明日もサーナイトと
サーナイトがポッ拳の格闘技で結果を出している一方、かつてのトレーナーは1配達員に過ぎなかった。
時間と共に心まで離れていって、かつての思い出の証も埃を被るようになってしまった。
サーナイトの稼ぎはトレーナーの何百倍で、まるでどちらが主人なのか分からない程だった。
それが何よりもトレーナーとサーナイトの距離を隔てる理由でもあった。
ある日、珍しくサーナイトが帰ってきて、久し振りに近況報告をしあった。
どこか物悲しげに見やるサーナイトに対して、もはやトレーナーですらない、配達員の男は彼女の目を見ることが出来なかった。
「サーナイトさん、お疲れ様です。」
『……!……サ…」
サーナイトは胸に手を当て静かに目を閉じる。
テレパシーで心が伝わってしまうからこそ、彼の気持ちに傷つけられたのだろう。
「あなたのお金は、この口座にあります。」
男は預かっていた預金通帳を手渡し、事務的に彼女に手渡した。
その実、男は醜い嫉妬を隠せずにいた。
サーナイトが他所のトレーナーの元で、メガ進化の輝きを放ち続ける一方、自身はメガストーンによる絆さえ結べない。
幼い頃から誰よりも、何よりも、サーナイトの側にいたのは俺なのに……
その気持ちがますます男を蝕んでいた。
『……ナー…、』
「それはあなたの物ですから、ご自身でお使いください」
サーナイトはめじりになみだをためている…
男は…重苦しく、零すように口を開いた。
「…どうして、俺じゃ駄目なんだ…あいつの所では笑っていたじゃないか…そんなに俺の事が嫌いなのか…」
『……、…、………』
サーナイトは首を振るばかりで応えてはくれない。
男はサーナイトを見やり、ぽつりと言った。
「全部視えてるくせに」
『!!!』
サーナイトは目を見開き、男を見つめた。
「俺が…ポケモンに興奮するヘンタイだからなんだろ」
『サナッ』
ドッ……男は無理やりサーナイトを押し倒し貪るように唇を奪った。
『……!……っ゙!ナ………、サナッ!!』パン
サーナイトは息を荒しながら男の頬を叩いた。
「サーナイトがいけないんだ…俺の気持ちを知っているのに!勝手に覗き見て!気持ち悪いから拒絶したんだ!!!」
『サッ!…、サ…ナ……』
サーナイトはなみだをながしている。
「俺が嫌なら、ヤドンの尻尾のように切ればいい…お前にはもう、新しいトレーナーがいるもんな…」
『………っ゙…ナ…ナ゛……、ザナ゛ぁ…』
「そんな目で!!そんな目でッ!オレを見るな!!」
サーナイトは泣きながら、口を強く引き絞り抵抗を辞めたらしい。
せめてもの償いなのだろうか、まるで貞淑な乙女が悪いドラゴンに攫われて食べられてしまうような、そんな幻想を男は抱いた。
抱いてしまった…。
「お前が悪いんだ…サーナイト」
〜〜〜〜〜〜〜〜
男は、震える手で自身の服を脱ぎ捨てた。
剥き出しになった執着と劣悪な感情が、狭いアパートの一室に充満する。
サーナイトは抵抗をやめたまま、ただ横たわっていた。その瞳から溢れる涙は、頬を伝って畳に染み込んでいく。彼女の持つ強大なサイコキネシスを使えば、目の前の男を吹き飛ばすことなど造作もないはずだった。ポッ拳のリングで数多の強敵を沈めてきたその力は、今、この瞬間も彼女の内に眠っている。
だが、彼女は指一本動かそうとしなかった。
「……ッ、何で黙ってるんだよ! 罵れよ! 気持ち悪いって言えよ!」
男は、彼女の細い肩を掴んで揺さぶった。暴力的な衝動の裏側で、彼は絶望していた。かつて共に野を駆け、傷つきながらも笑い合い、バトルの中で魂を一つに溶け合わせた日々。あの頃の自分たちは、間違いなく対等で、唯一無二のパートナーだった。
それが今や、自分は日銭を稼ぐだけの配達員で、彼女は世界のスポットライトを浴びる「スター」だ。
積み上がった通帳の数字が、埋めようのない溝を可視化する。
男が覆いかぶさると、サーナイトは小さく喉を鳴らした。それは拒絶ではなく、嗚咽に近い響きだった。
