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はじめての戦闘  2

「ほう、ヒトリ飛行艇を沈めたことでもうケリはついたと思っていたが、まだ仕事は済んでいないのか」

 と潜水服の中でゴーストはつぶやいた。

 ヒトリのものとは違い、ハマダラカ竜騎兵の潜水服はスマートで、美しいデザインだった。

 呼吸を整えつつ、ゴーストはジャネットの観察を続けた。

 フル装備を身につけたヒトリ竜騎兵とマッコウクジラとは、ゴーストにとっても楽な相手ではない。

「やれやれ、こんな場所で思いがけない目撃者とはな…。しかし姿を見られた以上、生きて帰すわけにはいかない。しかも相手も竜騎兵というのなら、どうやらこの武器の出番らしい…」

 ゴーストは片手を伸ばし、シャチの背に固定されたランスをつかんだ。ストラップを外し、手元に引き寄せたのだ。

 ランスとは人の身長よりも長いヤリで、銀色に輝く軽金属で作られている。

 これを前方に長く突き出し、クジラとともに全力で突撃するというのが、竜騎兵の伝統的な戦法なのだ。



 ランスを手にしたゴーストがシャチに合図を送り、こちらへ駆け下りてくるのが見えた瞬間、ジャネットの心臓は凍りついた。

「ゴーストが来る!」

 チビ介はすでに反応を始めていた。

 頭を下に向け、まっすぐに深海を目指したのだ。

 同じクジラの仲間でも、シャチは潜水できる深さに限度がある。

 マッコウクジラとは違い、深海に足を踏み入れると、シャチは強い水圧に押されて死んでしまうのだ。

 となれば、ジャネットにとって深海だけが安全な避難場所だ。

 一秒でも早く逃げ込まなくてはならない。

「そうだチビ介、深海へ急ぎなさい」

 ジャネットは深度計に目を走らせた。

 チビ介のすばやい行動のおかげで針が動き始めているが、まだまだ深海は遠い。

 すべての血液を尾びれに送ってチビ介は全力を出しているが、これ以上の降下速度は望めないことはジャネットもよく知っていた。

「だめだ。これではとうてい間に合わない。すぐにもゴーストに追いつかれてしまう」

 そのとおり、シャチとチビ介の速度差は大きく、ゴーストはじりじりと距離をつめてくるのだ。

 いずれ追いつかれ、攻撃を受けるだろう。

 ジャネットも準備をしなくてはならない。

「私の武器には何がある? そうか、ゴーストと同じようにランスだな。私は盾も使うことができる」

 チビ介の背中から取り外し、ジャネットが手にしたランスは、ゴーストが持つものとほとんど変わらないが、そこに盾が追加できるのは、ジャネットが持つ唯一の有利な点だった。

 シャチよりも体重が大きいマッコウクジラは、背中に積むことができる装備品の数が多い。

 水中でも抵抗にならないように、盾は流線型をしている。

 頭上にかかげれば、ジャネットの体をすっぽりと守ることができる。

 ジャネットが準備を終えたことに気づいたのだろう。チビ介は降下速度をゆるめ、振り返ってゴーストを迎え撃つ体制をとったのだ。

 ゴーストまでの距離はもういくらもない。

 ヘッドライトの光にゴーストのランスがきらりと光ったとき、ジャネットの歯がカチカチと鳴った。

「どう見ても、これは武者震いではないな…」

 とジャネットも正直に認めた。

「…私はとてもおびえているのだ。しかし無理もない。訓練校でも、ゴーストの噂をどれほど聞かされたことか。ゴーストに倒された味方の竜騎兵はもう何人になるのだろう。『伝説の竜騎兵』、『シャチに乗った死神』と、さまざまなあだ名があるほどだ…。うん? ついにやつが動くぞ」

 ジャネットの目は、ゴーストが持つランスに釘付けにされていた。

「あの刃先がどう動き、どう襲い掛かってくるのか。そこに私の運命がかかっている。こちらも反撃しようなどとは、考えるだけ無駄だ。まず身を守ることに神経を集中するしかない」

 ゴーストはさらに接近し、チビ介とシャチは今にも体が触れてしまいそうだ。

 どちらのクジラも牙を見せ、敵意を隠さないが、体格はチビ介のほうがはるかに勝っている。

 だがそれも、ジャネットを安心させることはなかった。

「たとえ体は小さくても、シャチの凶暴さをあなどることはできない…。そういえば、ゴーストはシャチを2匹も連れていたぞ。もう一匹はどこへ行った?」

 とジャネットが気づいたときには遅かった。大きな力で盾が動かされるのを感じたのだ。

 見上げると、いつの間にかシャチの一匹が盾に噛み付いているのだ。

 ジャネットがランスに気を取られている隙に背後から忍び寄っていた。

「くそっ、気がつかなかった…。シャチめ、私の盾を奪うつもりだな」

 がっしりとくわえ込み、シャチの牙は盾の表面に鋭い傷をつけた。

 だが盾を奪うのも、思うほど簡単な仕事ではない。

 盾はチビ介の胸ベルトにつながれ、頑丈に支えられているのだ。

 大きな音を立てて金属のつなぎ目が揺すぶられたが、ゆるむ気配はない。

「ふん、そんなことでヒトリの盾が壊れてたまるものか」

 ところがそこにまた隙があったのだ。

 一瞬の間、ジャネットはゴーストのことなど頭からきれいに消えてしまった。

 それをゴーストが見逃すはずはなかったのだ。



 盾をくわえ、ジャネットと戦うシャチの様子を眺めながら、ゴーストはつぶやいた。

「おやおや、あのヒトリ竜騎兵はまだヒヨッコ、半人前もいいところではないか。なんと未熟な戦い方をするものだ。ヒトリではあんな者を実戦に投入するのか…。まあいい。ちょうどいい機会だから、今回はオメガの訓練と割り切ることにしよう」

