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ゴーストの娘  1

 ゴーストは本名をビル・カーターといったが、ハマダラカへ亡命してからはもちろん名を変え、偽名で通していた。

 そしてヒトリとハマダラカ、両国間でついに戦争が始まったのだ。

「国を追われて亡命し、その数年後に母国と戦う羽目になるとは皮肉なものだ」

 だがゴーストは、戦争の勃発を悲しんでいたのではない。

 ある知らせが、ゴーストの心に影を落としていたのだ。

 諜報部に籍を置くある男が知らせてくれたものだ。ゴーストはつぶやいた。

「諜報部にいるのなら、いろいろな情報に接する機会もあろう。信用してもよいかもしれない。しかしシルビアが…、私の娘が今でもヒトリで元気にしているだと? 本当だろうか…」

 その男から教えられた内容を、ゴーストはもう一度思い返した。



「物語はいつも、私がアップル大尉の部屋へ呼び出されるところから始まるのではないか」

 という気がジャネットはしていた。

 そして今もまた、彼女はアップル大尉から呼び出しを受けていた。

 ドアをノックし、ジャネットが部屋へ入っていくと、机の前に座り、いつものようにコーヒーをすすっていたが、アップル大尉は顔を上げた。

「ああスミス、これはまずいぞ」

「コーヒーがですか? ではキッチンから取り寄せるのではなく、ご自分で道具をそろえていれたらどうです? 味にうるさい私の父もそうしていますよ」

「俺はコーヒーのことを言っているのではない。シルビアのことがばれたんだ」

「シルビア? ゴーストの娘ですね。ばれたって、誰にですか?」

「グリーンブックだよ。どこからどう漏れたのか、シルビアがゴーストの実の娘であると知られてしまった」

 ジャネットはため息をついた。

「グリーンブック? よりによって諜報部の特殊部隊ですか? やれやれ…、寄宿している学校名もばれたのですか?」

「もちろんさ。ここ数日、校舎のまわりをおかしな連中がうろつくようになったが、事情が事情だけに警察へ届けるわけにもいかない。だから急遽、シルビアを別の場所へ移動させることが決まった」

「それはどこへです?」

 ここでアップル大尉はにやりと笑ったのだ。

「誰にも見つからない場所さ。そのために俺は今から、シルビアを連れに学校まで行ってくる。それでだスミス、指揮所の誰にも見つからないように、おまえはクジラと潜水服の準備をしておいてくれ。シルビアを今夜中に安全な場所へ連れ出したい」