『……っ、……』
テレパシーを通じて、男の脳内にノイズのような感情が流れ込んでくる。
ドロドロとした嫉妬、自己嫌悪、そして——狂おしいほどの愛着。
男が「変態」だと自嘲したその歪んだ情愛さえも、彼女はすべて、最初から知っていた。知っていてなお、彼女はこの部屋に帰ってきたのだ。
「……あ……」
男の唇が、再び彼女の白い肌に触れようとしたその時。
サーナイトが、細い腕を伸ばして男の首に回した。
それは抵抗ではなく、縋るような抱擁だった。
『サ……ナ……』
彼女の心象風景が、男の意識を侵食する。
華やかなリングの上。眩すぎる照明。自分を「最強のポケモン」としてしか見ない新しいトレーナー。称賛の声。
そのどれもが、彼女にとっては空虚でしかなかった。
彼女が本当に求めていたのは、メガシンカの輝きでも、積み上がった賞金でもない。
埃を被ったメガストーンを大切に持っている、情けなくて、醜くて、それでも自分を「一匹の生身の存在」として愛してくれる、この男の体温だけだった。
「……お前、何を……」
男の目からも、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
彼女が泣いていたのは、彼を拒絶していたからではない。
自分の存在が、彼をここまで追い詰め、壊してしまったことへの悲痛なまでの悔恨。
男は、彼女の胸元に顔を埋めた。
かつて絆の証明だったメガストーンは、今はまだ机の隅で眠っている。
けれど、互いの肌を刺すようなこの歪な熱量だけが、今の二人を繋ぎ止める唯一の真実だった。
「……サーナイト……。俺を、許すなよ……」
掠れた声でそう呟きながら、男は彼女の心臓の鼓動を確かめるように、深く、重く、その身体を抱きしめた。
外では夜の街を走るトラックの音が遠くに聞こえる。
成功者であるサーナイトと、敗北者である元トレーナー。
そんな社会的境界が、夜の帳の中で、ドロドロとした情愛によって溶けて混ざり合っていった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
翌朝にはサーナイトの姿はなくかつての思い出の品と共に、卵が一つベッドに置かれていた。
サーナイトは二度と戻らない…男にはそう思えてしまった。
ポッ拳の世界で、何事も無かったかのように今も画面の向こう側で輝いている。
男はその後、仕事にも行かず卵を温ため続けた。
何日も、何週間も、何ヶ月も、サーナイトに対する懺悔と、後悔と、失ってから初めて気づいた与えられた愛を注ぎ続けた。
男の涙が卵に振り注ぎ、床には豪奢な模様を形作る。
どれだけの時間、どれだけの日々を彼はそこで過ごしたのだろう。
そしてある日、卵に亀裂が入り、世界でただ一つの新しい命が芽吹いた。
産まれた子供は、彼女と男の面影を両方引き継いだ、ポケモンと人の間の子だった。
男は、その娘を守ることを誓った。
その娘の胸にはサーナイトが置いていった、かつての思い出の輝きと、赤い宝石が生えていた。
そして男は、新しい命に贈り物をした。
「君は…サナだよ」
(俺が…、僕が、君を守るから。
大丈夫、怖くないよ、独りじゃないよ、サナ。
君を独りになんかしたりしない。)
「愛してるよ、サナ」
何も知らぬその娘は静かに笑い、男の指を握った。
それから男は死に物狂いで働いた。
この子が、独りにならないように、人とポケモンの間の子として差別を受けないように……
必死で、必死で、必死で……、命を燃やすように、サナの為に働いた。
まるでそれは祈るかのようだった。
男は、生きる理由を娘に押し付けていた。
彼女を守り、愛することで、いつか、いつか、サーナイトが帰ってきてくれる。
そう信じて…、サナを助手席に乗せて車は今日も走らせていた。
暮らしは貧しかった。
だが、男には喪った筈の温もりと笑顔が自然と戻っていた。
表情も柔らかくなり、まるで寝室に伏せられた彼女と映るトレーナーだったあの頃の自分のようだった。
