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02:同行者

 元々伊爽の住む村――ビリゼは、成人として認められる二十歳を迎える年齢になって初めて村を一人で出ることを許される風習があった。

 成人の儀を終えた若者たちはそこで始めて大人として認められ、村を出て見識を広めることを許される。

 といっても、ただ成人を迎えれば良い訳ではなく、村に住む老剣士エッジと、村長であるゲイルに認められた者だけが成人を迎えられるのだ。

 無論コレは村の男児限定で、女子にその制約は特になく、その大半は村仕事のいろはを覚えていればいいとされている。

 村から出たいと考えている者は皆昔からエッジの元で武術を教わり、また魔法の才能がある者は皆村長ゲイルの元で魔法の技術を教わる。そして一定の技量を習熟し、そうすることで成人の儀を受けることが認められるのだ。

 成人の儀とは村から出て外の世界を見たいと望む者は皆通らねばならない道とされていた。

 そんな中、伊爽だけは一人皆より二年早く成人の儀を受け、旅立つことを許された。

 無論これは伊爽の技量が他の者たちより卓越し、その上で伊爽自身が過信しておらず、常に精進し続けているという理由があるが、それ以上に彼の決意が物を言わせたのだ。

 村の人間の中でも秀でた才能を持った伊爽。だが、彼は特に村から出て世界を知ろうとはしていなかった。

 むしろ伊爽は生涯をこの村で終えるつもりでいた程だ。どれだけ実力があろうと、伊爽にとってそれは持て余すしかない才能でしかなかった。

 村の人間も皆伊爽が旅に出るなどと言い出すとは思っていなかった。

 そんな彼が突如村を出たいと言い出したことは、村一つを震撼させるほどのものだったのだ。

 誰もが皆驚き混乱した。

 十八年間一度だって村の外に興味を示さなかった少年が、いきなり旅に出たいと言い出したのだ。それも成人の儀を迎えるより前に。

 誰もが一度は伊爽を止めようとしたが、伊爽の決意は固く、誰一人として伊爽を説得することはできなかった。村長やエッジが認めたとなればなお更だった。

 この村で大半の政は村長であるゲイルと、この村一の剣士であるエッジが取り仕切っている。その二人が反対しない以上、村人が彼らの決定に意見することはできなかった。

 それに何より、村人が伊爽を説得する度に、彼は申し訳なさそうに、

「ごめん」

と言い、その次には決まって、

「それでも行かなきゃいけないんだ」

と真剣な表情で啖呵を切るのだ。誰にもそんな彼を止めることが出来ず、結局伊爽の旅立つ日、村の人間は笑顔で彼を見送った。

 そして見送られた伊爽は一人一緒に旅立った他の村から出た皆と別れて一人旅をしていた。

 そして世界を知った。その広大さを目にした。

 幾つかの村や街を渡り歩き、見識を広めながら旅をしていた。

 組合や酒場、情報屋を尋ね、何かと情報を集めた。

 その間に組合で仕事を請け負い、幾つかの遺跡探索や魔物討伐を行って旅費を稼いだりもした。

 剣の腕にも魔法の技術力にも自信があった伊爽は、それらの依頼を難なくこなした。だが同時に己の未熟さも痛感した。

 いくら稽古を積んでも、やはり稽古と本当の戦闘は違う。それを思い知った。

 稽古で一本取られた所で、結局それは木剣で叩かれただけであり、次がある。

 だが実戦はそうはいかない。

 魔物の爪、盗賊や夜盗の剣が当たれば怪我をするし、下手をすれば死ぬ。

 一瞬の判断。それを誤れば即座に死に繋がる。

 伊爽は旅をして初めてそれを知った。

 自身の住んでいた村は豊かで特に食べるものに困ることはなかった。

 だが、そうでない村や街もある。

 飢えた人間が街の片隅に転がり、嫌でも目を背けたくなるような情景もあった。

 飢えに大人も子供も関係なく、飢えた彼らは旅人である伊爽に物乞いした。しかしそんな飢えた人たち皆に物を与えることができるわけもなく、それらを見過ごさざるを得なかった。

 悪人や罪人が当たり前に蔓延る街がある。

 飢えた老若男女がいる村がある。

 生きるために子供でさえ人を殺して金品をせしめようとする。

 伊爽はそれらを時に退け、時に逃げて、時には殺すこともあった。

 そうしなければ自分が殺されていたかもしれないのだと分かっていても、割り切れることではなかった。たとえそれが、旅をする者にとって必要な行動であってもだ。

 だから伊爽はできるだけ殺さず、逃げることを選んでそれらの難を逃れつつ旅をした。

 地位の高い者が地位の低い者を見下すのが当たり前の街があれば、どちらも手を取り合って支えあう街もあった。

 時折獣の姿をした人や、背に翼を持つ人にも出会った。彼らが獣人、有翼人と呼ばれる種だということを知り、伊爽は初めてそれらの種族を見て知った。

 町や村を渡り歩き、色々な人に出会い、組合で仕ことを請け負い報酬を貰い、時に村人から依頼されて魔物を討伐したり、キャラバンの護衛をしたりもした。

 そうやって色々な人や街を、伊爽は見た。

 そうやって多くを知りながら、伊爽は白い花の真実を求めて旅を続けた。



 伊爽が故郷の村であるビリゼを旅立ってから二ヶ月が過ぎた。

 旅にも慣れ始め、組合や他の旅人と情報交換をして各地を歩き回っていた伊爽。

 そしてたまたま立ち寄った村の宿で、伊爽はレイラと出会った。



 その日伊爽は、前日村人から受けた依頼で魔物を斃して宿に一泊していた。その日は他の旅人もおらず、伊爽一人で貸し切りだった。

この村で唯一存在する温泉宿で、伊爽は宿の主に勧められるままその温泉に浸かっていた。貸し切りの上露天風呂。空を仰げばそこには晴れているおかげで満天の星空が存在し、疲れた伊爽の身体を存分に癒してくれた。

 その星空を仰ぎ見ながら、伊爽は一人ごちて小さく呟いた。

「もう二ヶ月になるんだな……それとも、まだ二ヶ月なのかなぁ~」

 ビリゼの村からだいぶ遠くまで来た気もするが、まだそう遠くない気もする。

 たった二ヶ月の間に、伊爽はあの村での生活と今を見比べ、自分がどれほど裕福な生活をしていたかを知った。

 特に食べるものに困ることもなく、魔物の脅威に怯えることもなかったあの頃と比べれば、どれほどの差があるか計り知れない。

 ビリゼと他の村や街を比べて見ても同じだった。

 あの村がどれほど平和で豊かだったのか、伊爽は村を出て初めて知った。

「爺さんが言うからどれ程のものかと思ってたけど……まさかこれほどだとは思ってなかったなぁ~」

 伊爽は祖父であるエッジから多くのことを教わっていた。

 言葉や歴史、薬草学や地層学、天候の予想術や幾つもの古代文字や古代語。普通に生きるにはまったくと言って良いほど必要のない知識ばかりだと村にいた頃は思っていたが、村を出て初めてその知識がどれほど重要なのかを知った。

