第一章 旅人と少女
旅人に手を貸してもらいなんとか立ち上がった少女は、頭を深々と下げる。
「た、たすけてくれて、ありがとうございました!」
頭が膝につくのではないかと思われる勢いだった。
少女の服は泥と粘体の残滓で汚れ、白い少女からやや白い少女へと変貌している。
頭を下げたままの少女を見て、フードを被った旅人は覆った布の下から口を開く。
「気にするな」
端的な物言い。それを聞き、やっと少女は頭を上げる。
「ここの人間か?」
年端もいかぬ少女が一人で旅をしているとは思えない。それに灰色の髪と瞳はこの地方独特のものだった。
「あ、はいっ。すぐ近くの……。その、どうしてこんなところに?」
探るように質問するが、不吉を形にしたような沼地の中、使い古した装備に身を固めた旅人と、白装束に裸足の幼い少女、どちらが場違いかは明らかだった。
旅人はその質問に答えず、視線で地面に落ちた金の塊を指す。
少女は「あっ」と声をあげ小走りにそれへと近づき素早く拾うと「その、あの、これは……」と言い淀む。
「安心しろ。盗る気はない」
旅人が告げると、少女は思い切り安堵の溜息をついた。
「よかったあ。その、とても大事なものなんです」
年相応のはにかんだような笑顔を向ける。
だが、錆び色の瞳は少女が手に持つソレを凝視し続けていた。白くつやのある黄金の光を放つ塊は、歪な楕円形をしており人の手による細工などは行われていない。にも関わらず、まるで精緻な工芸品を見ているような、人を惹きつけて離さない魔力を放っているようだった。
「興味があった」
先程の質問の答えだと少女が気付くまで少し時間がかかった。
「……この沼に、ですか?」
旅人はこくりと頷く。
村の人間でさえ滅多な事では立ち入らない偉大なる神の住まう地。
そういえばと少女は思い出す。むかし村にも学者とかいう人たちが来ていた。この旅人も学者なのかもしれない。あの人たちもよく分からない道具をいっぱい持っていた。もちろんさっきのようなヘンな生き物はいなかったけど……。
剣に取り付いていたおぞましい粘体を思い出し、少女は身震いする。好奇心はあったがソレに関して問いただす気にはなれなかった。
「…………」
「…………」
沈黙。
「……えっと、わたし、やらなくちゃいけないことがあるのでこれで」
この旅人への興味はあったが、あまりここで時間を取るわけにもいかなかった。もう一度深くお辞儀をすると、沼の奥地へと歩を進めようと一歩を踏み出す。
「儀式」
「ひあい!」
ぽつりと放たれた呟きに、小さな身体が大きく跳ねあがった。あまりに大袈裟な反応に旅人の目が大きく見開かれる。少女が錆びついた歯車のように首を回す。
「な、なんのことですか?」
「わかりやすいな」
その言葉に少女の顔がわかりやすく赤くなった。
不恰好な木が生い茂る、湿った暗い林の中を白い少女は真っ直ぐ進んでいく。
「突然、おそわれたんです」
隣を歩く苔色の旅人に向けて言う。
「わたし、近くの村に住んでて、あっ、わたしはナチアって言うんですけど」
「クミクロだ」
名乗るだけの自己紹介。
「クミクロさん……。変わったひびきの名前です。遠くから来たんですか?」
「それで?」
質問には答えず、クミクロは話の先を促す。相変わらずの淡々とした物言い。ナチアは若干反感を覚えるが、横道に反れたのは事実なので話を戻す。
「えっと、ここへは3人で来たんです。ツアトとオルガって、あっ、村の人なんですけど」
二人は獣道の上を歩き続ける。踏み固められた地面や枯れた草木は、旅慣れた者でなくとも人目でわかる程に大きな道を作っていた。
「ツアトはやさしいお兄ちゃんみたいな人で、オルガは――」
「なぜ襲われた」
ナチアの顔がこわばる。話を横道へ反らすのは逃避からか。
「……わからないです。ほんとに突然おそわれたんです」
彼女達は爛れ沼に住まうという偉大なる神に、とある祈りを捧げるために祭祀場へと向かっている最中だったという。
民俗信仰。地方の小さな村々ではそれぞれに祀る神がいるのは珍しいことではない。付近の村ならば、この異質な空気を纏う沼地に人ならざる畏敬の念を抱くのもむべなるかなといったところだろう。