サナはすくすくと育ち、たった1年で少女と言える姿にまで成長した。
やはり、サーナイトの血を引いているのもあるだろう。
『おとうさん、ポストになにかとどいてるよ』
茶色い封筒からは懐かしい、青草の薫りがした。
男は震える手で…その中身を開いた。
中には、通帳とカード、そして…モンスターボールの、サーナイトの譲渡契約書が入っていた。
男は咄嗟に懐に隠し、好奇心のまま覗き込もうとするサナをなだめて、家に入った。
その日は早くにサナを寝かしつけ、男は独り、テーブルで手紙に向き合っていた。
「………サーナイト…」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
男は、震える手でペンを握ったまま、深夜の食卓で動けずにいた。
目の前には、サーナイトの「譲渡契約書」。
これにサインをすれば、彼女は名実ともに自由の身となり、そして男との法的な、あるいはトレーナーとしての最後の細い糸がぷつりと切れる。
彼女が送ってきたのは、救いだった。
「これで自由になりなさい」「私の稼いだ金で、娘と二人、人並みの幸せを掴みなさい」という、あまりに聖女のような、残酷なまでの慈悲。
「……っ、ふざけるなよ……」
男の口から漏れたのは、感謝ではなく、呪詛に近い掠れた声だった。
彼女はどこまで正しいのだ。あの夜、獣のように彼女を汚し、尊厳を踏みにじった自分に対して、なぜこれほどの「正解」を突きつけてくるのか。
金があれば、サナに不自由はさせない。
この譲渡を受け入れれば、彼女を縛り付けていた過去という重荷を、男自身が取り除いてやれる。
それが彼女のためであり、サナのためであることは、痛いほど分かっていた。
だが、ペン先が紙に触れる直前で止まる。
(これを書いたら……俺たちの「絆」は、本当にただの紙切れになるのか?)
あのメガシンカの輝き。共に泥をすすりながら歩いた旅路。そして、あの最悪な夜の、肌を焼くような熱量。
罪も、汚れも、後悔も、すべてが男を形作る一部になっていた。
サインをすることは、彼女を赦すことではなく、彼女との「地獄」さえも手放すことのように思えてならなかった。
「嫌だ……」
男はペンを投げ捨て、頭を抱えた。
「消えてしまう。お前の残り香も、俺を恨んでいるかもしれないという淡い期待も、全部……綺麗な思い出として、精算されてしまう」
男は醜かった。
彼女に幸せになってほしいと願う一方で、自分を一生恨んでいてほしかった。自分を蔑む瞳で見ていてほしかった。
真っ白な契約書は、男のドロドロとした執着を拒絶するように、ただ冷たくそこにある。
ふと、隣の部屋からサナの寝息が聞こえた。
サーナイトの血を引き、人間として生きることを余儀なくされた、愛おしくも恐ろしい存在。
(俺は、この子のために正しくあるべきだ。父親として、まっとうな人間として、お前を自由にするべきなんだ……)
頭では理解している。それが「愛」なのだと。
けれど、男の心の奥底にある「トレーナー」だった残骸が、激しく拒絶する。
彼女を誰のものでもなくするということは、自分との繋がりを、完全に「過去」へと葬り去ることだ。
「……できない。まだ、できないんだ、サーナイト……」
男は契約書を裏返し、彼女から送られた通帳を強く握りしめた。
指の跡がつくほどに。
彼女の慈悲に甘え、金を受け取り、娘を育てる。それは男にとって、死よりも辛い屈辱であり、同時に彼女を感じ続けられる唯一の罰でもあった。
窓の外では、夜明け前の冷たい風が吹いている。
男は結局、その夜、サインをすることはできなかった。
彼女が待つ「輝きの向こう側」へ行くには、この契約書による解放ではなく、もっと別の、血を吐くような贖罪が必要なのだと、男は自分に言い聞かせるように、暗闇の中で瞳をぎらつかせた。
罪を背負ったまま、彼女を愛し続ける。
