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第二章 『承認欲求』(訂正:3月23日 21時12分)

 会場のホテルのフロントに着いて、辺りを見渡していると、奈緒と呼びながら、りりあが近づいてきた。

「ひさしぶり! 奈緒あんま変わらへんな」

「りりあこそ、変わってへんくて安心したわ」

「ねえ、そういやさ、あそこにいる二人結婚したんやって」

 りりあは、ペールピンクを纏った女とシゴデキさを匂わせるスーツを着た男に指をさした。

「へえ、そうなんや」

「あの二人、当時喋っとうとことかあんま見たことないけど、やっぱ七年経つと変わってくるんやな」 

「うん」

「私も黒川くんとあの二人にみたいにいつかは繋がれるんやろか」

「さあね、どうなんやろな」

 この会話に意味はあるのだろうか。正味、誰が結婚しようがどうだっていいし、他人の話なんて何の利益ももたらさない。

 だったら、聞かなければいいし、適当に相槌を打つのもやめればいい。でも無愛想だと思われる手は取れない。

 無愛想というのは、この世で最も邪悪な武器だと思う。多分その武器を使えば、他人から自分にも嫌悪感が拡散され、最悪の場合、社会で生きていく権利を失ってしまうだろう。

 だけど、この社会で生きていても、失っていくものも多い。

 他人軸で回っているこの社会では、自己を優先するだけで、身勝手だと思われ、常に他人を思いやる言動をすることが義務となっている。

 でも、この社会で生きる人間が全員身勝手になったらどうなるのだろうか。

 おそらく、各地で戦争が勃発して、人類滅亡なんてあり得る話だと思う。

 人間は、個々違うパーソナリティを持っている。そのため、他人と自己の間で違う感覚が生まれてくることなんて当然のことで、争いを阻止するには、全ての人間が容姿、性格、体質、そして性別も同じで無ければならない。

 だが、それも無理だろう。人間はあくまでも動物の一種であり、男しかいない、女しかいない社会を作ってしまうと、いずれ人類は滅んでしまうはずだ。

 それに比べて、この社会は多くの犠牲を払って、人類滅亡にならないよう、いい塩梅で作られている。

 だけど、何一つ犠牲の発生しない、人類滅亡にもならない仕組みだって存在していたはずだ。

 なぜ、人間は作れなかったんだろう。

 いや、そもそも社会という壮大なシステムを人間に作らせたのが悪い。

 間違いなく、この世の凶悪犯は神だ。

 自分が人間を生み出しておいて、その実態を最も理解しているのにも関わらず、望みのためにどれだけ時間を費やして、尽力しても報いを与えてくれないことなんて当然あり得るし、助けて欲しいなら崇めろという傲慢さは、まさに我が家の女王様以上である。

 でも、神に逆らってはならない。

 抗えば抗うほど、奴は運命という試練をハードにしてくる。

 この世は、残酷だ。

 たとえ人間は考える(あし)であるという言葉が存在したとしても、奴に勝る点など人間は持ち合わせていない。

 所詮、私たちは神の退屈を紛らわせる見世物なのである。

 きっと今日も手をはたいて、下品な高笑いを天空かどこかで披露しているのだろう。

 特に過去の栄光に縋った人間たちが集うこの同窓会は、最高にクレイジーで愉快なコメディーショーになるに違いない。りりあのクソしょうもない話を聞きながらも、少し周りに耳を傾けただけでもそれは分かることだ。

 

 まもなくして、高三の頃、クラスの委員長を務めていた、分厚い眼鏡の大人しそうな男の子が、陽キャどもに囃し立てられ、やけに気合いの入った乾杯の音頭を取った。そのせいか、少し白けた空気のまま、宴会は始まった。

 円卓では、りりあと隣になれたはいいものの、しゃべったことのない人ばかり。

 会話も彼氏が毎日会いたいとか言ってきてうざいとか仕事で大役を任されてしんどいから無理などの一見深刻な悩みに聞こえてはくるものの、ほとんど自分を称賛してほしい、あるいは認めてほしいという欲を満たすためのマウントを取っているようにしか思えなかった。