 ゴーストがつれている2匹のシャチは、名をアルファとオメガといった。

 ゴーストはジャネットを、すぐには殺さないことに決めたのだ。

 アルファはともかくオメガは、ゴーストにとっても知り合ってまだ日が浅く、訓練の必要な新人のシャチだった。

「よしオメガ、もう少しおまえが戦いやすいようにしてやろう。防御する一方の相手では張り合いがなかろう? なんといっても、敵からの本物の攻撃を経験しないことにはな」



「来るぞ。再びゴーストが来る…。私の背後に回った…」

 ジャネットは振り返ろうとしたが一瞬遅く、間に合わなかった。

 背後から突然伸びてきたゴーストのランスが、ジャネットの盾に触れたのだ。

「ゴーストめ、何をするつもりだ?」

 ジャネットはさらに反応が遅れてしまった。

 意味に気づいたときには手の施しようがなく、ジャネットの盾はぐらりと揺れた。

 ランスの刃先を当て、器用にもゴーストは、盾を固定するレバーをひょいとゆるめてしまったのだ。

 ジャネットはあわてて立て直そうとしたが抗しきれず、支持を失った盾はゆっくりと裏返っていった。

「あっ、盾が落ちる…」

 だがもうどうすることもできない。海底へ向かって落下してゆく盾を、ジャネットは絶望的な思いで見送るしかなかった。

「くそっ」

 ジャネットの前に、身を守ってくれる盾はすでにない。

 牙がずらりと並ぶ口を、オメガは再び大きく開いたのだ。

 しかしオメガが次の攻撃を仕掛けてくることはなかった。

 その前にジャネットが行動を起こしたのだ。

 それは意外な行動だった。

「なんだ?」という表情でオメガの動きが止まったほどだ。

 いつの間に手にしていたのか、金属製の丸い物体をジャネットはオメガの鼻先に突きつけたのだ。

「ふふふハマダラカのシャチさん、爆雷はお好きかい?」

 シャチだけでなく、ゴーストも顔色を変えたので、ジャネットは少し気が晴れた。

 爆雷とは爆発物の一種で、表面には、丸い形をした起爆ピンがある。

 ゴーストからもよく見えるように腕を突き出し、ジャネットはこのピンに指をかけたのだ。

 爆雷は、小型船なら一発で撃沈できる威力があり、もしも今ここで爆発したなら、ジャネット本人はもちろん、ゴーストの命も一瞬で失われるだろう。

「さあゴーストさん、どうするね? そうさ私は本気だよ。ここでシャチの餌食になるぐらいなら、あんたを地獄の道連れにしてやるよ」

 ジャネットの行動は効果があった。

 急いで指示を送り、ゴーストがオメガを手元へ引き戻したので、ジャネットはもう一度にやりと笑った。

「おやおや、ゴーストさんにも異議はないようだ。ではチビ介、用意はいいかい? ゴーストの気が変わらないうちに、私たちは深海へ脱出するのだよ。それっ」

 どんな場合でもチビ介は忠実だった。

 ジャネットの指示によく従い、今回も合図とともに急発進し、ゴーストを尻目に、石ころのように深海へと落ちていったのだ。

 それは本当に急速で、深度計の針は、まるで時計の秒針のように速く回転した。

「逃げ切ることができるかもしれない」

 とジャネットは思った。

 さすがに追ってくることはなかったが、もちろんゴーストもあきらめはしない。

「なんだ?」

 爆発音が聞こえたのは、ジャネットがついに深海へ達したときのことだった。

 突然ドンと襲われ、衝撃で体全体がゆすぶられ、歯がカチカチと鳴り、すべての骨がバラバラになる気がしたほどだ。

 分厚いヘルメットを通しても、ジャネットは耳が痛かった。

 鼓膜を押しつぶすような爆発音が、ヘルメットの中に反響する。

 ジャネットは呆然として見上げるほかなかった。

「爆雷だ。くそっ、さっきの仕返しか。ゴーストが投下したのだな」

 幸運だったのは、暗すぎてゴーストにはジャネットの正確な位置がわからなかったことだ。

 爆雷は少し離れたところで爆発し、心臓が裏返るほど驚きはしたが、チビ介もジャネットも直接傷を負うことはなかった。

「だがもちろん安心などできない。至近距離で一発でも爆発すれば、それでおしまいなのだ。チビ介も大きな傷を受けようし、潜水服の表面に針の先ほどの穴でも開こうものなら、私の命はない」

