06:永遠
疲労困憊、満身創痍のぼろぼろな状態ではあったが、伊爽たちは何とか依頼の水晶を手にアシュミエの町に舞い戻ってきた。
そして遺跡探査の疲れも癒えぬまま店を訪れた伊爽たちに、アレリアは冷ややかな目で五人を見た後、呆れたように一言。
「なんじゃ、生きていたのかい、お前ら?」
その言葉にジントニックは当然のようにキレ、さすがのジィルバーンも怒りを抑えきれずに震えていた。レイラやルナファレフの同様で、それが故に起こるタイミングを逃した伊爽が彼らを宥めたのが今から数十分前のこと。
宥めたのち、伊爽はアレリアに水晶を手渡した。すると彼女は、
「この童以外、奥に入れ」
そう言って皆を引き連れ、アレリアは奥の部屋に入っていった。理由もよく分からないまま一人蚊帳の外となった伊爽は、仕方なく一人椅子に座り、店の中で一人静かに時が過ぎるのを待った。
魔力の異常使用による肉体の疲労もあったため、休むには丁度いい。伊爽はその暇な時間を全て瞑想に使い、精神の休息を行っていた。
改めて意識を集中して顧みると、自分でも驚きが隠せぬほど精神的疲労が生じていた。
魔力の異常使用によって生じる拒絶反応はその証拠。肉体ではなく精神的疲労が肉体を強制的に休息させることで起きる一種の金縛りだと昔教わったのを思い出す。
(魔力の操量には自信あったけど……さすがにあの量はさすがに厳しいか……)
魔力の維持には限界がある。操れる総量を超えれば気づかぬうちに肉体にも精神にも負担がかけることになる。
それが分かっているからこそ、伊爽は考える。
この先、もしかしたら今回のような状況に陥る可能性はゼロではない。そうなれば、自分は必然的にあの力を引き出す必要がある。
引き出している間はいいが、その後に必ず訪れるあの言い表しがたい虚脱感は万人に理解できるものではない。分かることがあるとすれば一つ。拒絶反応で動けない状態は、完全なまでに無防備だということだけ。
いつ如何なる状況でもあの力が引き出せ、その上で発動後の拒絶反応に耐えられる精神と魔力操量を身に着けない限り、このままでは諸刃の剣にしかならない。
「やっぱり……もっと修行が必要だな……」
小さくため息をつき、伊爽は瞑想を止めて天井を仰いだ。
「イサイサ」
その時、不意に誰かに声をかけられ、伊爽は椅子に凭れ掛かった状態のまま声のした方向を向いた。
「レイラ? それに皆も」
「人のことを気に掛ける前に、お前はまず姿勢を正せ」
凭れ掛かったまま首を傾げると、予想通りジィルバーンが叱咤してきた。伊爽は「はーい」と言いながら姿勢を正し、椅子にしっかりと座っておくから出てきた皆を見る。
レイラ、ジィルバーン、ルナファレフ、ジントニック。全員が揃って伊爽を真剣な眼差しで見据えている。
その視線に疑問を感じ、伊爽は半歩引いた姿勢で声をかける。
「あの……皆どうしたの? そんな真剣にボクなんか見て」
『なんでもない』
四人が揃って声を発し、揃って首を振る様子は結構滑稽なのだが、あえて何も言わず伊爽は納得しておくことにした。
伊爽は諦めたように嘆息しながら立ち上がり、方を上下させてから四人の誰に言うでもなく問う。
「皆はもう終わったんですか?」
伊爽の問いに、ジィルバーンは答えるように肩を竦めて見せ、顎で背後のドアを指した。
「ああ、私たちは終わった。次はお前の番だそうだ」
「イサだけ、別、って言われた」
レイラの言葉に伊爽は首を傾げる。
何故自分だけは別なのか? その理由がまったく分からず、伊爽は少々困惑気味になる。
「いいから行けよ。婆さん待ってるからよ」
「女性を待たせるのは、男性としてマイナスよぉ。イサくん」
「分かりました。行きますよ」
ジントニックやルナファレフにまで急かされ、伊爽は自身の中にある疑問を解くこともできぬままドアを開け、部屋の奥へと入っていった。
その背を四人が見送り、ドアが閉まったのを確認して揃って方の力を抜いた。
そしてジィルバーンがメガネの位置を直しながら、何処か気抜けした様子の三人に問う。
「……あの老女の言っていたこと、本当だと思うか?」
