第三章『悲劇のヒロイン症候群』(訂正:3月23日 12時12分)
登場人物名にミスがありました(訂正済み:廉也→蓮也)
目が覚めると、隣には昨晩、呪縛を解いてくれた私の王子様が半裸のまま寝そべっていた。眠りから引き戻すために口づけようとすると、王子は長くきめ細やかまつ毛をぱたつかせていた。
「おはよ」
「うん、おはよ」
目覚めのキスを拒まれたみたいで、私の乙女心は、今にも発狂しそうだが、少年のように口を縦に大きく開けて欠伸をする姿に母性が疼いていく。
「今何時?」
「えーと、六時半」
「もうそんな時間か。よいしょっと」
床にまき散らした衣服が拾い上げられるたびに、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。夢のような時間がビビデバビデブーと魔法のように溶けていく気がした。
「ねえ、服着ないの? えっち、まだしたいん?」
「まったく、もう。からかわないで」
思わぬ発言にドキッと胸が弾んで、頬がとろけていく。
――はあ、幸せ。
白い息を吐きながら自宅に戻ると、靴を脱ぐなり浴室の電気をつけた。シャワーの栓をひねると、少し遅れて水の流れる音が広がった。ひんやりとした水が、生温い水に変わって身体に浸透してくる。
雫が滴る鏡ごしには首元にできた痣が目立ち、触れると、ひりっとして彼の唇を感じてもどかしい。
欲しい。あの火照った熱が。もっと欲しい。
切に願えば願うほど、また身体の奥が渇いていく。
指先で素肌をなぞる。彼の温もりを思い出しながら。
真っ黒なチノパンを履き、白いブラウスに袖を通す。
いつもと変わらない日常がまた始まる。
売れない本をワゴンに乗せていく。リストを見ながら、正確さと素早さを意識して手を動かしていくが、『如月潤』というワードを目にした瞬間、本一冊が一気に重量を増したようで、思わず手が止まった。
胸の内に穴が空いたようで、静かに広がっていく。どうしようもない深い絶望が、胃の中をのたうち回っているようで、気分が悪くなる。
「すいません……」
何かが喉から這い上がってきそうだが、唾を飲み込んでぐっとこらえた。
「あの、すいません」
振り返ると、見覚えのある巻き髪の女がいた。
「え、奈緒じゃん! なんでここに?」
うわずった声だった。
「見ればわかるやろ、ここで働いてんの」
やけに足の裏がむず痒い。今すぐこの場から逃げ出したいのに、恥じらいが押し寄せてきて、口角が固くなる。
「えへ、たしかに」
「そういうりりあこそなんでここに?」
「今日はORIONのライブ! やっと雅様を眼福できる」
「へー、相変わらずやな」
「うん、そういや、今日発売の雅様表紙のununは?」
「それなら、事前予約で売り切れて、今在庫ないよ」
「まじ? もうこれで五件目やのに……はあ、もうそろそろライブ会場行かないと」
「そっか、また……」
「あのさ」
りりあは、食い気味に話を遮った。
「こないだは……ごめん」
客が店員に上半身を90度に曲げるという珍しい光景のせいか、周りの視線が私に集まる。
「頭上げてよ……私の方こそごめん……」
ただ頭を下げておく。許すつもりは一切ないが、これ以上怒りを露わにしても、もう意味がない気がした。
「また、姫路に帰ってたら遊ぼ」
「うん、じゃあまたね」
りりあの背中が遠ざかっていくにつれて、深い安堵が染み込んでくる。嫌気が刺すにもかかわらず、私は結局、関係を切ることを選ばなかった。これが正しかったのだろうか。なんともすっきりしないものが、ただ静かに残った。
〈昨日はありがと〉
休憩室の椅子に腰をかけて、缶コーヒーを一口喉に通すと、砂糖を含んだかのような甘い一通が届いた。
〈こちらこそ〉
すぐに既読がつき、グッドとしたリアクションが返ってくる。
また会お、なんていう厚かましい言葉は、送信できなかった。
