第二章 神官
ずるずると何かが這い回る音が聞こえた。
水を大量に含んだ何か、得体の知れない大きなもの。
おぞましく忌まわしいものがすぐ側を這っている。
「……ゼ……目的ハ……ノ……我等ガ……偉大ナル……」
「……爛れ……会い……贄……のか……」
誰かが話す声が聞こえた。意識が朦朧としている。はっきりと聞き取れない。だが、片方は聞き覚えのある声だと思った。
重い瞼をなんとか持ち上げる。
――そこにそれはいた。うつ伏せに倒れたヒトのような形だった。
手足がない。あるのは頭と体。そして泥色の爛れた皮膚が垂れ下がり無数の触手のように伸びている。ぶよぶよとした大小様々なそれが百足の脚のようにうねうねとのた打ち回り蠢いていた。ずるりと這うようにして動いている。おぞましい。
頭部から伸びた触手は髪や髭を模しているようだった。それがこの奇怪な生物を人間のように錯覚させる。悪意と狂気から生まれたとしか思えない。その頭がこちらを向いたと思った瞬間、再び意識は闇の中へ落ちる。
ナチアが目覚めると、目の前にはクミクロと見知らぬ老人の姿があった。
「起きたか」
気付いたクミクロが声をかける。
大きな木を背に眠っていたらしい。体にはくすんだ茶色の外套がかけてあった。
「ふぇっふぇっふぇ。なかなかタフなようじゃのう」
しわがれた声は、禿頭の小柄な老人のものだ。自分にかけてある外套と同じ色の僧衣を着て、手には古びた杖を持っている。
ナチアは記憶を手繰るが見覚えがない。村の人間ではないのは間違いなかった。深い皺が刻まれた顔に白い髭を蓄えかなりの高齢である事を伺わせる。突き出し気味の丸く大きな目と、暗く仄かに赤い瞳が少女舐めるように見つめていた。
「あの、えっと、わたし、どうして」
まだ混乱しているのか上手く言葉にならない。
「お嬢ちゃんは儀式の直後に気絶しちまったんじゃよ」
答えたのは老人だった。
もう一度記憶を手繰るが、目覚める前の事がいまいちはっきりしない。少し迷った後、クミクロに問いかけるように視線を向ける。クミクロは無言で頷いた。
「ふむ。儂は信用ないかのう」
髭をさすりながらそう言う老人は、残念というより面白がっているように見える。
「ごめんなさい。えっと、わたし、起きる前の記憶があやふやで……」
言いながらついつい救いを求めるように、再びクミクロを見てしまう。
相変わらずフードを被ったままの旅人は、答えるのを拒否するかのように目を閉じる。
「ふぇっふぇ。まぁ覚えがないならそれでいいじゃろう」
なんとか思い出そうと頭を捻るが、やはり泉の岸に近づいた辺りからの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。なにか、とても重要な事があったような……。
「無理に思い出す必要はない」
彼女の思考を遮るようにクミクロが告げる。
「そうじゃの。忘れちまうって事は、忘れちまった方が良いって事じゃ」
含むような物がある言い方だったが、とりあえず2人の言葉に従う事にする。
「儂は……そうじゃな……この沼地の偉大なる主に仕えておる神官じゃ。お主等が儀式を行っているのを見たのでな」
神官という言葉を聞き、ナチアの瞳が輝きを増し喜色をあらわにする。
「村で何度も聞いたことがあります! この沼地の主に仕える沼の民がいるって!」
すぐさま立ち上がり、老人に対して深々と礼をする。
「わたし、近くの村に住むナチアと言います! 沼の民には最大級の敬意を払うようにと古老様がたから言われておりました!」
「ほっ、よくできた童じゃ。感心感心。村の連中も我らの事を忘れてはいないようじゃの」
老人は満足そうに目を細め、口元を緩める。
「はい、今日は沼の偉大なる主に祈りを捧げるために参りました。それなのに気を失ってしまって……すみません」
恥じ入るように言い、しゅんと肩を落とす。
「気を落とすことはないぞ、若い神子よ。あの儀式を行ったものは大概気を失うか錯乱するものじゃ。いつもならそれを儂が偉大なる主のもとへ連れて……」
