第1話 チュートリアルは「敗走」から
目を開けると、視界のすべてが暴力的なまでの「緑」だった。
「うっ……!?」
イエスタは手で顔を覆った。目が痛い。
灰色の濃淡しかない世界に慣れきっていた網膜に、鮮やかな原色が突き刺さる。
鼻孔をくすぐる、むせ返るような新緑の匂い。遠くで聞こえる虫の羽音と、小鳥のさえずり。そして、見上げれば目が眩むほど高い空と、突き抜けるような青。
「ここは……成功、したのか……?」
イエスタはよろりと立ち上がった。
関節の痛みがない。呼吸も楽だ。マスクをしていないのに、空気が甘い。肺いっぱいに酸素を取り込み、彼は涙を流しそうになった。
場所は森の中だ。周囲の植生を確認する。間違いなく「アースガルド」の原生林。それも、まだ酸性雨に汚染されていない、聖歴1900年代の姿だ。
「──見ていろ、俺の必殺剣!」
感傷に浸る間もなく、元気すぎる大声が鼓膜を震わせた。
ビクリとしてイエスタは身を潜める。
声のした方角、木の茂みの隙間から様子を伺うと、開けた広場に三つの影があった。
一つは、身の丈2メートルを超える緑色の皮膚を持つ巨人。
棍棒を振り上げる下級魔族、ゴブリンリーダーだ。荒い息を吐き、筋肉質の身体を威嚇するように揺すっている。
そして、対峙するのは一人の少年。
輝くような金髪に、安っぽいが手入れの行き届いた革の鎧。あどけなさの残る顔立ちだが、その双眸には一點の曇りもない「正義」が宿っている。
(間違いない……歴史書(教科書)で何百回と見た顔だ)
勇者オレオ。
当時17歳。
この時代において唯一無二の希望であり、未来における絶望のトリガー。
彼から溢れ出るマナの光は、肉眼で見ても痛いほどに眩しい。才能の塊だ。歩く原子力発電所のようなものだ。
「さあ行けオレオ! 今こそ英雄譚の1ページ目を刻むのだ! 世界中がお前の活躍を待っているぞ!」
オレオの背後で、もう一人、奇妙な男が声を張り上げている。
毒々しいほど鮮やかなライムグリーンのタキシード。頭には二股に分かれた道化のような帽子。手には豪奢な装飾が施されたリュートを持っている。
細身で背が高く、白塗りの仮面のような整った顔立ちをした男。
トゥデ。
イエスタの記憶にある史料によれば、彼は勇者を「完全勝利」へと導こうとする謎の吟遊詩人であり、扇動者だ。彼の奏でる音楽には、周囲の人間を高揚させ、思考能力を奪う一種の催眠効果があるとも言われている。
「おうよトゥデ! 見ててくれ、あんな魔物、俺の一撃で……!」
オレオが剣を構えた。
ただの鉄の剣だ。だが、彼が魔力を込めると、刀身が黄金色に輝き始めた。
空気がビリビリと震える。
まだ旅立ったばかりの素人(レベル1)のはずだ。なのに、放出されているエネルギー量は熟練の騎士団長クラスを凌駕している。
(……マズい! 強すぎる!)
イエスタの手元にある《クロニクル》が、熱を帯びて振動した。警報だ。
ページがひとりでにめくれ、赤い文字が浮かび上がる。
『運命分岐点:戦闘開始』
『現在予測:勇者オレオの剣気がゴブリンリーダーを両断。その衝撃波は後方の森林1.5kmを消滅させる』
(森が消える!? 馬鹿か彼は! ゴブリン一匹になんてオーバースペックな出力を!)
だが、問題はそれだけではない。
続きの文字が浮かぶ。
『警告:ゴブリンリーダー死亡により、指揮系統を失った配下のゴブリン群(約50匹)がパニックを起こして離散。餌を求めて周辺の3つの村(ココル村、西地区開拓地、見張り塔)を同時多発的に襲撃』
『防衛戦力不足により、死者312名、重傷者500名以上。ココル村は壊滅確定』
背筋が凍った。
オレオが「正義」を行使し、目の前の悪を一人倒せば、見えないところで300人が死ぬ。
それが、因果律の残酷な連鎖だ。
それを阻止する正解ルート(生存ルート)は──
『正解:ゴブリンリーダーの生存・逃走および、森への帰還による群れの統率維持』
(ここで勝たせちゃダメなんだ……! 負けてくれ、頼むから無様に負けてくれ!)