「でも、今はハマダラカと戦争中なんですよ」

「計画の詳細はあとで話そう。とにかく俺は行ってくる。帰りは夜遅くなると思うが、おまえは待っていてくれ」

 アップル大尉から再び連絡があったのは、もう真夜中近い時間だった。

 指示された準備はとっくに終えていたが、かといって帰宅もできず、控え室でコーヒーを飲みながらジャネットは時間をつぶしていた。

 電話のベルが鳴ったのは、その時のことだった。

「スミス少尉、あなたに電話です」

 と、すぐに当番兵がジャネットを呼びに来た。

 受話器を手に取ると、かけてきたのはアップル大尉だったが、おかしなことを言うのだ。

「スミス、今すぐ例のクジラたちを連れて、指揮所の北の防波堤の先端まで来てくれ。誰にも見られるな。隠密行動だ。頼んだとおりの準備はしてあるだろうな?」

「準備はできています。でも大尉、潜水服をつけたクジラを2匹だなんて、どうするつもりなんです?」

「いいからおまえは、すぐに防波堤の先までくるんだ。できるだけ早く頼むぞ」

 それだけ言って、電話は切れてしまった。

 受話器を置き、ジャネットは歩き始めたが、戦争中の指揮所がひっそりしているわけがない。

 いつどんな作戦命令が下るかわからないので、それなりの人数が24時間待機している。

 そういった連中の間を、足音をひそめたい衝動に駆られながらジャネットは歩き続けた。

「さあクジラたちのプールが見えてきた」

 クジラたちはすでに大プールに出してあった。

 2匹おり、一匹はおなじみのチビ介だ。

 潜水服を左胸にぶら下げ、海へ出るのは今か今かとそわそわしているのは、ヒレの動きから知ることができる。

 ジャネットの足音を聞きつけ、ぐるりと目玉を動かした。

 もう一匹のクジラのことは、実はジャネットもよくは知らなかった。

 もちろんマッコウクジラで名はアポロンといい、ギリシャ神話からとられた優雅な名だが、とにかく性格がおだやかでおとなしいという話だった。

 アポロンにも潜水服が取り付けてあるが、今は空なので、人形のようにダラリとしている。

 まわりを探って人目がないことを確かめ、ジャネットは水に飛び込んだ。

 すぐにチビ介が泳ぎ寄ってくるので、潜水服の中に身を落ち着けるのには2分もかからなかった。

「さあ出発しよう」

 水中でボタンを押し、電動式の水門が開くのを待っている間も、ジャネットはチラチラと振り返って観察したが、指示しておいたとおりに、アポロンはおとなしくついてきている。

 指揮所を出て、アップル大尉の言っていた防波堤までは入江を横切り、ほんの目と鼻の先だった。

「人目につかないため、いくら近くでも水中に潜って進むほうが賢いだろう」

 ジャネットはクジラの腹を海底の砂にこすりつけるようにし、その間も高速艇が頭上を横切っていった。

 海底の岩に衝突することなく防波堤の外に出ることができたときには、ジャネットもほっとした。

 クジラたちの足を止めさせ、潜水服のヘルメットを押し上げて、ジャネットは一人で水面へ出た。

「アップル大尉はどこにいるのだろう?」

 防波堤は長く、突き出した腕のように、沖へ向かってまっすぐに伸びている。

 明かりもなく真っ暗だが、アップル大尉の目は鋭かった。

 ジャネットの姿をすぐに見つけ、手の中の懐中電灯を2回点滅させたのだ。

 ジャネットがコンクリートにはい上がると、すぐにアップル大尉は口を開いた。

「スミス、すべて俺が言った通りにしたか?」

「ええ大尉。シルビアはどこです?」

 もう一度懐中電灯のスイッチを入れ、アップル大尉はひょいと足元を照らした。

「ここにいるよ。睡眠薬で眠らせてある。もちろん本人も承知の上でだぞ」

「でも、ここまでどうやって連れてきたんです? あっ、そこにある自動車、あれは部隊長の自家用車じゃないんですか?」

「おやスミス、目がいいな。事情を話したら部隊長が快く貸してくれた、といえば信じるかい?」

「いいえ」

「だろうな。もちろん黙って借りてきたんだ。用が済んだら返しておくよ」

「…でも指紋とか、証拠になるものは残していないでしょうね」

「そこらへんに抜かりはない。信じられないだろうがスミス、俺は元は諜報員志望で、諜報部の訓練校に在籍していたこともあるんだぜ。色々あって、その後は竜騎兵になってしまったが。さあスミス、アポロンをここへ呼んでくれ。シルビアを潜水服の中へ入れよう」

 小柄な娘なので、シルビアを潜水服の中に納める作業は、2人の手でもなんとか終えることができた。

 だがヘルメットの最後のネジを締めようとしたとき、背後の暗闇から、突然鋭い声が2人に飛んだのだ。

 声と同時に、2人の姿は強い懐中電灯の光で明るく照らされてしまった。

 振り返ってもまぶしすぎ、相手の顔を見ることはできなかった。

「おまえたち、そこで手を止めろ」

 と聞こえてきたのは、いかにも命令することに慣れている声だ。

 ジャネットには聞き覚えがなかったが、アップル大尉の反応は早かった。

「スミス、飛び込め」

 アップル大尉の手で強く押され、ジャネットは海へ落ちていった。

 大きな水音を立て、ジタバタしてやっと水面に顔を出すと、アップル大尉の声がもう一度ジャネットの耳に届いた。

「スミス、シルビアの潜水服は準備完了だ。チビ介を連れて、すぐに潜水しろ。まっすぐに…へ向かうんだ。すべて手配は済んでいる」

 波のせいで肝心な部分を聞き取ることができずにジャネットは歯がみをしたが、グリーンブックが銃を抜き、自分のまわりを銃弾が通り過ぎるのを感じては、一秒も無駄にできなかった。