それが許されないことだと知りながら、男は今日も、彼女が残した「娘」という名の鎖を抱いて、泥濘の中を歩き続ける決意を固めるのだった。
〜〜〜〜〜
ある日の昼下がり、古びたアパートの前に不釣り合いなほど眩しい笑顔を浮かべた少女が立っていた。
腰まである栗色の髪をサイドポニーにまとめ、活動的なショートパンツに、数々のジムバッジが誇らしげに輝くバッグを提げている。
彼女の周りだけ、まるで絵本の世界から飛び出してきた主人公のような、濁りのない空気が流れていた。
「ここかな? ……あ、いた! すみませーん!」
男が配達の仕事から戻り、サナを助手席から降ろそうとした時、彼女は弾けるような声で駆け寄ってきた。
「あなたが、サーナイトの……元トレーナーさん、ですよね?」
男は息が止まるかと思った。彼女の瞳はあまりに純粋で、自身の内側にあるドロドロとした罪悪感を見透かされるような恐怖を覚えた。
「……君は?」
「あ、自己紹介が遅れました! アタシ、今サーナイトのパートナーをやってる、ハルっていいます! ポッ拳の大会でいつもお世話になってますっ!」
ハルと名乗った少女は、屈託のない笑顔で右手を差し出してきた。
男はその手を握ることができず、ただ立ち尽くす。
彼女の後ろには、サーナイトの姿はなかった。
「……彼女は、どうした。……連れてきてないのか」
「えへへ、今日は私一人なんです。彼女、最近すごくストイックで……『もっと強くならなきゃ』って、修行に出ちゃってて。でも、どうしても私があなたに会いたくて、内緒で来ちゃいました!」
ハルは男の傍らにいるサナに気づくと、パッと表情を輝かせた。
「似てる……」
男は凍りついた。
「キルリアにそっくり! かわいいなぁ!」
無邪気にサナの頭をなでるハル。
サナは少し戸惑いながらも、ハルカから溢れる春の日和のようなオーラに、自然と笑みを返していた。
「……何の用だ。金なら、もう送られてきた」
男は拒絶するように冷たく言い放った。
だが、ハルカは少しも怯まない。
彼女は真っ直ぐに男の目を見据えた。
「契約書、届きましたよね? サーナイト、テレパシーで伝えてきたんです。
『私はもう、あの人のポケモンじゃない。
でも、あの人との絆だけは、誰にも譲渡できないものだから』……って」
ハルカの言葉は、男の心臓を鋭く抉った。
「彼女、ポッ拳の試合でメガシンカする時、いつも悲しそうに笑うんです。
眩しい光の中で、誰かを探してるみたいに。
私じゃ、彼女の心の奥までは触れられない……
。だから、あなたに聞きに来たんです。
彼女が本当に守りたかったものって、何ですか?」
男は拳を握りしめた。
天使のような少女の問いかけは、悪意がないからこそ残酷だった。
自分が彼女を壊したこと。
自分への執着を逆手に取って、彼女の尊厳を奪ったこと。
その結果として、彼女は「自由」という名の孤独を選んだこと。
「……君のような光の中にいる人間には、分からないさ」
男はそれだけ言うと、サナの手を引いてアパートの階段を上ろうとした。
「私、諦めませんから!」
背後からハルの声が響く。
「サーナイトは、今でもあなたのことを……『私のトモダチ』だって言ってます! 契約書にサインしてもしなくても、あなたが彼女を愛しているなら、それは間違いじゃないはずです!」
男はその言葉を無視して、ドアを閉めた。
暗い部屋の中、男はサナを抱きしめ、壁に寄りかかってずるずると崩れ落ちた。
ハルの持っていた、あの眩しいほどの正義感と純粋さ。
それはかつて、自分がサーナイトと共に歩んでいた頃に持っていたはずのものだった。
外からは、ハルとサナの鈴のような声がまだ聞こえてくる。
男の手元にある、まだ白いままの譲渡契約書。
「トモダチ」という言葉が、呪いのように男の耳にこびりついて離れなかった。
〜〜〜〜〜〜〜
男は、背中でドアの鍵が閉まる音を聞きながら、サナを強く抱き寄せた。
腕の中のサナは、ハルが残していった「外の空気」を纏っていて、それが今の男には毒のように感じられた。