もう友達以上の関係であることには変わりないが、その距離は、思っているよりずっと脆い気がした。
スマホの画面を閉じ、残っていた缶コーヒーを飲み干して立ち上がると、溢れんばかりの苦みが押し寄せてくる。
これ以上の関係を望んだら、彼は振り向いてくれるのだろうか。
淡い期待でやるせなさを募らせながら、生計を立てにまたフロアに出ていった。
あれから淡々と日々が過ぎていき、一週間が経った。
彼からの連絡は、まだない。
私はただの都合のよい存在だったのかもしれない。
まったく、滑稽だ。
ベッドから起き上がると、小窓から深い茜色の光がこぼれていた。
全身に倦怠感がのしかかり、再びベッドに倒れ込む。
彼はきっと私のことを愛していないだろう。だけど、少女漫画で読んだことがあるような温かな気持ちを抱けたのは、あいつ自身が誰かに愛されたいと思っていたからなのかもしれない。
ほんと自分勝手な奴ばっか。
あいつも。自分が相対的で優位な立場でありたいから私をいじめてきた奴も。『お客様は神様』という過剰な正義感の元、大切に扱われたいという欲を持つカスハラ客も。
人間なんて生きている価値がないくせに。そういう奴ほど『人間には生きている価値がある』という綺麗事を勝手に信じて、勝手に精神的に病んで、勝手に他人を期待する。
みんな私と同じ人間という生物なはずなのに。馬鹿だらけ。
薄っすらと眠気がよぎって、目を閉じる。
でも、なかなか寝付けない。
仕方なく、頭がぼんやりと重いまま、SNSを開いた。
アニオタのレスバトルだの、恥じらいを捨てた露出魔だの、某アイドルの熱愛発覚だの、明日地球が滅亡するだの。
今日もしょーもない人間の欲と妄想をスクロールしていくと、画面の上部に彼からのメッセージが現れた。
一気に期待が高まっていき、胸を躍らせてしまう。
通知をタップすると、〈今晩会えない?〉という文章が浮かんでいた。
〈会えるよ〉
〈じゃあ俺ん家に来て〉
〈わかった〉
タンスの中で一番かわいいと思う、SNIDELの花柄ワンピースを引っ張り出し、気合を入れて普段は使わないピンクのアイシャドウを塗る。
やっぱり、何の取り柄もない私を求めてくれるのは、彼しかいない。
だから、私は彼を愛さなければならない。
そうしなければ、私は何者にもなれないのだから。
カーディガンに、コートを羽織った状態で肌寒さを感じつつ、足を震わせながら、インターフォンを鳴らす。オートロックが開き、十二階までエレベーターで上がって、再びインターフォンを鳴らすと、すぐに扉は開いた。
腕を引っ張られ、なめらかな接吻が降ってくる。それは、これから始まる行為への儀式みたいなものだった。
電気をつけていない寝室で、ベッドに寝そべり、ぼんやりと近隣のビルの明かりが滲む天井を眺める。
「はい、水」
「……ありがと」
あまりの脱力感のせいか指先に力が入らず、蓋が開かない。
「貸して」
彼は蓋を開けて、一口含みながら、そっと唇を重ねてきた。
ゆっくりとやさしく、私の喉を水が通り抜けていく。
唇が離れると、ただ充足に満ちたような瞳と目が合った。
「へー、そんな顔するんや」
「もう……」
彼の指が私の髪に絡まっていく。赤子かのように頭を撫でられる感覚は、やけに心地いい。
「ねえ」
分厚く硬い胸板に飛び込む。
「ん?」
「今度、どっか行こ」
「うん」
「行きたいとこある?」
「奈緒の行きたいとこに行きたい」
頭のてっぺんに落ちた柔らかなぬくもりが、小鳥のさえずりみたいな音を残した。
ときめきと安心感が混ざって、思わずくすっと笑ってしまう。
「じゃあ……東京タワーで」
「分かった、楽しみにしとく」
夢見心地の少女みたいにきゅんとして、もう一度可愛らしい音を唇にこぼした。
この幸福はきっと永遠に続くだろう。