 水中を走る衝撃とともに、ジャネットのまわりでまばゆい光がきらめき続けた。

 一度ではなく、2回、3回と続いたのだ。

 竜騎兵としての訓練を積みつつあっても、実際の爆雷攻撃にさらされるのはジャネットにも初めての経験だった。

 目を閉じ、すべてをチビ介に任せ、ジャネットは降下を続けた。

 その後もゴーストは爆雷攻撃を続け、もうジャネットのずっと背後ではあるが、続いて何回も爆発があった。

 そのたびに遠雷のように青白い光が、ちらちらとジャネットの目のすみでまたたいた。



 竜騎兵部隊の高速艇は港につながれていたが、司令部の指示でエンジンがかけられ、出港準備を始めていた。

 アップル大尉が乗り込んだのはその5分後のことだった。

 エンジンを大きく吹かし、高速艇が指揮所を離れる間もコーヒーカップを大事そうに抱えていたが、それもついに空になった。

 カップを目立たないすみに置き、アップル大尉は無線機のマイクロフォンを手に取った。

『出港次第連絡せよ』と言われていたことを思い出したのだ。

 アップル大尉は無線機の扱いに慣れておらず、乗組員から少し教えられなくてはならなかった。

 それでもなんとか司令部とつながったようだ。

 指先でボタンを押し、アップル大尉は口を開いた。

「あー、こちら高速艇003、高速艇003。司令部へ、司令部へ。聞こえるか? …おい艇長、本当にこの周波数で合っているのかい?」

 だが艇長がそれに答える前に、無線機から返事があった。

「高速艇003へ、こちら海軍の航空管制部だ。アップル大尉か?」

「ああ。こちら高速艇003、アップル大尉だ。ただいま竜騎兵指揮所を出発して、そちらが言うとおりの進路を直進しつつある」

「結構だ。その速度なら、現場到着まで2時間もかかるまいよ」

「俺は一体どこへ行くんだね? 艇長に聞いても座標しか知らんと言うし。目的地は海の真ん中か? そこへ行って魚釣りでもやれというのかね?」

「ついさっきのことだが、飛行艇404がその地点で連絡を絶った」

「うちの訓練生を乗せたやつか? まさか墜落したのか? おい待てよ。いま海図を見ているが、あんたの言う地点は、飛行艇404の飛行予定コースにないじゃないか」

「今朝のことだが、正体不明の航空機を漁船が目撃して、司令部へ通報してくれた。そのとき一番近くにいたのが、おまえのとこの飛行艇404だったんだ。ちょっと寄り道になるが、様子を見に行かせたのさ」

「竜騎兵訓練生とクジラを乗せて、太った金魚のように動きの鈍い機体に、よくもそんなことをさせたな」

「適当な機が近所にいなかったんだ。文句言うな」

「それで正体不明機の正体は判明したのかい?」

「いやアップル大尉、詳細は話せない。機密事項なのでな」

「そりゃないぜ」

「これだけは言っといてやる。正体不明機の正体は、つまりなんだ。『ハ』で始まる隣国さんの所有物だとわかった。立派な領空侵犯さ」

「おやおや、お隣さんもやるねえ…」

「その機が不時着水をし、機体は沈没して…」

「まさか、それをうちの訓練生に海底まで追わせたというんじゃあるまいな?」

「他に方法があるかい? あの機体はどうしても引き上げたいのでな」

「俺たち竜騎兵は、空軍さんの新兵器開発には関係ないのだがね」

「関係は大ありさ。とにかくその訓練生はクジラを連れ、機体を追って潜水していった。名はジャネット・スミスとか言ったかな?」

 マイクロフォンを手にしたまま、アップル大尉はジャネットの小柄な姿を思い浮かべた。

 女子訓練生の一人で、そばかすのある顔は鼻が上を向いている。

 特に成績がずば抜けているというのではないが、クジラを扱う感覚には見るべきものがある。

 ジャネットの手にかかると、気難しい年寄りクジラがとたんに子猫のように甘え始める姿を何度か目撃したことがあった。

「おいアップル大尉、聞いているのか?」

 無線機から聞こえてくる不審そうな声に、アップル大尉は考え事をやめた。

「ああ聞いてるよ。すまん。ちょっと考え事をしていた。ジャネットとクジラが潜水していったのはいいとして、飛行艇404までが連絡を絶ったとはどういうことなんだ?」

「調査のため、空軍に頼んでさきほど戦闘機を飛ばしてもらった。現場を偵察したパイロットの言うことにゃ…」

「うん」

「現場の海面には油膜が大きく広がっているだけで、飛行艇404は影も形もないそうだ」

「ふうん。だから飛行艇404は破壊され、海底へ沈んだと考えるほかないわけか」

「そうらしいよ。ここで問題なのはだな…」

「なんだい? 行方不明の訓練生と飛行艇以外に、まだ何かあるのかい?」

「その訓練生さ。ジャネット・スミスと言えばおまえ、あのスミス提督の孫だぞ」

「提督は数年前に死んだだろ? 今さら孫が行方不明と聞いて、墓場からよみがえって文句を言いはすまい?」

「いいや、あの一族は海軍全体にコネがある。海軍だけじゃない。政府にだって友人知人が多い。お隣さんの領空侵犯事件ということで内閣に連絡を入れたら、閣僚のやつらは第一声、何を心配したと思う? ジャネットの安否だったぞ。飛行艇404のことなんざ、誰も気にしちゃいない」