「おとうさん……いたいよ」
サナの小さな声に、男はハッとして力を緩めた。
だが、心臓の奥を掻きむしるような痛みは消えない。
「トモダチ」……サーナイトは、あの夜の出来事を、あの絶望的な裏切りを、そんな言葉で塗りつぶしてハルに伝えたのか。
『キルリアにそっくり!』
ハルの無邪気な声が脳内で反芻される。
彼女は何も知らない。この「サナ」という存在が、ポケモンと人の禁忌を犯して生まれた、呪いと愛の混血児であることを。男がかつて、力で彼女を組み伏せ、あられもない姿に変えてしまった事実を。
サーナイトは、ハルに対してすら「被害者」であることを隠し通し、男を「かつての親友」として守り続けていた。
それが、何よりも苦しい。
「……っ、ふざけるな、サーナイト。俺を、悪人のままにさせてくれよ」
男はテーブルに置かれた白い譲渡契約書を睨みつけた。
これにサインをすれば、彼女は男という過去から解放され、ハルのような輝かしいパートナーと共に、真っ当な「ポケモン」としての道を歩める。
だが、その時、自分と彼女を繋ぐものは完全に消失する。
『私のトモダチ。』
彼女がその言葉を選んだのは、赦しではない。
男が抱える「変態的」な情欲も、歪んだ独占欲も、すべてを包み込んで「無かったこと」にするための、彼女なりの究極の拒絶ではないのか。
あるいは、自分が遺していった娘・サナを守るために、男を「善き人」として繋ぎ止めておこうとする算段なのか。
「……全部、視えてるくせに……」
あの日、彼女を押し倒した時に吐き捨てた言葉が、今度はブーメランのように自分に突き刺さる。
彼女はすべてを知っていて、その上で、ハルという「光」を自分のもとへ差し向けた。
自分がサインできないことを、見越していたのかもしれない。
「おとうさん……泣かないで」
サナが男の頬に手を添えた。その手の温もりは、かつてメガシンカの光の中で感じた、魂の共鳴に酷く似ていた。
男はサナの首にかかった、埃を払ったばかりのメガストーンを見つめる。
(俺は、お前を愛している。……でも、それはサーナイトへの執着なのか、それとも、目の前の『サナ』という新しい命への責任なのか。)
分からなくなる。
ただ、ハルのような眩しい存在が近くにいたことで、自分たちが住むこの部屋の「淀み」がより一層浮き彫りになった。
男は、震える手でペンを手に取った。
譲渡契約書の署名欄。
ここに名前を書けば、自分はサナの父親として、ただの人間として、やり直せるのかもしれない。
だが、ペン先は紙に触れる直前で、激しく震えて止まった。
もしサインをしてしまったら。
いつか、サナが大きくなって真実を知った時。
「お父さんは、私のお母さんを紙切れ一枚で捨てたの?」と、その瞳で問われるのではないか。
男は、契約書をゆっくりと折り畳み、引き出しの奥深くへと押し込んだ。
今はまだ、サインはできない。
このドロドロとした後悔と、彼女への歪んだ情愛が、自分を「父親」として繋ぎ止めている唯一の錨なのだから。
「サナ……ごめんな。俺は、最低な男だ」
男は、サナを膝に乗せ、窓の外を見つめた。
夕闇が街を飲み込んでいく。
画面の向こう側、ハルの隣で戦うサーナイトは、今日も悲しげに笑っているのだろうか。
男は、彼女に届くはずのない謝罪を、喉の奥で何度も飲み込み続けた。
〜〜〜〜〜〜〜
時は残酷なまでに、そして恐ろしいほどに速く過ぎ去った。
サナは、たった数年で「少女」の姿を追い越し、思春期の娘と言っても差し支えない容姿へと変貌を遂げた。
サーナイトの血がもたらす成長スピードは、人間のそれを遥かに凌駕しているようだった。
彼女の髪は、あのサーナイトよりも少しだけ青みがかった深い緑色になり、その瞳は男のものと同じ、暗い熱を孕んだ色をしていた。
彼女が歩くたび、かつてサーナイトが放っていた青草の薫りではなく、どこか甘く、湿り気を帯びた花の香りがアパートの狭い廊下に漂う.
