00:時の狭間の少女
――ファンタズマゴリア
それは遥か古の時代に存在したとされる悠久の王国。
しかしてその栄光、一夜にて絶える。
双子の騎士――私欲に走る白き騎士は、暴徒を従え白き魔剣を掲げた。
双子の騎士――忠義に篤き黒き騎士は、国兵を従え黒き神剣を振るう。
己の国の、秘められし力を鑑みし国主は、
愛姫を贄として、御国を現世から幽世へと封ずる。
その国の名はファンタズマゴリア。
永劫の時を彷徨い続ける、幻の都なり――
エンドリスム=イヴ=ノクターナルルス
『交響想歌』 第七章十九節より
◆
長い長い時の中。それこそ時間という概念を忘れてしまうほどの長い時を、私は此処で過ごしている。
此処に来ていったいどれ程の時が流れただろうか?
それすらももう覚えていない。自分が何故こんなところにいるのかさえ、すでに私は忘れていた。
永劫とも言える時間が過ぎた。
私という存在さえうろ覚えになる中、何もすることなくこの不確かな世界を漂い、孤独のまま生き続ける。
何故こんな場所にいるのか? そんな考えはとうの昔に消えていた。
ただこの場所がどの世界にも属さない、幾億満も存在する世界の狭間だということだけは知っている。
〝時の狭間〟
それが私のいる世界の名。
永遠。
それが私の名前。
覚えているのはそれだけだった。
後は全てがおぼろげで。知っている人の名前だって指折りほどで。
音のない世界。そんな世界で鳴る音は、私の首から下げられた時計の針の音だけ。
孤独にはとうの昔に慣れていた。
何も望まず、何も考えず、何も思わず……。
そうすれば何も感じなくなるから。
喜びも悲しみも怒りも孤独感も何も感じず、ただ人形のように静かにこの空間に漂っていればそれでいい。
それこそが私。
それでも私は寂しさを感じ、哀しさを感じ、そして孤独を思い知る。
そうなった時、私はこの世界の窓を開く。
〝時の狭間〟は数多の世界に繋がる世界と世界の境界線に存在する世界ゆえ、この〝時の狭間〟からは幾つもの世界を見ることができる。
時折人恋しくなった時、私はこうして世界を覗く。
時に暖かく、時に冷たく、時に優しく、時にはつらい光景が世界の窓から見える。
戦争をする世界。死に絶えた世界。人々が楽しそうに笑う世界。賑わう世界。哀しい世界。時には人の幸せな姿を。時には人の嘆き悲しむ姿を。
色々なものがその窓からは見えた。
私はそれを見ることだけが、この世界での唯一の娯楽となっていた。
時折この窓から外に出て、世界に出ることがある。
確かに世界に行くことはできる。でも、誰一人として私の姿を見ることはできなかった。それはつまり、私という存在をその世界が認識していないということだ。
それを思い知らされても、別段哀しくはなかった。
ただ、少しだけ寂しかった。
ふとある日、私は再び世界の窓を開いて世界を覗いた。
その日除いた光景は、何の変哲もない小高い丘。季節は春らしく、一面が花で覆われていた。
綺麗な景色だった。そう思って私はその世界をしばらく見続けた。自然と笑みがこぼれ、そのことに気づいて自分自身に驚いた。
笑い方などとっくの昔に忘れていたものだとばかり思っていたから、自然と笑みをこぼせたことが嬉しかった。
そうしている内に、見ている丘に一人の男の子が現われた。
年は十七から十八程度の男子。
黒く肩まで伸びている真っ直ぐな髪がやけに印象的だった。私は思わずその男の子を凝視した。
整った顔立ち。背丈は一七〇センテより少し高いくらいだろう。
その男の子は息を切らして丘の上まで駆け上ってきた。つまり、今世界の窓からこの世界を覗いている私のほうへ、彼は駆け寄ってきたのだ。
手には木製の剣を持っている。どうやら稽古か何かから逃げてきたのだろう。その男の子が、額を伝う汗を手で拭う。その仕草一つ一つが自然体であり、他者の目を奪うものだと私は思った。現に私はそんな彼の仕草に見入ってしまった。
いや、見惚れていたというべきだと思う。
「まったく、爺さんは手加減ってものを知らないのかな?」
どうやら彼は祖父と稽古をしていて逃げてきたらしい。
彼はもう一度汗を拭ってから空を仰ぎ、丘の花の中に倒れ込んだ。
「こんなにいい天気なんだし、稽古ばっかりはさすがにいやだなよなぁ」
う~んと背伸びをして、彼は大の字になって寝転がった。此処に至って私は始めて彼の呼び方がいつの間にか『男の子』から『彼』に変わっていることに気づき、困惑した。
「イサっ! 見つけたぞぉ~!」
遠くから誰かの叫ぶ声が聞こえた。老人の声だ。窓から声のした方に目を向けると。白髪の混じった黒髪の、体格のいい老人が木剣を片手にものすごい勢いで丘を駆け上ってくるのが見えた。
「うえっ!? もう見つかった!」
どうやら彼の先ほど呟いた爺さんとはあの老人のことらしい。では、先ほど老人の呟いたイサというのが彼の名前だろうか?