「やれやれ、あの小娘はそんな大物だったのかい? ただのそばかす面だと思っていたが…」



 ゴーストの爆雷攻撃を逃れ、チビ介はラセンを描きながら深海への降下を続けた。

 やがてゴーストとの間に十分な距離が開いたので、ジャネットはため息をついた。

「ああ、ありがたい。爆発音も閃光もついにやんだか…。といっても、私が困難に直面していることに変わりはないな。いつまでもここにはいられない。なんとか反撃の方法を考えなくてはならない」

 額にしわを寄せて考え続けたが、ジャネットの胸中は不安に満ちていた。

「もしも上へむかえば、再び爆雷攻撃を受けることはわかりきっている。右や左によけようにも、シャチはチビ介よりもはるかに速く泳ぐときては、対策の立てようがない」

 ジャネットは唇をかんだ。

「今この瞬間も、頭上ではゴーストが待ちかまえているのだ。爆雷を降らせて私を殺し、海図を海底深く沈めて、永久に葬り去ろうというのだろう…。あれは、それほど重要な最新鋭機だったのだな。そうだ、なんとかゴーストと交渉して、海図を捨てることと引き換えに命を助けてもらうことはできないだろうか…」

 だがジャネットは首を横に振った。

「それはだめだ。あの爆雷のしつこい投下ぶりは、私に相当な敵意を感じているのだろう。いまさら泣き言も通じまい」

 ジャネットは、もう一度フウとため息をついた。

「つまり私には、一か八か勢いをつけてゴーストの鼻先を突っ切り、浮上するしか方法はないということだ」

 決心を固め、ジャネットは準備に取り掛かった。

 チビ介の体内に残っている酸素と残り時間を考えると、ジャネットはてきぱきと動かなくてはならなかった。

 それでも、ゴーストと対決せねばならないという予感が心に重くのしかかっていた。

「私が知る限り、ゴーストと直接対決して生き延びた者はまだ一人もいないのだ」

 だがジャネットは手を動かし続けた。

 まだ半人前の竜騎兵でしかないが、思いついたことがあったのだ。

「この作戦なら、もしかしたらゴーストを出し抜くことができるかもしれない」

 胸ベルトの他、いくつものストラップを用いて、チビ介の体にはさまざまな道具類が留められている。

 右に左にと動き、ジャネットはそれを一つずつ取り外していった。

 目を丸くし、チビ介は驚いた様子だが、ジャネットは手を止めなかった。

 測量機器や緊急時の医薬品にいたるまで取り外し、ジャネットは捨てていったのだ。

 ストラップから自由になった道具たちは、海底へ向けてまっすぐに落ちていったが、ジャネットには名残惜しく見送る余裕さえなかった。

 ついにジャネットは、チビ介をほとんど丸裸にしてしまった。

 さすがにチビ介も居心地が悪そうだが、いま残っているのはジャネットの潜水服と、あとはほんの二、三の装備品だけだ。

 思い切りよくジャネットは、唯一の武器であるランスまで捨ててしまったのだ。

「心配しなくていいよ、チビ介。ゴースト相手にランスで挑もうだなんて、あまりに無謀すぎる。ランスにかけては、やつは名人中の名人。私なんかで勝てるわけがない。だからチビ介、私はこれを使うことにしたのだよ」

 そういってジャネットは、チビ介の背にあるオノに手を伸ばしたのだ。

 これも装備品の一つで、ランスほど長大ではないが、本来は作業用のただの工具でしかない。

 しかし刃の部分だけで一抱えのサイズがあり、ジャネットはこれを武器にしようというのだ。

「ねえチビ介、覚えてる? 私たち訓練校で、水中の丸太切り競争に優勝したことがあったね。あの時は本当に楽しかった…。あんたにはオノを上手に使う才能がある。ランスを構えて突撃してくる相手に対しては、ゴーストは百戦錬磨だ。だけどオノ相手にはどうかな? オノをくわえて迫ってくるマッコウクジラなんて、ゴーストにとってもきっと初めての経験だと思うよ」

 ジャネットはオノを、チビ介の口に横向きにしっかりとくわえさせた。

 幅広い刃が、ヘッドライトを受けて鈍く光る。

 その柄をぽんぽんとたたき、ジャネットはため息をついた。

「…じゃあチビ介、気は進まないけれど、行こうか? 歴戦の兵であるからこそゴーストは、装備を身につけたマッコウクジラが泳ぐ速度をよく知っている。ならばかえって、ここまで装備を捨てて身軽になったあんたの泳ぎっぷりには、きっとゴーストも度肝を抜かれるに違いない…。いや、そうでないと困る…」