「それっチビ介、全速力で走れ」

 チビ介とアポロンを引き連れ、ジャネットは防波堤を離れるしかなかったのだ。



 グリーンブックの取調べが、噂に聞いていたほど厳しいものではなかったことには、アップル大尉もほっとしていた。

 だが困ったのは、すぐに部隊長のオフィスへ連行されてしまったことだ。

 部隊長はライス大佐といい、頭に毛の一本もない男だが、背は高いけれど、これでも軍人なのかと思えるほど大きく突き出した腹を抱えている。

 イスに座っても、ベルトのあたりが机に強く押し付けられるほどだ。

 グリーンブックのパンプキン大尉は、ライス大佐の前で敬礼をした。

 その背後では同じくグリーンブックの男たちが、逃走を防ぐためにアップル大尉の両腕を左右から強くつかまえている。

 パンプキン大尉は鷹揚に口を開いた。

「ライス大佐、このキーはあなたの自家用車のものですか?」

 机の上にカチャリと置かれたキーに、ライス大佐は目を丸くした。

「それはそうだが、どこで見つけたのだね? この机の引き出しに入っているはずのものだ」

「引き出しの中をご確認いただけますか?」

「そんな必要はない。君が持っているのなら、私の机の中にあるはずはない。それをどこで手に入れたのかね、パンプキン大尉? 説明してもらえるかね」

「ライス大佐、あなたは今日、このアップル大尉に自動車をお貸しになりましたか?」

「なぜそんなことをきく? そもそもグリーンブックの諸君が、なぜこの竜騎兵指揮所にいるのかね? 君たちの職場ではないはずだが」

「お忘れですか? 海軍内部のどの施設でも、グリーンブックは自由に出入りする権限が与えられているのです」

「だからといって、上官に対して礼を失してよい、ということにはなるまい?」

「おや、お気を損ねましたか? これは失礼を…。われわれは現在、ある人物の行方を追跡中なのです」

「ふん、どうせつまらんスパイごっこだろう?」

「今追っているのは、14歳の小娘です。これがある重要人物の血縁でしてね」

「子供を捜すのなら、迷子センターへでも行ったらどうかね? 竜騎兵指揮所には子供などおらん」

「そうでしょうか? このアップル大尉なのですが、つい今しがた、怪しい動きを見せたので逮捕しました」

 ここでアップル大尉が口を開いた。

「逮捕だって? 俺はまだ逮捕状も見せてもらっていないがね。それに弁護士はどこだ?」



 ジャネットは途方にくれていた。

 本当に困っていたのだ。

 シルビアをどこへ連れてゆけばいいのか、見当も付かなかった。

「困ったことになったな」

 だがジャネットは悩み続けることができなかった。

 突然あたりにエンジン音が響き、爆発音もとどろいたのだ。

「あれは何だ?」

 大きな爆発ではない。

 せいぜい手榴弾でしかないが、いくつも海中へ投げ込まれているのだ。

 エンジンの音はもちろんモーターボートだ。

「グリーンブックめ、ボートまで用意していたのか」

 チビ介に命じて、ジャネットは全速力を出させるしかなかった。

 気になって振り返ったが、暗すぎて見えず、アポロンがちゃんとついてくるよう祈るしかなかった。

「やはりアポロンはロープでつないでおくべきだったか」

 しかし単身ゆえの動きやすさということもある。

「さあチビ介、敵に向かって頭突きをせよ」

 チビ介はすぐに理解し、泳ぐ方向を変えた。

 体を傾け、カーブを切ったのだ。

「グリーンブックたちは、ボートの上から後ろを向いて、あてずっぽうに手榴弾を投げている。ならば船首の警戒は手薄だ。先回りをして、ボートの前方から迎え撃とう」

 敵に向かって距離を縮める間も、ジャネットは水流に逆らい、チビ介の額へと進んでいた。

 道具箱からは、ラムを取り出してあった。

 ラムとは三角形をしたオノだ。

 チビ介の額に取り付けると、鋭く前方へ長く突き出す格好になる。

「グリーンブックめ、ラムの力を見るがいい。鉄製の大型船ならともかく、これに一突きされて耐える小型ボートなど存在しないぞ。いい気でいるのも今のうちだ。もうすぐ水浴びの時間だよ」