「私は、信じる。違っていても、私は、イサと行くから」
ジィルバーンの問いに即座に答えたのはレイラだった。誰を見るでもなく、レイラはいさの入っていったドアのほうに視線を向けている。
「あいつがもし、あの婆さんの言った通りあの場所に行くというのなら、俺は行くぞ」
「そうね。何よりあの子の見せたあの時の力。あのお婆さんの話通りなら納得できる。その上でもし、彼があの地に行くというのなら、私も一緒に行くわ」
ジントニックもルナファレフも、ジィルバーンの問いに正確な答えを返してきた。その返答を聞き、ジィルバーンは腕を組んで顔を顰める。
「全ての願いが集い……そしてその願いが叶うと云われる、幻の遺跡……か」
ジィルバーンは先ほど老女に占ってもらったのは、友人の仇の行方だった。
その問いに返された言葉は、
『お前さんは今とある遺跡を探している。そしてその遺跡はお前さんのその嘗ての友人が捜し求めていたもの。ならおのずとその遺跡は向こうから姿を現す。それも恐らく、近いうちに』
レイラは自分に呪いをかけた人間の居場所。
その問いに返された言葉は、
『求めるものはすでになく、しかしてその継承はいずれかにいる。そして知るのは得られぬ望み。しかし諦めるでない。悠久の古都。そこに至れば願いは叶うだろう』
ルナファレフは創造の魔女の所在。
その問いに返された言葉は、
『彼の魔女の願い、この世のいずれにも存在しない。だが、同時に何処にでも彼の魔女の願いは存在する。願いが集う幻の地に、魔女は居座っている』
ジントニックは自分の身体に彫られた刺青の消す方法。
その問いに返された言葉は、
『ぬしの求めるものは、あの童の求めるであろう地にある。それは皆が目指す地に同意。望むものが叶うと謳われる今はなき楽園に、その蝕みを消す御力が眠るはず』
誰もがあの老女の言葉に反論する言葉を失っていた。あの老女に、自分たちは探し物があるとだけ告げたのだ。すると老女は自分たちの告げていない部分まで読み解き、それに対する返答を口にしていた。
狐につままれた気分だった。
そして皆に返された話の内容に、一つ共通するものがあった。
誰もが一度は耳にしたことがある名であり、冒険者やトレジャーハンター、それに遺跡探査者を始めとし、多くの国々がこぞって探す誰も見つけられない伝承の都の名が。
「これでもし、イサがその地の名を口にするのなら……」
全てが偶然かは分からない。だが何処か確証があった。
全ての答えは、あの幻の地にあるのだと……。
そこに立つ四人誰もが、同じ名を心の中で思ったのだろう。
――ファンタズマゴリア……と。
◆
部屋の中に入り、伊爽は水晶を乗せたテーブルを隔てた向こうに立つ老女に目を向けた。その老女と目が合う。
「来たか童。さあ、そこに立て」
「あ……はい」
伊爽は素直に老女の言葉に従い、老女と対峙するようにテーブルの手前に立った。
すると老女は、伊爽が何かを言うよりも先に口を開き、言葉を発した。
「お前さんの願いは分かっておる。白い花の正体であろう?」
伊爽は老女の問いに何も答えなかった。この手の占いというのは相手の反応を見て言葉を選ぶものがあると知っている。
だからあえて何も答えず、何も言わず、伊爽は老女の言葉だけを待つ。
「お前さんは気づいているだろうが、私はね、今の人間がずっと捜し求めている王国の人間さ。すでに齢五千はいっている、彼の地――ファンタズマゴリアの魔術師だ」
やはり、と伊爽は心の中で呟いた。そうでなければ、あの遺跡で起動した魔術のつじつまが合わない。あの魔術はファンタズマゴリアの人間しか知らない、特殊な術法だと昔祖父に教わっている。
そんな伊爽の内心を読み取ってか、アレリアは伊爽を見上げて苦笑した。
「すまないね。お前さんを試したんだよ。お前さんが、本当にその剣を持つに相応しい人間なのか。そしてあの御方を託していい存在なのかを……ね」
「あの御方?」
そこで初めて伊爽は口を開いた。彼女の問いにはすでに占いとは関係ない、謝罪であり、同時に納得したような言葉が混じっていたからだ。
伊爽の問いに、アレリアは静かに頷いて見せた。