 はあ、何のためにここにいるのだろうか。

 まわりを見た感じ彼はいない。

 やがて、壁にもたれている柱時計に目を配らせると、ボン・ボンと振り子を揺らしながら二十時を告げていた。

 もしかしたら彼に会えないかもしれない。

 そんな不安に襲われながらも柱時計の針が進んでいくのを眺めていると、鼓膜に響く騒音は、一瞬消音に変わった。

 骨太く男らしい足音。だけど、どこか品があって、艶めかしさを漂わせてくる。

 誘惑の正体は、まさしくも彼だった。

 彫刻のように陰影の際立つ顔。その頬にかかる黒髪はゆるく波打ち、夜闇に誘う吸血鬼かのような妖しさを帯びている。ダークブラウンのスーツ姿は、敏腕さとほのかな雄みを漂わせ、思わず本能を掻き立てられる。

 そんな彼に対して、円卓に潜んでいる雌たちは、当然黙っていることなんて出来ず、即座に彼を囲んで集った。

 なんて馬鹿げた女たちなんだろう。

 いつまで経っても誰一人彼を魅了させることが出来ていないのに、それでも縋る姿。傍から見たら、とても情けなくて痛々しい。

 でも、ほんの少し羨ましさも感じる。

 今思えば、当時そうやって騒ぐことに憧れはあった。

 好きなものを必死で追い求める姿は何より生気に満ち溢れていて、いつしか自分もあの中に混ざりたいと思うようになったが、いざ輪に入るという勇気は湧いてこなかった。

 もし彼のことが好きだと言葉にした瞬間、自分の空っぽさを認めてしまうような気がしたから。

 きっと私も彼のことが性的に好きだった。それは今も同じな気がする。

 だけど、言えない。

 頭の中が混沌としていたところ、りりあは肩を叩いて、私の思考を止めた。

「ねえ、奈緒。早よ黒川君のとこ行こ」

 私は、思わず溜息が出た。

「ひとりで行けるやろ、こっちトイレ行ってくる」

  便座に座って、膝にのせたこぶしに涙が滴る。

 あの空間にもう少しでも居たりしたらどうなっていたんだろう。

 きっと私は、もう彼と関わることなんてできない。

 はあ。もう、いい。帰ろう。

 小雨のように流れる涙をトイレットペーパーで拭い、扉を開けるとりりあが立っていた。

「奈緒、大丈夫?」

 その言葉を耳にした時、とてつもなく頭の奥が煮えくり返るのを覚えた。

「大丈夫じゃない。何、心配しに来たん?」

「だって、トイレからなかなか帰って来んから、もしかしたら体調崩してるんかなって……」

「そうやって善人ぶるのほんまええから。もう帰る」

「待って」

 りりあは腕を引っ張って、私の歩を止めた。

「なんかしたんなら謝るから……ごめん」

 ほんと腹立たしい。とりあえず、謝っとけばいいんだろうというこの感じが。

「人の気持ちもわからんくせに。いいから離して」

 私は、りりあの腕を振りほどき、ためらいなく扉を強く閉めた。

 私の居場所ってどこ?

 誰も私のこと分かっていないどころか理解しようともしてくれない。

 ねえ、なんで? 

 私が悪いの? 

 じゃあどこが悪かった? 

 ねえ、誰か教えてよ。 

 私が勝手に海に入って溺れた時、母は顔面に何発か平手打ちを入れた。

 その痛みは今でも覚えている。

 海に潜った時、鼻から息を吸ってみると、眉間の辺りまで大量の塩水が押し寄せてきたので、今度は口から息を吐いてみようとすると、喉に塩水が引っかかって、咳き込むような感覚が襲ってきた。言うまでもなく、息苦しさを覚えて水面から上がろうとするが、どれだけ手足をばたつかせても身体は水に浸っていく一方で、生きている心地がしなかった。

 大理石にヒールを打ち付けている今だってそうだ。

 一定のリズムを刻んでいくが、ぐらつくと、意図していない事態が自身に起こったせいなのか、まるで自分が自分じゃないように思えてくる。

 私は誰? そもそも生きているの? 