 チビ介のラムは、一撃でボートのへさきを突き破った。

 ボートはバラバラになり、男たちを海へ振り落としたのだ。

 波に浮いている男たちを押しのけ、チビ介は前進した。

「そうだ。あいつにしよう」

 男たちの中でも、今一つ泳ぎの遅い一人にジャネットは目をつけたのだ。

 合図を送り、ジャネットはチビ介をそばへ行かせた。

「これはなんだ?」

 暗闇の中、突然目の前に浮上したマッコウクジラに驚き、男は目をむいた。

 潜水服から飛び出し、ジャネットはそれをチビ介の額の上から見下ろしたのだ。

 懐中電灯で照らすと、まだ若い男だ。

 ジャネットは口を開いた。

「ねえあんた、その上着は捨てたほうが泳ぎやすいよ。グリーンブックの制服が命よりも大事なのかもしれないけれど」

 自分の顔を見られないために、懐中電灯の光を直接相手の目に向け、ジャネットは言葉を続けた。

「みんな泳ぎがうまくないわね。自分のことで精一杯で、あんたの仲間は助けになんか来ない。私に協力してくれるのなら、あんたを岸まで送り届けてやる。協力しないのなら、ずっと沖まで連れて行って放り出すわ」

 波の間で手足を大きく動かし、かろうじて体のバランスを取りながら、男はやっと口を開いた。

「おまえは竜騎兵だろう? 竜騎兵は友軍にこんな仕打ちをするのか? ただではすまないぞ」

「ただではすまないのは、あんたが私の顔を覚えていた場合だけよ。ねえあんた、マッコウクジラが肉食動物だって知ってた?」

「私を脅迫するのか?」

「なんとでも言いなさいよ。さあ質問に答えるのよ…。あらだめよ。いくら銃を抜いても、泳ぎながらでは命中なんかしないわ。体がそんなにふらふらしているじゃないの」

 パンと銃声が響いたが、ジャネットの体どころか、チビ介の額にさえ弾丸はかすることがなかった。

 しかも音に驚き、チビ介がドンと額をぶつけたおかげで、男は銃を水中に落としてしまったのだ。

 ジャネットは声を上げて笑った。

「あらあらグリーンブックさん、銃をなくしたら、次はどんな武器を出してくるのかしら。マッコウクジラをしとめるのなら、少なくとも大砲じゃなきゃだめよ」

 こんなことをして、ジャネットも心が痛まなかったわけではない。

 だがついに男は降参し、有用な情報を与えてくれた。

 ジャネットはすぐに岸辺へつれて行き、解放してやったので、結局男は同僚たちよりも早く水から出たことになる。

 身をひるがえしてチビ介に潜水を命じながら、ジャネットはつぶやいた。

「シルビアの行き先はU共和国なのか」

 なんとも意外な目的地ではないか。

 ヒトリでもハマダラカでもない第三国だ。

 しかし、U共和国がそもそもなぜシルビアを受け入れる気になったのか、ジャネットには見当もつかなかった。

「だけど、とにかく目的地が決まったのはありがたい。要するに私は、アポロンを連れて北を目指せばよいのだから…。そういえば、アポロンはどこにいるのだろう?」

 ジャネットは急いで見回したが、何も見えなかった。

 超音波笛を何回か吹き鳴らしたが、何の反応もない。

 ジャネットは唇を噛むしかなかった。

「しまった。グリーンブックの相手をしている間にアポロンが消えた。あのバカクジラめ。一体どこへ行ったのだろう。しかも潜水服の中には、シルビアを入れたままではないか」