「そう、あの御方。お前さんの探し人だよ。白い花の咲くところ、必ずあの方はおられる。私には見えているがね。普通の人間には見えないんだよ」
その声音は哀愁に似た何か宿っていた。その見えざる存在に対して敬意を持ち、それ故にその存在の運命を嘆くように、哀しさと寂しさ、そして不憫さが篭もる声音。
アレリアの瞳が伊爽を見る。
「だがお前さんは感じることができる。そして何より、お前さんは選ばれた。あの御方に、そしてその剣に。我らの総意を継ぐ者。それが主だと私は確信した」
それはどういう意味か? そう伊爽が問うより早く、アレリアは微笑み、言葉を発した。
「だからこそ、私はこの命を費やしてでも、お前をあの御方に合わせると決めた」
アレリアがそういった刹那、伊爽の足元が淡い光を発して魔方陣を浮き上がらせる。魔方陣に標されている呪言配列は間違いなく魔術の呪文言語。即ち、ファンタズマゴリアの魔術によって創り上げられた魔方陣。
考えるよりも先に、伊爽はその魔方陣の危険性を察知し叫んだ。
「アレリア!?」
ただし、危険性があるのは伊爽ではなく、この魔術を行使しているアレリアのほう。
伊爽の言いたいことを見透かしたのか、予想していたのかは分からない。
叫ぶ伊爽に対し、アレリアは満面の笑みを浮かべ、恭しく伊爽にこうべを垂れた。
「我らの総意を継ぐ者、伊爽よ。あの御方を、おぬしに託す。だから、頼んだよ」
アレリアがそう言った刹那、伊爽の視界はまばゆい光に遮られ何も見えなくなり、その幻想的光に飲み込まれ、そして――
寸前まで眼前至っていたはずの伊爽の姿はすでにない。
それを見てアレリアはほっとしたように肩の力を抜いて――その場に膝をついた。
「……永遠様のことを……頼んだよ……ネロを継ぐ者……伊爽よ――」
その言葉を最後に、アレリアはその場に崩れ、目を閉じた。
その表情は微笑み、安らかなものだった。
◆
その空間を表現する言葉は何か? 伊爽は視界の先に広がうその空間を見て、知りえる限りの言葉を模索した。
無であり有。
無限にして有限。
何もなく、同時に何もかも存在しているそんな不可解な空間。
上下の概念もなく、立っているのか浮いているのかも分からない、無重力のようで重力を感じる空間。
矛盾の世界。そして同時にその矛盾こそが正しいと感じる世界。
時間という概念さえも存在せず、体感する時間が一秒とも一年とも差異がないとさえ思ってしまう世界。
何処までも続き、果ての見えない彼方。それとも果てはすぐそこにあり、ただ単に気づけないだけなのか。
その不可解な世界を見渡し、伊爽は誰にともなく呟いた。
「此処は……一体……」
「〝時の狭間〟です……」
声がした。誰のいなかったこの世界で、突如背後から誰かの声が。伊爽は反射的に振り返り、その声の主を見て――驚いた。
そこに立っているのは、あの遺跡でほんの一瞬だけ邂逅したあの儚げな少女。
腰まで伸びる灰銀色の髪と白い法衣。感じ間違えることのないこの気配。
あの花の気配と同じ気配。それは間違いなくこの少女のものだった。
「……君……は……」
なんと言葉を掛けていいのか分からず、伊爽は告げるべき言葉を捜して視線を彷徨わせる。
それと同瞬、少女が動いた。数歩伊爽に歩み寄り、伊爽の胸に飛び込む。
突然の出来事に困惑する伊爽を他所に、少女は伊爽の外套をぎゅっと摑み、顔を伊爽の胸に押し当てた。
辛うじて飛びついてきた少女を抱き留める伊爽。
「あ、あの――」
「……っと……えた」
伊爽が問うよりも早く、少女が何かを呟いたため、伊爽は唖然とした表情のまま抱き留めた少女を見下ろした。
「……っと……やっと会えた……」
震える少女の肩。その震えは何からくるものか? 哀しみか、喜びか、それは伊爽には分からない。
ただ今の伊爽に出来るのは、ただその少女を抱き締めるだけ。その震えが収まるまで、かすかに聞こえる嗚咽が収まるまで、腕の中にいる少女を抱き締めるだけだと、自然と悟った。
「ごめんなさい……その……取り乱してしまって」
しばらくののち、冷静さを取り戻した少女は赤面したままそう告げて伊爽に謝罪した。
