007
東京のダルマチャクラのサドゥー訓練施設のエントランスルームに、私は立っていた。セミロングの、陽の光を少し含んだような茶色の髪が揺れる。目の前には、いつもの朗らかな笑顔で私と握手を交わす巳垣教官がいた。
半年はかかると言われた訓練を、私はたった一ヶ月で終えることができた。その分、内容は息つく暇もないほど濃密だったと思う。ほぼ全ての時間が、肉体の限界を高めるための鍛錬と、愛機ナーダを意のままに操るための訓練に費やされた。朝目覚めてから夜眠りにつくまで、ひたすら体力トレーニングか、ヴァジュラのシミュレーターでの苛烈な訓練。そして、容赦のない実機でのテスト。休憩時間ですら、基礎的な戦術論などが矢継ぎ早に叩き込まれた。そんな過酷な訓練期間を、異例の速さで終えられたのは、私のナーダに搭載されていた操縦系が、思考と直結する感応型コントロールだったことが大きい。頭に描いたイメージを、まるで自分の手足のようにダイレクトにトレースしてくれるそのシステムのおかげで、機体を動かすこと自体は、訓練施設に到着したその日にできたのだ。それはこの操縦方法においては驚異的な速さらしく、普段は冷静な巳垣教官も目を丸くして驚いていた。
「あなた、そんなにも滑らかに歩かせているけれど、頭は何ともないの!?普通は強烈なフィードバックがあって、ひどい頭痛に襲われるはずだけれど…。」
「えっと、特に何もありません。本当に大丈夫ですよ?」
通常は、機体を歩かせるイメージを描くだけでも精一杯で、立たせることができれば上等らしい。どうやら、私は頭の中で鮮明なイメージを構築することが、人並み以上に得意なようだった。
それでも、長年の習慣として染み付いた本能的な反射や、予期せぬ瞬間に露呈してしまう隙を埋めるためには、綿密なイメージの補強が不可欠で、訓練の大半はその作業に費やされた。
「攻撃に対して逃げ腰にならない!回避行動はしっかりと!!ただしゃがんで縮こまっても意味がないでしょ!!回避行動は前に教えたはずよっ!!本能に抗いなさい!しっかりとイメージを制御するのよ!!」
巳垣教官の鋭い叱咤が、容赦なく私の意識に突き刺さる。私は、まるで暴れる馬の手綱を握るように、本能に振り回されないようイメージの制御に全神経を集中させ、ナーダの操縦に努めた。その甲斐あってか、目に見えるほどに私の操縦技術は向上していき、訓練開始から三週間後には、敵の攻撃にただ怯えてしゃがみ込むような、頼りないナーダの姿は消え去り、状況に応じた的確な回避行動を迷うことなく取れるようになっていた。
「大分、イメージの作り込みが上達したわね。正直、感応操作型はケースが少なくて、私自身も上手く教えられるか少し心配だったのだけれど、この調子ならきっと大丈夫ね。」
「ありがとうございます、巳垣教官!」
私の操るナーダは、前線で敵と直接交戦する機体ではなく、味方機に強化の光や音を投射することで、間接的に戦況を有利に導く後方支援機だ。銃や剣を手に取り、敵と直接斬り結ぶ他のヴァジュラに比べると、私にはずっと抵抗がなく、馴染みやすい機体だった。
こうして、ナーダとの驚くべき相性の良さにも助けられ、私は予想をはるかに上回る短期間で訓練を終えることができた。その背景には、一刻も早く雷人くんや月華の力になりたい、そして、この世界からハジュンという禍根を一掃したいという、誰にも負けない強い願いが、常に私を突き動かしていたということも大きい。
訓練を終えて別れ際、巳垣咲菜教官は柔らかな眼差しで私にこう言ってくれた。
「最低限のことしか教えられなかったけれど、美桜さんならきっとやり遂げられるわ。鹿島支部での活躍、期待しているわね。」
「頑張ってきます、教官!」