『知識はあって困るものでない。あればあるほど良いし、いつか役に立つ時が来る。忘れるな伊爽。知識は多いほど良い。無駄な知識など何一つない。そのことを忘れるな』

 今になってやっと昔祖父に言われた言葉の意味を理解した。

 まったくその通りだ。知識は多いほど良い。特に旅をする人間にとっての知識はいわば最大の武器だ。

 ものの売買の際の交渉にしても、野宿の際の食料の調達にしても、遺跡の古代文字解読にしても、結局知識がものを言う。

 それを祖父はしっかりと熟知していた上で自分に教えてくれていたのなら、村に戻ってまず先に祖父に礼を言いたい。

 そう思わざるを得ないほど、伊爽は祖父に感謝した。

 気がつけば結構長い間風呂に浸かっていたらしく、身体が火照っていた。このままではのぼせてしまうと思い湯船から出ようとした伊爽の視界の隅にふと影が過ぎり、伊爽はその方向に視線を戻す。

 宿の二階。その一室のベランダ。

 そこに一人の少女が立っていて、空を見上げていた。

 身体のあちらこちらが包帯で覆われた少女は、先ほどの伊爽と同じように空を仰いでいた。

 薄い茶とも金とも見分けのつかない色をした髪が夜風に吹かれて揺れる様はとても人間のものとは思えず、伊爽は森か、または月の妖精か何かでないかと我が目を疑った。

 目を擦ってもう一度ベランダを見ると、そこには誰の姿もなかった。

 伊爽は小首を傾げ、見間違いだったのだろうかと首を捻った。



「あ!」

 温泉から出て廊下を歩いていた伊爽は、唐突にそんな声を上げた。

 端から見たら変人と見間違えられても可笑しくないほどに伊爽は目を剥いて口を開いたままその場に突っ立っているのだ。変人でなければ変質者だ。

 だが幸いにもこの宿には伊爽以外の客はいないため、そのような目で見られることはなかった。

 しかし伊爽にはそんなことはどうでもよいことだった。いや、変質者として見られるのは心外なのだが、それ以上に伊爽は目の前に佇む少女を見て驚いていた。

 先ほどベランダにいた、歳は十二歳前後のあの少女が、今は伊爽の目の前にいるのだ。

 だが、伊爽が驚いたのは少女が目の前にいるからではなかった。

 その少女は先ほどとは異なっていて、身体のあちらこちらを包んでいた包帯がない。その代わり包帯のあった部分の肌が剥き出しになり、その剥き出しの部分がまるで腐っているかのようにどす黒く変色していたのを見て、伊爽は思わず息を呑んだ。

 左目周囲の皮膚や右腕の肩からひじ辺りまでの皮膚。他にも左手からひじまで皮膚。右足首付近の皮膚。恐らく服の下の何処かも同じような状態なのだろう。

 伊爽はその有様に驚愕し、同時に畏怖してその場で全身を強張らせた。

 しかし少女のじっと見つめる視線と視線があったため、伊爽は我に返るや否やその少女に駆け寄った。

「ちょっ、君、大丈夫か!?」

 しゃがみ込んで少女に詰め寄り、その腐敗したかのような部分部分に目を向けた。

 そして伊爽の困惑していた表情が突如厳しいものに変化したのを、少女は見た。

「……これは……呪術か……何か?」

 その腐敗しているらしい部位から微かに嗅ぎ取れる、呪術でのみ発生する独特の魔力臭を感じ、伊爽は眉間にしわを寄せた。

 どうしてこんな幼い少女がこれほどの呪術を受けているのか?

 呪術にはあまり詳しくないが、闇の属性魔法を得意とする伊爽は他の属性魔法使いより呪術には詳しい。その持ち得る知識の中に、この少女が受けている呪術によく似た術が幾つか伊爽の記憶にはあった。

 【腐敗の手】と呼ばれる強力な呪術。

 その呪いを受けた人間は体の表面から徐々に腐り、やがてその呪いが全身を蝕み死に至らせる高位の呪術だ。

 どうしてそんな呪いをこの少女が受けているのか。その疑問は少女を探して現われた、この宿の経営者である彼女の両親によって打ち明けられた。

 少女の姿を見て脅えるでもなければ畏怖するわけでもなく、その身を案じた伊爽の姿を通りかかった彼女の両親が伊爽の部屋に尋ねてきたのだ。

 廊下で別れた少女を連れて現われた彼女の両親は、苦渋の表情で伊爽に語った。

「元々の原因は、娘ではなく私たちにありました」

 そう切り出した少女の両親。

二人は昔名の知れた魔法使いと剣士のコンビだったらしい。

 そんな二人がまだ婚礼もせず、冒険者として世界各地を転々としたいたある時、二人は組合の依頼でとある魔法使いの率いる盗賊団の討伐に当たったのだが、魔法使いだけあと一歩のところで取り逃したのだそうだ。

 その時魔法使いは呪詛を吐くように叫んだという。

『必ず貴様らに報いを受けてもらう!』

 なんともまあありきたりといえばありきたりな捨て台詞を吐いてその魔法使いは姿を消した。

 その後二人の身に何か不幸があったわけでもなく、肩透かしの気分だったそうだ。

 やがて歳月が過ぎて二人は結婚し、この村で宿を経営し始めた矢先のことだったらしい。

 生まれてきた少女の身体の一部が、黒く変色していた。魔法使いであった男のほうはそれがすぐに呪術であることを見抜き、そこで始めてあの魔法使いの言葉の意味を理解したとのことだ。

 だが時すでに遅く、その魔法使いの行方は杳として知れなかった。

 色々な治癒術士(ヒーラー)解呪術士(ディスペラー)の下を駆けずり回ったが、誰もが皆同じ回答を出した。その呪いは掛けた本人でなければ解呪することができず、結局放置するしかなかった。

 すでに二人には世界を歩き回るほどの力もなく、ただ奇跡を祈るしかなかった。

 結局そのまま十二年の歳月が過ぎ、呪いが進行したまま今に至る。

 そこまで話し終えた夫婦が顔を伏せる。伊爽は黙ってその話に耳を傾けるしかなかった。

 伊爽は内心で嘆息した。

 伊爽自身、決して自惚れるわけではない。

 自分で言うのもなんだが、天才なのだ。

 武術においてだけではなく、魔法に関しても伊爽は天才だった。

 他の人間は皆魔素を扱う段階から誰かを師ことして教わるものだが、伊爽は物心ついた頃からそんな領域を凌駕していた。

 それほどの才気がある。そんな伊爽だからこそ、この呪術は彼らが言う通り他の術者が解けるものではないと理解している。無論この夫婦だって理解しているだろう。

 なら、何故この夫婦は自分にこんな話をするのか? それが伊爽の疑問だった。

 そしてその答えはすぐに出た。

「頼みと言うのは他でもなく、この子を……貴方の旅に同行させてはもらえないでしょうか?」

 予想外の言葉に、伊爽は目を丸くして夫婦を凝視した。無論その表情に上段なんてものは微塵も垣間見えず、明らかに本気であることが見て取れた。

 だからこそ伊爽は本気で困惑した。

「ちょっ、ちょっと待ってください! 何を突前やぶから棒に……第一、何でボクなんですか!? いままでだって他にも旅人がいたでしょう?」

 そう。何故自分なのか分からなかった。

 明らかに弱そうで頼りなさそうな痩躯の自分にそんなことを頼むのか?