 視界が揺れ動いて、色彩(トーン)が落ちていく。

 あれ? これは酒のせい? いや、そんなに吞んでないはずだ。

 気がつくと、右頬が床に触れていた。

 ぼやけつつも、左足は肌色になっているのが分かり、ヒールは遠のいてあるように見えた。

 何でいつもこうなるんだろう。

 学生時代から朝から晩までどれだけ学問に時間を費やしても、テストの順位は中の下で、平均以上の点数を叩き出したことは一切ない。運動だって、体育の50メートル走の授業でも、私を励ます声なんて聞こえなくて、だいたいスタートに出遅れるか、途中でコケるかの二択だ。磨き上げていた武器だって、今は朽ち果てようとしている。

 結局、私は努力しようがしまいが報われない、ただのモブなのだ。

 一生誰かに靴を拾ってもらえないからシンデレラにはなれないし、ポテンシャルが低く、臆病な人間だからヴィランにもなれない。

 本当、醜い人間だ。


 姫路から帰ってきて、一番に連絡を寄越してきたのはバイト先のパチ屋だった。

 どうやら、私と同い年のフリーター女が体調不良で当欠したらしいが、私の休憩時間を奪う彼女の自慢話から察するに、彼氏とセックスでもして腹を痛めたのか、あるいは向こうから別れでも告げられたのだろう。勿論、後者が望ましいのだが、前者は、またマウントを張られるだろうし、後者は、ショッキングによってこの仕事を辞め、代わりに私の出勤が増える可能性が見込まれるため、どちらにせよ、迷惑なことに変わりない。

「おーい」

「はい、伺います」

 呼ばれた先には、ドル箱を受け皿の下に置いて誇らしげな表情を浮かべながら、更なる利益を狙う中年男がいた。

 ただハンドルを右に捻っているだけなのに、自分の実力で勝ち取ったでも言いたげに、椅子にふんぞり返っている。努力なんて何一つもしていないくせに、低確率の偶然の当たりを見せびらかすその態度が、妙に癇に触れてくる。

 私は黙々とたっぷり鋼の詰まった箱を持ち上げた。

 手首から硬い重みが広がって、腕から肩へと激痛が流れていく。

 指先に力を籠める。だけど、それができたのはほんの一瞬で、気づけば、雨水のように球体が床を弾いて、溜まりを作っていた。

 球体が足を滑らせて、私を倒す。天井の光と客の喜怒のざわめきに飲み込まれて、騒がしい電子音だけが脳を突き抜けていく。

 今思えば、これは数時間後に届く『如月潤』の訃報の予兆だったのかもしれない。

 あと三週間、『如月潤』を全うできると宣言されていた。だけど、予定通りに物事が上手く進む根拠なんてこの世には存在していなくて、それは良いことが起こりゆる場合もあれば、悪いことも起こりゆる場合もある。