そのあまりの恐縮ぶりを見ると、逆に伊爽のほうが申し訳なく感じてしまい、伊爽は両手を振って見せた。
「いや、別に気にしないから。だからそんな畏まらなくていいよ」
「そ、そうですか……」
そういって、少女はまたも申し訳なさそうに小さくなる。そんな少女の様子を見て、伊爽はどうしたものかと首を傾げて考えようとした。
「永遠……」
「え?」
不意に呟かれた少女の声に、伊爽は首を傾げて少女を見た。その少女は、真剣な眼差しで伊爽を見上げ、もう一度搾り出すようにその言葉を口にした。
「永遠……といいます。私の名前」
しばし目を瞬かせた後、伊爽は彼女の言った言葉の意味を理解して頷いた。
「あぁ、と、永遠ね。そうなんだ。あ、ボクの名前は――」
伊爽が自分の名を口にするよりも早く、少女は伊爽の言葉を遮って、
「知っています」
そう言った。
「え?」
「知っています。貴方の名前。伊爽という名前」
「あ、そうなんだ……でも、何で?」
当然の疑問だった。どうしてあったこともない少女が、自分の名を知っているのか。そんな伊爽の問いに、少女――永遠は意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
「ずっと、見ていましたから……貴方のことを」
いたずらを告白するような少女の笑み。だが、そこには何故か、小さな寂しさがあった。
その意味がすぐに理解できず伊爽は首を傾げたが、すぐに答えに至り、永遠に問う。
「じゃあ……あの花は……」
問い掛けではなく、それはやはり、確認だった。
一言が欲しかった。その少女の口から立った一言。伊爽が望む一言を、紡いで欲しかった。
そして、そんな伊爽の想いに答えるかのように、永遠は少しだけ逡巡したあと、その一言を継げた。
「はい……私です」
その一言だけでよかった。その一言が、明確な答えだった。たった一つの、答えだった。
伊爽は言葉を失い、呼吸することさえ忘れて視線をあちらこちらに彷徨わせた。
そしてその彷徨っていた視線は、やがて眼前の永遠に向けられる。
永遠の目は一心に伊爽を見つめ、伊爽の視線はその永遠の視線とぶつかる。
その少女の瞳を見て、伊爽は吐息を漏らした。
そして思う。
ああ、そうだ。
ボクはずっと探していた。
ずっとこの人を探していた。
この人に会いたくて、その声が聞きたくて、ボクはこの半年間、旅をし続けてきたのだ。
その想いが心に浸透する。
そして浸透した想いが、自然と伊爽に言葉を口にさせる。
「君に、会いたかった」
その一言。その一言だけでよかった。
伊爽の口から紡がれたその一言に、永遠は目を剥いて驚き表情を強張らせ、少しだけこうべを垂れて伊爽から顔を隠す。
肩が小刻みに震え、無音の空間に小さな嗚咽が木霊する。
そして、不意に永遠が、嗚咽の間隙を縫うように、小さく言葉を紡いだ。
「……ありが……とう」
伏せていた頭を上げて、視線をしっかりと伊爽の目線に合わせて。その灰銀色の双眸を涙でにじませながら、永遠は笑う。
「貴方が……私に気づいて……くれたから、私は、独りではなくなりました……」
頬を涙の筋が幾つも零れ伝い最中、永遠は嬉しそうに、幸せそうに笑んだ。
「だか……ら、ありがとうです」
「……永遠……」
そんな永遠に、伊爽は彼女の名を呟きながら何か伝えるべきか言葉を捜す。
その時だった。
足元から湧き上がる淡い光の奔流。その光の強さ、大きさが、少しずつ大きくなりながら伊爽を飲み込みだしたのは。
「時間……みたいですね」
「時間?」
永遠の呟きに、伊爽は首を傾げて問う。
永遠は伊爽の問いに頷き、言う。
「この空間――〝時の狭間〟は数多ある世界を隔てるために存在する空間です。そこは本来人間の至れる場所ではない。私はずっと昔にある理由で此処に放逐されていますが、そうでもない限りこの世界に人間はこれないのです。
それをアレリアが強力な魔術で貴方をほんの少しの間だけ送還した。そうすることで、私とあなたを一時的にめぐり合わせてくれたんです。自分の命を代償にしてまで……」
