海軍学校へ 2
「あれは一体なんだろう? ああ、なんてことだ…」
その姿を目にしたとき、やっとジャネットにも、ゼノンの恐怖の意味がわかったのだ。
「なんて巨大なイカだろう…。深海の暗闇から姿を現した。あんなサイズのイカが実在するだなんて、私は話にも聞いたことがない…」
ジャネットの驚きは、決して大げさではなかった。
ちょっとした貨物船ほどの体長があり、イカは深海の暗闇から、長い10本の足とともに、魔王のような姿を現したのだ。
息を殺し、ジャネットは見下ろした。
「深海には、あんな化け物が潜んでいるのか。あの大イカは、あそこで何をするのだろう? スタービューのそばを素通りするだけならよいが…」
次の瞬間には、ゼノンだけでなく、ジャネットの鼓動も、いっぱいにまで速くなった。
イカの巨大な目玉がギョロリと動き、視線がスタービューをとらえたのだ。
『これは何だろう』という顔で大イカは緊張し、皮膚の色がさっと濃くなった。
「あっ、あいつはスタービューを見つけたのだ」
吸盤が無数に並ぶ腕を長く伸ばし、大イカはスタービューに近寄った。
腕の先が触れると、船体に巻きつけた。
それだけでスタービューがズルリと何センチか動いたので、ジャネットはドキリとした。
「くそっ、あのバカ者は、潜水艦を食べ物と勘違いしている。スタービューは海溝のヘリに、かろうじて引っかかっている。あと何十センチかでも動いたら…」
ためらう余裕はなかった。目の中をのぞき込むと、『冗談だろう?』という顔でゼノンが見つめ返したが、ジャネットの決心は変わらなかった。
「いいえゼノン、本当にあいつを攻撃するのよ。なんとしても追い払うのよ」
しかしゼノンは、言うことをきかなかった。
超音波笛を吹き鳴らし、『突撃せよ』の指示をいくら与えても、じっとしたまま、ヒレ一つ動かさないのだ。
しかし、スタービューをほってはおけない。
深海へ転げ落ちたなら、船体は一瞬でばらばらになる。
だが何度合図を送っても、ゼノンは反応しない。
ジャネットは、別の手を考えるしかなかった。
「頑固な年寄りクジラめ。こうなるとそうか、あの方法しかないのか…」
その方法が本当に効果を発揮すると、ジャネットも本気で信じたわけではない。
竜騎兵部隊に伝わる伝説で、ジャネットも、古参兵の口から冗談めかして聞かされた。
「だけどもう私には、それを試すしか方法がない」
胸ベルトから手を離し、ジャネットはゼノンの鼻先へと降りた。
アゴの下へまわり、大きな口を開かせた。
その中には、とがった太い牙が一列に並んでいる。
その奥に、長く大きな舌がある。
ジャネットは、潜水服のヘルメットのネジをゆるめた。
ついにジャネットは、ヘルメットを外した。
空気が泡になって逃げ出し、全身を海水に包まれてジャネットはかがみ、ゼノンの舌先に、そっとキスをしたのだ。
「こんなやり方に、本当に効果があるのだろうか…」
ジャネットは半信半疑だった。
だが突然、ゼノンの体がビクンと震えた。
体をねじり、ヒレをバタバタと動かしたのだ。
大急ぎでヘルメットをかぶり、ジャネットはネジを締めなおした。
ずっと息を止めたままなので、のんびりはできない。
ゼノンは今や奮い立ち、息も荒く、猛烈な勢いで、ヒレを前後に動かしている。
アゴまで数回、開けたり閉じたりした。
ジャネットが再び突撃の合図を送ると、今度は一瞬もためらわず、ゼノンは魚雷のように泳ぎ始めたのだ。
「だけど遅すぎたかもしれない。あのイカはすでにスタービューにしっかりと取り付き、全体にくまなく腕をまわしている」
船体があげるきしみが、ジャネットの耳にまで聞こえた。
「あの中にいる乗員たちは、今どんな気持ちでいるだろう…」
突然、ゼノンが体を上下さかさまにした。
牙の生えた口を大きく開き、あとわずかというところで、やっと大イカもゼノンの接近に気づいたが、もう遅かった。
すれ違いざま、ゼノンは敵の目玉を攻撃したのだ。
しかしとっさによけられ、ゼノンは目の上を少し噛み取ったに過ぎなかった。
ゼノンはすぐにUターンをし、二度目の攻撃を試みた。
ゼノンは猛烈な速度を出していた。
しかし大イカは、二度目の攻撃も、さらりとかわしたのだ。
「くそっ、肩透かしを食らった」
しかも、それだけではなかった。
体の陰に隠し、イカは自分の最も長い腕を待機させていたのだ。
非常に巧妙なやり方なので、ジャネットもゼノンも、いざ尾びれに巻きつかれるまで気づかなかった。
急ブレーキをかけられ、ゼノンは水中で停止したのだ。
もちろんゼノンは暴れた。
だがイカの腕は深く食い込み、ゆるむ気配がない。
ベルトのように巻きつき、ゼノンを強く締め上げたのだ。
「あの腕はなんという力だ。ゼノン…」
ゼノンが悲鳴を上げるのを、ジャネットは初めて耳にした。
ジャネットは体が凍りつき、どうすればよいかわからなくなった。
ゼノンは暴れ続けたが、イカも腕を放す気配はない。
それどころか、腕をムチのようにうまく振って、イカはゼノンをブンと放り投げたのだ。
ジャネットは強い遠心力を感じ、ゼノンとつながる空気パイプがピンと伸びた。
ゼノンの体には大きく弾みがつき、ブレーキをかける余裕もなく、水中を滑った。
そしてその先では、壁のように大きな岩が待ち構えていたのだ。
ゼノンの体がクッションになったので、ジャネットは衝撃を受けることはなく、ケガもしなかった。
だがゼノンは、そうではなかった。
骨が砕ける音が、ジャネットの耳にまで届いた。
「ゼノン!」
ゼノンは一瞬失神した。
しかしすぐに目を覚まし、体勢を立て直そうとした。
だが、尾びれが動かない。
同時に苦痛にも襲われ、ゼノンは大きな悲鳴を上げた。
ゼノンはもはや、泳ぐことができなかった。
尾びれが、見たこともない形に曲がっている。
よろめくようにして、ゼノンは大イカから離れた。
「どうしよう、ゼノン…」
もはやゼノンは、かろうじて身体のバランスを保っているだけだ。
次の瞬間、とうとうゼノンはバランスを失った。
ゆっくりと裏返しになり、ゼノンは沈み始めたのだ。
思わず下を向き、ジャネットは全身の血が凍りついた。
彼女の真下には、あの深海の暗闇が大きく口を開けていたのだ。
事実ゼノンは、あっという間に何十メートルも降下した。
「ゼノン、ゼノン、ゼノン…」
ゼノンは落下を続ける。
ジャネットは深度計を確かめたが、自分の目を信じることができなかった。
しかも針は、まだまだ進みつつあるのだ。
「私は今、400メートルを超える深さにいる…。しかも落下は、とどまる気配もない」
水面は遠く、上を向いても、もう真っ暗なだけで何も見えなかった。
この深さで潜水服を脱ぐなど、問題外だ。
この深度の水圧に、人体が耐えられるわけがない。
それは一瞬で死を意味する。
暗闇に身を任せ、ゼノンとともに、ジャネットは深海の底へと墜落していった。