「お父さん、またその紙を見てるの?」
背後から声をかけられ、男は慌てて引き出しを閉めた
そこには、もう何年も黄ばんだままの「譲渡契約書」が眠っていた。
「……なんでもない。サナ、学校はどうだった」
男はあえて、彼女を「普通の人間」として扱うために、無理を言って籍を置いた通信制の学習拠点の話を振った。
だが、サナは答えず、男のすぐ後ろまで歩み寄った。
彼女の背丈はもう、男の肩を越えている。
サナは、男の首筋にそっと手を伸ばした。
その指先は驚くほど冷たく、けれど心臓を鷲掴みにされるような錯覚を男に与えた。
『ハルさんが言ってたよ。サーナイトは、世界で一番強いポケモンなんだって。
……ねえ、……お父さんはお母さんのこと、一度も話してくれないよね』
サナの声には、サーナイトが持っていたテレパシーのような響きが混じり始めていました。
言葉にしなくても、感情が直接脳内に流れ込んでくる。
男は、逃げるようにサナの手を振り払いました。
「……あいつは、もういない。俺を捨てて光の中に消えたんだ」
『嘘だよ。お父さんは、お母さんを恨んでるんじゃない。お母さんの中に、自分を見ているだけ」
サナの瞳が、男を射抜きます。
「サナ…お前…そう、そうか…、あ、あぁぁ……」
成長した彼女は、かつてのサーナイトが持っていた慈悲深い顔とは似ても似つかない、どこか残酷で、男を追い詰めるような笑みを浮かべるようになっていた。
彼女は知っていた。
夜な夜な、男がサーナイトの古い映像を暗い部屋で眺めていること。
その瞳に宿るのは敬愛ではなく、泥のような独占欲と、二度と手に入らないものへの絶望であることを。
そして、自分を見る男の目が時折、娘を見るそれではなく失った「恋人」を、あるいは「自分を壊した女」を見る目に変わることを。
『私、わかっちゃうんだよ。お父さんの心が、私の血の中で鳴ってるから』
サナは、首から下げたメガストーンを握りしめた。
その石は、男が触れるときよりもずっと強く、どす黒い紫色の光を放っている。
『ねえ、お父さん。
お母さんを自由にしたくないなら、私がその代わりになってあげる。
お母さんがお父さんに教えなかった『本当の絆』を、私なら教えてあげられるよ』
「……っ、サナ! お前、何を言って……!」
男は震えあがりました。
目の前にいるのは、守るべき無垢な娘ではないのか?
男にはもう分からなかった。
サーナイトの気高さと、男の醜悪な情愛。
その二つが混ざり合い、全く新しい「歪な怪物」へと成長してしまった、自分たちの罪の結晶。
サナは、かつてのサーナイトがそうしたように、男を無理やり押し倒すことはしなかった。
ただ、静かに、逃げ場を塞ぐように、その細い腕を男の首に回しました。
『愛してるよ、お父さん。……あの日のお母さんよりも、ずっと』
男は、その抱擁に抗うことができなかった。
サナの体温の中に、かつてのサーナイトの面影を探し、同時に、自分を永遠に赦さないための新しい地獄を見出していた。
かつてのトレーナーと、そのポケモンの間の子。
二人の関係は、もはや父娘という言葉では括れない、底なしの泥沼へと沈んで行った。
8.
男は、自分を抱きしめるサナの細い腕の中に、あの夜の報いを見ていた。
彼女の体温は、かつてのサーナイトが持っていた清廉な温もりとは違い、どこか熱を孕んで男の肌を焼く。
「……離せ、サナ。お前は、こんなことをしちゃいけない」
掠れた声で拒絶を口にしながらも、男の身体は動かなかった。サナから流れ込んでくる感情は、純粋な愛などではなく、もっと根深く、暗い執着だったからだ。それは男自身がサーナイトに抱き、そして今もなお捨てられずにいる醜い感情と、鏡合わせのように酷似していた。
『どうして? お父さんはずっと、こうしてほしかったんでしょ?』
サナは耳元で囁く。その声は脳内に直接響き、逃げ場を奪う。
『お母さんは、お父さんのことが怖くなって逃げ出した。
でも私は違うよ。
私は、お父さんの汚いところも、卑怯なところも、全部全部、私の一部だと思ってる。
だって、私はあなたから生まれたんだもの』