頬をすり合わせながら、確信めいたものがそっと胸の中に宿ったような気がした。
〈昨日の夜から体調悪くて、今日は無理かも。ごめん〉
彼からのメッセージに目を通した瞬間、いつもの寝起きの悪さは消えていた。
〈全然いいよ、無理しないで。お大事に〉
送信すると、スマホの画面はしだいに暗くなっていき、下から映った私の顔は、顎の線がゆるんで見えた。
さらに距離を縮める上での確かなチャンスだった。
だけど、ゼリーとかアクエリアスとか持っていけば、彼はもっと私の重要性を感じて、さらに求めてくれるかもしれない。
そう思えば、好都合だ。
適当な服に着替え、顔も髪も整えないまま、財布だけを持って家を出た。
いろはすに、アクエリアス、ウィダーゼリー、龍角散ののど飴、パックご飯、インスタントのスープ。
右腕にずっしりと負担をかけながら、コンビニから彼の家まで歩く。
部屋番号を入力して、『呼出』を押す。返事はないし、ドアが開く気配はない。もう一度、部屋番号を入力して、『呼出』を押す。寝ているのだろうか。応答が返ってこない。
「わざわざありがと」
「うん。ちゃんと寝るんよ」
ドアが開いて、男女が出てきた。
――いや、正確に言えば彼とりりあが出てきた。
ああ、そういうことか。
「あ、奈緒?」
りりあが近づいてくる。
「何? 二人付き合ってるの?」
「うん! もう少し時間が経ったら奈緒には言おうと思ってたんやけど、同窓会でさ、仲良くなってさ、酔っぱらった勢いで告白しっちゃったら、付き合うことになっちゃって」
私はただの都合のいい人間だったんだ。
「それで、体調悪いって言うから、夜行バス乗って看病しに来たんやけど、もう明日から仕事だし、もう大変。でも、心配やし、まあいいかって感じ!」
こいつは私を求めていたんじゃない。求められる自分を求めていたんだ。
「てか、奈緒も蓮也くんと同じマンションやったんや、こんないいとこ住んでんなら、はよ言ってよ」
軽く肩をぶつけられる。
世間からイケメンとちやほやされて、賢くて、おそらくしごできで、金だって相当持っている癖に、これ以上何を望むんだろうか。
「ほんと、自分勝手」
「何? 急に……」
「誰でもよかったんだね。さっきからこんなキーキーうるさい女でも」
「だから、何言って……」
「うるさい。承認欲求のバケモンのくせに、こういう時に限って何もしゃべらないんだね」
奴は、何か言いたげな表情をして、地面を見つめたままだった。
「……被害者ヅラすんなよ」
右腕の重みを地面に落とし、背を向けてそのまま歩き出す。
若干の痺れを抱えながら。
ぼんやりとベッドの上で大の字に転がって、電球を眺める。今まで何だったんだろうか。何もできないどころか、社会的地位や名誉を持たない私を助けてくれるダイバーも、無償で癒してくれる王子様もこの世には、最初から存在なんてしていなかった。
期待していたつもりはない。ただ、人間というか奴らが愚かなだけだ。
ふと、ベランダの方を向く。東京タワーの灯がやけにまぶしい。いつもと変わらないオレンジなのに。陽だまりのような暖かさを感じてしまう。
はあ。
まったく、いつまでこうしているのだろうか。
横たわったゴミ箱の奥からハイライトを片手に、ベランダへと出た。
東京タワーを見ながら、火を灯し、煙を吐く。
やっぱり、私にはこれがお似合いだ。
夜風とともに、ラム酒の香りが流れてきて自惚れていくこの感じが。
自分でも思う。
ナルシストというかロマンチストだなって。
でも、まあいいか。
どうせ、あいつも、りりあも、全員、この世の人間は、自分の理想を叶えるため、目先の利益だけを追求するロマンチストなんだから。
排水口に火花を擦り付け、煙たく眩い空気から暗闇に足を踏み入れた。
ノートパソコンを開く。
〈愛している〉
物語を盛り上げる為の、実在しない言葉を打ち込んだ。