「おい」
老人の言葉をクミロミが遮る。
「ク、クミロミさん! 神官様にそのような態度はダメです!」
慌てて止めようとするナチアだが、
「ふぇっふぇ。構わんよ。儂も久方ぶりの客人に口が軽くなってしまったようじゃ」
老人は気にした様子もないようで笑っていた。
「さて、若い神子よ。お主は何か届ける祈りがあってここへ来たのじゃろう? いや皆まで言うな。何か重要な話なのであろう? しかし、然るべき祈りは然るべき場所で行わなければならん。先程も言った通り、本来は儂がお前をすぐさま偉大なる主のもとへと導くのじゃが……」
一度言葉を切り、クミクロを見やる。クミクロは黙って目を閉じた。
「今回はもう一人客人がいるようじゃからな。遠回りになるが、ゆるりと向かうとしようかのう。なあに、数日もあれば着く距離じゃ」
老人はしれっと言うが、この沼地を数日も歩くというのが何を意味するか……少女は戸惑いを隠せない。
「えっと、あの、すみません。どうしても直ぐに伝えなくてはいけないことが……」
不安の混じる声を老人が手で制する。
「我等が偉大なる主にとっては万事が瑣末事じゃ。そうであろう?」
有無を言わせぬ物言いだった。神官を名乗るこの男。一見好々爺だが、神官を名乗るに足る、妄信めいた信仰を感じさせる。
迫力に飲まれ、少女は言葉も発せずにただ何度も頷いた。
「ふぇっふぇっふぇ。さぁてでは参ろうかのう。まだ色々話したいことはあると思うが道のりは長いでな。話す時間なら幾らでもあるというものじゃ」
老人は言い終わると同時に踵を返し歩き始める。
クミクロも無言のままそれに従った。
ナチアは、自分に掛けてあった外套を引っ掴み、駆け足でその背中を追い始めた。
3人はかろうじて道のように見えるところを淡々と進んでいた。
茶色い外套は老人のものだと言う。沼の民が作ったその外套は特殊な染料で染められており、防虫効果があるそうだ。
「ここは危険な虫も多いからの。お前さんが羽織っておくといい」
そう言われて現在ナチアが羽織っている。小柄な老人のサイズに合わせて作られたものらしく、若干ナチアには大きかったがなんとか引きずらないで済んだ。くすんだ外套ですっぽりと体を隠せばそれなりに旅慣れた者のように見える。
「そういえば名乗ってなかったの、儂はオブト。さっきも言った通り偉大なる主に仕える神官じゃ」
よく通る声でそう告げる老人は、年齢に不相応な健脚ぶりを見せていた。見るからに過酷な旅をしてきたであろうクミクロは言わずもがな。結局歩調はナチアに合わせられることになる。
「すみません。足を引っ張ってしまって」
よく謝る少女だった。
「気にするな」
「うむ、その年でそれだけ体力があれば十分過ぎる方じゃろうて」
既に半日近く歩き詰めだろう。日は真上を軽く通り過ぎている。
「今日はそろそろ休むかのう。お嬢ちゃん野宿の経験は?」
「ないです。……ちょっと不安です」
「ふむ、初々しいのう。……そっちのお前さんは、聞くまでもないな」
クミクロは黙って頷いた。
オブトの話では少し進んだ場所に比較的野宿しやすい場所があるという。
――そこは一際大きな木が一本、ぽつりと立っていた。その巨木を敬うかのように周囲の植物達が円を描き空間が作られている。
「……凄い」
思わずそう漏らしてしまう程に。一枚の絵画のような美しさがそこにあった。
太い幹の根元には大きな樹洞がぽっかりと口を開いており、人間一人ならその中で休めそうな程の広さがあった。ナチアが誘い込まれるようにその樹洞の中へと入ろうとする。
「入っちゃいかんぞお嬢ちゃん。そこはアヤツらの家なのでな」
オブトが釘を刺す。ナチアは少し残念そうな素振りを見せたが黙って戻ってきた。
「あやつらってだれですか?」
老人はその問いには答えなかった。
「さて、儂は食い物を見繕ってくるとしようかのう」
「近くに水場はあるか?」
「水か? 足りんのか?」
「あと一日は持つ」
