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第一章 『小説家』(訂正:3月23日 18時48分)

 デスクに乗せた腕に頬を預けたまま瞼を開くと、いつの間にか部屋は陽射しで満たされ、着信音だけが響いていた。

 画面には立花さんと表示されていて、真冬なのにもかかわらず、スマホを握る手にじんわりと汗が滲んだ。

「原稿まだ?」

「はい、あの、完成してなくて……」

 電話の向こうで、「はあ」と溜息が聞こえてくる。

「うちもさ、商売でやっているんだから、そろそろ出してくれないと困るんだけど」

「すみません」

「じゃあ、あと一か月待ってあげるから、それで出せなかったら契約破棄ね」

「待ってくださ……」

 電話は唐突に切れた。契約切らないでくださいと言い残した言葉はあったが、二か月も締め切りを延期してもらっている奴の言い分なんて通らないだろう。

  スマホを持ったまま、大の字で床に寝転ぶ。冷えが背筋に浸透してくる。視界には電球が映っていて、五歳の頃、海で溺れて海面越しに見えた太陽を彷彿とさせてくる。

 あのとき、溺死しかけた私を救ってくれたのは、地元のダイバーだった。だけど、小説家として死にかけている今、私のダイバーになってくれる人間は誰一人としていない。

 きっと、次の締め切りも間に合うはずがない。

 はあ、終わってしまうのだろうか。もうすぐ『如月(きさらぎ)(じゅん)』としての人生は終わってしまうのだろうか。

 正直言って、この職を手放したくはない。だけど、パチ屋と書店のバイトの掛け持ちをしながら、東京で生き残るには、もう限界だ。

 耳の中で、季節外れの蝉が鳴いている。これが虫の知らせというものなのかと実感していると、右手が少し揺れ動いた。

 正体は、りりあからの同窓会へのお誘いLINEだった。

 〈無理〉と送信したが、すぐに既読がつき、電話がかかってきた。

「なんで?」

「嫌やから」

「えー、なんで嫌なん?」

「嫌なもんは嫌や。めんどいから行きたないねん。それこそなんでこっちが行かなあかんの?」

「だって黒川くんに会えるんやもん。奈緒(なお)あの子と幼馴染やろ」

「あーね、でも高校入ってからたまに話すぐらいしか関わってへんし。卒業してからも全く連絡取ってないわ」

「そこをなんとか。黒川くんと話す機会ちょうだい。頼む」

 高校時代、りりあは、休み時間や下校時のたびに黒川くん、黒川くんと口にしていた。そのぐらい、彼のことが好きだった。

 私も彼が好きだった。

 だけど、りりあと私の『好き』の種類は違う。おそらく、りりあの『好き』は、性の対象としての『好き』であり、あわよくば、今回の機会で彼との関係性を発展させたいのだろう。対して、私の好きは、見ているだけでいい、視界に入れておけるだけで幸せになれる、まるでアイドルや俳優を推すかのような、そんな『好き』だった。

 だから、りりあが彼と恋仲になろうが、ならないは別にどうだっていい。

「しゃーないな、行ってあげるわ」

 かつての胸の高鳴りがりりあに悟られないように、私はめんどくさげなふりをして了承した。

 そして、電話を切った後、心拍の揺れを全身で感じられる期待感と共に、すぐさま彼に会うために必要なものをキャリーケースに詰め込んだ。

 

 東京から新幹線で三時間かけて着いた姫路にある実家は、居心地が悪い。

 白い壁は所々黒ずみが目立ち、床にはスーパーの袋やらいつ開けたのかわからない午後の紅茶が転がっている。私は何度かきれいにしようと手を伸ばしたが、母に「物がどこにあるのかわからなくなる」とか、「ホコリが被って汚いから触るな」などの理解不能な言いがかりを付けられ、毎度止められてしまう。

 父は、海外赴任続きで、私が幼い頃からほとんど家に帰ってくることはない。その結果、母は日用品やら食品をそこら中に置き、我が家を自分の城のように占領するようになった。

「あんたいつまであの仕事続けるん?」

 ソファーに寝そべり、スマホをいじる母が無愛想な口調で訊ねてきた。

「いつまでって、ずっと続けていくつもりやけど」

「ふーん、そういや、姉ちゃん来年から主任に昇進するらしいで。あんたもそろそろ姉ちゃん見習ってちゃんとした仕事就いたらどうなん?」

「ちゃんとした仕事って、小説家もちゃんとした立派な仕事やろ」

「いや、あんなもん自分の好きなこと書くだけの楽な仕事や。収入も安定せいへんし、ええ加減手に職つけるべきやで」

 母の言っていることは、胸が痛くなるほどわかる。だけど、なんだか地雷を踏まれたような気がして、痛みのようなむず痒さが身体中に走った。

 小説家は決して楽な職ではない。

 基本、作品が売れなければ収入は入ってこないし、売れたとしてもごく一部しか貰えない。そして、どれだけいい話が書けたと自己満足をしていても、その良し悪しを判断するのは出版社だ。ボツにされることもよくあることで、そのたびにネタやプロットを考え、執筆する。完結させるまでの時間は膨大で、この世で最もコスパの悪い職だとも言えるだろう。

 でも、こんな事を言っても母に通じるわけがない。だって、自分が常に正しいと思い込んで偏見しか口にしない、まさに我が家の傲慢な女王様なのだから。

 