 自分などよりももっと頼りになりそうな屈強な旅人だってきっと今まで訪れていたいはずだ。この村は都市と年の間にある中継地点で、唯一宿のある村なのだ。多くの旅人が今まで利用してきたに違いない。

 それなのに、何故よりによって自分なのか。

「貴方は娘のあの姿を見て逃げなかった。それどころか駆け寄って娘の安否を問いていた。他の旅人は皆娘の姿を見るなり畏怖して宿を逃げ出して、誰一人として娘を心配してくれなかった」

(……とりあえず納得のいく理由ではあった)

「もしかして、今まで来た旅人皆で試してたんですか?」

 当然思い浮かぶ疑問に対しても、夫婦は偽ることなく答えた。

「はい。ただしいかにも危なそうな人や怪しい人などは避け、ぱっと見で預けて安心そうな印象を受けた人限定でしたが……」

 悪徳商法さながらだった。性質が悪いとしか言いようがない。

 思い返せば前の街で他の旅人が、

『あの村の宿にはやばいから近づくな!』

 と組合の酒場で誰かが言っていたのを思い出す。

(あれはこういうことだったのか……)

 確かにやばい宿だった。常用の『やばい』とはまた異なる意味ではあったが……。

 伊爽は宿主夫婦の図太さに呆れながら大きくため息をついた。

「ですけど、旅は危険だということは元々冒険者であった貴方たちが一番理解しているでしょう? 第一こんな小さな女の子連れ歩けるほど、ボクには余裕がないですよ」

 それは旅費や食費などだけではなく、旅に付き物である魔物や盗賊などのことも意味していった言葉なのだが、

「それなら大丈夫ですよ」

「そうですよ。レイラ、見せてあげなさい」

 男性のほうが意気揚々と言い、女性のほうは娘に何かを促がした。

 少女は無言で首肯した後、手を眼前に翳す。

 瞬間、伊爽は我が目を疑った。

 伊爽の目が捉えた、少女の収縮する膨大な量の魔素。一介の魔法使いだって、これほどの量の魔素を扱い制御するのに何十年もの修行が必要だろうというのに、この十二歳そこらの少女はいとも容易く制御しているではないか。

天才……という言葉で括れるものじゃない……よなぁ。

 伊爽は無意識のうちにかた唾を飲んで、いつでも反撃できるよう身構えるほどに……。

 少女の天性の才覚を目の当たりにし、全身が戦慄で震えているのを理解した。

「理解していただけたでしょうか? この子は生まれながら魔法の才能がある。それも並大抵では成しえないほどの才能を」

 夫婦の、かつて魔法使いであった男性のほうが告げる。

「この子には私の知りえる限りの魔法を伝授しています。ですが、やはり幼い子供一人旅に出たいと言われても心配でして」

「……って、この子が言ったんですか!?」

 伊爽が色々な意味で驚く。それと同時に、この夫婦が育児放棄しているわけではないことを知れて安心もする。

「はい。私たちがどれだけ反対しても、この子は頑として旅に出るの一点張りでして……ですからせめて誰かと一緒にと思っていたところに……」

「ボクが現われた……というわけですか」

 伊爽は苦笑しながら言葉を継ぎ、夫婦が鷹揚に頷いた。

 伊爽は少女を見る。

 少女もまた伊爽を見ていた。

 数瞬の沈黙が部屋を包んだ。

 その虚ろそうな瞳は真剣そのもので、伊爽に何かを訴えかけるような瞳だった。だからこそ、伊爽には彼女の決意を拒むことも、夫婦の願いを無碍にすることもできなかった。

 何より伊爽も人のことは言えない立場だ。親の反対を押し切ってまでして成人の儀を早め、旅に出た自分が、この少女の決意を否定することなどできるはずがない。

 伊爽は少女に歩み寄り、しゃがみ込んで視線の高さを合わせる。

「名前は?」

「……レイラ」

 名を答えた少女に、伊爽は厳しい表情で問い掛ける。

「レイラ。ボクはある目的があって旅をしている。一緒に行くのは構わないけど、もしかしたら君の旅が終わるより早くボクの旅が終わることも有り得る。

 それはボクが目的を達成してかもしれないし、途中で死んでしまうかもしれないし、どういった形で終わるか分からない。そのせいでレイラが怪我することだってあるかもしれないし、もしかしたら死ぬかもしれない。

 それでも、いいのかい?」

 伊爽のその問い掛けに、レイラは吸う瞬ためらいを見せた後目を閉じ、そしてゆっくりと開いて伊爽を見つめ、

「……それでも、いい。

 自分の身体、自分で治す。パパたちだけに頼れない。自分の身体のこと、自分で何とかする。ちゃんと直して、帰ってくる。

 今度はちゃんとした姿で、パパたちに会うから」

 決意の言葉が、その口から紡がれた。

 死ぬ気はない。

生きて帰る。

その決意も、同時にその口から連ねられた。

 その言葉に伊爽はにこりと笑んで見せ、頷いた。

「分かった」

 そう言って立ち上がり、伊爽は振り返って夫婦を見た。

 男性のほうは驚きのあまり目を丸くしてレイラを凝視し、女性のほうはレイラの言葉で目尻に涙を浮かべながら、震えながら必死に落涙を堪えていた。

 そんな二人に、伊爽は微笑を浮かべて言う。

「そちらでよろしいのであれば、ボクの旅に同行しても構いません。無論、安全は保障しませんが……」

「行く」

 答えたのは、他でもない旅に行くと進言し続けていたレイラだった。夫婦に問いたつもりが、保護者より先に答えるとは、それだけこの少女の決意が強いものだと言うことを啓示していた。

 夫婦は幾度も頭を下げて礼を言う。

 こうして伊爽の旅に、一人の、その上で魔法に長けた幼い少女という同行者ができた。



 そこまで思い出して、伊爽は小さく苦笑した。

 思えば、アレが最初の仲間との出会いだったのだ。

 読んでいた本を閉じながら、伊爽はすでにベッドで眠っている少女に目を向けた。

 すでに夜は更け始めており、レイラはすでにご就寝。幾度か寝返りを打ったらしく、毛布が肌蹴ているのを見て伊爽はそれを直しておく。

 この少女が、伊爽自身の最初の仲間なのだ。

 何処の冒険譚に、このような押さない少女を連れた旅人がいるのだろうか?