 チビ介をせかし、ジャネットは全速力を出させた。

 しかし海岸を離れるにつれ、ジャネットも冷静になってきた。

「めったやたらと泳ぎ回っても、アポロンを見つけ出せるものではないわ。とにかく今は、チビ介の聴覚に頼るしかない」

 しばらくして、チビ介が海中に音源を発見したので大喜びしかけたが、接近してみるとただの漁船に過ぎず、ジャネットはひどくがっかりした。

 だが今は、どんな小さな情報でも欲しいときだ。

 ジャネットは浮上することにした。

「なんだこれは?」

 実際に目にすると、拍子抜けするほど小さな漁船だった。

 せいぜい漁師は一人しか乗ることができず、仕掛け網で魚を獲って生活しているのだろう。

 近づくと船上にいるのはやはりただ一人で、かなりの年の老人だった。

 甲板に座り、獲ったばかりの魚を仕分けしていたが、何もない波の上に突然現れたジャネットにひどく驚いた顔をした。

「あんた…、あんたは誰かね?」

「私は幽霊じゃないわ。海軍の竜騎兵よ。船べりへ来ればわかるわ。私はマッコウクジラの背中に立っているのよ」

「なんだ。驚かさんでくれ」

「ええ、ごめんなさい」

「竜騎兵さんが、わしに何か用かな? まさかこのあたりにハマダラカ軍艦がいる、というのではあるまいね」

「そうじゃないわ。おじいさんはずっとこのあたりにいたのでしょう? クジラを見かけなかったかと思ってね」

 老人は立ち上がり、船べり越しに海をのぞき込んだ。

「クジラなら、今ちょうどそこに一匹おるのが見えるよ」

「チビ介のことじゃないのよ。私が言っているのは別のクジラだわ」

「そのクジラは名前をチビ介というのかい? おまえさんが探しているのもマッコウクジラかね?」

「あら、クジラの種類がわかるの?」

「わかるとも。若い頃は捕鯨船に乗っていたからね」

「へえ」

「捕鯨船で一番大切なことは何だと思う? マストの上の見張りじゃよ」

「見張り?」

「そうさ。あの高い高いマストの上で、一日中、水平線を見張っている。そしてクジラを見つけると叫ぶ。『あそこだ。あそこにクジラがいるぞ』、とな」

「海中を泳ぐクジラがマストの上から見えるの?」

「いや、波の下のクジラが見えるわけではないのさ。見えるのは、クジラが水面上に吐き出す強い息だ。世間で言う『クジラの潮吹き』というやつでね」

「ええ、そんなふうに言うわね」

「その潮吹きをわしは、ほんの20分ばかり前に見たよ」

「えっ、どこで?」

「ここより4キロほど東じゃな。網を引き上げた直後だった。今夜は満月じゃないか。その明るい光で、くっきりと見えた」

「それがどういう種類のクジラだったかまでは、まさかわからないわよね?」

「わかるさ。あれはマッコウクジラだった」

「どうして?」

「それは簡単。捕鯨船の乗組員なら、どんな新人でも知っていることさ。クジラは、種類によって潮の吹き方が全く違う。吹き出す勢い、しぶきの形、音といったものすべてがね。しぶきを前方へ突き出すあの形は、間違いなくマッコウクジラだよ」