しかしそんなことを気にする間もなく、彼は立ち上がって駆け出して、あっと言う間に姿が見えなくなった。ものすごく速かった。
しかしそんな彼などよりも遥かに速い速度で老人が目の前を疾駆して行き、彼などよりも遥かに早く姿が掻き消えてしまった。
しばらくそのまま世界を覗いていると、彼が老人に引きずられて戻ってきた。
頭に大きなこぶができていて、彼は気を失っているのかピクリとも動かなかった。そんな彼の襟首を摑んで、老人がのっしのっしと熊のように行進して丘を登り、そして下っていって姿を消した。
その様子を見て、私はまた笑った。
楽しい人だな。
そう思って。
彼の名前は『伊爽』と言うらしい。変わった言葉で書かれた名前だった。
どうやら遥か昔の言葉で書かれた名前らしい。彼もその名前を書くことはできるが、面倒臭いらしく普段は『イサ』と書いている。
あれから私は彼のいる世界を幾度ものぞき見ていた。
と言うよりも、彼を見ていた。
無論節度はある。お風呂の時やトイレの時、着替えの時は覗かない。ただ、『たまたま』タイミングが悪く着替えの場面や『不可抗力』でお風呂の場面に出くわすこともあったけど、それは『たまたま』であり、『不可抗力』でしかないのだから仕方がない。
寝ている姿も一度だけ見たことがある。
一番多いのは家の手伝いをしている時と、稽古をしている時だった。
彼は祖父から剣を、村長から魔法を教わっていた。一生懸命に剣を振り、集中して魔法の詠唱を唱えていたり、その時の彼を、伊爽を見るのが好きだった。
気がつけば、私は彼に恋をしていた。
いけないと分かっていながら、この想いを抑えることはできなかった。
日に日に強くなる彼への想いは、自分でも信じられないものだった。
無理だということは分かっていた。住む世界から何から、全てが私と彼では異なるのだから、
世界に降り立っても、彼には私の姿など見えないのだから。
分かっていながら想いを消化することはできなかった。それどころか、それを理解してなお、私は彼を恋していた。
彼は見ての通り容姿もよく、気が効いて気さくで優しい。
当然といえば当然だが、彼の住む村の同世代の女の子の多くは彼に少なからず焦がれていた。その中でも彼の幼馴染みらしい少女は、一見しただけで分かるくらい彼を好いていた。
その子が彼といるのを見るだけで、言葉を交わしているのを見るだけで、私はむっとした。
嫉妬していた。
同時に憧れてもいた。
羨ましかった。
彼と普通に顔を合わせられることが。彼と言葉を交わせることが。彼と触れ合えることが。彼と、一緒にいられることが……。
私は言葉を交わすことも、顔を合わすこともできないから。
そう思うと、哀しくて仕方がなく、涙が止まらなかった。
それほどまでに、私は彼を愛していた。
彼を見つけ、彼に恋してから彼の住む世界で一年が過ぎた。
周期は一周して再び春。
私はすでに、伊爽のいる世界に降りるのが日課になっていた。
始めて出会ったあの丘に、彼は一人座っていた。
私は彼のすぐ側に降り立ち、彼を見つめる。そしてふとあることに気付いた。
彼の手に握られている一輪の花。
白い花弁の綺麗な花だ。
その花は私が世界に降り立った時、私の立ったところに必ず咲く、私がそこにいるという証の花だった。
どうして伊爽がその花を持っているのか私には分からず、困惑したままその場でオロオロしてしまう。
すると伊爽が何かに気付いたようにして急に私のほうを見た。
何かを探すように。誰かを探すように。
私は突然のことに驚いて目を向いて彼を見た。驚きのあまり身体が硬直してしまった。相手に見えているはずがないことは分かっているけど、それでも彼と目が合ってしまうと体が言うことを聞かなくなっていた。
「誰かいるのかい?」
今度こそ、私は絶句した。今彼は、間違いなく誰かいるのかと問いた。誰に彼が問いているのか? 私は振り返って他の人間の姿を探すが、そこには誰もいない。
やはり、彼に問われたのは私なのだろう。
しかし彼に私の声は届かない。それはずいぶん前から分かっていることだ。では、何故彼は私の存在に気づいているのだろう?