 そう疑問に思わざるを得ないほど、自分は変わり者の旅人だと自覚する。

 その後幾つかの町や村を通過したが、その都度誰もが子供をつれて歩く自分を訝しんで見ていた。

何故子供を連れているのか? そう尋ねてくる人も少なくはなかった。

 誰もが伊爽を奇妙なものを見る目で見た。そしてそんな伊爽について歩くレイラもまた、奇妙なものとして見られていた。

「……まぁ、ボク自身は気にしないけどね」

 そう呟きながら、伊爽は眠るレイラの頭を一撫でして再び椅子に腰掛けて本を開き、項をめくる。

 詩のような短い文章で綴られる叙こと詩。

 幼い頃から気に入り、このたびに出ると決めた時もこの本だけは持って出たほどの品。

 年季が入っている上、何百何千と読んだせいでボロボロになったその本に綴られる文面を、伊爽は静かに目を通しながら、自身の記憶を掘り起こし、そして思い出す……。



 レイラと出会ってから一月が過ぎた頃だろうか。

 伊爽は組合の依頼を受け、レイラを連れて森の中にあるという遺跡の調査を行っていた。

 その時だっただろう。伊爽とレイラがジィルバーンと出会い、そしてその遺跡奥でルナファレフに出会ったのは。



「あぁ~……多分此処だろうね。組合から受けた調査依頼の遺跡は」

「多分、そ、だよ」

 生い茂る木の枝と葉を払いながら、眼前に現われたこの樹林に満ちた森に分不相応な建造物を見て呟いた伊爽の言葉に、レイラは小さく肯定の意を称えた。

 外郭こそ岩を削って作ったものを偽造しているが、年月の風化のせいでそれらが所々欠けていて、そこから覗く機械器質の外装がその建造物の正体を示していた。

「これが、調査依頼の古代遺跡、か……」

 感慨深く、伊爽は誰に言うでもなく言葉を口にした。

 アレほど木々で覆われていたこの深い森のど真ん中。密集していた木々が嘘のようになくなっており、一つの別空間であるかのようにそこは切り開かれていた。

 まるで此処は隠された聖地であるかのように、木々の侵蝕を免れてその遺跡はその空間に鎮座していた。

 そこは広場のように開けており、水が張っている。見慣れた草食動物たちがその水に口をつけているのが見えた。どうやら此処は動物たちの憩いの場のようだ。

この巨大な遺跡さえなければ、動物たち以外誰も近づかないだろう。

開けた泉の真ん中に鎮座する古代の遺跡は、今なおその原形を留めたまま、嘗ての文明の栄光で近づく者たちを威圧する。

どう見ても場違いな建造物であるはずなのに、伊爽はなんとも言いがたい神々しさをその情景から感じた。

踏み入れてはいけない聖域。

そんな錯覚を覚えるほどに……。

「なにもこんな場所にこんなでかい建物創らんでもいいと思うんだけどなぁ。昔の人の考えることって、ホント分からないなぁ」

 そんな感覚からわざと逃れるように思ってもいないことを口にしながら、伊爽は乗っていた樹の根から降りて足首程度までしかない泉に踏み入る。それに続いてレイラも木の根から降りて泉に足を入れる。

 その泉の水をバシャバシャと音を立てながら進み、伊爽はぽっかりと口を開ける遺跡の入り口を目指す。

 その後ろをレイラが続く。

 やがて辿り着いた遺跡の入り口。その入り口に続く階段を前にして、不意に伊爽が歩みを止めた。

「レイラ、ストップだ」

「??」

 いきなりの伊爽の言葉に首を傾げながらも、レイラは伊爽の言葉に従って立ち止まる。それを気配だけで確認した伊爽は、片手を振り翳して小さく呪文を詠唱し、即座にその手を振り払う。

 伊爽の練り上げた魔力によって放たれた風刃呪文が疾走し、伊爽とレイラの前に存在する階段を駆け上る。

 ブチンという音が数度聞こえ、それと同時に階段と遺跡の入り口付近が爆音と共に炎を生む。

 それを見て驚くレイラを他所に、伊爽は小さく嘆息した。

「どうやら先客がいるみたいだね。ご丁寧に罠まで張ってる」

 口をヘの字にし、ムスッとした表情で伊爽が言った。しかしすぐに気を取り直したように表情を和らげ、

「気を付けていこう」

 そうレイラに言って歩き出し、遺跡の中に足を運ぶ。

 上下左右、目に映る物すべてが機械仕掛けで出来た古代遺跡の中は暗い。どうやら照明機能さえも含んで、遺跡の機能は死んでいるようだ。

 そのことを伊爽がレイラに伝えると、レイラは小さく呪文詠唱をして見せた後、虚空に光を発する魔力の玉を生み出した。

 照明の代わりとなる光属性魔法の初級魔法だ。

 本来なら松明を要する所だが、光属性の魔法を得意とするレイラがいればそれも不要となる。

「ありがとう」と礼を述べながら、伊爽はレイラを先導して遺跡の中を進む。

 見渡す限り、そこは何処をどう見ても変哲のない古代遺跡だった。

 しかし調査がまだ進んでいないらしく、遺跡の中は放置されていた年代に比例する量の埃で塗れていた。

 静寂の中、伊爽とレイラの足音だけが反響する。

 居心地が悪いことこの上ない。まるで牢獄の中のような嫌な静寂だった。そんな中で足音を響かせる伊爽とレイラはさながら囚人を監視する牢番か。それともこれから牢屋に運ばれる新たな囚人か。

 そんなことを考え出してしまった伊爽が、不意に足を止めて腰の剣に手を伸ばした。

 それを見て、レイラの表情の険しいものに変わった。伊爽が剣に手を伸ばしたということは、何らかの気配を感じたのだろう。そしてその何らかを要因に警戒していることを意味している。

 剣の柄を握りながら、伊爽が口を開いた。

「姿を見せてもらえませんかね? いるのは分かっていますから」

 返事はない。しかし伊爽は警戒を解かず、更に言葉を続けた。

「ボクは風の魔法が得意ですから、常に空気の変化を読んでるんですよ。だから人型の障害物があればそこに誰かいるというのが嫌でも分かります。気配を消すだけじゃあ、風の魔法使いは誤魔化せませよ」

「……なるほどな」

 今度は声が返ってきた。

 伊爽たちが立っている場所から少し先に行った所にある柱の影から現われる人影。

 奇妙な形をした槍を携えた、長身でメガネを掛けた男性。旅人や冒険者、トレジャーハンターなどと言うよりは、学者と言う言葉のほうがしっくりくる雰囲気をした男だった。

 その男が槍を構えつつ口を開く。

「貴様らは何者だ? 何故この遺跡に来た」

「人にモノを尋ねる場合は、まず自分から名乗るべきだと思いますよ」

 伊爽は剣から手を放さず、そう言葉を返した。

 伊爽の言葉に男は暫し思案するように伊爽を見据えた後、構えを解くことなく答えた。

「私はジィルバーン。職は考古学者だ。此処には遺跡調査で訪れている。次は貴様らの番だぞ」

 律儀に答えてくれた男に、伊爽は苦笑しながら頷いた。

「ボクは伊爽。この子はレイラと言います。此処には組合の依頼で調査に来たんですよ。依頼書もありますよ。見ますか?」

 最後のは冗談だった。無論嘘はついていない。依頼書もちゃんとレイラのぬいぐるみの中にしまってある。

 それでもなお疑わしげな表情をするジィルバーンを見て、伊爽は小さくため息をついた後剣から手を離し、敵意がないことを示す。

 それを見て信用したのか、ジィルバーンと名乗った男はやっと警戒を解いて槍の構えも解いた。

「済まない。てっきり遺跡荒らしの賊か何かと思ってな」

「子供と若造の二人がですか?」

「先ほど私の仕掛けた罠が発動した。それによって仲間がやられたと考えれば、否めんと思うぞ」

「なるほど」

 ジィルバーンの言葉にあっさりと納得する伊爽。その横ではレイラが感心したように頷いていた。

 そんな二人を見て、ジィルバーンはメガネを外して拭きながら問い掛けた。

「先ほど組合からの依頼で来たと言っていたが……それはつまり、この遺跡はまだ組合が調査していなかった、ということか?」

 レイラに光源の範囲を広めるように指示していた伊爽が、ジィルバーンの問いに頷いた。

「そうらしいです。ですからこうしてボクたちが調査に来たんですよ。依頼内容は『遺跡の最深部までの安全性の調査と、危険要因の排除』となってます」

「……そんな依頼を……たった二人でか?」

「はい。これまで色々な依頼をこなしてきましたからね。組合側も信用してくれたんでしょう。指名で依頼されましたよ」

 組合の依頼にも色々あり、危険性の高い依頼というのは時折組合側から指名されることがあるというのはジィルバーンも聞き及んでいたが、まさかこのようなまだ若い……というかどう見ても少年と子供の二人組に指名依頼があるというのには、ジィルバーンも驚愕した。