 ジャネットのはるか上方で、ゴーストは辛抱強く待ち続けた。

「ヒトリ竜騎兵め、なかなかしぶといな。深海に隠れたまま、浮上してくる気配がない。まさか逃げられたのではあるまいな…。いや、逃げるのは不可能だ。シャチの超音波の耳から隠れる方法はない。いくら息の長いマッコウクジラでも、そろそろ肺が空っぽになる時間だぞ」

 ゴーストの予想は正しかった。

 数百メートルの距離を置き、円を描きながら2匹のシャチは監視を続けたのだが、突然アルファが反応を見せたのだ。

「どうしたアルファ、なんだ? オメガが何か見つけたのか?」

 アルファをせかし、ゴーストはオメガのいる場所へと走らせた。

 待ちきれず、オメガもこちらへやってくる。

 顔を合わせた2匹のシャチは互いに超音波を送りあい、敵の居場所について情報交換をした。

 超音波とは人間の耳には聞き取ることのできない特殊な音だが、ゴーストは2匹を全面的に信頼していたのだ。

「よしおまえたち、作戦会議は済んだか? では攻撃を始めるぞ。あのマッコウクジラが深海から上昇してくるのだな? 迎撃位置につけ。私はランスを用意しよう」



 ジャネットからの合図を受け取ると、すぐさま鼻を上へ向け、チビ介は上昇に取り掛かった。

 巨大な尾びれが戦艦のエンジンのように規則正しく動き、水を蹴っている。

「OKチビ介、このまま上昇を続けなさい…。うん、身軽になった分、確かにスピードが出ている。深度計の針がこんなに速く動くのは見たこともない」

 ヘルメットのガラス越しに、ジャネットは真正面を見上げた。

 深すぎてまだ太陽の光は目に入らないが、いずれ海面が明るい姿を頭上に見せるだろう。

 そのときが勝負だ。一瞬の油断も許されない。



「アルファ、おまえの超音波の耳は、マッコウクジラの出す音をとらえたか? オメガはどうだ? よし、敵の位置は前方か…。私とアルファは真上から迎え撃つから、オメガは左に展開しろ。やつがもしも逃げようとしたら、こちら側へ追い込んでくれ。いいな?」

 2匹からの返事を受け、ゴーストは気分が高まるのを感じた。

 戦いの場面で、シャチが「ノー」と答えることはありえない。

 水中の戦いに関して、シャチたちはプロ中のプロなのだ。

 人間以上に信頼できる戦友といっていい。

 戦いに伴う緊張感を自分がこの上もなく楽しんでいることを、もちろんゴースト自身も気がついていた。



「さあチビ介、おまえの超音波の耳はどう言ってるの? シャチが出す超音波をキャッチした?」

 目玉をギョロリと動かし、チビ介はジャネットと視線を合わせた。

 返事をしようとチビ介は胸びれを動かしかけたが、ジャネットは手を振ってやめさせた。

「いいのよ、チビ介。気が変わった。超音波なんか無視することにする。とにかく私たち、全速力を出して、ゴーストの鼻先を駆け抜けるしかないのだから。敵の正確な位置など気にしてはいられない…」

 ヘッドライトを向け、ジャネットはもう一度オノの様子を確かめた。

 長い刃は正確に前を向き、光線をきらりと跳ね返している。

 ジャネットたちはあまりに高速で水中を進んでいるので、刃先からは小さな泡さえ生み出されるほどだった。

 一方でゴーストのランスは、恐竜の角のように前方へ突き出している。

 あの突きを食らって生き延びたヒトリ竜騎兵はいないのだ。

「さあチビ介、ここが地獄の一丁目だからね。ほら、あそこにゴーストの姿が見えてきた。まだ豆つぶのように小さいけれど、いかにも自信満々らしいね。ヘッドライトをつけたままでいる」

 チビ介は全力を出し、ヒレの動きをゆるめもしない。

 高速航行が巻き起こす水圧に押され、ジャネットは息苦しく感じるほどだ。

「なんてすごいスピードが出ているのだろう。クジラにも速度計があればいいのに」

 ゴーストの姿は、一秒ごとに大きくなってくる。

 ジャネットは最後の指示を与えることにした。

「チビ介、私はもう何も言わない。あんたの好きなようにやっていいよ。どのみち私には、大した指示は出せないもの」

 その言葉にチビ介が反応した。

 ぐるりと目玉を動かし、ジャネットと視線を合わせたのだ。

「あっチビ介、あんた今笑ったね。ふうん自信があるんだ…。とにかく今はあんたがボスだ。どんな結果になろうと、私は文句は言わないよ。もしももう一度言葉を交わす機会があるのなら、それがお互い、天国の門の前でなければいいね…」

 ゴーストめがけて、チビ介は全速前進を続けた。

 ロケットのように急上昇していったのだ。



 飛行艇404の沈没現場に到着して高速艇は停船し、甲板の柵にもたれかかりながら、アップル大尉は口を開いた。

「なあ艇長、この様子では生存者は絶望的だな」

 艇長はアップル大尉の同僚だが、なんだか気が短く、いつも怒りっぽい男だ。

 背が低く、はげた頭には常に帽子をかぶっている。

 身長のわりには大きな靴を履き、足音はいつもドタドタとやかましい。

 艇長は答えた。

「ああアップル、誰がやったのかは知らないが、ある意味見事な技じゃないか。油と細かな破片以外、水面には一つも見えやしない。機体は引き裂かれ、浸水してあっという間に沈没したのだろうよ」