一ヶ月の訓練を経て、私は再び学校の門をくぐった。その足取りは、以前の鉛のように重いものとはまるで異なり、地面をしっかりと踏みしめる、確かな力強さを感じさせるものだった。
教室の扉を開けると、案の定、待ち構えていたように嫌な視線が突き刺さる。そこには、自信に満ち溢れた表情をしたクラスメイトの少女がいた。
少し釣り上がった切れ長の瞳は鋭く、射抜くような強い光を宿している。整った顔立ちにはどこか冷たい印象があり、薄く引き結ばれた唇は、どこか嘲りを含んだ笑みを浮かべている。手入れの行き届いた黒髪は肩にかかる程度の長さで、時折、挑発的な視線と共に揺れる。華奢な体つきなのに、その立ち姿には有無を言わせぬ威圧感が漂っていた。イジメのリーダー格である息栖美沙希さんが、愉快そうに嘲弄の色を深めながら、声をかけてきた。
「なんだ、てっきり人間の裏切り者は、そのままどこかに消えたんだと思ってたわ。」
私は、肺いっぱいに深く息を吸い込み、逃げることなくまっすぐ息栖さんの瞳を見据えた。
「…私は、最初から裏切ってなんかないわ、息栖さん。これを見てくれればわかるわ。」
そう言って、私は制服のポケットから丁寧に折り畳まれた一枚のカードを取り出し、息栖さんの目の前に差し出した。それは、紛れもないダルマチャクラが発行する、正真正銘のサドゥーであること、ヴァジュラのパイロットであることを証明する身分証明証だった。
「そんな…、まさか!?」
息栖さんは、まるで理解が追いつかないといった表情で、声を震わせながら叫んだ。私がサドゥーになったという事実は、まだ誰にも知らされていないようだった。
「ハジュンカルトの、あんたが、なんでよ……!?」
私は、彼女の混乱を静めるように、落ち着いた声で告げた。
「前から言っていた通りよ。私は、ハジュンカルトの信者の家族だった。けれど決して、信者そのものじゃない。」
虐められている時も、私は常にそう主張してきた。私は私で、信者ではないと。それでもハジュンによって両親が働いていた大切な工場を奪われ、その後の生活が困窮を極めた息栖さんにとって、ハジュンカルトは断じて許すことのできない、憎むべき存在でしかなかったのだと思う。あんな異質な存在を盲信し、崇めている人間は、正気の沙汰ではないとさえ思っていたのかもしれない。そのハジュンへの根深い憎悪の矛先は、高校入学にいつしか私へと向けられ、陰湿ないじめという形で歪に発散されていたのだった。
「ふん、そんな言い訳をしたところで、あなたがカルトの人間だったという事実は決して消えないんだから。雷人くんも、こんな薄汚い人間と関わっていると、白い目で見られることになるわよ。」
何事かと心配そうに近づいてきていた雷人くんを、牽制するように冷たい言葉を投げつけ、息栖さんはくるりと背を向けて自分の席へと戻っていった。
「大丈夫か、佐藤さん?再登校初日から、これじゃあ先が思いやられるぜ。サドゥーになったなら、むしろ今までのことを謝ってもいいくらいだと思うんだぜ。」
雷人くんも、いつもの穏やかな表情とは裏腹に、明らかに怒気を孕んだ声で、息栖さんに向かって聞こえるようにそう言った。私には、雷人くんが迷うことなく私の味方でいてくれることが、何よりも心強く、温かく感じられた。
その後、授業は形式通りに進んだ(一ヶ月の遅れを取り戻すには、相当な努力が必要だと痛感したが)。昼休みになると、前までは自分が置かれている複雑な状況を伝えるのが億劫で控えていたLINEでのやり取りを、月華としながら昼食をとって過ごした。雷人くんと月華という、かけがえのない二人の存在だけで、私の学校生活に彩りが戻ってきたように感じた。
