいきませんわ」
「〈茶会〉の連中だったら、ドラゴンと見りゃとりあえずみんなで突っ込んで、何度も死に戻りを繰り返してるうちに、シロや秧鶏あたりが妙案を考え付いて、ラッキーヒットみたいに倒しちまうんだけどねえ。ドラゴンからしたら迷惑極まりないだろうけど」
「ふふ、うちのマリエだったら、聖マルガレータよろしく牙いっぱいのドラゴンの口の中でもにっこり微笑んでみせて、そのままお腹の中を通って元気にお尻から出てきそうですわ」
マリエールだったらやりそうなことだ。マリエだってきっとドラゴンはこわいのだ。それでもにっこりお日様みたいに笑ってみせて、するりと自然にドラゴンの懐に入ってゆける。マリエはそんな強さを持つ女性だ。今のヘンリエッタは、マリエのその強さと優しさが、羨ましくもあり、また誇らしくもある。誰に恥じることもない、ヘンリエッタの自慢の友達だ。
「はは、そうだね」ナズナはやさしい笑みを浮かべながら、よくのびる餅に悪戦苦闘するヘンリエッタの蜂蜜色の頭を見下ろした。「でもヘンリエッタ。あんただって、なかなかどうして大したもんだ。力押しで打ち倒すんでもなく、情を示して情に絆すんでもなく、理を説くことで情を動かす――――それは、あんたじゃなければできないことだ」
それを聞いたヘンリエッタは、慌てて首を振り、ナズナの言葉を否定する。
「とんでもありませんわ。私の理など、シロエ様のそれに比べれば薄い古紙みたいなものですから」
「そう卑下したもんでもないさ、ヘンリエッタ。シロは兎に角理に傾き過ぎる。あいつのは理は、理を重んじない連中の耳には入らないんだ。理をもって利を動かす、それは理屈の上では自然なことだ。けれどそいつは、理の外にいる相手には通じない。理でなく情で動く相手には届かないこともある」
やれやれ、と溜め息を吐いて、狐耳の美女は熱い汁をずずっとすすり、昆布の旨みを堪能する。
「ん」
「あら・・・・・・失礼します」
蒲鉾を一枚つまみあげ、そいつをヘンリエッタに差し出すと、〈三日月同盟〉のサブマスターは少し気恥ずかしそうにしながらも、有り難くぱくりとそれを口に入れた。自分も蒲鉾を一枚口に入れ、もぐもぐと咀嚼しながら、ナズナは遠くアキバを照らす冬の陽を見上げると、独り言のように呟いた。
「そこであんたさ、ヘンリエッタ。あんたは確かに理に傾いてる。けれどその一方で、あんたはマリエが見せる様なほんもののやさしさも知っている。そりゃそうだ、一番近くでずうっと見てきてるんだからね。数字や理屈だけで人は動くわけじゃないけれど、その理の奥に情が流れているのなら、理を説くことで情を動かすこともできる。それはまだ、シロにはいまいちよく分かっちゃいないことだ。だからあんたがそいつを、シロに示してやらなきゃならない」
それを聞いたヘンリエッタは、アキバ第一の策士と称される眼鏡の青年の理知的な、けれど繊細で神経質そうな控えめな笑顔を思い浮かべた。自分がシロエの導師になるなんて大それたことだ、とんでもない。そう考えかけて、ヘンリエッタははっとした。
きっと誰よりもそのことを分かっていて、誰よりもそのことを引け目に感じているのは、当のシロエ自身に違いないのだ。ヘンリエッタは、シロエと直継が供贄の黄金をめぐる冒険に出掛ける前の晩、シロエがヘンリエッタだけに彼が考える”計画”を打ち明けた時の、理路整然とした説明の裏に見え隠れした、あのひどく不安そうな表情を思い出す。
(うまくいけば、きっと一度の会見で、すべてのかたが着くと思います)
自信ありげにそんなことを云ったくせに、結局彼はススキノへ、更にはパルムの奥のそのまた地下の奥深くまで、一か月以上にわたる冒険の旅をする羽目になったのだ。