イエスタは覚悟を決めた。
懐を探る。未来から持ち込んだアイテムは少ないが、この「状況」を打開できるものが一つだけあった。
それは、黄色く熟した果実の皮。
通称、《因果滑落式・バナナの皮》。
未来の量子工学と古典的お笑い理論を融合させて生成された、この世の物理法則を無視して対象を「スリップ」させるためだけの特級呪物だ。
「いっけえええええ!! 俺の勇者スラッシュ!!」
オレオが地面を蹴った。速い。
ゴブリンリーダーが恐怖に引きつった顔で固まる。
眉間に向けて、鋭い突きが放たれる──その、インパクトの0.5秒前。
「(……座標固定、摩擦係数ゼロ。行けッ!)」
ヒュッ。
イエスタは木陰から手首のスナップを利かせてバナナの皮を放った。
皮は吸い込まれるように、オレオが次に踏み込むはずの空間へと滑り込む。
オレオの革靴が、皮を踏んだ。
「え?」
オレオの視界からゴブリンが消え、代わりに真っ青な空が見えた。
物理演算のエラーでも起きたかのような速度で、足が天高く跳ね上がる。
ズルッ、という間抜けな音が森にこだました。
「ぶべらっ!!」
伝説の勇者は、完全に無防備な顔面から地面に激突した。
握られていた剣がすっぽ抜け、明後日の方向へと回転しながら飛んでいき、遠くの木にカッ! と突き刺さった。
シーン……。
森が静寂に包まれた。
棍棒を振り上げていたゴブリンリーダーも、リュートを奏でていたトゥデも、時間が止まったように口をあんぐりと開けている。
(……今だ!)
イエスタはすかさず「音声伝達魔法」を起動。
ゴブリンにだけ聞こえる周波数で、なおかつ「ゴブリン語」に翻訳して、茂みから声を飛ばした。
『おいデカいの! チャンスだ! こいつはただのバカだ! 今のうちに西の森へ帰って、群れを連れて山奥へ引っ越せ! ここにいたら全員殺されるぞ!』
同時に、わざとらしくガサガサと茂みを揺らし、人間がたくさん潜伏しているような気配を演出する。
我に返ったゴブリンリーダーは、突然の勇者の自爆と、謎の声への恐怖でパニックに陥った。
「ギャッ! ギャオー!!(訳:やべえ、罠だ! 逃げろお前ら!)」
ゴブリンは村とは逆方向、イエスタが誘導した「深き森」の方向へ脱兎のごとく逃走を開始した。
土煙を上げて消えていく緑の背中。
「あ……あ……待って、俺の手柄……」
地面に顔を埋めたまま、オレオが呻く。
イエスタは木陰で史書を確認した。
『対象の逃走を確認』
『村の壊滅回避。死者ゼロ。運命修正完了』
文字が赤から金色へと変わった。
ふぅ、と深い安堵のため息をつくイエスタ。これで、最初の300人の命は救われた。英雄の「無様なコケ方」一つと引き換えに。
さあ、ここからが「歴史学者」の仕事(芝居)の本番だ。
イエスタはローブの埃を払うと、眼鏡の位置を直し、深呼吸を一回。
そして、「偶然通りがかったただの学者」という仮面を被り、二人の前へと歩み出た。
「おやおや、大丈夫ですか? 若き冒険者の方。随分と派手な……受け身でしたね」
「あ……ああ……」
森の土の上で、オレオは顔を上げた。
鼻血を出している。金髪には泥と枯れ葉が絡まり、さっきまでの輝かしい英雄のオーラは見る影もない。
「なんという失態だオレオ! つまらん! 実につまらんぞ!」
リュートを掻き鳴らす手を止め、トゥデが苛立ちを隠さずに怒鳴りつけた。
「ゴブリン一匹、それもあんな下級種ごときを一撃で屠り、鮮血のシャワーを浴びながら決めポーズ……それが勇者のお約束だろうが! なんだ今の無様なズッコケは! 視聴率が取れんだろうが!」
「うぅ……ごめん、トゥデ……足が、勝手に滑って……」