「イサ~」
そこに新たな声が割り込んでくる。この声は知っている。彼の幼馴染とかいう少女だ。確か名前はアイナ。
〝綺麗〟よりも〝可愛い〟の定義が合う少女だ。
彼のいるところに向かって彼女は丘を登ってくるのが見えた。手を振りながら伊爽の元へ駆けてくる姿は、なんとなく絵になる気がした。私よりも。
彼の元に辿り着いてから、アイナは小首を傾げて彼の手の中に握られる花を見て顔を顰めた。
「その花……」
「ああこれ? 綺麗だと思ってさ。それがどうかしたの?」
彼は手にしている花を見てから、険しい表情をしているアイナを見る。
「その花……村のみんなが気味悪がってる花だよ」
「どうしてさ? こんなに綺麗なのに」
「だってその花。どの季節にも咲くもの。それに咲くのは決まってイサの近く。変だと思わないの?」
話を聞いていた私は、どうしようもなく悲しくなった。
私が世界に下りたということを証明できる唯一の証。それを拒まれ、忌まれるということは、それこそ私が世界にほんの一時降りることさえ拒まれるのと同じだからだ。
「そうかい? ボクはこの花、好きだけど」
伏せていた顔が自然と上がり、視線は自然と伊爽に向けた。たったその一言が、これほど嬉しいことだとは思わなかった。
そんな伊爽の言葉に、アイナは非難がましくむっとして言う。
「何でさ? もしかしたら呪いの花かもしれないじゃん?」
「むしろ何で呪いの花になるのかボクには分からない」
「でも~」
「でももへったくれもあるもんか」
すでに彼の視線はアイナには向いておらず、向いているのは私の立っているほうだった。正確には、私の立っている足元に咲いている、私がこの世界に降りたという証の花を見ていた。
彼の視線を追ってアイナが同じく花を見つけ、顔を顰める。
「また咲いてる。気味悪いなぁ」
そんな彼女の声など、すでに彼には聞こえていないらしい。彼は私の足元に咲く花を見て深刻な顔をし、更に視線を私に向けた。
見えているの? そう問いたくなってしまうほど、彼の相貌はしっかりと私の目を捉えていた。
だけど私は何も言わず、ただ彼の相貌を見て返すだけ。
やがて彼はゆっくりと視線を逸らし、自らの頤に指を添えて考えるような仕草をしてみせる。
「イサ? どうしたのよ」
彼の様子に明らかな不信感を覚え、アイナが彼の顔を覗き込むようにして屈むが、彼は完全に無視していた。
む~と唸って彼女はその場で仁王立ちする。その間もイサは何かを考えるようにしてその場から動かない。
何を考えているの? 問うことは出来ないが、気にはなる。この人が今何を考え、何を思っているのか……。
「アイナ。師匠――ゲイルさんに、後で会いに行くって伝えておいて」
「え、ええ? 何で何で?」
「頼んだよ。ボクはこれから爺さんと父さんに話をしなきゃいけないから」
「ちょっ、イサ――」
「それじゃあ」
取り付く島もなく、伊爽は自分の要件だけを告げるとその場から風のように去っていった。残されたのは、私とアイナだけ。二人して呆然としたまま彼の走り去ったほうに目を向けている。
先に我に返った私は今なおわけの分からないまま呆然としているアイナに目を向けた。彼女は身を小刻みに震わせている。
そして次の瞬間、何を思ったのか声を上げて飛び上がった。
「これってもしかしてプロポーズ? 親御さんの承諾を貰うとかそういうやつなの!?」
なにやら自分に都合のいい解釈をしている。思わず私はむっとしてしまう。
「きゃぁーどうしょどうしよどうしよぅー……はっ! おじいちゃんに後でイサが会いに来るって伝えなきゃ」
何か一人で勝手に騒いで自己完結し、イサに頼まれた用ことを済ませるべく、彼女もまた村のほうに向かって駆けていった。
一人取り残された私は、しばらくその場でひとり考え込んだ。
先ほどのイサの表情を思い出す。あれは求愛とかそういうのとは違う、何かを真剣に考え、そして決意した表情ではないかと、私は予測した。
だけど、まさか彼があんなことを言い出すということを、この時の私は予想だにしていなかった。
日が傾く頃、彼は祖父のエッジと父の天先を連れて、村長宅を訪れていた。もちろん、私もその後ろに同行していた。
しかしこうしてみると、伊爽の家系は、どうも変わった名前の人間が多いみたい(と言っても、伊爽にしても天先さんにしても、兄弟はいないようだ)だった。