「一応受けた依頼は完璧にこなすようにしてますしね。腕にもそれなりの覚えはありますから。ボクも、それにレイラも」

「その少女も……なのか?」

 それは『依頼は二人名指しの指名なのか?』という意味で言ったジィルバーンの意図を伊爽は正確に受け取り頷いた。

「この依頼は、ボクとレイラの二人名指しのものですよ。彼女はああ見えて天才級の魔法使いですから。そうでもなければ、ボクだって旅の同行なんてさせませんよ」

 ジィルバーンは疑わしげにレイラを見る。すると視線に気づいたらしいレイラは、無言で片手を翳し、魔素を収縮して魔力を練り上げて見せた。

「ぬ……!」

 その練り上げられた魔力を見て、ジィルバーンは息を呑んだ。その横で伊爽が「ボクもアレを見た時は驚きました」と言う。ジィルバーンはレイラの魔法の腕を見て納得したらしく、恐縮したようにただ頷くだけだった。

「レイラ、行くよ」

 その後数回言葉を交わした後、不意に伊爽がその辺りを忙しなく、興味深げに歩き回っていたレイラに声を掛けた。レイラの足が止まり、即座に歩き出した伊爽の後に続く。

「……って、何処に行く気だ?」

 歩き出した伊爽の足は止まることなく歩き続け、顔だけを振り返らせて伊爽は言う。

「何処って、奥です、奥。ボクらは組合の依頼でこの遺跡の最深部まで行って、そこまでの安全調査と危険な何かがあった場合排除するために此処に来たんですから」

 にべもなく言う伊爽。そこで更に伊爽は、

「何ならジィルバーンさんも来ますか? 手伝ってくれるのでしたら後でボクが組合に掛け合って、特別報酬出してもらえるように交渉しますし」

 にこやかに言いながら、伊爽はレイラを引き連れどんどん奥に向かう。

 暫しの間ジィルバーンは逡巡したが、大きくため息をついた後伊爽たちの後を追った。

 そしてジィルバーンは、全てが終わった後で自分が伊爽のペースに飲まれていたことに気づくのだが、それはまた別の話である。



 遺跡に入ってから数時間が過ぎた頃、伊爽たちは遺跡の最奥に辿り着いた。

 そこは今まで歩いていた通路の数倍の広さがある大きな部屋だった。

 そして辿り着いたその部屋で、伊爽たちが見つけたもの。それは……

「女の人……ですよね」

「うん」

「……そのようだな」

 伊爽たちの目の前に存在する、ガラスで出来た棺。その中で眠る、銀髪の女性。歳は二十代前半程度の成人女性だ。何処か妖艶な雰囲気を纏った女性が、透明なガラスの棺の中で眠っていた。

「何でこんな所に? それも……その……裸で」

 伊爽は視線を逸らしながら呟いた。

 そう。妙齢の女性が、しかもスタイル抜群の美女が、何故か裸で棺の中に眠っていたのだ。

 伊爽は羞恥で視線を逸らしていた。

 レイラは気にも留めずその女性を見ていた。

 ジィルバーンは訝しげに女性を観察していた。

 そして不意にジィルバーンが声を上げた。

「そうか! この女性は恐らく人工生命体(ホムンクルス)だ!」

 ジィルバーンの口から出てきた単語に、レイラは首を傾げたが、伊爽は出来るだけ女性を見ないようにして棺をはさんで向かい側にいるジィルバーンに訊ねた。

「人工生命体って……『フラスコの中の命』とか『小さい人』とか呼ばれてる、あの人工生命体のことですか? 錬金術で有名な」

「そうだ。恐らく彼女はその人工生命体だろう……この遺跡は調べた結果かつて想造の魔女と云われた魔法使いの実験施設だというのが分かっている。恐らくその魔女が創り上げた人工生命体だろう」