オレオが涙目で弁解する。
本当に足が勝手に(・・・・・)滑ったのだから嘘ではないのだが、そんな未来のオーバーテクノロジーの存在など誰も知るよしもない。
「チッ……まあいい。まだ旅は始まったばかりだ。編集すれば済む話だ。さっさと立て」
「お待ちなさい」
オレオをステッキのように扱って立たせようとするトゥデの間に、イエスタが割って入った。
「あぁん? 誰だアンタは」
トゥデが蛇のように細い目をイエスタに向ける。道化のようなフェイスペイントの奥にある瞳は、笑っていない。
「私は通りすがりの……しがない学者です。イエスタと呼んでください」
イエスタは慇懃無礼に会釈をし、オレオに手を差し出した。
「お怪我はありませんか? 派手に転びましたね」
「う……あ、ありがとう。俺、大丈夫です。怪我はないけど……」
オレオがイエスタの手を借りて立ち上がる。その手は大きく、剣ダコで固かった。純朴な青年の温もりが伝わってくる。
オレオは俯き、自分のブーツの泥を見つめた。
「俺は……ダメな奴だ。最初の一匹すら倒せないなんて。こんなんで、世界を救えるのかな……」
その言葉に、イエスタの良心がズキリと痛む。
ごめん、オレオ。君は悪くない。あのバナナの皮は、最新鋭戦車のキャタピラすら空回りさせる凶悪兵器なんだ。君が避けられるはずがない。
でも、君が勝つと世界が終わるんだ。
イエスタはあえて優しい声色を作り、オレオの肩を叩いた。
「いいえ、あれでよかったのです」
「え?」
「あのゴブリンの相を見ましたか? 彼には《撤退》の相が出ていました。あのまま追い詰めれば、彼の一族が暴走して、近くの村……ココル村を襲ったかもしれません。君のその華麗なる《威嚇攻撃(ただの転倒)》が、無益な殺生を避け、結果的に平和を守ったのですよ」
「ほ、本当に……?」
オレオの瞳に、わずかに光が戻る。
チョロい。あまりにも素直すぎる。
未来の記録でも彼は「純真無垢」とされていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「詭弁だな」
鼻を鳴らす音がした。トゥデだ。
「学者先生よ、俺の演出にケチつける気か? 俺はトゥデ。この男の偉大なるサーガを記録する吟遊詩人だ。俺が見たいのは、敵を粉砕するカタルシスあふれる《勝利》なんだよ」
「勝利だけが平和への道ではありませんよ、トゥデさん」
イエスタは穏やかに微笑み返したが、目の奥では氷点下の冷徹さで彼を見据えた。
トゥデ。正体不明の男。
未来において彼の名前は「歴史の影」としてしか残っていない。勇者を扇動し、より過激で、より派手な破壊行為へと駆り立てた黒幕。彼こそが、オレオを「魔王より恐ろしい正義の執行者」に変えた元凶なのだ。
(こいつだ。この男からオレオを引き離さなければ……)
「オレオ君。ココル村へ向かうのでしょう? 私も同行させてもらえませんか。実は……恥ずかしながら道に迷ってしまいまして」
「えっ、本当? 俺たちでいいなら全然いいけど……いいよね、トゥデ?」
「……チッ」
トゥデは不満げに舌打ちしたが、すぐに道化の仮面を被り直して、わざとらしく両手を広げた。
「構わんよ! 新たなる仲間の加入もまた、物語のスパイスだ! 学者、お前は解説役としてオレオの引き立て役になれ!」
「ええ、喜んで引き立てさせてもらいましょう」
イエスタは深く頷いた。
こうして、奇妙な三人旅が始まった。
素直すぎる勇者、オレオ。
勝利の狂信者、トゥデ。
そして、敗北の演出家、イエスタ。
100年後の青空を守るため、歴史学者の孤独な戦いの火蓋は、あまりにも静かに切って落とされた。