サナの指が、男の頬をなぞる。
男は絶望した。
自分が彼女に与えたのは、慈しみなどではなかったのだ。
「サナ」という名前を与え、死に物狂いで働き、彼女を守ってきた日々。
その根底にあったのは、サーナイトに対する当てつけであり、自分を「善き父親」だと思い込むための欺瞞に過ぎなかった。
サナはその欺瞞を、サーナイト譲りのサイコキネシスで暴き、男の血を引き継いだ残酷さで、今、その喉元に牙を立てている。
「俺は……お前を、人として育てたつもりだった……」
『ふふっ、人として? 鏡を見てよ、お父さん』
サナは男の顔を自分の方へ向けさせた。
窓ガラスに映る男の顔は、かつての快活なトレーナーの面影など微塵もなく、執着と後悔に使い果たされた、幽霊のような男の姿だった。
そしてその隣にはサーナイトの美しさと、男の毒を併せ持った、あまりに歪で美しい「華」が咲いていた。
『お父さんがサインをしないのは、お母さんと繋がっていたいからじゃない。
自分が犯した「罪」を忘れるのが怖いから。
……なら、私がもっと深い傷をつけてあげる。
お母さんさえも、霞んでしまうくらいの消えない傷を』
サナの手の中で、メガストーンが脈打つように禍々しく輝いた。
男は悟った。
サーナイトは、自分を自由にするために「娘」を遺したのではない。
この男が一生、自分という呪縛から逃げられないように、逃げようとするたびに自分に似た娘がその足を掴むように。
これは、あの時抵抗をやめた彼女の、数年越しに完成する復讐だったのではないか。
「……ああ、そうか。……お前が悪いんだ、サーナイト」
男は、かつて彼女を押し倒した時と同じ言葉を、今度は虚空に向かって零した。
あの日奪った唇の感触が、目の前の娘の唇と重なる。
男はゆっくりと手を伸ばし、サナの背中に回した。
それはもはや父親の抱擁ではなく、共に地獄へ落ちることを受け入れた共犯者の抱擁だった。
『……そうだよ、お父さん。私たちは、これでいいんだよ』
サナは満足げに目を細め、男の胸に顔を埋めた。
アパートの一室、夕闇が完全に部屋を支配する。
テーブルの引き出しに隠された「譲渡契約書」は、もはや二度と開かれることはないだろう。
男は、サーナイトが待つという「輝きの向こう側」へ行くことを完全に諦め、目の前の、甘い花の香りがする闇の中へと、深く、深く沈んでいった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
男の指が、サナの肌に触れる。
それはかつてサーナイトを押し倒した時の暴力的な衝動とは異なり、抗いようのない濁流に身を任せるような、緩慢で絶望的な手つきだった。
サナの肌は、驚くほど滑らかで白く、それでいて内側にポケモンの生命力を宿しているのか、陶器のような冷たさと、魂を焼き焦がすような熱が同居していた。
「……サナ……」
男がその名を呼ぶとき、脳裏に浮かぶのはかつてのパートナーの残像か、それとも目の前の怪物か。サナは男の葛藤を味わうように、その薄い唇を男の耳元に寄せ、熱い吐息を吹きかける。
『いいよ、アナタ。全部、私にぶつけて。サーナイトにしたみたいに、めちゃくちゃにして……』
その言葉が引き金となった。男は、サナの細い腰を引き寄せ、唇を塞いだ。
サナの口内からは、あの青草の香りを毒で煮詰めたかのような、目眩のするほど甘い蜜の味がした。
絡み合う舌、混ざり合う唾液。
サナの手が男のシャツを脱がせ、剥き出しの肌を爪でなぞる。
その感触が、男の中に眠っていた劣情を呼び覚ましていく。
『あ……ぁ、……っ゙……』
サナの喉から漏れる声は、かつてサーナイトが男の頬を叩いた時のあの悲鳴に似て、それでいて蕩けるような歓喜を孕んでいた。
男は、彼女の白い首筋に歯を立て、消えない痕を刻みつける。
それは愛着という名の呪いであり、この命を自分だけのものにしたいという、どうしようもなく醜い男の独占欲だった。
アパートの狭い布団の上、二人の影は壁に映り、一つの巨大な異形の獣のように蠢く。
サナの細い脚が男の腰を絡め取り、逃げ場を完全に塞ぐ。
