#56「楽しい時間」
アンリが目覚めたことは本当に良かった。
様子を見る限りでは、いつも通りの元気なアンリだ。
そして、少し落ち込ませてしまったが、すでにケントルアを出たことも伝えられた。いつかまた、フォルロさんに会いに行こうとも約束できた。
――ここまでは良い。
...だけど、その前だ。
アンリが気を失っているというのに、私は自分の欲望に従ってあんな行動を...。
アンリが目を開けた瞬間、自分の行動を自覚して完全に固まってしまった。...その上、アンリが目を覚ました安心感と、...自分の行いに対する罪悪感で...涙が...。
自分勝手に動いただけのくせに、アンリに気まで使わせてしまって...ほんとに何をやっているんだ、私は...。
......でも、あの時、アンリの...唇に触れた瞬間、私の思考はうまく働かなくなってしまったんだ......。
心臓から上ってきた熱に、頭を支配されてしまった......。
あの艶やかで柔らかい、魅力的な唇...あれで頭がいっぱいになって――
ドクン――!
――思い出すだけで心臓が跳ねた。
頭の中が幸福感と背徳感でパチパチして、鼓動を早くし続ける。
......だめ...考えると、頭動かなくなっちゃう...。
..........。
――幸福の反芻も、背徳の反省も、いったん忘れよう...。
アンリが起きてくれた今、私がすべきことは思考に耽って悶えることではないのだから。
なんとか思考を切り替えて、口を開く。
「...アンリ、外を眺めるのもいいけどご飯食べよっか。お腹、空いてるでしょ?」
...そう。私の、...さっきの行動も...元々はこれが発端だった。
アンリは私よりよく食べるし、それ抜きで考えても昨日の暴走とその後の気絶......、とにかくしっかり食べてもらう必要があるのは明白だ。
「あ、ほんとだ。おなかぺこぺこ...。」
私がした今の状況の説明に区切りがついてから、外の景色に釘付けになっていたアンリは、お腹が空いていることも忘れていたようだ。
「ふふっ、もう...。干し肉と木の実がまだ余ってるから全部食べちゃってもいいよ。」
そう言いながら鞄に手をかける。
「いいの...!?」
「うん、ノーティアにもうすぐ着くんだもん。余らせてる方がもったいないからね。」
「あ...!そっか...!」
目的地に近くなっていることを実感できたのだろう。アンリの目がより一層、輝いた。
「だから、はい!一緒に食べよ?」
座席に座り、膝に置いた鞄を開く。
「うん!」
元気な返事をしたアンリが私の隣に座り、鞄から取り出した干し肉を食べ始めた。
私も...、いやまずこっちか...。
アンリが目を覚ました後、ベッドから降りた時に隠すようにポケットにしまいこんだ干し肉...、先にこっちを食べなくては...。
食べるのに夢中になっているアンリの目を盗むように干し肉を取り出し、口へ運ぶ。
...そういえばこれ、アンリの口に...。
普段なら、高揚感と共に味を噛み締めるところだが......さっきの行動もあって、罪悪感のようなものが湧いてきた。
...でも、これぐらい、いつものことだし...。
そう心の中で言い訳のようなものを呟き、干し肉に口をつける。
......えへ、幸せ.........♡
...わずかな葛藤こそあったが、結局いつも通りアンリを感じる幸福に身を委ねることになった。
―――。
「あ...もう無くなっちゃった...。」
干し肉も木の実も全て無くなった鞄を見て、アンリが呟く。
やはり、だいぶお腹が空いていたのだろう。私も多少は手をつけたが、残っていたものの殆どはアンリが食べてしまった。
「まだ食べ足りない?」
「...えっと、...ううん、大丈夫。」
正直に言えば、まだ食べたいのだろう。アンリの口調は少し遠慮がちだ。
「ふふ、遠慮しなくてもいいよ。...実はね、この鉄道には車内販売があるらしくて、今日のお昼からなら軽食を売ってくれるんだって。」
昨日、鉄道に乗った時に乗組員の人から軽く説明を受けている。この鉄道は、ノーティアに着くまでにいくつかの駅で一時停車するらしいが、その駅がある街で料理を仕入れることになっていると聞いた。
「...え!?お店じゃないのに!?」
私の言葉にアンリが驚く。
「うん。だから、お昼になったら買いに行こっか。」
「うん...!」
大きく頷くアンリが嬉しそうに笑った。
...でも、楽しい時間は一度終わらせなくては......。
アンリが目を覚まし、お腹も多少は満たされたであろう今、次にしなくてはいけないのは昨日の話だ。
アンリの暴走やあの少年のこと......昨日起こった出来事をアンリが把握している訳ではないと思うが、...それでも何を知っていて、何を知らないのかを確認しておきたい。
「ねえ、アンリ。」
「なあに?スズネちゃん?」
「...昨日のこと、聞かせて欲しいの――。」