 分かってる。分かってはいるけど、もしこれが神の作った人生ルートプログラムならば、本当に腹立たしいし、憎たらしい。

 でも、神に怨念を溜め続けても、きっと何のメリットも生まれない。

 だから今は願うことしかできない。

 再びその武器で名誉を掴むことを。

 そのため、明日も生きるしかない。

 胸の内に秘めた静かな決心が夜に溶け、曇天の朝が訪れた。


 冷たさが鋭く響く外の空気と人工的な排出なのにもかかわらず生ぬるい空気が脳に突き刺さってくる。

「桐原さん」

 心拍が確実に身体と連動して大きく震え上がる。

 またやらかしたのではないだろうか。だったら何をやらかしたのだろうか。

 脳にさまざまな思惑が募ってきて、聴覚が遠ざかっていく。

「今日の入荷分、倉庫に置いているからこれ見て丸で囲んでいるのを並べといて」

「はい」

 はあ、適当に返事をしてしまった。おそらく、このリストに書かれている分を全て並べろということだと思うのだがあまりにものの量の多さに気が乗らない。

 インクの臭いが詰まった部屋からリストに浮かんだいくつかの書籍をワゴンいっぱいに乗せて、フロアに出るが、タダ読みをする客どもが通路を狭めてくる。

 後ろ失礼いたしますと声をかければ、返ってきたのは謝罪の言葉でなく、舌打ちだった。

 全く、いいご身分だ。

 著者に利益をお与えすることなく、このようにして余暇のお楽しみされることを当然の権利のごとく振る舞っていらっしゃる。

 でも、奴らはお客様という肩書きを得る限り、横柄な態度を取り続けるのだろう。

 仮に、奴らにキレたとしても、罪に問われるのは私だ。お客様は神様という強い風潮のもとでは、奴らはどんなに社会的に叩かれたとしても、我らに奉仕することが従業員の義務だと信じて疑わない。

 だから、ここで働き続けるためには、笑顔を貼りつけ、奴らの下僕として何でも受け入れ、黙々と動かなければならない。

 ワゴンの重みとこみ上げてくる怒りめいた不満を押し殺すように腕に力を込めて、私は無理やり通路を通り抜けた。

 ページをめくる乾いた音と暴れ回る子どもに怒鳴る母親らしき声が響く中、棚に書籍を飾っていく。

 折り目や破れを発生させまいと、素手で蝶に触れるかのように指先に意識を高める。

「すいません」

 背後から呼びかけに指先の感覚が途絶えたせいか、そっと生命が堕ちていくように、手元から足元へと書籍が移動していた。

 聞き覚えのある声だ。

「奈緒?」

 彼と目が合った。

 やばい。 

 身体が急激にあり得ない熱を帯びてくるのが分かる。何か話さなないといけないとはなるが、言葉が喉に詰まって出てこない。

「久しぶり」

 私が何の話題を振ればいいのか悩んでいるのを察したのかどうかわからないが、甘ったるい表情を浮かべながらポンと言葉を出してきた。

「お久しぶりです」

「なんで敬語なんよ、まあええや。元気?」

「うん」

「そっか、俺も元気」

 この会話に意味はないのだけれども、声のトーンや吸い込まれそうな瞳の奥に確かな温かさを感じて、ふと安心感に満たされる。

「てか、よくわかったね」

「当たり前やろ、もう数十年の仲なんだから」

 というか、会話の内容なんて本当にどうだっていい。まず、彼と話せているという事実だけで十分で、これ以上を望むなんておこがましい。

「変わってへんな、お前」

「うん」

 一つ、一つ彼のかけてくれる何気ない言葉に過去の時間すら包み込む重みを感じる。

 いつぶり何だろう。他人の言葉を素直に受け入れて、鋭く尖った心の角が削れていくなんて。

 言葉は、薬だ。

 精神安定剤にもなれば、麻薬にも毒薬にもなれる。

 この世に存在するものの中では、最も利便性が高くて、扱いづらいツールであるかもしれない。

 だが、最近は言葉に触れようとしないというか毛嫌いする人間が多い。

 だからなのだろうか。しょっちゅう、テレビやSNSで飛び下りだの首吊りだの『自殺』という二文字に関連するワードが騒がれている気がする。

 人間はいずれにしても死ぬんだから自ら死のうがあるいは自然に死のうがどっちだって構わないと思う。

 ただ、最期のメッセージらしきものには、大抵何も考えずに言葉を発する馬鹿どものせいだということが読み取れる。

 望んでいる死なのにもかかわらず、望んでいない死を遂げる以上の屈辱なんてあるはずがない。

 もし、Ⅹやインスタで自分の資産価値を自慢するための写真とセンスを高見えさせるための絵文字を並べるだけの投稿の代わりに、ポエムやエッセイの投稿が評価されていれば、思慮深く、理性を持った賢い人間が量産されていただろう。

