海軍学校へ 3
やがて水圧に耐えかね、ジャネットの潜水服がギシギシときしんだ。
「もしかしたら気のせいか…。ううん、いくら金属製の頑丈なものでも、やはり間違いない。水圧で締め付けられ、指の動きまで、ぎこちなくなってきた。潜水服が破れて水が浸入する時には、どんな気持ちがするのだろう…」
ジャネットは両目を閉じた。
もう、彼女にできることは何もないのだ。
突然、何かが耳に聞こえることに気がついた。
「ゼノンが鳴いている…。いいえ、これは歌だわ」
本当にそれは、歌と呼ぶのがふさわしかった。
大きな体に似つかわしくない甲高い声だが、はっきりとしたリズムとメロディがあり、真っ暗な深海に響いた。
悲しげではあるが美しく、自分が置かれている状況も忘れて、ジャネットはしばらくの間聞きほれた。
そして、不意に気づいたのだ。
「ゼノンは、私よりも2倍も3倍も長く生きたのだ…。ゼノンは一体どこの海で生まれたのだろう。どこかの海で母親から産み落とされ、すぐに水面に顔を出し、生涯最初の一息を吸い込み、地球の空気の味と匂いを感じたのだ。ゼノンの母とは、どんなクジラだったのだろう…」
ゼノンとジャネットは、落下を続けた。
いつの間にかゼノンは歌をやめたが、その響きはまだジャネットの心の中に残っていた。
「人生の最後に耳にするものとして、ふさわしい歌だったわ」
今度は気のせいでも何でもなく、潜水服がきしんでいた。
関節を包むジョイントがいつ破れ、キリのようにとがった水流が浸入しても不思議はない。
「潜水服の隙間から入り込んだ水流は、私の体をカミソリのように切り裂くだろう。そのあとは内部の空気が一気に押し縮められ、一瞬で死に至るのか。すでに深度計の針は1000をこえ、目盛りを振り切ろうとしている…。あれっ?」
ヘッドライトの光の中に意外な物を発見して、ジャネットは小さな声を上げた。
いつの間にやってきたのか、すぐそばにもう一頭、別のクジラがいたのだ。
ゼノンよりもかなり小さいが、同じマッコウクジラだ。
くっつけるようにゼノンに頭を寄せ、ジャネットを見つめていたのだ。
「あんた誰?」
もちろん、答えなど返ってこない。
ジャネットは、ゼノンの体からついに脈拍が消えたことに気がついた。
胸にヘルメットを押し当てたが、心臓の音を聞くことはできなかった。
「とうとうゼノンは死んだ。だけど、もうすぐ私も後を追うのだわ…」
ジャネットたちは、ゆっくりと海底に到着した。
やわらかな泥が降り積もった真っ白な場所だ。
さっと泥が激しく舞い上がり、ゼノンはその中に半ば埋もれ、ジャネットは背中に乗った。
小柄なクジラも、ゼノンのすぐ隣に腹ばいになった。
「私の息は、もう数分しかもたない。今は、ゼノンの肺にわずかに残った空気を吸っているのだ」
ぼんやりした目で、ジャネットは隣にいるクジラを観察した。
若いクジラというよりも、まだ子供だ。
好奇心の強い丸い目で、ジャネットをまっすぐに見つめている。
「あっ」
ジャネットは、突然気がついた。
「もしかしたら、私の人生はまだまだ終わらないのか…」
急いで立ち上がり、ジャネットはゼノンの額へと近寄った。
そこには、接続装置と呼ばれる機械が手術で埋め込まれ、ジャネットのヘルメットから伸びた空気パイプがつながっている。
レバーを動かし、接続装置から空気パイプを引き抜くのは簡単だった。
ジャネットの意図に、小さなクジラも気がついた。
突然体を動かし、小さなクジラは前へ進み出たのだ。
この小さなクジラの額にも、同種の接続装置が埋め込まれていたのだ。
きらりと銀色に光るその機械に空気パイプを差し込み、震える手で、ジャネットはコックを開いた。
シュッ。