「そのマッコウクジラはどの方角へ向かったの?」

「追いかけてゆくつもりかい? なら教えるが、真東へ向かったよ。こんな時代に運悪く、敵国ハマダラカの方角じゃな」

「そのマッコウクジラは、意思を持ってまっすぐハマダラカへ向かっているようだった?」

「さあ、そこまではわからんよ。だがあんたも、追跡するなら急いだほうがいい。外洋に出れば、いつハマダラカ艦船と出くわすとも限らん」

「そうね、ありがとう」

「いやあんた、ちょっとお待ち」

「まだ何か用?」

「あんたにもう一つ伝えておきたいことがある。あのマッコウクジラがあんたには重大事のようだからね」

「何かしら?」

「あのマッコウクジラを追跡しているのは、あんた一人ではないらしいということさ…。おや、どうかしたのかい?」

 ジャネットの顔色が変わったことに老人は気がついたが、ジャネットは首を横に振った。

「ううん、なんでもないのよ。私以外にもあのマッコウクジラを追跡している者がいると、どうしてわかるの?」

 老人は、ゴホンと咳払いをした。

「あのマッコウクジラがわしのそばを通り過ぎてすぐのことだった。やはり明るい月光で水上に浮かび上がったものがあるのだよ」

「一体何が?」

「あれは確かにクジラの背びれだったな。2匹のクジラが仲良く並んで、マッコウクジラを追うようにまっすぐ東へ遠ざかっていった」

「2匹のクジラ? このあたりには野生のザトウクジラが多いわ。おじいさんはそれを見たの?」

 老人は首を横に振った。

「わしのような老いぼれでも、あれをザトウクジラと見間違えることはない。どんなに暗い夜であっても、ヨットの帆のように高いあの背びれはシャチに違いない。シャチが2匹並んで、マッコウクジラの跡を追って東へ進んでいたということさ」

「おじいさん、それってまさか…」

「あんたが何を恐れているか、わしにはよくわかる。シャチの背には人がまたがっていた。もちろん顔形までは見えなかったが、シルエットだけで十分さ。そうだよ竜騎兵さん。あれは間違いなくあんたの敵、ハマダラカ竜騎兵だった。シャチを2匹も連れた竜騎兵というのは、わしも始めて見たがね…」



 電話を通して聞こえてくる部下の声が少し震えていることに、パンプキン大尉は気がついた。

 この男はまるで、体全体がぬれねずみになったかのような惨めな話しぶりではないか。

 ははあ、マッコウクジラにボートを襲われ、海へ落とされたな。

 だがそんなことはおくびにも出さず、パンプキン大尉は続けた。

「それで君、スミスのクジラ…、名はチビ介といったな。シルビアを乗せたアポロンとチビ介は、無事に指揮所を離れたのだね?」

「そうです、大尉」

「手榴弾は使用したか?」

「10発ほど」

「まさか命中はさせなかっただろうな。けがなどさせてはおるまい?」

「もちろんです。わざと外して投下しました。スミスは本気で怒ったようですが」

「反撃を受けたのか?」

「ご心配なく。被害は軽微です」

「ならいい。スミスには例の行き先を教えてやったか?」

「状況から見て、スミスはすっかり信じたに違いありません。あのあとアップル大尉はどうなりました?」

「ふん、あんな小者に興味はないが、いろいろと知っているようなのでな。逮捕留置してある。弁護士に会わせろなどとほざいていたが、なあに、ほっておけばいいさ」

「では今後も計画どうりに進めるのですね?」

「必要な船舶はすぐに手配する。うまい具合に高速艇が一隻、燃料補給のために指揮所へ戻ってきたところだから、それを使おう。今夜は満月で、気象台の話では雲ひとつない快晴が朝まで続くそうだ。アポロンがどこへ行こうが見失うことはないさ…」



「あの竜騎兵とクジラは、一体何をしているのだろう?」

 とゴーストはつぶやいた。指揮所のすぐ沖合いで偶然水音を聞きつけ、姿は見えないまま、ここまでつけてきたのだが、あいつはのんびり前進するばかりで、何の行動も起こす気配がないのだ。

「まあいい。やつの跡をもう少しつけてみよう…。おやアルファどうした? …本当か? 本当におまえは超音波をキャッチしたのか?」

 黒目の多い丸い目玉で、アルファはじろりとゴーストを見つめ返した。実に愛想のない目つきだが、自分も人当たりが良いとは言えないことはゴーストも承知していて、ある意味で似合いの相棒同士だった。

「そうかアルファ、疑って悪かったな。あまりに思いがけないことなのでな。まさか発信者はあのマッコウクジラか?」

 もちろんシャチが口を利くわけではない。

 超音波笛を吹き、ゴーストは指示を出した。

『超音波の発信者がいる方向へ鼻を向けろ』

 アルファはすぐに従った。

 隣を泳いでいる新入りのデルタと一緒に、ある方向を向いたのだ。

 しかしそれは、フラフラ泳ぐあの奇妙なマッコウクジラがいる方角ではなかった。

 それどころかまったく別の方向、真後ろと言っていいほどだ。

これはどういうことだ?