「師匠。お話があって参りました」
「……うむ」
何処か威圧感のある、うめきのような返ことが返ってきた。
白髪の混じり始めた、翠色の髪をした老齢の男――この村の村長、ゲイルさんだ。
伊爽を初めとした、この村の若者たちに魔法を教えている人物。かつて伊爽の祖父であるエッジと共に世界に名をはせたほど高名な魔法使いらしいけど、真偽は良く分からない。
分かるのは、この人の魔法の実力は相当なものだということだけ。
そんな人物が、先ほどの重圧的声音を一転させ、口元に微笑を浮かべて伊爽を見た。
「私に、話があるらしいな……イサ」
老人の問いに、彼は静かに頷いて見せた。そして視線を一瞬だけゲイルの隣に立つ少女に向ける。
彼の言いたいことを理解したのか、老人は頷いて見せ、視線を自身の孫であるアイナに向けた。
「アイナ。退室しなさい」
「え!? で、でも……」
「すぐに済むだろうから、お前は下がっていなさい」
祖父に言われ、アイナは渋々ながら客間から出て行った。でも、多分部屋の扉の前で聞き耳を立てているのだろうと、私はなんとなく思った。
多分、私も同じ立場なら同じことをしただろうからだ。
とりあえずアイナが部屋を出たのを見届けたゲイルさんは、視線を扉から彼へと移した。
「で……話とは、何だ?」
しかし、ゲイルの問いに答えたのは彼ではなく、彼の父である天先さんだった。しかも返答ではなく、自分の意見の主張だった。
「村長からも言ってやってください。こいつときたら――」
「待たぬかアマサキ。私はお前ではなく、イサに問いたのだ。イサの口から、こやつの話を聞きたい」
「は、はぁ……」
ゲイルさんの言葉に、天先さんは渋々ながら言葉を収めた。
一体彼が家で何を話したのか、私は知らない。あの後私は一度〝時の狭間〟に戻ったので、彼が二人に何を話したのかは一切知らないまま、私はここに来たのだから。
私は息を呑み、彼の言葉を待つ。
彼は父と祖父、そして村長の視線を一身に受けながら、静かに深呼吸した後口を開き、告げた。
「ボクに、村から出る許可をください」
ゲイルさんの顔に険しい何かが走ったのが、私には分かった。そして、エッジさんと天先さんが硬唾を飲んだのも……。
彼の目を見据え、ゲイルさんは彼を威圧しながら言葉を口にした。
「イサよ。自分の言っていることの意味が分かっているのか?」
「無論です」
「この村では、成人を迎え独り立ちできるようになるまで、村から出ることは禁じているのを知った上での発言だというのだな?」
「その通りです」
私は驚いた。この村にそんな掟があったなんて露にも思っていなかったということと、彼がそれを破ろうとしているということの両方に、私は驚愕を隠せなかった。
扉の向こうでガタンッいう音がした。おそらく聞き耳を立てていたアイナのものだろう。彼女も自分と同じように驚愕したのだろう。
老練の魔法使いは彼を見据える。彼の相貌をしっかりと覗き込んでいる。
彼の真意を探るように。彼の考えを読み解こうとするかのように。
「……理由を聞いて、良いかな? イサよ」
その問いに、彼は頷いて口を開いた。
「村長は、この一年でどこでも咲く花のことをご存知ですか?」
「知っている。村のあちらこちらに季節を無視して咲く白い花……あれを何とかできないかと相談に来る村人もおるくらいだからな」
一瞬だけ、彼の表情が曇った。
私も少しだけ気が重くなった。
どうにかする方法があるとすれば、それは私がもう此処に来なければいいのだ。そうすれば花が咲くことなどなくなる。
でも同時に、私はそんなことは出来ないと思った。
あの停滞と孤独のみしか存在しない世界。
私はいつもそこに孤独に存在する。
気がつけば私はそこにいた。
狂い惜しいほどの人恋しさ。それは今も変わることはない。
世界に降りたところで、誰も私を認識してくれない。
それはあの世界にいるのと同じことだから。
それが彼といる時だけは、少しだけ弱まることを私は覚えてしまった。
少しでもこの狂気を忘れたい。そう思うたびに、気がつけば私は彼の側に行くようになっていた。
それを止めることは、恐らく出来ない。
そう心の中で呟いていると、彼が言葉を発した。
「あの花は、ボクの居る場所に咲きます」
彼の言葉に、ゲイルさんが顔を顰めた。彼は構わず言葉を続ける。