放課後になると、私は雷人くんと一緒にダルマチャクラ鹿島支部へと戻り、実戦を想定した二時間ほどの訓練に臨んだ。訓練の内容は、主にナーダタイプの支援能力を最大限に活かした場合の、多様な戦術や戦法を徹底的に検討し、練り上げていくというものだった。
「しかし、改めて本当に凄いな。普通じゃ、一ヶ月で巳垣教官が訓練完了を許可するなんて、到底考えられないぜ。あの鬼教官だろ?1カ月っていったら、歩かせる、走らせる程度がせいぜいだと思うぜ。」
雷人くんが、今も鮮明に覚えているらしい巳垣教官の厳しさについて、半ば呆れたように感想を述べた。それに、隣にいた月華が深く頷きながら応じた。
「確かにそうね。私も訓練生として巳垣教官に直接指導してもらったことがあるけれど、私はみっちりと一年間、基礎から叩き込まれたわ。そのおかげで、今ではこの鹿島支部で、トップクラスの操縦技術を持つと自負しているけれど。雷人もそうでしょ?」
「ああ、俺も丸一年かかったぜ。おかげさまで、初陣で致命的なミスを犯すことなく、無事に終えることができたんだぜ。だけど、それとこれとは全く別の話だぜ。佐藤さん、一体どうやったら、そんな短期間で訓練を終えることができたんだ?」
二人の抱く疑問は、至極もっともだった。その率直な疑問に対して、私は少しだけ言葉を選びながら口を開いた。
「あのね。私の場合、幸運なことにナーダの操縦系と信じられないくらい相性が良かったみたい。あとは、どうしても苦手な状況下での反射行動を、無意識レベルで正確に行えるようにするための矯正訓練がメインだったの。ナーダは、他のヴァジュラのように敵と直接戦闘する機会はほとんどないから、そういった戦闘用の訓練も、ほとんどしなかったというのも大きかったと思う。極端な話、ナーダって戦場にただ存在するだけで、味方にとっては大きな意味がある機体みたいだから。」
自分の操る特殊な機体と、一般的な戦闘用ヴァジュラとの大きな違いを強調する。雷人くんと月華は、ナーダという機体の詳細については詳しく知らないので、私の説明で大体は納得してくれたようだった。自分が一日でも早く訓練を完了させ、鹿島支部に戻って二人の力になりたいと、常々強く願っていたことは、そっと胸の奥にしまい込んだ。
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その日の放課後、息栖美沙希はいつも一緒にいる友人たちと別れ、一人で自宅の自室に戻ると、やり場のない苛立ちを隠すことなく、荒々しくベッドに腰掛けた。
「一体どういうことよ!?あの女が、どうしてサドゥーなんかになっているのよ!!どう考えたって、ハジュンの仲間でしょ!?」
息栖美沙希は幼い頃に両親が懸命に働いていた工場をハジュンによって理不尽に破壊され、その後の生活が困窮を極めたという、癒えることのない深い傷を抱えていた。彼女にとって、ハジュンは全てを奪い去った絶対的な悪であり、そんな存在を崇拝する人間がいるなど、到底理解できることではなかった。信じれば願いが叶うなど、所詮は弱者を食い物にする都合の良い嘘だと彼女は確信していたし、そんな虚妄の教えを心の拠り所にして、精神の安定を得ようとしている人間たちは、狂っているとさえ感じていた。
高校に入学して間もない頃、クラスメイトの何気ない会話の中から、佐藤美桜が、その忌まわしいハジュンカルト集団の信者の子供であるという噂を耳にした時、美沙希の中で攻撃の対象になった。許し難い存在が、同じ教室で息をしていること自体が耐えられなかった。そうして、彼女は持ち前の弁舌と、周囲の空気を読む巧みな能力で友人たちを言葉巧みに操り、佐藤美桜への陰湿ないじめを始めたのだった。当初は、ハジュンカルトの関係者だからという大義名分があったものの、いじめがエスカレートしていくにつれて、次第にその焦点は佐藤美桜という個人へと移っていった。いつの間にか、手段と目的が完全に逆転していたが、そんなことは美沙希にとってはどうでもいいことだった。