 ゴーストは考え込んでしまった。

「ふうむ。この海域にはもう一匹、別のマッコウクジラがいるということか…」

 ゴーストは考え続けた。

「あるいは良い機会かもしれない。よし実行してみよう…。デルタ、ここへ来い」

 デルタもアルファとともにゴーストに従っていたのだが、他のシャチとは少し姿が違っていた。

 筒型をした奇妙な機械が、背中の吸気口に取り付けられているのだ。

 まるで煙突のような格好だが、泳ぐときの邪魔にならないように流線型に作られている。

「さあデルタ、初めての実戦だ。行っておまえの力を試してこい」

 超音波笛で指示を受けると、デルタは一瞬尾びれをピクリと伸ばし、さっと泳ぎ始めた。

 まるでイワシのようなキビキビした泳ぎ方ではないか、とゴーストは思った。

「やはり若いシャチということなのか。アルファでは逆立ちしても真似のできない活発さだ」

 その活発な泳ぎ方で、デルタの姿はあっという間に暗闇の中へ消えてしまった。



 老人の乗った漁船のそばを離れたあとも、ジャネットの頭の中ではある言葉が何回も繰り返され、 まるでクリスマスの鐘のように反響していた。 

「ゴーストがこのあたりに来ているのだ」

 それは、気がふさぐ憂鬱な事実だった。

 まともな常識を持つ竜騎兵なら、一番遭遇したくない相手だ。

 しかしジャネットは思い直した。

「ここは戦場なのだ。なんだって起こりえる。文句を言っても始まらない」

 ジャネットの耳に奇妙な音が飛び込んできたのは、このときのことだった。

「おや。なんだろう、この音…」

 陸上では聞き覚えのない、ギッギッという音だ。だがジャネットにはすぐにわかった。

 ほっとして、笑顔まで浮かべたほどだ。

「あれはザトウクジラの鳴き声だ。なんだ、それだけのことだ」

 ザトウクジラは野生のクジラで、ヒトリ近海のような暖かい海では珍しい種類ではない。

 シャチのように危険な動物でもない。

 だがジャネットは不思議に思った。

「音の正体がわかったのに、なぜチビ介は緊張を解こうとしないのだろう」

 チビ介のひれは動きが硬く、聴覚を最大限に用いるときの癖で、まだ瞳をさまよわせているのだ。

「チビ介、どうしたの? あれはただのザトウクジラだわ。怖くなんかないのよ」

 だがチビ介は態度を変えないのだ。

「チビ介、いったい何を考えているの? そりゃあ相手は真正面から接近してくるけれど、ただのザトウクジラだわ。無害でおとなしい動物よ」

 それでもチビ介は緊張を解かないのだ。



 腕時計をのぞき込み、ゴーストはつぶやいた。

「よし90秒たったな。デルタが目標のそばへ十分接近したころだ。私もそろそろ目標の背後へ回りこむとするか。指揮所のこんな近くにいるのなら、あれはヒトリ竜騎兵に間違いあるまいよ」

 手のひらで、ゴーストは黒い肌にポンと触れた。

「さあアルファ、行くぞ。デルタが出すあの音を頼りに進むのだ。敵に悟られないように迂回して、背後からゆっくり忍び寄るのだぞ」

 デルタの呼吸口に取り付けられている装置は『ミミダマシ』と呼ばれ、シャチの呼吸に合わせて、ザトウクジラの鳴き声によく似た音を立てるように設計されている。

 その音は本当にそっくりで、ジャネットさえ疑問を持たなかったほどだ。

 一方でチビ介が指示に従わないことで、ジャネットは弱りきっていた。

「チビ介あんた、いったい何を考えているの? どうしてザトウクジラから逃げるのよ」

 勝手にユーターンまでしてザトウクジラに背を向け、すでにチビ介は数百メートルも後戻りしていたのだ。

 チビ介の頑固さにあきれているが、やっとジャネットも事態の奇妙さに気がつき始めていた。

「そういえばおかしいぞ。あのザトウクジラは、どうして私たちのあとをつけてくるのだろう。海岸に近づいても、奴の餌になるものなどあるはずはない…。つまりこれは、ゴーストの仕業だという可能性もあるわけか…」