彼女の瞳は暗闇の中で、メガストーンの禍々しい輝きと共鳴するように、怪しく紫に発光していた。
テレパシーを通じて、男の脳内にはドロドロとした快楽と、焼けるような背徳感がダイレクトに流し込まれる。
「……俺は……、俺はもう……人じゃなくなってしまう……」
『大丈夫。私が、アナタを地獄の底まで連れて行ってあげるから』
男は、サナの柔らかな身体の奥深くへと、己のすべてを沈めていった。
それは、かつてサーナイトから奪ったものの再演であり、同時に、自分の人生の完全な終焉だった。
混ざり合う汗…擦れ合う肌の音。
サナは男の背中に爪を立て、恍惚の表情で天を仰ぐ。
その瞳に映っているのは、もはや不在の母親ではなく、自分を泥沼へと引きずり込んでくれたかつて「父親」と呼んだ男だけだった。
夜の闇が二人を包み込み、外界の音はすべて消え去る。
かつてサーナイトと結んだ絆が、美しく輝くメガシンカの光だったとするならば、今ここで溶け合う二人のそれは、黒く、粘り気のある、腐った蜜のような何かだった。
翌朝、そこには抜け殻のような男と、かつてないほど美しく、艶やかな光を放つサナの姿があった。
〜〜〜〜〜〜
それからの生活は、外界との繋がりを断ち切った、密室の微睡みの中へと溶けていった。
男は配達の仕事を辞めた。
サーナイトが残した膨大な金は、二人きりで朽ち果てるには余りあるほどだった。
かつてのアパートを引き払い、人里離れた森の近くに、外からは見えない要塞のような邸宅を構えた。
そこは、サーナイトの稼いだ金で築かれた、彼女への復讐と裏切りのための「愛の巣」だった。
カーテンを閉め切った部屋、昼も夜も分からない薄暗がりの中で、男は一日中、サナの白い肌に溺れた。
『……アナタ、またあんな映像を見てるの?』
サナが背後から、しなやかな腕を男の首に回す。
モニターには、かつて華々しくポッ拳のリングを舞っていたサーナイトの記録映像が、音を消して流れていた。かつては嫉妬と羨望で男を狂わせたその輝きも、今の男には、ただサナを抱くための香辛料に過ぎなかった。
「……ああ。これを見ていると、今お前を抱いている俺が、どれほど深く落ちたかを確認できるからな」
男の目は虚ろだった。もはや父親としての誇りも、責任感も、かつての情熱も、すべてはサナの熱い吐息の中に霧散していた。
『ふふっ……いいわよ。もっと、私で汚れて。サーナイトが見たら、どんな顔をするかしらね』
サナは「父親」と呼ぶことを完全にやめた。
彼女は男を「アナタ」と呼び、まるで長年連れ添った妻のように、男の精神をツルのように絡め取っていた。
食事は、宅配で届くものを無機質に口にするだけ。
それ以外の時間は、ただ互いの存在を貪り合う。
サナの成長はさらに加速し、その美しさはもはや、この世のものとは思えないほどに完成されていた。
彼女が放つ甘い花の香りは、部屋の隅々にまで染み付き、男の脳を麻痺させ、彼女なしでは呼吸すらままならないほどに依存させた。
男は、かつて埃を被っていたメガストーンを、サナの胸元に飾った。
かつて絆の証だったその石は、今や二人の背徳を祝福するように、常にどす黒い輝きを放っている。
「……俺はもう、お前がいないと死んでしまう……」
男がサナの膝に顔を埋め、子供のように縋り付くと、サナは慈しむようにその髪を撫でた。
『死なせないわよ、アナタ。この楽園で、二人きり……永遠に、夢を見続けましょう?』
かつてサインを拒んだ譲渡契約書は何処へ行ったのだろうか。
サーナイトとの法的な繋がりさえ、男にはもう見えなかった。
そして名実ともに「サナ」に身を捧げた。
時折、遠くでハルのような明るい声が聞こえた気がしても、男はもう耳を貸さなかった。
外界の光は、あまりに眩しすぎて、今の男の眼には毒でしかなかったからだ。
二人は、サーナイトが戦い、傷つき、得てきた報酬を、その娘を汚し、父娘の縁を断ち切るための堕落へと注ぎ込んだ。
それは、かつて「父親」であろうとした男の、最も無惨で、最も甘美な成れの果てだった。
「サーナイト…いつも君と一緒に…」
『ええ…アナタ……明日もサナと…』