 翌朝、ネイビーブルーのワンピースに身を包んで洗面台に立つと、水垢のせいか鏡に映ったワンピースは、歪な水垢模様が刺繡されているように見えた。

 そして、メイクをするため、前髪をピンでとめると、額にも水玉模様というかニキビがいつの間にか充満していた。

 そういえば、中学の頃、よく姉に肌が汚いと騒がれた。

 姉は当時大学二回生で、バイトの給料を惜しみなく使い、日頃から皮膚に粉を付着させたり、液体を塗り重ねたりとしていた。

 対して私は、見た目のことに関して全くの無頓着であったせいか、顔中は常にニキビに支配されていた。

 さらに、姉は『ニキビは自分を甘やかしている証拠』と弁明してきたこともあった。どうやら、甘いものとか脂っこいものばかりを食べ、睡眠や運動の不足による怠けた生活習慣の影響で出来てしまうらしいが、私には怠けていた記憶など一切ない。

 むしろ視界がぼやけて、気づいたら床に寝そべっているという状態になるぐらい頑張っていた方だ。


 学校に行っても、家に居ても罵声を浴び、たまには暴力も受けて常に心や肉体のどこかしらを痛める日々は、今まで生きてきた中で、一番苦しいものだった。

 いつもうつ伏せになって黄ばんだマットレスを濡らしていたのだが、段々と瞳の奥は水分不足になっていく感覚に見舞われ、やがて毎朝洗面台の鏡に映る私の瞳は赤く乾いていた。

 何のために生まれて、何をして生きるのか。幼少期によく聞いていたアニソンのフレーズを寝る間を惜しんで考えてはみたが、決して生きている意味なんてないから死のうとか思わなかったというか、そういう考えが思い浮かばず、ただ疑問だけが私の中に沈殿していった。

 勉強、運動、食事、睡眠。何もかもどうでもよくなって、いつの間にか学校に行くのもやめて、家から一歩も動かなくなった。

 そして、入浴することもなくなったせいか身体には、痒みが襲ってきて掻きむしるようになり、指の爪は垢で黒ずんでいった。

 しかし、ある時頬に虫が這うような痒みが走って、いつもより強めに掻いていると、指が赤く滲んでいた。

 急いで洗面台に行くと、鏡に見えた私の頬は、少しふくらみを持った斑点の集合体から血液が流れていた。

 なぜこうなってしまったのだろう。こうなったのは、私のせいじゃない。姉は私のせいだと言っていたが、違う。悪いのは、姉含め私を苦しめる周りの人間だ。

 果たしてこのままでいいのだろうか。このまま他人に言われるがままの人生が私の人生なのだろうか。

 鼻のてっぺんまで伸びきった前髪が、視線を牛耳って重くのしかかる。

 今まではそんな風に感じたことなどなかったのに、どうしてもその重みに堪えられない。

 左手にハサミを掴み、絶壁を切り崩す。

 さよなら私、はじめまして私。

 落ちていく髪がそっと頬を撫でた。

 

 それから、また学校に通い始めた。今まで勉強していなかった分を毎晩遅くまで補って、家からは遠いが何とかかなりハイレベルで有名な進学校に入ることができた。

 だが、そこでは今までみたいな苦しみとは違う苦しみが生まれた。

 攻撃してくる人間は誰もいなかったが、特に目立つものを持たない私を相手にしてくれるのは、りりあぐらいしかいなかった。

 もちろん今まで私の相手をしてくれる人間なんていなかったし、一人でも私のことを対等に見てくれている人間がいるなんて今までと比べたら贅沢なことだと思う。だけど、周りを見渡せば、なんだかんだ皆目立つものを持っていて、それを互いにアピールして共有しあう光景を何度も目にしてきた。羨ましかった。周囲から認められたいとか自分の価値を称賛されたいという欲望を満たせる目立つものがあって、時折苛立ちも抱いた。

 しかし、三年の頃。趣味で小説投稿サイトに書いていた作品が出版社のお眼鏡にかなった時、私を目立たせてくれるものが見つかったような気がして、嬉しかった。

 空っぽだった欲望がやっと報われたという気持ちで満たされていくと同時に、かつてないほどの自尊心が湧いてきて、充実した日々に頬を緩ませた。

 でも、そう長くはなかった。

 デビューからしばらく経ち、二作目が出版された頃。

 私はどれほど世間から称賛されているのか気になってエゴサをするようになった。

 期待を膨らませながら、如月潤と打って検索をタップすると、スクロールするたび画面に浮かんでいたのは、批判だった。

 駄作だとか才能を感じないとか。

 最初は何とも思わなかった。

 でも、書店に行けば、デビューして間もない頃は入口付近に数十冊ほど並んでいたのに、今じゃ本を出せば出すほど隅の方に二冊ほどしか置かれなくなった。

 それからだ。普段は人に言えないような本音や思想を物語にして、自分だけの理想郷を創り上げられていたはずなのに、執筆中、知らない誰かの声が頭をよぎるようになった。

 何度も文字を打っては消し、また文字を打っては消す。

 何を書きたいのか分からなくなっていく。

 でも、やめたくはない。だって、何もかも目立つものがない私をひとときでも輝かせた、唯一無二の武器なのだから。

 もう、生きる意味に彷徨う廃人にはなりたくない。

  

 メイクで隠し切れなかった歪な塊が集結した額を少しでもかわいく魅せるために、前髪にふんわりとアイロンをかける。

 うん、これなら大丈夫。

 漆黒のトレンチコートに、右肩には淡いブルーのバッグ。履き慣れない純白のヒールの中、私は息苦しい空間を飛び出した。

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