老人は「足りんの」と呟き、しばし黙考する。
「節約すれば持つじゃろ。……この地の水は、我等以外は口にしない方が賢明じゃ」
クミクロが頷く。それを確認した老人は食料調達へと向かっていった。
「ごめんなさい。わたしがちゃんと水も食料も持っていれば負担をかけずにすんだのに」
「気にするな。それより、やっておきたいことがある」
隣で俯く少女に対して、クミクロは告げる。
「服を脱げ」
「えっ?」
聞き間違いかと思った。
「服を脱げと言った」
「うえええええ!?」
ナチアの顔がみるみる赤くなる。
「え? なんで? どうして? なぜ? わからないわからない」
少女の口からぶつぶつと混乱の声が漏れる。
「……まぁいい、ならその外套を外せ」
「……は、はいぃ」
言われたとおりに外套を外す。純白の単衣が姿を現した。
クミクロは少女の身体をくまなく観察する。外套の効果によるものか、確かに虫にやられたような痕は全くない。だが裸足で歩いていた少女の足は擦り傷や切り傷といったものが無数に出来ていた。クミクロは懐から大口の瓶を取り出す。
「あ……」
瓶に入っているものを見て硬直する。透明な瓶の中にはあの粘体が入っているのだ。
クミクロは瓶の蓋を開けると、中身対し話しかけているかのように何事かを呟く。その声はとても小さく、口を覆う布越しなので何を言っているかまでは分からない。
瓶の中身がのそりと動き出した。翡翠色をした美しい粘体は瓶から這い上がるとクミクロの腕の上へとゆっくりと移動する。
「見ての通りだ。食われはしない。わかるな?」
諭すように落ち着いた声で告げる。しかしナチアの頭に浮かぶのは手の皮膚を溶かされ悲鳴をあげる男の姿だった。頷きたいが頷けない。首を振りたいが振れない。葛藤に苛まれ動けないナチアの様子を肯定と受け取ったのか。クミクロが粘体を腕に乗せたまま近づいてくる。
そして彼女の目の前で膝を折ると、足元へとおぞましき粘体の乗った腕を伸ばした。
「ひっ……」
クミクロの腕を介して少女の素足へと粘体は這いずり移動してくる。ひやりとした感覚が足の甲を襲った。少女は恐怖に歯を食いしばり目を瞑る。
「…………」
だが、痛みはやってこなかった。それどころか
「き、気持ち、良い?」
心地良い冷たさが足を包み込んでいた。緩やかに動くそれが少女の足をまるでマッサージしているかのように刺激する。
「ふっ、あっ、うんっ」
その動きはとても繊細で、くすぐったさに軽く身をよじる。
足指の間にも緑の粘体が入り込んできた。敏感なところを刺激され思わず鼻にかかった声が出てしまう。湿ったその感触は、足指を咥えられ、舌で丁寧に舐められているようだった。
「はぁ、はぁ……ふぅんっ」
初めての倒錯的な快感にナチアの息が荒くなる。先程までの恐怖は完全に消え去り、唯唯その快楽に身を任せていた。
「……はぁ、あっ! ……くぅっ!」
足に刺激が走り小さな喘ぎが漏れる。足にある傷口の一つを念体が刺激したのだ。僅かに戻った恐れと痛みと快感がないまぜになり、ナチアの頭を溶かしていく。
「どうだ?」
「はぁ……はぁ……はぁ……え?」
声をかけられた事に気づくのさえ時間がかかった。何について問われたのかまったく頭が回らない。
クミクロは無言で念体へと手を伸ばすと無造作に引っ掴んでそれをはがす。
薄汚れていた足は丁寧に洗った後のように白さを取り戻しており、傷口も同様に綺麗になっていた。疲労からくる足の痛みも大分治まっている事にやっと気付く。
「……あっ、はい! とても楽になりました!」
やっと我に返り、明るい声でそう答える。
凄い。と内心驚いていた。彼女の村にも、開いた傷口を虫に噛ませて縫合すると言った別の生き物の力を借りた治療法というのが存在している。クミクロはこの粘体を使って彼女を治療してくれたのだ。
「そうか」
再び粘体をナチアの足元へと戻す。
「えっ? あの、まだやるんですか?」
「全身だ」
無感情な声でただそう言った。