「でもこの人……明らかに成人女性ですよ」

 ジィルバーンの言葉に、伊爽はにべもなく答えた。

 人工生命体とは手の平に乗る程度の小人サイズだと言われている。しかし目の前で眠っている人工生命体の女性は、どう見ても成人女性の体格をしている。

 それに対するジィルバーンの見解は、

「伝説の魔女の一人が創ったものだぞ。完全な人型を創っていても可笑しくはない」

「ホント?」

「本当だ! そんなに疑問に思うのなら本人に訊いてみればいいだろう?」

「どうやってですか?」

 伊爽のその問いは最もな意見だった。眠っている女性に何を訊けと言うのだろう。

「起こせばいいじゃないか?」

「どう、やって?」

 レイラの問いもまた、最もな意見だった。

 するとジィルバーンの表情が険しくなった。顎に手を当て、考えるようにして首を傾げる。

「う~む。棺を開けてみるべきだろうか?」

「どうやってですか?」

「うむ。近くに制御装置らしきものがない以上、普通の棺と同じようにして……だろうか?」

 言いながらもその場で考え込むジィルバーン。伊爽は呆れてため息をつき、肩をガックリと落とした。


 ――ギィィィ……


 それと同時に棺を開くような音がして、伊爽とジィルバーンがギョッとして棺を見た。

 そこには何でもないようにして棺を開けていたレイラがいた。驚いている二人を見上げ、「どうかしたの?」と言いたげに首を傾いでる。

「レイラ!?」

「なっ!?」

 二人が驚愕して目を剥いて声を上げたのとほぼ同時――

 甲高い警報音が部屋一杯に響き渡った。

 瞬時に伊爽とジィルバーンが各々の得物に手を伸ばした。

「レイラ! 罰として今日はピーマン食べること!」

 伊爽がそう叫びながら剣を抜いた。黒一色と僅かの白で装飾された剣身が暗闇の中で禍々しく光る。

「えー」

「『えー』じゃないでだろう!? 返事!」

「……はぁい」

「よろしい」

「良くないだろう!? 上から来るぞ!」

 二人の緊張感のないやり取りに横槍を入れるように、飛び退きながらジィルバーンが叫ぶ。伊爽はレイラの身体に手を回して摑み、ジィルバーンとは反対側に跳ぶ。

 その一瞬後、伊爽たちが立っていた位置を衝撃が駆け抜ける。

 三人がそれぞれ衝撃の来た方向に目を向けると、そこには二足で立った巨大な機械兵器が二つの巨大な銃口を伊爽たちに向けて立っていた。

「遺跡の守護兵器(ガーディアン)!?」

「見たことない型だな。恐らく此処独自に開発されたものだろう」

 伊爽が叫び、ジィルバーンが冷静に対象を分析する。レイラを離れた所に立たせて伊爽は剣を構えながら舌打ちする。

「どうやら此処の番人って奴みたいですね」

「そしてお宝はアレか……あの棺を開けたものを廃除するための物のようだな」

 そう呟きながらジィルバーンが床を蹴って疾走する。

 それに続くようにして伊爽も駆け出す。

 その伊爽の横を幾つもの光の束が雨あられと守護兵器目掛けて虚空を走った。

 光属性魔法階位第三位――《光の雨(レイ)》。

 降り注ぐ光の雨が次々と守護兵器目掛けて虚空を舞う。

 守護兵器がそれに即座に反応。機械仕掛けの足が伸縮し、横に飛ぶ。物凄い跳躍力を見せる守護兵器。

 寸前まで立っていた位置を無数の光の雨が穿つのを見ながら、伊爽は守護兵器を追う。

 伊爽より早く守護兵器に向かっていたジィルバーンはすでに守護兵器の眼前にまで辿り着いており、彼は手にする槍を地に突き立てて跳躍し、守護兵器の頭上を取る。

 そのまま自由落下に移行し、手にする槍を全力で振り被り、機械の装甲で覆われた守護兵器の身体に突き刺す。

 槍の穂先が装甲を突き破り、甲高い破砕音を響かせ、続いて紫電の迸る電音が連続する。

 守護兵器がその場で暴れ馬のように飛び跳ね胴体を振り回し、上に乗るジィルバーンを振り落とそうともがくが、槍を手にするジィルバーンはなかなか振り落ちず、同じ動作を繰り返す。

 そこに伊爽が飛び込む。

 手にする剣に練り上げた魔力を注ぎ、そのまま全速力で疾走し、体重を乗せて暴れる守護兵器に剣を突き刺す。

 暴れていた守護兵器の横腹を黒い剣の切っ先が穿ち、そのまま鍔近くまで突き刺さる。

 そこで伊爽が剣に込めていた魔力を解き放つ。

 込められていた魔力が爆ぜ、伊爽の意思に答えて魔法を発動する。

 剣身全体が蒼白く輝き、次の瞬間守護兵器が剣の突き刺さっている部分から凍り始めた。

「ジィルバーンさん!」

 伊爽の叫び声を聞いたジィルバーンは即座に槍を引き抜いて守護兵器の上から飛び降りる。

 その間も守護兵器の身体はどんどん凍りに覆われていき、やがてそれは全身に行き渡りその動きを封じる。

 伊爽は剣を引き抜いて飛び退くと、即座に構えたい期中の魔素を収縮させて魔力を錬り出す。

「レイラ!」

「いつでも」

 伊爽の考えを理解したレイラは即座に魔法詠唱に入る。

 伊爽も時同じくして詠唱に入る。

「《深き深淵よりなお深き 深層の炎帝

 我乞う汝の威光

 壮絶たる御力の再現

 天満の陽を暗ませる吾が怒り

 忌まわしき彼の身に その暗き魔の粛清を》」

「《闇の静寂を祓う 暁の瞬き

 天に封じしその力

 今一度我が手を持って地へと放とう

 魔を砕く 金色の光とならんことを》」

 二人の詠唱が同時に終わり、二人の魔力が同時に解き放たれて爆ぜる。

 闇属性魔法階位第二位下位――《深淵の闇炎(シャドウフレア)》。

 光属性魔法階位第二位下位――《天聖の陽炎(スターフレア)》。

 レイラの光と伊爽の闇。相反する力が成す二つの炎が守護兵器の頭上から降り堕ちる。

 白熱と黒炎の二重魔法を受けた守護兵器。その守護兵器を覆っていた蒼氷に走る無数の亀裂。それは刹那の内に守護兵器の全身を駆け巡り、二つの対色の炎が成す爆発によって木っ端微塵に砕け散った。

 氷点下の氷に叩き込まれた高温の熱によってとてつもない量の水蒸気が部屋全体を包む。

 それを見てジィルバーンは感心したように呟いた。

「考えたな……あの守護兵器そのものを凍らせて動きを封じ、そこに高熱の炎を叩き込む。冷えたガラスコップにお湯を入れれば割れるのと同じ原理か」

 ジィルバーンの呟きに、伊爽は剣を鞘に納めながら苦笑しつつ頷いた。

「まあそれに近いものですよ」

 言いながら歩み寄ってきたレイラの頭を「よくできました」と褒めながら伊爽は撫でる。

「って、レイラ。包帯解けてるよ」

「ふえ?」

 伊爽の何気ない呟きに、レイラは自分の右腕の包帯を掲げて見た。確かに伊爽の言う通り、そこを覆っていた包帯は解けていた。

 そして、それを見て驚愕したのはその包帯の下を知らないジィルバーンだった。

「……!」

 声にもならない悲鳴。ジィルバーンの瞳は、確かにレイラの包帯の下に隠されている、腐敗した皮膚を見たのだ。

「……そ、それは……」

 辛うじて搾り出せた言葉に、レイラは無表情に、伊爽は苦笑して口を開いた。

「これが、子のこの旅をしている理由です。呪いの一種でして、この呪術は掛けた本人でないと解呪できないものです。だからこの子は、その呪いをかけた魔法使いを探すために旅をしているんですよ。ボクはその保護者代理です」

 言いながら伊爽はレイラの包帯を付け直す。数度包帯を巻き直し、「コレで良し」と頷いて立ち上がる。

 そうしてジィルバーンを振り返り、

「それじゃあ改めて、あの棺の中の女性に話を訊きますか?」

 笑顔でジィルバーンを促がした――その時だった。

「ジィルバーンさん、後ろっ!?」

 伊爽が目を剥きながら叫んだ。

 ジィルバーンは反射的に振り返るが、レイラの包帯の事実を知ってショックを受けていたため、彼の反応は普段より半歩分遅れを取った。

 振り返ったジィルバーンの目に映ったのは、先ほど斃したはずの守護兵器。その守護兵器が殆ど壊れている状態でなお動き、まだ本体と繋がっていた左の機関銃をジィルバーン目掛けて構えていた。

 そしてその銃口が光る。

 殺られる。そうジィルバーンが死を直感した刹那だった。

 伊爽たちの間を縫うようにして光速で駆け抜けた一条の光の帯。

 その光は、今にでも銃弾を撃ち出そうとしていた守護兵器の銃ごとその守護兵器を飲み込んだ。

 それを見ていた伊爽は、目を剥いてその光の正体を把握した。

「雷属性魔法階位第一位下位――《天雷の槍(サンダースピア)》……!? どうしてそんな魔法が……」

 伊爽が爆発し大破する守護兵器から視線を逸らし、はっとして背後を振り返る。それにレイラとジィルバーンも続く。

 この部屋の中で、他にそのような芸当ができる人間がいるとすれば、彼女しかいない。先ほどまで棺の中で眠っていた、あの銀髪の女性。

 左手に不釣合いな鉄の甲爪を着けた彼女は棺から出てその棺に座り、足を組んで艶めかしい笑みを浮かべながら、片手を眼前に悠然と構えていた。

「うふふ、思わず助けちゃったけど……良かったのかしら?」

 妖艶な笑みで問う、銀髪の女性。

「良かた」

 レイラが女性の問いに淡々と答えた。

 対する女性は良かったと言わんばかりに吐息を漏らし、おもむろに立ち上がった。

「まあ、コレから出してくれたお礼というわけじゃないんだけどねぇ」

 クスクスと笑いながら素足でぺたぺたと床を歩き、三人の方に歩み寄ってくる、全裸の美女。

「……レイラ」

 赤面する伊爽が何を言いたいのか理解したらしく、レイラは頷いてぬいぐるみの口に手を入れた。

 ジィルバーンと女性が何をするのかと首を捻っているのを他所に、レイラはぬいぐるみの口から幾つかの服を取り出した。

 結構高そうな、女物の服。しかも成人女性用のもののようだ。以前知り合ったキャラバンから助けたお礼として受け取ったもの。近い内に何処かで売り払おうと思っていた伊爽だったが、思わぬ所で役に立ったと一人ごちる。