「このことを司令部に報告したかい?」

「したよ」

「司令部はなんと言ってた?」

「まだ何も言ってこない。俺たちは返事待ちというところだ」

「やれやれ、司令部ものんびりした連中だな…」

「そういうアップル、おまえだってアクビなんかしてるじゃないか」

「おい…」

「なんだ? どうして顔色を変える?」

 だがアップル大尉は理由を説明することができなかった。

 そんな暇はなかったのだ。

 高速艇からいくらも離れていない水面が突然割れ、大きな波とともに何かが姿を見せたのだ。

「あれは何だ? 潜水艦でも浮上してきたか?」

「いや違う、クジラだ。クジラが飛び出してきやがった。なんてことだ」

 アップル大尉たちの驚きは大げさではなかった。

 水面を破り、体を長く伸ばしながら、巨大なマッコウクジラが空中へ飛び出していったのだ。

「あれはうちのマッコウクジラだ。潜水服を着た竜騎兵もくっついているぞ。…あれはジャネットだ。だけどあいつ、マッコウクジラの口にオノなんかくわえさせて、何をやってるんだ?」

 ところがそれは無駄な行為ではなかったのだ。

「あのマッコウクジラは、オノの先に何かを引っ掛けてるぞ」

 ロケットのように飛び出し、空中でいったん静止したチビ介はわずかに向きを変え、再び水面へと落下していった。

「おいアップル、あれは空気パイプだ。チビ介のやつ、潜水服の空気パイプをオノで引きずってやがる」

「だがジャネットの空気パイプではない…。見ろ、ハマダラカ竜騎兵がいるぞ。チビ介のオノは、ハマダラカ竜騎兵の空気パイプを引っ掛けているんだ」

 チビ介の巨体に引きずられ、空気パイプだけではなく、ゴーストとアルファも空中を舞っていたのだ。

 それらを引き連れたままチビ介が海面に落ちると、誰も見たことがないほどの波が立ち、アップル大尉たちは頭からびしょぬれになってしまったが、二人とも気にすることはなかった。

「おいアップル、見たか? チビ介はハマダラカ竜騎兵とシャチを引きずっていたぞ」

「艇長、今すぐエンジンをかけろ。ジャネットを助けねばならん」

「どうしてだ?」

「説明はあとだ。とにかくおまえは、すぐに操縦室へ行け。俺はへさきへ行く。船内電話で連絡するから、ベルの音に注意していてくれ」

「わかった。とにかくおまえの言うとおりにするよ」

 足音をどたどたと鳴らしながら艇長は姿を消し、手すりに沿ってアップル大尉も駆け出して水面に視線を走らせたが、波のせいでしばらくは何も見ることができなかった。

 チビ介が再び姿を見せたのは一分ほどあとのことで、高速艇のはるか前方だった。

 アップル大尉はすでにへさきに達し、電話機のボタンを押していた。

「艇長、俺だ。アップルだ。聞こえるか?」

 スピーカーからはすぐに返事があった。

「おお、よく聞こえるぞ。今エンジンを始動した。どの方向へ進めばいい?」

「1時の方角だ。前方に白いとがった波が見えるか?」

「ああ見えるよ。あの波は何だ?」

「ついさっきチビ介が背中を見せ、再び潜水していったあとだ。これは面倒なことだぞ」

「どうしてだ?」

「どういうわけでか知らんが、ジャネットは装備品をすべて捨て、チビ介を丸裸にしている。そうやって身軽になってスピードを出し、ハマダラカ竜騎兵の空気パイプをオノの先で引っ掛けているわけだ」

「なるほど」

「引っ掛けられ、引きずられている限り、さすがのハマダラカ竜騎兵も反撃することができない。とにかくオノの引っ掛かりが外れない限りはな」

「ハマダラカ竜騎兵は、釣り針にかかった魚のようになっているわけか。それは愉快だな」

「面白がってばかりもいられないぜ。チビ介が泳ぎ疲れた瞬間にハマダラカ竜騎兵は自由になり、反撃を始めるに違いないからな。防御しようにも、今のジャネットにはランスすらないんだぜ」



 チビ介とともに空中へ飛び出した瞬間、船の存在に気づき、思わずジャネットはニヤリとした。

「ああ、竜騎兵指揮所の高速艇が来ている。飛行艇404の遭難を調査にきたのか。今日の当番仕官ならアップル大尉かな?」

 だがジャネットには、余計な考え事に費やす時間はなかった。

 水面を破ってジャンプし、着水した後もチビ介は全力でひれを動かし、泳ぎ続けているのだ。

 いくらマッコウクジラでも、体力が無限に続くものではない。

「さあチビ介、もう一回空気を吸い込んだら、本格的な潜水に移るよ」

 ギョロリとした目で見つめ返し、チビ介も同意している。

 だがジャネットにも、ゴーストを海中に引きずり込んで、どうしてやろうという計画があったわけではない。

「潜水して、そのあとはどうすればいいのだろう? 高速艇にはクジラを収容する水槽がある。その中へなんとか逃げ込むことができればいいけれど、そのためにはまずスピードを落とさなくてはならない。そんなことをすれば、オノに引っかかっている空気パイプを外し、すぐさまゴーストが反撃してくるに違いない」