予想はしていたが、とわから告げられた現実はかなり厳しいものだった。
あの時発動した魔術方陣の魔法構築式。かすかにだが読み取れたその術法には、確かに自身の命を代償にする代償魔法の術式が組み込まれていた。
「どうして……そこまでして?」
アレリアの心情が理解できず、伊爽は困惑するように頭を抱えた。
そんな伊爽に、永遠は寂しそうな表情で言う。
「アレリアが言っていました。貴方は、全てを託せる人だと……」
伊爽は何と言っていいかわからず、かぶりを振ることしかできなかった。しかし光の奔流の強さが増し続けている事に気づき、慌てて伊爽は正面に立つ永遠を見た。
永遠は伊爽から数歩離れるように下がり、寂しさと哀しさの混じった、哀愁を纏ったまま伊爽に微笑んだ。
「……さようなら。そして、ありがとう……貴方と一時、こうして話せて、嬉しかった」
その頬を、涙が一筋伝った。
それを見て伊爽は手を伸ばす。
「永遠っ!」
その瞬間、立ち上る光の奔流の輝きが最高潮に達し、伊爽の視界を、そして伊爽を飲み込んだ。
「永遠っ!」
彼の――伊爽の声が耳朶を叩いた。
そしてそれはいつまでも木霊し、永遠の心の奥底にある琴線まで触れる。
再び訪れた静寂。
永劫の無。
刹那であり永遠である時が、再び訪れた〝時の狭間〟で、永遠は独りその場に泣き崩れる。
会えてよかった。
本当に良かった。
それなのに、心の奥から湧き上がるこの感情は何か?
「伊爽……伊爽……伊……爽……――――――――――――――」
心の奥から湧き上がる感情を何とか抑えようと、永遠は彼の名を幾度も口にした。
愛しい人の名を、幾度も、幾度も……。
誰にも知られることなく、その孤独な少女は静かに涙を流し続けた。
◆
伸ばした手が虚しく空を切った。
伸ばした手では何も摑めず、自分の無力さに打ちのめされながら理不尽に目の前のテーブルを叩いた。
「クソッ!!」
吐き出される怒号は誰に対してのものか。伊爽はただ自分の無力さを嘆き、苦渋を吐き出すように吼えた。
あれほど近くまで辿り着けて、それなのに何もできなかった自分。
その自分が恨めしく、無力な自分を殺したくなる。
自分の無力さを改めて痛感し、伊爽はテーブルに凭れ掛かるように膝をついた。
口から吐き出されるのは呪詛のような自分への罵り。意味のないことだと分かっていても、それを止めることができない。
こみ上げてくる衝動を抑えるように、伊爽は自分への罵声を繰り返す。
そんな事を繰り返し、どれほどの時間が過ぎただろう。一分だったかもしれないし、一時間だったのかもしれない。時間というものを忘れ、伊爽は自分を罵り続けていた。
その伊爽の視界に飛び込んだ、一枚のメモ。それはもう命が費え、冷たくなり動かなくなったアレリアの手に握られていた。
そしてその握られた手から辛うじて覗いた、「イサへ」という文字。
伊爽は慌ててアレリアに歩み寄り、その手に握られているメモを取った。
そこには伊爽にあてた伝言が標されていた。
――ファンタズマゴリアを探せ。そこに全てがある。
〝時の狭間〟に囚われしあの御方を解放してあげておくれ。
そなたに、全てを託す。
永遠様を、救ってあげておくれ。
アレリア=ウィガーハイツより
親愛なる伊爽=オーディネルへ
ファンタズマゴリアの魔術でのみ使われる呪文言語で記された、自身にあてられたメモ。
伊爽はメモから視線をアレリアに移す。すでに命の灯が消え、静かに永眠についている老女。その老女から託された想い。
自身の命を用いてまで、永遠と自分を廻り合わせた恩人の遺言。
伊爽は今なお胸の中で荒れ狂うものを吐き出すように息を吐き、そしてアレリアに一人、黙祷を捧げた。
「必ず……やり遂げてみせる……だから、安心して眠ってくれ。アレリア=ウィガーハイツ」
別れの言葉を告げ、伊爽は一人部屋を退出した。
残されたのは、安心したように、そして眠るような表情で椅子に腰掛ける老女だけが残された。
◆
「イサ!」
アレリアの見せの外に出た刹那、レイラが伊爽を見てすぐさま飛びついてきたのに驚きつつ、伊爽はレイラを受け止めながら首を捻った。