 だが、仕方ない。この国では、質より数字を重要視する資本主義を掲げているのだから。当然外見は磨くが、内面はすっからかんになっていく国民が多くなるわけだ。

「そういや、蓮也れんやは何でこんな所にいるん?」

 当たり障りのない問いしか思いつかないけど、もう少しその声を聞きたいが故の最適解だ。

「高校卒業してから、大学で上京してさ、そのまま東京で働いとんや」

「へえ、そっか」

 届きそうで届かない相手が、少しだけ自分の近くで生きている。それだけで、私の声が少し柔らかくなった気がした。

「そんで、この本買いに来たんやけどどこにあんのかなって」

 彼が見せてくれたスマホの画面には、おそらく経済について述べられた本が映っていた。

「多分向こうの方にあると思うで」

 書店員としてはかなり抽象的な案内だった。けれども、たとえ一度本を作る側にいたとしても、正確な事実と根拠を語らないフィクションを好む私にとっては、あまりに触れたことのない専門外なジャンルで、はっきりとした位置を答える自信なんてなかった。

「分かった、ありがと」

 同じ『本』という枠組みなはずなのに、題名からして私と彼は住む世界が違うってことに改めて実感がみなぎってくる。満たされそうになったはずなのに、気づけば心は急激に消耗していた。もっと彼と話していたいのに、また、言葉が出てこない。

「ところで奈緒こそなんで東京にいんの?」

「え?」 

 完全に暗転した。今の状態をなんて伝えればいいのだろうか。いや、本当のことを伝えてしまったらどうなるのだろうか。偽りの回答を探すが、どれも辻褄が合わなくて、胡散臭さが際立つ。

「あ、思い出した。小説家やっけ? 大変そうやな」

「まあーね、でもこうやってここで働けとうから、全然余裕はあるよ」

 与えられたレールに沿って、愛想笑いを装いながら、今の私を取り繕う。

「でもすげえよ。俺には小説なんて絶対書けねえ」

「えー、そうかな? 結構簡単な気はするけど」

 思ってもいない言葉に饒舌になっていく。

 噓をつくことはただの処世術にしかすぎない。自己防衛の手段で、私にとっての善でも悪でもない、言わば呼吸だ。

 だけど、「噓つきは泥棒の始まり」という教育方針でできたこの世の中じゃ、バレた時の背負う代償は大きい。

 でも――

「今晩さ、空いてる? 吞みに行かね?」 

 上手く騙し切れば、恩恵が降ってくる場合もある。

「うん、行こ」

 噓とは、リスクとリターンの溝が大きい、この世で最も老若男女問わず親しめる身近なギャンブルなのかもしれない。


 やがて、怒涛の日曜日の忙しさに追われ、閉店作業を終えると、彼との約束の時間をすでに一時間も過ぎていた。 

 息を切らしながら神保町駅のトイレに転がり込み、偶々バックの前ポケットに入っていたTIRTIRのクッションファンデとニベアのカラーリップで最低限の顔面補正を施し、そのまま半蔵門線に飛び乗って、渋谷の山手線で恵比寿へと駆け抜けた。

 Googleマップに導かれて入った店はウッディを基調とした暗闇に溶ける琥珀の灯りが静かに滲む空間だった。大人数で賑わうことのできるテーブル席というのは、一切存続しておらず、バーテンの背面に並ぶ酒を嗜むためのカウンター席が横に伸びているだけで、何組かのカップルが散っている中、彼は端にいた。