結局彼はいつもそうだ。どんなに完璧な理屈を用意しても、何もかもが全て計算通りにうまくゆくとは限らない。だからこそ彼は、悩み、苦しみ、傷付きながら、それでも為さねばならないことに正面から向き合って、世の不条理と戦っている。誰の為とも口に出しては云わないけれど、彼が関わるみんなのために、自分の力が及ぶ限り、理屈に沿わぬ理不尽な人の心と向き合っている。そんな彼に較べれば、シロエ一人と正面から向き合うなんて、どれほど簡単なことだろう。年長者として、せめてそれくらいの矜持は見せねば、傍観する資格すらないではないか。
ひとのこころは複雑怪奇だ。理も、利も、情も、法も、挙げ句はひとを取り巻く環境や、積み重ねてきた時間まで、すべてを巻き込み呑み込んで、どんなに強い光で照らしても、すべてを見通すことなどできはしない。ゆえに決して理だけで、あるいは情だけで、人の心を解読することなどできはしないのだ。それはマリエも、ナズナも、セララも、あのデミクァスも、シロエもヘンリエッタ自身のこころも同じである。
理だけでも、また情だけでも足りぬと云うのであれば、理と情のふたつが揃ったとしても、まだ足りないに違いない。きっとヘンリエッタたちがこの世界に善き変化をもたらすためには、彼女たちひとりひとりが胸に抱える、それぞれ違う心のありようの、それらすべてが必要なのだ。
(だからきっと、私たちひとりひとりに意味がある。存在する価値の無いものなどいない。〈冒険者〉も〈大地人〉も関係ない。わたしたちはひとりひとりがちっぽけで、弱い存在なのかもしれないけれど――――それでもそこにいる誰かの心のなかにある、取るに足らないほんのちいさなひとかけらが、悪竜を善竜に変えることだってあるかも知れないわ)
ひとりで悩むのはもうおしまい。雑煮でお腹が膨れたら、ギルドハウスまで歩いて帰ろう。そしてみんなが帰ってきたら、今日あった出来事を、出会った人たちのことを、彼らと交わした言葉のことを、包み隠さずみんなに話そう。
「ふふっ、ありがとう、ナズナ」
不意にこぼれた笑みをそのままに、隣に座るナズナの肩に頭を預けた。
「なんだい、急に・・・・・・どういたしまして」
びっくりした様にこちらを見ながら、それでも肩を貸してくれる狐耳の美女が浮かべた微笑は、とびきりゆるくてとびきりやさしい。
(なんでウチに念話飛ばしてくれへんの!)
マリエはきっと怒るだろうか。
(そんなに俺たち、信用無いですか!)
小竜と飛燕は、そう文句を云うだろうか。
(あの、わたしなら大丈夫です。そんなに、ひとりで抱え込まないでくださいっ)
セララにそう怒られたら、平謝りに謝るしかない。
みんなにひととおり怒られて、それからみんなでどうすれば一番良いのか考えよう。それはきっと身体にも、脳みそにも、たくさんエネルギーが必要な仕事のはずだ。だから今から、しっかり腹ごしらえをしておかなくちゃ。
「ねえナズナ。突然ですけど、このあとケーキなんていかがです? なんだかわたし、とってもお腹が空いちゃったんです」
「どんだけ食べても太らない奴はこれだから! まあいいさ、今日はとことん付き合うよ」
それから二人は、くすぐったそうに笑いながら、雑煮を平らげ、ついでにケーキをみっつづつ胃袋に収めて、冬の祭の穏やかな午後を満喫した。少々食べ過ぎてもまるで体型の変わらない〈冒険者〉の身体に、そのあと二人が深く感謝したのは云うまでもない。
「ろぐほら副官祭!!」に投稿させていただいた作品について、タイトルを修正したうえでこちらにも投稿させていただいたものです。ニンジャ!?ニンジャナンデ!?