「どうしたんだいレイラ? そんなに慌てて」
「そんなに慌てて? じゃねぞコラっ!」
返答する代わりにジントニックが伊爽の頭を殴った。軽く殴った程度の力だったが、伊爽は顔を顰めながら咎めるようにジントニックを見据える。
「なんで殴るんだよ? ボク、なんか悪いことでもしたのかい?」
「心配をかけたのよぉ」
「は?」
ルナファレフの本当に心配そうな表情と声音に伊爽は分けが分からず首を傾げた。そのルナファレフの背後では、安堵と呆れの入り混じった表情のジィルバーンが立っていて、伊爽に歩み寄りながら口を開いた。
「疑問に思ったのなら背後を見ろ。全てが分かる」
ジィルバーンの言葉に更に首を傾げながら、伊爽は言われた通り振り返って、そして絶句した。
今し方出てきたアレリアの店は、入った時とはまったく別の、完全な廃屋と化していた。
その有様に驚愕し、呆然としたままの伊爽に向けて、ジィルバーンが更に言葉を続けた。
「お前が奥の部屋にいった後、我々はこの店を出たわけだが、それとほぼ同時に見せの奥から光が漏れてな。収まったらこうなっていた」
その説明だけで十分だった。この店は恐らく、アレリアの魔力であの姿を維持していたのだろう。そのアレリアの命が費えた今、店を保っていた魔力もなくなり、本来の時間によって風化した姿となったのだろう。
彼女と共にその命を終えた、一族の止まり木たる店。
止まり木の主は自分に全てを託したのだ。そう思うからこそ、伊爽は尚の事彼女の意思に報いらなければならない。
そして何より、あの少女を――永遠を助けたい。その意思は明確なものとなり、伊爽を動かした。
伊爽は抱きついたレイラを下ろし、皆を振り返って静かに口を開いた。
「ボクはこれから、ファンタズマゴリアを探します。ボクの求めるものはそこにある。だからボクは行きます」
刹那、四人が揃って目を剥いた。
伊爽はそんな皆の表情に疑問を覚えた。
ファンタズマゴリアといえば、多くの冒険者が捜し求め、そして誰一人とて見つけることのできない幻の地であり、今ではそんなところを表立って探そうとする人間はいない。そんなことを人前で明言すれば、笑い者になるのが落ちだ。
実際伊爽は、皆に笑われることを覚悟の上でそのことを告げたというのに、彼らの表情に浮かんだものはそういった人を馬鹿にするものではなく、純粋な驚きだったのだ。
思わず首を傾げようとした時、すぐ側に立っていたレイラが手を挙げ、伊爽を見上げて口を開いた。
「行く。伊爽と一緒。ファンタズマゴリアに」
「レイラ?」
眼窩の少女の発現に目を剥く伊爽の横で、ジントニックは唇の端を吊り上げながら笑い、片手を伊爽の肩に乗せ、もう片方の手を上げて見せた。
「俺もだな。この刺青消すには、もうそこを頼りにするしかないし」
「ニックも?」
それに続くように、ルナファレフが妖艶な笑みとは異なる素の微笑を浮かべながら右手を上げる。
「私も行くわ。あのお婆さんの言っていたことも気になるし、元々当てなんてないんだから。いっそ皆と行くわよ」
「ルナさんもですか?」
皆の予想外の発現に困惑する伊爽を見て肩を竦めながら、ジィルバーンは苦笑と共に一歩前に出て伊爽に言う。
「元々私はファンタズマゴリアを探しているのだ。だから……丁度いい。お前とはもうしばらく一緒させてもらうとしよう」
「ジ、ジィルさんまで……」
レイラの進言から次々と皆が便乗し、伊爽を囲むように笑みを浮かべている。
伊爽は皆の顔を順に見て、そして大きく安堵の息を吐いて笑った。
「そうですね。行く場所、目指す場所が一緒なら、皆で行ったほうがいいですよね」
伊爽の言葉に、四人が揃って頷いた。
伊爽はそれにもう一度笑みを返し、
「これからもよろしく。皆」
そう言った。
『こちらこそ』
四人が揃って言葉を返した。
伊爽が、レイラが、ジィルバーンが、ルナファレフが、ジントニックが揃って笑う。
楽しそうに、嬉しそうに笑いあう。
同じ旅路を歩む仲間と共に、その仲間が此処に集えたことに、誰にともなく感謝して。
そんな彼らの様子を、淡く光る白い一輪の花だけが見ていた。