 水面に頭を出し、チビ介が最後の空気補給を終えたのは、このときのことだった。

「よしチビ介、潜水するよ。とりあえず方向転換をして、高速艇のそばへ戻ろう。高速艇の乗組員たちが、何か作戦を考えてくれるかもしれない。せっかく味方が来てくれたのだから、頼らない手はない」

 指示通りにチビ介が頭を下へ向け始めたときにはそうではなかったが、それを通り越して、チビ介が体をまっすぐに立て、再び深海へ向けての垂直降下に入ったときには、驚きのあまりジャネットは目を丸くした。

「チビ介、あんた一体何を考えてるの?」



「ええい、引っかかってしまった空気パイプとは、実に面倒なものだな」とゴーストは歯がみをした。

「あのマッコウクジラがスピードをゆるめない限り、強い水流のせいでオノには近寄ることもできない。すでに何分間引きずられているのだろう…。いつまでもこうしてはいられない。オメガはどこだ? なんとか呼び寄せることはできないだろうか」

 ヘルメットの内部でゴーストは、超音波笛に強く息を吹き込んだ。

 自分の耳にはまったく聞こえない笛を吹き鳴らすというのも奇妙なものだが、問題はそこではない。

 笛の音が聞こえる範囲にオメガがいるのかということだ。

 だがゴーストは幸運だった。音を聞きつけ、全力で泳ぎよってくる黒い姿が視野のすみに見えたのだ。



「おいアップル、アップル、返事をしろ」

 スピーカーからは艇長の大きな声が聞こえている。

「おいアップル、俺はどっちへ向けて船を走らせればいいんだ? ジャネットはまだ浮いてこないのか?」

 ため息をつき、アップル大尉は船内電話のボタンを押して返事をした。

「艇長、俺もいま双眼鏡を使って探しているんだが、波の下に隠れたまま、影も形もさっぱり見つからないのだよ」

「けっ、ジャネットのやつめ、何をしてやがるんだろうな。おいまさか、もうゴーストに倒されちまったということはないよな?」

 それは実はアップル大尉も恐れていることだったが、口にすると真実になってしまうような気がして、あえて話題にはしなかったのだ。



「こんな急速潜水をしてチビ介、あんた何を考えているの? まさか…」

 だが、そのまさかだった。

「あんたもしかして、深海に引きずり込んでゴーストとシャチを殺すつもりなの? そりゃあシャチもゴーストの潜水服も、深海の水圧には耐えることができないけれど…」

 ジャネットは背後を振り返った。

 オノに引っ掛けられた空気パイプが長く伸び、その先にゴーストとアルファが引きずられているのだ。

 牙をむき、ひれを動かしてアルファはめちゃくちゃに暴れているが、パイプといっても金属製の丈夫なものだ。

 そんなことで自由になれるわけがない。

 深度は刻々と深くなるのだ。

「チビ介の言うとおり、このままゴーストを殺してしまうのか…。おや、あれは何だろう? 前方に何かがいるぞ」

 最初は、きらりと光る小さな点でしかなかった。だが恐ろしい勢いで近づき、ジャネットが正体に気づいたときには、もうどうしようもなかった。

「しまった。もう一匹のシャチのことを忘れていた」

 10トンを超える体重を、オメガは真正面からジャネットにぶつけてきたのだ。

 とっさによけようとしたが間に合わず、ジャネットはまともにぶつけられてしまった。

 ドンと聞いたこともない大きな音がヘルメットの中に響き、ジャネットの鼓膜を震わせた。

 ジャネットの体も大きく揺すぶられた。

 シャチの肌はつややかで張りがあり、その黒さが一瞬、ジャネットの視界をすべて覆いつくしたほどだ。

 それだけではない。衝撃があまりに大きすぎ、ジャネットのヘルメットのガラスに、ピンとヒビが入ったのだ。

 深海1000メートルの圧力に耐えることができるガラスではある。

 それでも衝撃には弱い。

 割れ目にそって海水がじわりとにじんでいることに気がついて、ジャネットの心臓は凍りついた。

「ヘルメットのガラスが割れようとしている…。もしも割れてしまったら、私の命など一瞬で失われてしまう」



 海中を高速で引きずられ、体勢を立て直すことができないながらも、ゴーストの観察力は一流だった。

 どんなに小さなことも見逃さないのだ。

「よしオメガ、うまくやったぞ。やつのヘルメットから泡が漏れ始めた。ガラスにひびが入った証拠だ。もう一回体当たりを食らわせてやれ」

 超音波笛の合図を受け、オメガはすぐに反応した。

 弾かれたバネのようにチビ介のそばを離れ、グルリと回って再びジャネットへと鼻を向けたのだ。

 その姿は、まるで黒い魚雷のようだ。

 しかも、一度発射されれば直進するしかない魚雷とは違い、シャチは自分の頭で考え、ルートを決めることができる。

 その姿が、ジャネットに恐怖を与えないはずがなかった。



「あのシャチめ、もう一度私に体当たりをする気だな。仕方がない。チビ介、オノを捨てなさい。私のヘルメットはいつ破裂しても不思議はない。すぐに水面へ向かうのだよ。早く!」