熱く湿っぽいが、酸素が十分に含まれた空気が突然、潜水服の中を満たし、ジャネットは胸いっぱいに吸い込むことができた。
何度も深呼吸をしながら、ジャネットは小さなクジラの背中をなでた。
まだ本当に子供だ。
くすぐったいのか、小さなクジラはキキキ、と甲高い声を上げた。
急に疲れを感じ、とにかくジャネットは、体を休めなくてはならなかった。
小さなクジラの背に体を横たえ、ほんの少しだけのつもりで目を閉じた。
だが、知らないうちに眠り込んでしまった。
ジャネットが眠っている間に、小さなクジラは泳ぎ始め、水面へ向かっていた。
ジャネットが目を覚ました時には、海面を進んでいた。
波の上に背中が出るたびに、ジャネットは太陽の光を浴びた。
背中をなでてやりながら、ジャネットは思いついた。
「あんたの名前は何にしようか?」
もちろん返事はない。
ジャネットは見回したが、大洋の真ん中で、波と空以外は何も見えなかった。
日は高く、おそらくもう昼近い。
「そうだ、あんたの名前はチビ介にしよう。それでいい?」
マッコウクジラの子供といっても、普通のイルカよりもはるかに大きいが、それでもゼノンと比べれば、おもちゃのようだった。
チビ介が潜水したので、胸ベルトにつかまったまま、ジャネットは引っ張られたが、深くは潜らず、チビ介は水面の少し下を進んだ。
小魚の群れが一度、さっと通り過ぎたが、それ以外は長い間、何も目に入らなかった。
潜水艦が見えてきたのは、しばらく時間が過ぎたあとのことで、薄青い水中を進む姿が前方に見えたのだ。
ジャネットはつぶやいた。
「潜水艦だ。友軍か?… だけどおかしい。あの船体の形には見覚えがない。そういえば、魚雷発射管の数も違う」
真相に気がつき、ジャネットは青くなった。
「あれはヒトリ国ではなく、ハマダラカ国の潜水艦なんだ」
チビ介は平気な顔で、ハマダラカ潜水艦へ向かって泳ぐのだ。
潜水艦のへさきには、ガラス窓がいくつか並んでいる。
チビ介は気楽に近寄り、その一つをのぞき込んだ。
窓の中は薄暗かったが、チビ介の鳴き声を聞きつけ、男の影が動くのが、ジャネットの目に入った。
男は顔を上げ、チビ介と目を合わせたのだ。
うなずいて手を伸ばし、男の手は何かのスイッチを押した。
だが突然、チビ介の背にジャネットがいることに、男は気がついたのだ。
男の表情は凍りついたが、すでに潜水艦の船首が口を開きかけている。
とがったへさきが、オウムのクチバシのように上下に分かれるのだ。
注意を引くために、ジャネットが背中をとっさにポンとたたくと、チビ介は意図を理解し、すぐにさっと泳ぎ始めた。
潜水艦から離れ、再び大洋へ泳ぎ出たのだ。
ジャネットはつぶやいた。
「チビ介は、ハマダラカ竜騎兵部隊のクジラなんだ。きっとハマダラカ海軍では、クジラには自分でエサを取らせる方針なのだ。一日に一度は海に放し、満腹したら戻ってくるように訓練してある。だがチビ介はまだ子供だ。満腹になっても、まだまだ遊びたりないのだ」
ジャネットの考えは正しかった。
ジャネットの指示に従い、チビ介はすぐに全速力を出したのだ。
「チビ介、浮上しなさい」
ちらりと振り返ると、舵を切って潜水艦が追ってくるのが、ジャネットの目に入った。
「さっきの一べつで、私がヒトリ兵であることは敵に見抜かれた。やつらにすれば、私を生きて帰すわけにはいかないのか…」
水中に突然、ゴオンと大きな音が響いたので、ジャネットはぎくりとした。
聞き覚えのある不快な音だ。
振り返るとやはりそうで、あの潜水艦が魚雷発射管を開き、ジャネットに向けて一発発射したところだった。
白い泡を派手に引きながら、魚雷は潜水艦を離れる。