彼女をいじめている間だけは、自分が世界の中心にいるような、優越感と支配欲を満たす快感を覚えることができ、鬱屈とした日常から解放されるような気がしていたのだ。だからこそ、今日の昼間の美桜の、どこか自信に満ちたような毅然とした態度は、彼女の歪んだ自尊心を深く傷つけた。そして、サドゥーになったことで、これまでいじめの根拠としてきた大義名分が、もろくも崩れ去ってしまったことにも、激しい憤りを感じていた。よりによって、あのハジュンカルトの信者の娘が、正義の味方であるヴァジュラの乗り手になっているなど、彼女の歪んだ正義感では到底納得できるはずもなかった。
誰にもぶつけることのできない、煮えたぎるような憎しみは、今や美沙希の心の中で深く沈殿し、底なしの沼のように淀んだ、黒い感情の塊となっていた。その暗く、陰湿な想いに呼応するように、美沙希の薄暗い自室の、誰も気づかないような片隅で、まるで生き物のように蠢く、おぞましい影があった。
それは、まるで悪夢のように突然訪れた。先ほどまで激しい怒りで紅潮していた美沙希の顔色はみるみる悪くなり、今度は内側から激しい痛みが襲ってきたのか、苦悶の表情を深く刻み始めたのだ。
「ぐっ……、気持ち悪い……。一体、何なの……?私の体に、何が起こっているの……?」
そして、常識では考えられない異様な光景が展開された。美沙希の部屋の窓ガラスが音もなく砕け散り、無数の小さな黒い羽虫が、まるで意思を持っているかのように、苦悶の表情で開かれたままになっている美沙希の口へと次々と吸い込まれていく。直後、体内で何かが蠢き、彼女の肉体を内側からゆっくりと、しかし確実に作り変えていくような、おぞましい変化が、静かに、そして着実に進行していった。
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その日の訓練を終え、鹿島支部の待機場で、今日の訓練内容について話し合っていた私たちの三人。ふと、話題はそれぞれの愛機の愛称へと移っていった。
「そういや、佐藤さんのナーダタイプの愛称って、確かまだ聞いてなかったよな?俺の愛機はアルチスっていうんだ。輝く炎みたいな意味があるらしいぜ。月華の愛機は紗月だよな。」
雷人くんが、少し誇らしげに自分の愛機の名前の由来について語ってくれる。月華の愛機は紗月。それは、きっと月華の名前の一文字から取った、美しい愛称だろう。
「ええ、そうね。紗月は、この機体の元の持ち主の方から譲り受けた名前だから、残念ながら、私自身はその由来を詳しく知らないのだけれど。元の持ち主は、確か雷人のお兄さんだったはずよ。」
「ああ、兄さんは、確か『儚くも美しき、時の流れ』、そんな意味を込めた名前だと言ってたぜ。本当に、綺麗な名前だよな。で、ナーダの名前は何になったんだ?」
「それがね、エイダになったわ。英語のエイド(援助)をもじった感じになるのだけれど。」
私が名付けたわけではないけれど、少し安直すぎるような気もする。でも、どこか温かみがあって、不思議と今の私にはしっくりとくる、大切な名前だと思っている。
その後も、とりとめのない会話を楽しみながら、訓練後の温かい夕食を心待ちにしていた。ダルマチャクラの寮の食事は、意外なほど美味しくて、ささやかながらも私の楽しみの一つになっていたのだ。
その時だった。ハジュン発生の警報音がけたたましく校舎中に鳴り響き、同時に付近の住民に避難を促す緊急放送が流れた。私は驚きと同時に、顔を見合わせた雷人くんと月華と共に、一瞬の迷いもなく、それぞれの巨大な人型兵器ヴァジュラのコクピットへと乗り込んだ。