「遅くなってごめん」

「ん、大丈夫」

 宝石を溶かしたかのような艶やかな黄金色の液体が浮ぶグラスを片手に持ち、私を見つめる。

「何飲んでるん?」

「ウイスキー。奈緒は何飲む?」

「うーん、ブランデーしよっかな」

「へー、意外。それ頼むってことはお酒強い方なんや」

「いや、そうでもないよ。ただカクテルとかサワーとかの甘いものよりもちょっと苦みのあるものの方が好きなだけ」

「ふーん」

 相槌を漏らしながら、ウイスキーで喉を鳴らす彼の姿は、どんなアダルトコンテンツに勝ものはないほどの官能的な魅力で、私を煽らせようとしてくる。

 そんなこんなで、注文を済ませると、「俺もオールドファッションドお願いします」と彼はさらりと告げた。

「ここにはよう来るん?」

「うん。特に趣味とかないから暇つぶしによう来とうねんけど、もうすでに手遅れやと思うんやけどさ、このままやとアル中で早死しそう」

「えー、そうやって結構長生きしそうやけど」

「そうか? でもアルコールで死ぬのって、この世に何の未練が残ってないというか、この世で何も成し遂げようとはしなかったみたいで嫌やねんな」

「あーね」

 だけど、みずみずしく透き通ったお肌を持っているからこそ言えることなんだと思う。

 きっと私たちの共通点というのは『渇き』というものであって、お互いに『刺激』という名の潤いを求めていることには変わりない。

 しかし、『渇き』というものも、今まで潤いが与えられなかったこその水分不足による乾燥と逆に今まで過剰な程の潤いが与えられたこそどんな潤いに対してもただ皮脂が溜まっていくだけの場合がある。

 要は飢えか、飽食か。ただそれだけのことだ。

 水を一口喉に通すと、「お待たせいたしました」という声とともに、くし切りのオレンジが刺っているグラスが目の前に二つ置かれた。

 盃を交わし、舌を濡らす。巨峰や林檎のような果実の甘い香りが絡み合い、喉の奥にスパイスの渋味を置き去りにしていく。

 もっと堪能していたいと、一口、さらに一口としていると、グラスはすでにただの殻になっていた。

「おお、早いね」

「うん、めっちゃ喉渇いてるからさ。すいません、おかわりください」

 口渇なんてある訳ない。ただ脳裏から湧き上がってくる『渇き』を潤したいだけだ。

 だから、呑む。脳内に架空のコールが響き渡ってくる。そして、殻になる。それを二、三回繰り返して、「ぷはっ」とアルコールの熱を溶かす。

「……なんか今めっちゃ生きてるって感じする」

「急にどうした? 奈緒絶対酔ってるやろ?」

「全然。酔ってへんよ、酔ってへん」

「いや、酔っ払いは酔ってないって言うんよ」

「へー、でも今気持ちいいんよな、解放感って感じで」

「まあ、分らんこともないけど」

「この時間が一生続けばいいのに」

「俺も」

 その物言いに、アルコールとは別の熱が身体に浸食してくるのが分かった。

 グラスを包む手のひらのせいか少しばかり蕩けた氷に視線を落とすと、そのカクテルを飲み干す彼の音だけに意識が研ぎ澄まされる。

「なあ、快楽ってさ、実際辛いけど、気持ちよく感じられるよな」

「急に何よ、そっちこそ酔ってるやろ?」

 唇が微かに震えつつも、とっさに溢れた言葉を吐き出す。

「今だってさ、いつもと違って頭とか腹の中とか少しつらい感じあるけど、結局なんか気持ちいいやん」

「まあそうやけど」

「あのさ、試してみない?」

「な、何を?」

 ただならぬ欲情の雰囲気にのまれ、お会計と言ってクレジットカ―ドを提示する彼に思わず腹の奥がざわめいてくるのを感じる。

 あっけなく手を取られ、タクシーに乗り込む。

 ガラス越しの街の風景は、ただの雑踏になって遠ざかっていく。

 タワマンに足を踏み入れ、部屋の扉を開くと、何より熟して柔らかい唇が私の唇に付着した。

 未だ感じたことのない感覚だった。何度も重ねていくうちに深くなって甘くなっていく。

 ショートケーキのように一口の甘さが、摂取していくうちに満腹になって苦痛を催すのではなく、さっきみたいにアルコールを摂取するたびに頭や胃の中はじんわりとした痛みと軽やかな浮遊感に襲われたとしても、またあの甘さが欲しくなってしまう類のものだ。

「やば……かわい」

 耳元で囁かれる声は、私を求めてくれているようで、まるでこの世界のヒロインになったかのように、空っぽだった胸にはドクドクと急激に血液が溜まっていく。

 さよなら、ハイライト。

 もう吸わなくてもいい気がしてきた。

 だって、甘い香りと苦い煙が混ざり合って、夜風にちっぽけな灯が溶けていくように、私も今夜、長く胸の奥にくすぶっていたちっぽけなものを手放せるのだから。

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