チビ介に合図を送り、とっさにジャネットは進路を変えた。
「チビ介、右へ舵を切りなさい」
敏捷なクジラには、魚雷をよけるのは難しくない。
だが敵潜水艦の艦長は、それを見抜いていた。
チビ介とジャネットが右へそれると、すぐにその方向へもう一発発射したのだ。
「くそっ、なんてことだ」
ジャネットは、ひどく混乱した。
だがチビ介に新しい指示を出し、今度は真下へ向けて泳がせた。
精一杯の急潜行だ。
どこか離れた場所で、一発目の魚雷が爆発した。
水を通して、強い音と衝撃が襲ってくる。
ジャネットは、チビ介の胸ベルトにしがみついた。
「左右はともかく、潜水艦は上下にすばやく方向を変えることはできない」
ジャネットの考えは正しかった。
2発目の魚雷はジャネットの頭上を通り過ぎ、どこか遠くで爆発したのだ。
フル加速をした潜水艦は、うまくブレーキをかけることができずに通り過ぎ、ジャネットは敵の船腹を眺めた。
「そうだ、チビ介。いい考えがある」
ジャネットは、再びチビ介に指示を送った。
スピードを落とし、潜水艦の腹の下を同じ方向へとついてゆくのだ。
ゴウゴウいうエンジンの音が、水を通して鼓膜に響く。
船腹に手を触れそうなところまで、ジャネットたちは近寄った。
潜水艦が速度を落としたので、ジャネットはつぶやいた。
「やれやれ、私たちの追跡をあきらめたか…。おや、進路を変えたぞ。潜水艦は真西へ向かうのか」
ジャネットは首をかしげた。
「だけど、ここから真西といえば、大洋の中央の何もない場所だ。何のためにそんなところへ向かうのだろう?」
好奇心を感じ、ジャネットは命じた。
「チビ介、あの潜水艦を追跡しなさい。気づかれないように、船腹に隠れて進むのだよ」
追跡は半日以上も続いたが、やがて潜水艦の目的地が近づいた。
エンジン音が小さくなり、浮上する気配を見せたので、ジャネットは少し距離をとった。
ポンプの音が聞こえ、潜水艦はゆっくりと浮かび上がったのだ。
「間違いない。ここがやつの目的地なんだ」
潜水艦が完全に停止したとき、ジャネットもそっと水上に頭を出した。
すでに日は暮れ、よく晴れた夜空が頭上に広がっている。
だが静かな夜ではない。
この潜水艦だけでなく、周囲はいくつものエンジン音で満ちていたのだ。
もう一度見回し、意外さにジャネットは口をあんぐりと開けた。
月光に照らされ、鉄のシルエットがいくつも波の上に影を落としている。
ジャネットは、巨大な艦隊の真ん中にいたのだ。
「なんてことだ…。私は今、敵艦隊の真ん中にいる。ここを集合場所に、何十隻もが密集しているのだ」
ジャネットは見回し続けた。
「潜水艦だけでなく、戦艦や空母、巡洋艦の姿も見える。これがハマダラカ中央艦隊か…。今すぐに司令部へ通報すべき大事件だ。これは、ヒトリ国への本格的な奇襲攻撃作戦なんだ…」
コトコトと速く打つジャネットの心臓は、すぐにアクセル全開のエンジンのようになった。
耳の中で、じんじんと耳鳴りも始まった。
「歴史的瞬間なんてものじゃない。いま私は、本物の戦争が始まる瞬間を目撃しているんだ」
ジャネットは覚悟を決めた。
チビ介の背中にそっと触れ、潜水するように指示を出そうとした。
だが、思わぬ人声が波の上に響いたのは、そのときのことだった。
「おいおまえ、そんなところで何をしてるんだ?」
ジャネットは、驚いて振り返った。
いつの間に近づいたのか、なんとそこには小さなボートがいるのだ。
こぎ手は一人だが、船から船へと荷物を届ける仕事をしている。
ボートの上にはいくつか、木箱が乗っているのが見える。
「しまった」
ジャネットは、大急ぎでチビ介を潜水させた。