 耳を澄ませると、ザトウクジラの鳴き声はまだ後方から聞こえてくる。

 いくらなんでも、これはしつこすぎる。

 あのザトウクジラは、明らかにジャネットたちをつけているのだ。



 暗闇の中でもはっきりと聞こえてくるミミダマシの音を目印に、ゴーストはゆっくり接近していった。

 すでに手の中にはランスがある。

「無害なザトウクジラだと思って、あのヒトリ竜騎兵も警戒していないだろう。そこへ背後から突然襲いかかるのだ。警戒もせず、何も疑っていない敵を私が討ちもらすなど、まずありえないさ」

 それほどゴーストの腕は確かだったが、実は誤算があった。

 警戒心のもたげたチビ介が180度向きを変え、いまは海岸を目指しているということだ。

 背後から忍び寄るつもりのゴーストだったが、意に反して、チビ介とは真正面からぶつかってしまった。

 アルファはおとなしく無音で泳いでいるが、その体が多少とも水流に乱れを生むのは避けられない。

 チビ介の緊張は、その乱れを敏感にも感知したせいだった。

 だがジャネットもまだランスまでは準備しておらず、まったくの丸腰でいた。

 ここでゴーストに襲われては、ひとたまりもない。

「さあ敵は近いぞ。アルファ、油断をするな」

 だが最初の運はジャネットの側にあったようだ。

 ラムをチビ介の額から取り外すことを、ジャネットはすっかり忘れていたのだ。

 そのままでは水の抵抗が大きく、チビ介はいささか泳ぎに苦労してしまう。

 だが結果として、このラムがジャネットを救うことになった。

「どうしたの、チビ介?」

 チビ介が突然ブルンと体を振るわせたので、やっとジャネットも敵の接近に気づくことができた。

「まさかゴーストか?」

 ジャネットは緊張し、心臓の鼓動がドクドクと、鼓膜の内側まで響くような気がした。

 そこへ突然、前方から接近するヘッドライトが目に入ったのだ。

「くそっ、ランスを用意するにはいまさら遅すぎるか…。あれっ、どこへ行くのチビ介? なぜ突然そんなに泳ぎ始める?」

 チビ介はスピードを増し、ゴーストへとずんずん近づいていったのだ。

 攻撃の準備を整え、ゴーストは余裕を持って待ち構えていた。

 ヘッドライトの光の中にマッコウクジラの尾びれが姿を見せる瞬間が待ち遠しかったほどだ。

 しかし今日のゴーストには運がなかった。

「なぜだ? なぜこのクジラは額にラムなどつけている?」

 狙いを定め、ゴーストはランスを突き出したが、次に起こったことは、この伝説の竜騎兵の想像を超えていた。

 ラムを振り、なんとチビ介がランスをはじき返したのだ。

「まさか…」

 二つの金属がぶつかる衝撃波は激しく水中に広がり、竜騎兵たちの鼓膜を大きく揺さぶった。

 あまりの勢いに、ラムの先端からは小さな泡まで生じたほどだ。

 そういう光景は、ゴーストにも経験がなかった。

「なぜだ? まるでこのマッコウクジラは、私のランスの動きを先回りして読んでいるかのようではないか」

 金属同士を激しく打ち合わせた後、アルファとチビ介はすれ違い、急速に遠ざかっていったが、チビ介にユーターンを命じる気はジャネットにはなかった。

「チビ介、そんなことをしなくても、方向を変えてゴーストが追跡してくることはわかりきっているわ」


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