 ぬいぐるみから明らかに許容量を超えた物量がでてきたことに驚愕して目を剥いている序ルバーンと女性。

 その女性に、レイラは取り出した衣類を向け、

「着て」

 簡潔に告げた。

「……あら、ありがとう」

 女性のほうは戸惑いながらもにこりと微笑み、それを受け取って適当に自分で見繕い、渡された服を着た。

 法衣(ローブ)の幾つかを選んで、胸元が見える程度のものを着込む。下は短いスカートで、足には膝ほどまであるブーツを履いた。

 そして最後に、

「はい、これ」

 と言ってレイラが差し出したのは、昔から語り継がれる魔女そのものが好んで被る、唾広の三角帽だった。

「あら、良いわねコレ」

 女性のほうは嬉しそうに言ってそれを受け取り、意気揚々とそれを被った。

 こうして色気漂う美人魔女が一つ出来上がった。

 魔女の出で立ちをしたその女性は、にこりと微笑んだ後三人を見た。

「ありがとう。そういえばまだ名前を名乗ってなかったわね。

私はルナファレフ。ルナでいいわ。五千年ほど前に創造の魔女によって、月のカケラを材料に創られた人工生命体よ。覚えているこの記憶が正しければ、ね」

 ルナファレフと名乗った女性の自己紹介ののち、伊爽たちはそれぞれ名を名乗った。

「イサくんとレイナちゃん。それにジィルバーンね。コレも何かの縁。覚えておくわ」

 ニコニコと笑いながらルナファレフは言った。しかし不意にその表情を曇らせ、三人を見た。

「貴方たち。創造の魔女の居場所を知っているかしら?」

 そんな突拍子もない問いに、三人は揃って首を傾げた。イサとレイラに至っては、此処に来て初めて創造の魔女という名を聞いたほどだ。

「いや。彼女は今から二千年ほど前の目撃情報を最後にその消息を絶っている。今では何処にいるか、誰も知らないだろう」

 創造の魔女の名を知っていたジィルバーンは、知りえる情報を彼女に提供した。

 それを聞かされたルナファレフは、斬演奏に顔を顰めた。

「そう……分からないのか……」

 起こったように顔を顰める彼女を見て、ジィルバーンは暫し逡巡した後、おもむろにその口を開いた。

「もし良ければだが……何故創造の魔女の行方を知りたいのか、教えてくれないか?」

 それはイサも訊きたかったことだ。何故自身の創造主を探すのか。その理由は興味があった。

 するとルナファレフは躊躇することなく答えた。

「私があの魔女に会いたい理由は一つ。何故私を封印したのかの一点に尽きるわ。あの人は私を創り上げてすぐ、私に膨大な魔力と知識を与えて此処に封印したの。理由も話さず、いきなりのことだったわ。だから私は、その理由をあの人に訊きたいのよ。そのためにあの魔女に会いたいの」

 その話を聞いた伊爽は、なんとなくこの人は自分に似ていると思えた。

 伊爽自身も、何処にいるのか分からない誰かに会うために旅をしている。この人は自分を創り上げた人物を探したいと言っている。

 何処か親近感を覚えたのだ。

「まあ、仕方ないわね。あれから五千年近く経っていちゃあ、あの人だって姿を眩ますか隠居位するでしょうし……あてなく探すしかないのかしら?」

 ガックリと肩を落とすルナファレフを見て、伊爽は提案した。

「でしたら、ボクらと一緒に来ませんか? ルナさん。ボクらも人を探して旅をしている口ですから、良かったら一緒に。特に当てもないですけど、一人で旅するよりはいいと思うんですが?」

 伊爽の唐突な提案に、ルナファレフは目を剥いて言葉を返した。

「良いの? 私なんかが一緒で?」

「構いませんよ。先ほどの魔法の技量を見れば、むしろお願いしたいくらいですし。レイラもいいよね?」

 不意に言葉をふられたレイラは、特に逡巡することもなく頷いた。

 伊爽とレイラを交互に見た後、ルナファレフは小さく微笑んで頷いた。

「じゃあ、お願いしようかしら」

「はい」

 伊爽は微笑して頷いた。レイラも無言で首肯する。

「……あてがないわけでもないぞ」

 唐突に、今まで黙って成り行きを見守っていたジィルバーンが口を開いた。三人が揃ってジィルバーンを見た。

「ジィルバーンさん?」

 伊爽が目を剥きながら問うと、ス橋逡巡した後ジィルバーンが口を開いた。

「此処から西に、アシュミレという街があるのだが、そこに有名な占い師がいる。かなりの確率で当たるとの話でな。私も人探しをその占い師に依頼しようとその街に向かっていた途中、此処によったのだ。で、お前らと会った」

