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アルプスの薔薇と契約の誓い  作者: Lucy M. Eden


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第一章:計算違いの夜明け

オーストリア・アルプス、午前五時三十分。


標高一千メートルを超えるこの地に届く朝の光は、ナイフのように鋭く、そして清潔だ。ヴィクトリア・フォン・ラインベルクは、その冷気を肺の奥深くまで吸い込みながら、湖畔の小道を一定のリズムで駆け抜けていた。


スマートウォッチが刻む心拍数は一二五。一分間のピッチは一八〇。彼女にとって、この数値こそが世界の真理だった。感情という曖昧なフィルターを通さない、純然たるデータの集積。それだけが、一代で投資会社を築き上げた彼女が信頼できる唯一の言語だ。


「愛は、脳内のバグに過ぎない」


ヴィクトリアは、霧に煙る「シュロス・ローゼン (薔薇の城)」を視界の端に捉えながら、内心でそう断じた。かつて祖父が全財産を投じて買い戻し、生涯をかけて修繕し続けたこの古城。彼女にとって、ここは「守るべき聖域」であると同時に、「非効率の極み」でもあった。石造りの壁は冬になれば容赦なく体温を奪い、広大な庭園は維持費を際限なく飲み込んでいく。


ランニングを終えた彼女は、キッチンで特製のグリーンスムージーを作った。ケール、リンゴ、チアシード。素材の栄養素を破壊しないよう、最新式の低速ジューサーが静かな重低音を響かせる。タブレット端末でロンドンとニューヨークの市場をチェックしながら、彼女は一口、その緑の液体を飲み込んだ。


「さて。今日でこの『非効率』に終止符を打つわ」


午前十時。シュロス・ローゼンの謁見の間。そこには、彼女の合理主義を真っ向から否定するような男が、完璧な姿勢で座っていた。


ユリアン・フォン・ザルム。この城を代々守ってきた貴族の末裔であり、ヴィクトリアの祖父が「城の管理人」として全幅の信頼を置いていた男だ。


彼は、ヴィクトリアが持ち込んだ最新のタブレット端末には目もくれず、丁寧に淹れられたアッサムティーの香りを愉しんでいた。手元にあるのは、インクの香りが残る紙の新聞だ。


「おはようございます、ヴィクトリア。相変わらず、機械仕掛けの時計のような正確さだ」


ユリアンの声は、低く、古いチェロのような響きを持っていた。冷徹なまでに整った顔立ち。その瞳は、凍った湖のように静かで、底が見えない。


「挨拶はいいわ、ユリアン。祖父の遺言執行人が来るまであと五分。あなたの『伝統』とやらが、この城の赤字をどれだけ膨らませたか、数字で説明する準備はできているかしら?」


ヴィクトリアは、対面に座り、冷ややかな視線を投げた。


「数字、ですか。この城の石積みが耐えてきた数百年の時間を、あなたの薄っぺらな演算機で測れるとは思わないことだ」


ユリアンはティーカップをソーサーに戻した。カチリ、という硬質な音が、静まり返った部屋に響く。


「プライドで腹が膨れるなら、苦労はしないわ。私はビジネスをしに来たの。この城をラグジュアリー・スパ・リゾートとして再生させる。それが私の『守り方』よ」


「それは『破壊』と呼ぶべきものだ、成り上がりの投資家殿」


二人の間に、目に見えるほどの火花が散った。その時、重厚な扉が開かれ、祖父の代からの顧問弁護士が、一通の封書を携えて入室してきた。


「お二方、お揃いですね。ハインリヒ様の遺言を読み上げます」


弁護士の声が、緊張感に満ちた空気を切り裂く。ヴィクトリアは確信していた。祖父は自分を愛していた。だから、この城の全権を自分に譲るはずだと。


しかし、読み上げられた内容は、彼女の「計算」を根底から覆すものだった。


『……全財産、およびシュロス・ローゼンの相続権は、孫娘ヴィクトリア、およびユリアン・フォン・ザルムの両名に与える。ただし、条件がある。』


ヴィクトリアの眉が微かに動いた。


『条件:両名は本日より、法律上の夫婦となり、一年間、この城で共に暮らすこと。もし途中で一方が離脱、あるいは離婚を選択した場合、城の全権利は没収し、即座に国際的な自然保護団体へ寄付されるものとする。』


「……なんですって?」


ヴィクトリアの手から、スタイラスペンが滑り落ちそうになった。隣では、ユリアンが新聞を握りしめ、かつてないほど険しい表情で弁護士を凝視している。


「結婚?この、時代遅れの傲慢な男と?」


「共謀して城を奪うつもりか、ビジネス女」


二人の声が重なった。窓の外では、アルプスの霧が一段と深まり、逃げ場のない二人の「契約」を祝福するかのように、城を包み込んでいった。

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