相手は革の鎧を身に着けた2人組だったという。傭兵崩れか山賊崩れか、ともかく彼らはナチア達を確認すると武器を手に持ち襲い掛かってきた。抵抗する術を持たないナチア達は必死に逃げたが、気付いた時には仲間とはぐれ、ナチアは襲ってきた男の一人に組み敷かれた。
「――そこであのかい……えっと、その、クミクロさんに助けてもらって」
怪物、と言い掛けナチアはすぐさま修正する。あの緑色の不可思議な生き物がクミクロにとってどういう存在なのか分からなかったからだ。
「…………」
反応はない。ほとんどを布に覆われたその顔を見ても表情はわかるはずもなかった。
他の2人は無事に逃げ切れたのだろうか。考えないようにしていたが、今やナチアの頭はそれでいっぱいになっていた。
会話は途切れ、朽ちた枝葉が敷き詰められた道を踏みしめながら更に奥へと進んでいく。周囲の不気味さは増すばかりに感じられた。
少女と旅人は沼の奥地へと向かっていた。
はぐれた2人のことは確かに心配だった。まだ襲ってきた連中がこの近くに潜んでいるかもしれない。だが、ナチアには村から託された祈りを成し遂げなくてはいけない義務がある。
白い装束に身を包んだこの幼い少女こそが祈りの神子なのだから。
クミクロは「興味がある」と言った。それはつまり彼女が行う祈りに対してだ。ナチアは最初、村の神聖なる祈りの場に部外者を連れて行くことを拒んだが、クミクロはただ黙って彼女の後を着いてきた。そうなればもう彼女には成す術がない。明らかに旅慣れしているクミクロを、動きにくい衣服に裸足のナチアが振り切るなど不可能だ。ましてや力でどうこうしようなどとは論外である。結局、彼女には選択の余地はなく現在に至る。
「…………」
とにかく無愛想な人間だった。口を開くと何かが減ってしまうのかと訝しむほどに。いったい何を考えているのか。
道なりに進んでいくと前方の木々が途切れはじめた。代わりに姿を現すのは泥色の沼。
黄褐色の水は酷く濁っており、ほんの少し潜っただけで水面からは分からなくなりそうだった。水面には緑色のこぶが集まったような水草が浮いている。
空にはぽっかりと空間が開き、厚い雲で覆われていた。沼は結構な大きさをしており、対岸は見えるが中に入って渡ろうとはとても思えない。
「ここのはずです」
沼の中央にある朽ち果てた巨木を見ながら少女は自信なさそうに呟く。
「……実は、儀式を行うのはじめてなんです」
そう呟きながら水面の直ぐ近くに立つ。クミクロも隣り合うように水際まで歩を進め、
「あっ、気をつけて下さい。聞いた話だとすごい深いそうです」
立ち止まる。その目は沼全体を見据えていた。
「なるほど」
それは少女の言葉に対する返答だったのか。クミクロは独り言のように言うと目を閉じた。
耳が痛くなるような静けさだった。まるで音を立てることを恐れているように。遥か昔から時が止まってしまったような、人が立ち入ってはいけない領域。
ナチアは懐から金塊を取り出す。日の光が届くここではより輝きも増しているようだった。その妖しい煌きにナチア自身も一瞬我を忘れてしまいそうになる。
黄金を両手で大事に抱えたままその場に膝をつく。恭しく掲げるその姿は確かに儀式めいたものを感じさせた。
掲げられた手が降ろされていき、黄金が水面へと落とされる。
黄金を沼が飲み込む音が響いた。
――はじめは何も起こらないように感じられた。そう、感じられたのだ。
瞬間、ナチアは急激な悪寒に襲われ身を震わせる。世界が変わってしまったのではないと思えるほどに急激な変化だった。何かに誘導されるように視線は沼の中央へと泳ぐ。辺りは不気味な静寂に包まれたままだ。何かが鳴った訳でも、沼に変化が起きた訳でもない。それでも少女の目は沼の一点に向けられ、そこにそれは現れた。
それは静かに音もなくゆっくりと浮かび上がってきた。沼と同じ茶褐色をした小さな塊が一つ。それはまるでヒトが水面から頭を出したようだった。
ゆっくりとこちらへと近づいてくる。少女は分かりたくなかった。だが分かってしまう。物ではない。ましてやヒトであろう筈がない。あれが、あれこそが求められたものなのだと。
少女の口が無意識に開き、言葉を紡ぎ出す。
「そう。そうなの。だめ。知りたくない。同じ。いえ。違うのね」
異様に光る二つの瞳を認めた時、少女の意識は闇の中へと落ちていった。