「ジィルバーンも人探しなの?」

「ああ、そうなるな」

 ルナファレフの問いに答えながら、ジィルバーンは伊爽を見た。

「どうだ? 乗ってみる気はないか?」

 その問いに、伊爽は意味あり気に笑った。

「構いませんよ。どうせ当てがない旅です。なら、少しでも手がかりになる話には乗りますよ」

 伊爽のその言葉に、ジィルバーンは小さく笑い、

「それと、私のことはジィルでいい。一緒に旅する以上、友好関係は成り立たせなければな」

 そう言ってジィルバーンは手を差し出した。

「分かりました。ジィルさん」

 その手を伊爽は握り返した。

 こうして、伊爽とレイラの旅に、ジィルバーンとルナファレフが加わることになった。



 考えれば考えるほど、奇妙な一行だ。

 痩躯の剣士に子供に考古学者に魔女姿の人工生命体。

 ぱっと見、楽団に見られても可笑しくないだろう。

「この世で最も奇妙な一団だよね。ボクたちは」

 更にそこに加わるのは、盗みに入った義賊。

 あれもまた、奇妙な出会いだった気がする。



 アシュミエを目指す伊爽たちは、アシュミエに向かう途中の街で組合の依頼を追え、その日は疲れを癒すべく宿に泊まっていた。

 そして夜も深けた頃、人の気配に気づいて伊爽が目を覚ますと、部屋の隅に置いておいた荷物を物色する人影が目に飛び込んだ。

 伊爽はできる限り気配を消し、ベッドの横に立てかけてある剣を手に取りベッドから静かに降りる。

 見れば他のベッドで眠っていたジィルバーンとルナファレフも目だけ開けて、荷物を物色している人影を見ていた。

 三人は悟られぬように頷き、次の瞬間荷物を物色している人影目掛け、一斉に飛び掛った。

 伊爽とジィルバーンが挟むようにして人影の横に立ち、各々の得物を突きつける。

 更に背後からルナファレフが飛び蹴りを決め、その人影が悲鳴を上げながら床に倒れた。悲鳴からして、どうやらこの賊は男のようだ。

 伊爽が即座に束縛の呪文を唱え、魔力の束でその賊の動きを戒める。

「うわっ! 何だコレ? 動けねぇぞ!?」

 男は悲鳴を上げながらどうにかしてその束縛から逃れようとしているが、かなりの魔力で創り出した束縛(バインド)はそう簡単に破ることはできない。

 ジィルバーンは立ち上がって部屋の明かりを着ける。

 明かりの灯った部屋の中に、この部屋にいるはずのないその男の姿が浮かび上がった。

 明るめの色をした髪を後ろで束ねた、伊爽とそう大差なさそうな年層の少年が、そこには寝転がっていた。

 少年はばつが悪そうに顔を顰めた。



「で、どうします? 彼」

 そう誰に言うでもなく呟いた伊爽の言葉に、ジィルバーンはにべもなく、

「役所に連れて行くのが道理だろう。盗みに入ったんだ。それが妥当と言うものだろう?」

 そう言った。

 当然抗議するのは、その盗みに入った彼――ジントニックと名乗った少年だった。

「ま、待ってくれよ! 役所だけはごめんだ! 後生だから見逃してくれ!」

 必死の形相で訴える少年を見て、伊爽は型を上下させて、

「……なんて言ってますよ」

「駄目だな」

 ジィルバーンが即答した。するとジントニックはそれはもう必死に、哀願するように訴えてる。

「頼む! 役所なんかに入れられたら、俺は間違いなく死んじまう!」

「何を戯けたことを……」

「嘘、違う」

 盗賊少年の訴えを一蹴しようとしたジィルバーンの言葉を、眠そうな表情のレイラが遮った。唐突なレイラの言葉に首を捻ったジィルバーンに、レイラはジントニックの腕や首に彫られた刺青を指差して、

「これ……そういう呪い」

「呪い……だと?」

 なおも疑わしげに首を傾げるジィルバーン。そこにルナファレフも加わって言った。

「多分この坊やの言ってることは本当よ。それにレイラちゃんの言っていることも。この坊やの身体に描かれている紋章……私のみ間違いでなければ《見返りの紋章》よ」

 ルナファレフの口から告げられた名詞を聞いて、伊爽が問う。

「《見返りの紋章》って、あの紋章が彫られている人間に何らかの力を与える代わりに、代価を求めるっていう、あの紋章のことですか?」

「そうよイサくん。その紋章よ。しかもこの子に彫られている紋章は、とっくの昔に滅んだといわれている術法――《血喰の紋章》よ」

 ルナファレフの説明によると、《血喰の紋章》とは彫られている人間に常人を逸した力を与える代償に、定期的に魔物の血を与えないと紋章を彫られている者を殺すという凶悪な紋章だという。

 その周期は大体七日。それを超えると彫られているジントニックが死ぬことになるという。

「盗みの刑期って確か最低十日ですよね。バリバリ死ねますよ」

 あっけらかんと伊爽が苦笑しながら言う。当然といえば当然だが、牢屋の中で血に飢えた紋章にジントニックは殺されることにある。それが分かっているからこそ、ジントニックは笑う伊爽に声を荒げて訴えた。

「笑いことじゃねぇ!」

「しかし自分で彫った紋章だろう? 自業自得ではないか?」

「誰が好き好んでこんな物彫るか!」

「違うのか?」

 疑わしげにジントニックを見下すジィルバーン。

「当たり前だっつーの! 俺は騙されたんだよ!」

 彼曰く、数年前とある魔法使いの罠に掛かって眠らされ、気がついたらすでにこの紋章を彫られた後だったという。

 そして行方を晦ました魔法使いを探し続け、先日その魔法使いの行方を摑んだ時にはすでに遅く、その魔法使いは死んでいたという。

「だから俺はアシュミエにいるっていう占い師に、この紋章を消す方法を占ってもらおうと旅してたんだが、運悪く路銀を落としちまって……。で、丁度その時組合でデカイ仕事を終えた連中を見つけたんだよ……」

「それが私たちだったというわけか……」

 ジィルバーンは呆れ果ててため息をついていた。その隣で伊爽は苦笑するしかなかった。

 ジントニック。知る人ぞ知る義賊で、悪名名高い富豪たちから金品を盗み、貧しい人たちに配ったり本来の持ち主の所に持っていくという何時代の怪盗だと言いたくなるような存在。

 同時にトレジャーハンターとしても有名で、戦闘のスペシャリストとしても知られる彼。組合でも結構名の通った人物が、まさか路銀に困って盗みを働くとは……。

「そういえばこの坊や、今アシュミエの占い師の所に行くって言っていなかったかしら?」

 ルナファレフの言葉に、ジィルバーンの表情が引き攣った。そして、そこに追い討ちをかけるのは、

「言った。アシュミエの、占い師って」

 レイラだった。

 ジィルバーンの表情は更に険しいものに変わる。

 伊爽はため息をついてジィルバーンに言う。

「どうします? あのジントニックですよ。多分独自の情報網を持っていると思いますが?」

 伊爽の呟きに、ジントニックはきょとんとした表情で、

「そりゃ一応盗賊だからな。そっちの連中専用の情報網はあるぞ。それがどうかしたのか?」

 悪気のない一言だった。

 ぐぐぐと唸るジィルバーンを宥めながら、伊爽は何とか言葉を発する。

「戦闘のスペシャリストとして組合にも顔が利く。これって結構お買い得ですよ? それに牢屋に入れば死んでしまうんですよ? ここは恩を売ると思って……だからジィルさん、落ち着いてください!」

 今にも自分の中に生まれた葛藤で叫びだしそうなジィルバーンを必死で抑えながら、伊爽はその夜一杯を費やし、朝昼晩の三食と、村や街にいる場合は寝床を提供する。今回の件は見逃す。その代価として力を貸してくれないか? とジントニックに交渉を申し込むと、ジントニックは意気揚々と歓喜してその提案を受け入れた。

 こうして盗みに入った飢えた義賊が、伊爽たちの旅に加わることになった。



「あの時は、本当に大変だった……」

 思い出して深くため息をつく伊爽。あの時のジィルバーンを説得するのには本当に手間がかかった。

 昔そういった賊と何かあったのだろうか? と今更ながら疑問に思う伊爽。

 窓の外を見る。

 月はすでに頂点を通り過ぎ、傾き始めていた。どうやらかなり長い間、伊爽は過去を回想していたようだ。

 手にしていた叙こと詩を閉じ、伊爽はそれを鞄にしまって自らも床に就くことにした。

 横になり、毛布を被る。

 ふともう一度窓の外に目を向けると、そこにはやはり、あの白い花が一輪咲いていた。

 その鼻を見つめながら、伊爽は微笑して目を閉じた。



 ――ボクの側に立つ貴方。

 貴方は一体、何者なのだろう?




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