チビ介はよく言うことを聞いたが、自分の間抜けさと失敗の大きさに、ジャネットは地団駄踏んだ。
「くそっ、なんてうかつな話だ。あのボートの男は、私を目撃したことをすぐに上官に報告するだろう。上官は艦隊指令に伝え、艦隊指令は攻撃開始時刻を予定よりも早めるかもしれない。いや、防御を固めるすきをヒトリ国に与えないために、きっと早めるだろう」
チビ介を深く潜らせながら、ジャネットは頭の中に海図を思い描いた。
「真北へ向かうのが、ヒトリ本土へはおそらく最も近いだろう。私はそのルートを取るべきか?」
だが、すぐにジャネットは気がついた。
「ハマダラカもそう考えて、私の行方を追って、北側を重点的に捜索するだろう。ならば別の方角へ向かうのが賢いか…。そうだ、南へ向かうほうがいい。南には定期航路がある。通りかかった船に拾い上げてもらい、司令部には無線で通報するのだ」
磁石を確かめ、ジャネットが指示を出すと、チビ介は元気よく進んだ。
海中は静かで、もはや何も起こらなかった。
しかし2時間も進むと、さすがに2人とも疲れた。
「よしチビ介、敵艦隊はすでに遠いわ。少し休憩しようよ」
だがジャネットは、想像以上に疲労していた。
ほんの少し休憩するだけのつもりが、あっという間に深く眠り込んだのだ。
もともとジャネットは寝つきがよく、一旦眠り込むと目を覚ましにくいタチだ。
目覚まし時計も一つだけでは不十分で、ベッドのそばにはいつも2つ並べてあるほどだ。
だがそんなジャネットでも、すぐそばで爆雷を使われたのでは、目を覚ますのは一発で十分だった。
「なんだ?」
体全体に衝撃を感じ、大きく揺り動かされて、ジャネットは鼓膜がじんじんした。
ジャネットの指示を待たず、すでにチビ介は全速力で泳いでいる。
あわててジャネットが空を見上げると、灰色に塗られた飛行機の姿が見えた。
「あれはハマダラカの偵察機だ。こんな方角にまで捜索の手を広げていたのか」
まわりは明るく、日が昇った直後だ。
「なんてことだ。これでは私とチビ介を発見するなんて、上空からでも難しくはない。そんな中でいい気に眠っていたなんて、私はなんて馬鹿だろう」
偵察機が、2つ目の爆雷を投下した。
ジャネットとチビ介の鼻先だ。
深く潜水するために、ジャネットはチビ介に合図を送ろうとした。
だが、その前に気が変わった。
「ええい、やられるばかりなのは、もううんざりだ。反撃する方法はないものか」
しかし、ジャネットの手に武器はない。
武器に似た物といえば、信号銃ぐらいのものだ。
ジャネットは腰から引き抜き、波の上に突き出し、狙いもろくにつけずに偵察機めがけ、引き金を引いた。
パン、と大きな音がしたが、当たったかどうかさえ確かめずに、ジャネットはチビ介に垂直潜行を命じたのだ。
ジャネットたちは降下を続け、その後も偵察機は爆雷を投下したが、深く潜ると何の音も聞こえず、ジャネットたちはさらに南へと進路をとった。
短時間の休憩を何度か取るだけで、ジャネットたちは泳ぎ続けた。
午後遅くなるころ、水が温かくなったことを感じて、ジャネットはほっとした。
熱帯から流れる海流に出くわしたのだ。
「ここは、もう定期航路の上か。あとはただ、船が通るのを待てばいい…。さあチビ介、長い時間ご苦労だったね。もうヒレを止めなさい」
水面に顔を出し、船が見えないかと見張ったが、期待に反して成果はなく、ジャネットはじりじりした。
「どうして一隻も通りかからないのだろう。一秒でも早く司令部へ連絡したいのに…」
ついにジャネットは目が疲れた。
青い空に白い雲があり、ときどき上空を鳥が飛ぶだけだ。
そのまま日が暮れ、あたりは真っ暗になった。
とうとうあきらめ、前夜と同じようにジャネットは眠り込んだ。