「それと、あの花が咲く前に、ボクはいつも誰かの気配を感じます」
私は言葉を失った。
今、彼が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。
その間も、彼は言葉を続ける。周りが不審な顔をしても、気にすることなく言葉を続ける。
「誰かがボクの側に立って、ボクを見ているのが分かるんです。姿こそ見えないけど、確かに誰かがそこにいる。そしてその場所に、あの花が咲く」
そう言って、彼は私のほうに顔を向けた。
私が驚いて目を剥く中、全員が彼に習って私のほうを見た。
「現に今も、あの気配はそこにいます」
彼は断言した。
私は震えた。
驚愕と戸惑い、そして嬉しさと喜び、それとほんの少しの哀しさに震えた。
手で顔を覆い、溢れそうになる涙を必死に堪える。
「暖かくて、優しくて、それでもって、とても寂しそうな、誰かの気配」
彼は愛おしげに私のほうを向いたまま言葉を続ける。
三人の大人は、今なお何もない空間を見つめる彼に、ただ黙って視線を向けて。続きを促す。
「だからボクは知りたいんです。この一年の間、ずっと傍にいたこの気配は誰のものなのかを。どうして姿が見えないのかを。どうして、傍にいたのかを……」
そう告げられた彼の言葉。
それが私にとって、それほど嬉しいことなのか。
それを彼に伝えたくて仕方がなかった。
想いが胸の内で溢れる。
彼は私からゲイルさんに向き直り、頭を下げた。
「お願いします師匠。二年後の成人の儀なんて待ってられません。ボクは今すぐにでも此処から旅立って、この気配と花の正体を知りたい。そのために、世界へ出たい」
そう告げて、彼は頭を上げ、ゲイルさんの目をじっと見つめて、
「無理を承知でお願いします、師匠」
彼はそう言った。
場の空気がしんと静まる。
誰もが彼の言葉に反論できないでいるようだった。
彼の言葉には、それだけの重みがあったのかもしれない。
誰もが険しい表情で彼を見据えているが、彼は微塵も臆することなくゲイルさんを見据えていた。
どれだけの時間がたったか分からないほど静寂は続き、それはゲイルさんの吐き出したため息によって終わりを告げた。
ゲイルさんは目を閉じ、開くのと同時に苦笑を浮かべ、肩を竦めた。
「……負けたよ、イサ。わしの負けだ」
「村長!」
天先さんが声を上げるが、その隣でエッジさんが苦笑して彼を諌めた。
「アマサキよ、村長であるゲイルが良しと言ったんだ。もう取り消しは出来んよ」
「父上まで!」
「父さん」
どうにかして老人二人を説得しようとしている天先さんを、彼が呼び止めた。呼ばれて息子を見る父に、彼は告げる。
「ボクは何があっても村を出るよ。村長からの許可も出た。ならもう、誰もボクを止められやしない」
揺るがぬ意思を告げる彼の言葉に、天先さんは一瞬たじろく。その隙を彼は見逃さず、更に言葉でまくし立てる。
「ボクは村を出ると決めた。この気配が何なのかを知るために。いや……知らなきゃいけないんだ。そして会わなきゃいけないと思う。この気配の主に、ボクは会わなきゃいけないんだ」
彼はそう言って、父を見据えた。天先さんは何かい言いたげに必死に言葉を捜しているみたいだけど、言葉が見つからず、ついには諦めたように肩を落とし、
「……好きにしろ」
そう言って、屋敷を早々に出て行った。
彼は父の背を見送った後、祖父を見た。
エッジさんは何も言わず、にやっと笑んで見せた。
肯定の意だ。
彼は頷き、ゲイルさんに視線を戻す。
「今年の成人の儀に出るといい。皆にはわしから伝えておく。お前は来週の成人の儀に備えて準備するといい。よいなイサ」
「はい、師匠」
頷いて、彼は再び私に視線を向けた。正確には、私の立っている場所に咲いている花に。彼は私を証明する花を見て、微笑して呟いた。
「必ず……辿り着いてみせる」
先ほどから堪えていたものが、とうとう堪え切れなくない、私は小さく嗚咽を漏らしながら涙した。
嬉しくて嬉しくて、仕方がなくて、私は涙した。
だから私は、嗚咽を漏らしながら、彼に聞こえないことを承知で、部屋から出て行こうとする彼の背に呟いた。
「……ありがとう」
一瞬、彼が立ち止まって振り返った気がしたけど、それは歓喜のあまり私が勝手に見た幻だったのかもしれないと思った。