 もちろんチビ介は、すぐさま指示に従った。

 まだまだ深海までは道半ばだが、頭を上へ向け、再び水面を目指したのだ。

 捨てられたオノは海底へ向けて落ちていったが、同時にゴーストとアルファも自由になった。

 しかし水圧による影響を恐れ、アルファに命じて、ゴーストもすぐに水面へむかったのだ。

 チビ介などあっという間に追い越し、ゴーストとアルファの姿は上方へと見えなくなった。

 ジャネットのヘルメットの内部では、まだ海水がにじみ続けている。

 深度計をにらみ、それがゼロへ近づいてゆく歩みを、ジャネットはとてものろく感じた。

「この針め、まるでイモムシのようにゆっくりとしか動いてくれない」

 ゴーストとともにオメガもすでに姿を消していることにジャネットは気がついた。

「おや、いつの間にかいなくなっている。どこへ行ったのだろう? そうか、ゴーストが呼び戻したのだな…。そうだチビ介、高速艇のエンジン音は聞こえるかい? 聞こえるのなら、その方向へむかいなさい」

 やがてチビ介は、水面まで浮上した。

 ここでジャネットの頭に、ある考えが浮かんだのだ。

「ええい面倒くさい。どうせこの潜水服はもう使い物にならないのだ」

 ヘルメットを押し上げ、ジャネットが思い切りよく潜水服の外へ飛び出したので、チビ介は目を丸くした。

 波の上に頭を出し、ジャネットは周囲を見回すことができた。

「高速艇はあそこにいる。私に気づいているようだ。舵をこちらへ向けたな」

 額の呼吸口から空気を吹き出し、チビ介がジャネットの注意を引いたのは、このときのことだった。

「えっ、どうしたのチビ介?」

 ジャネットが驚いたのには理由があった。

 チビ介は突然、『潜水する』と伝えてきたのだ。

「潜水ですって? チビ介、私は潜水服を着ていないのだよ…」

 と反論しかけたときにはもう遅かった。

 胸ベルトにつかまっているので振り落とされることはなかったが、ジャネットはいやというほど海水を飲んでしまった。

 あらかじめ息を吸い込む余裕もなく、ジャネットの全身は波の下に吸い込まれた。

 だがジャネットは気がついた。

 その瞬間チビ介の真横を、牙を大きくむき出したオメガがすれ違っていったのだ。

 ギリギリでかわすことができたわけだが、超音波の耳をフルに用いてチビ介は察知していたのだ。

 口には出さなかったが、ジャネットは思った。

「よくやったねチビ介。私はまったく気がつかなかった。賢い読みだよ」

 潜水服を着ていないジャネットは、ごく浅くしか潜ることができない。

 ずっと息を止めているので、長時間水中にいることもできない。

 オメガをよけてチビ介が進む方向を予測し、ゴーストは待ち構えていた。

「あっ、ゴーストが…」

 ジャネットの前方で、ゴーストの持つランスがギラリと光っていたのだ。



「おい艇長、艇長」

 スピーカーを通して、アップル大尉の声が操縦室に響いた。

「どうした、アップル」

「左へ5度、いやもうちょい舵を切れ…。ああ。それでいい。エンジン全開だ」

「俺は言われたとおりにするが、そっちでは何が起こってるんだ?」

「ジャネットが敵竜騎兵に追われているんだ。その様子が波の下に見える。敵はどうやら、シャチを2匹もつれた竜騎兵らしい」

「2匹ってまさか、ゴーストじゃないだろうな」

「どうやらそうらしいぞ。艇長、船底のハッチを開いてくれ」

「クジラ水槽につながっているハッチか? そんなものを開いてどうする?」

「ジャネットを収容するんだ。なんとか追いつきたい」

「だけどおまえ、この船はそんなにスピードが出ないぞ」

「そこはなんとか考えるさ。とにかく俺の言ったとおりにしてくれ」

「おう、わかった…」



 ゴーストのランスは、狙いが非常に正確だった。

 これがチビ介に傷を負わせることがなかったのは、まったくの幸運でしかない。

 ランスの切っ先はチビ介の肌ではなく、胸ベルトに触れたのだ。

 チビ介の首のまわりを一周している太く頑丈なものだが、ゴーストのランスはこれを簡単に切断してしまった。

 おかげで、チビ介の体につかまる手がかりをジャネットは失ってしまった。

 強い水流に押されてジャネットはチビ介の背中を離れ、滑り落ちていったのだ。

 ジャネットはさらに流され、チビ介の尾びれの脇を通って、海中へと落ちていった。

「チビ介、チビ介…」

 竜騎兵の口には、常に超音波笛がくわえられている。

 水流に押し流されながら、ジャネットは懸命にそれを吹き鳴らしていた。


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