十二杯目 『二人が選んだ道の巻』
そのころ、茨木の館では、思わぬ事態になっていた。
昨日の夕刻とほぼ同じ構図で酒宴が行われている。違っている点が二つ。一つには、蒼親と恵の間に伊八が座っていること。もちろん両側には燿花と津螺良が座っており、次々に酒肴と徳利を運ぶ、子狐も一緒だ。
もう一つ違っている点は、恵が女子の色打掛で座っていることだ。
恵は寝落ちしてしまった白童に布団を掛け、自分もそばで仮眠をしたあと、昼には、酒蔵に来た。醸す仕事をおぼえなくてはならない。だが、昨日と同じように様子を見に来た蒼親は、恵の姿をみるなり、自分の肩に担いで茨木の館に連れてきた。攫ってこられたというのが正しいかもしれない。
「今から、お前と祝言を上げる」と言いいながら。
伊八はまめだに何かを伝言すると、あとからすがるようにしてついてきた。
どこでばれたのだろうか。知る由もない。だが、ここは妖の里。誰かが気づいて蒼親に言ったとしても不思議はない。
「やはりのぉ。おなごであったか」
「そうかとおもたええぇ。やはり」
津螺良、燿花はそう言いながら、自分達の化粧部屋へ連れ込むなり、恵を着飾り始めた。
派手な柄の着物を何枚もとっかえひっかえ着せられ、最後には、二人が納得した紺地に金蘭豪華な牡丹を全面にあしらった色打掛が選ばれた。
「貴方と祝言を上げるつもりはありません」
当然動きは封じられ、座敷に座らされたままだが、口は動く。恵は言った。
「おなごが都で酒造りなんぞできるわけがない。なら、ここで私の嫁になって、伊八と酒を造ればいいのだ。燿花も津螺良も其方を気に入っておる。酒に強い女子なら私の嫁にちょうどよい」
「いいえ、私は私の酒を、いえ、父が残した酒を都で復活させたいのです。なにより、ここで修行をさせてくれた白童さんや伊八さん、玄翼さん達に美味しい酒を造って恩返しをしたい。それだけです」
「恩返しだと、ばかばかしい。だれも其方の恩返しなど期待しておらんわ」
「それでもいいのです」
「酒蔵の主は私だ。私に恩返ししたいというのなら、私の嫁になってもいいではないのか」
「蒼親さんには、すでに奥方が二人もいらっしゃるではありませんか」
「何人いてもかまうまい」
「私に結婚する気持ちはもともとありません」
「一生を男装のまま過ごすつもりか」
「そうです」
「だれとも? 白童ともか」
恵は一瞬黙った。だが、自分の気持ちを悟られるわけにはいかない。
「そうです。あの方は私を女性としてみてらっしゃいません。私達は同士なのです。お互い志を持ち、支えあうという意味で同士なのです」
「なにが同士だ。其方なんぞにあいつが支えられるはずもなかろう。ばかばかしい」
たった二日、それも数刻。恵が蒼親と過ごした時間だ。それでも、恵には蒼親の気持ちがなんとなくわかった。自分も同じ立ち位置にいたいと思ったからわかったのだ。
「では、ご自身がもっと白童さんの力になって差し上げたらいかがですか」
「何を差し出がましいことを。つべこべ言わずに、私のものになってしまえばいいのだ」
蒼親はそういうと、恵を腰から抱き上げ、部屋を出て行こうとした。
その廊下に立ちふさがったのは、白童だ。
「迎えにきました、お恵さん。蒼親、私のお客人を今度こそ返してもらおう」
「白童さん!」
「これは私の嫁にする。そこをどけ」
「だめだ。お恵さんにはなすべきことがある」
「貴様までそんなふざけたことを言っているのか。この山に入ったのなら、山の流儀に従ってもらおう」
「それを決めるのは私だ」
「ふん。一丁前のことを言うようになったな」
「蒼親のおかげでな」
「何を!」
蒼親は恵を自分の肩からおろすと、白童と向かい合った。
恵は、その間に手を差し入れた。
「待ってください。蒼親さん、私と勝負しましょう」
「なに?」
「利き酒勝負をするのです。貴方が勝ったら、私は貴方の妻になり、白童さんの目の前には二度と現れません」
「お恵さん!」
白童が叫ぶように言い、恵と蒼親との間に入ろうとした。
「白童さん、落ち着いてください」
「いや、しかし!」
「もし私が勝ったら、私は酒造りの修行が終わり次第、都に帰る。そして、蒼親さん、貴方は白童さんのそばにいて、白童さんの志を全うすることに誠心誠意尽くす」
「なんだ……それは……」
恵には蒼親がすでにそうしたいのだとわかっていた。できないのは意地を張っているからだ。本当は一番近くで白童を支えたいと思っている。白童がそうしてほしいと頼みに来るのを待っているのだ。だから、白童が望んでいるものを次から次へと壊さない程度に奪おうとしている。
本当は誰よりも白童の関心を得たいのだと。人にはわからない、妖同族たちの強いつながりのようなものがきっとあるのだと思った。
白童は己の関心が外に向きすぎていて、蒼親の気持ちに気が付いていない。それどころか、避けている。二人が同じ方向を向けばいいだけの話なのに。
「まあいい、付きやってやろう。利き酒勝負だと。ここにある酒で俺にわからないものなどないわ」
「お恵さん、やめてください。お願いです」
白童は、最初から恵が負けると思っているのだろう。顔から血の気が引いている。手元が昨日、焼酎を使った時よりも震えている。
恵は、座敷の襖の影で二人の奥方と成り行き見守っている伊八に声をかけた。
「伊八さん、お酒を選んでくれますか。それと、そのままだと勝負にならないので、水で倍に薄めたものを出してください」
「大丈夫なのかそれで……」
伊八も心配そうに聞いた。津螺良と燿花も後ろでおろおろとしている。
「私は一度飲んだ酒の味は忘れません。薄くなってもです」
伊八は準備をさせてくれといって、子狐達と一緒に座敷に戻った。衝立を置いてその奥で酒の準備をしている。
諸白は四種類、『源頼』『渡綱』『坂金』『卜部』だ。それぞれに原酒と水で調整しているもの。二通り、つまり八種類から出ることになる。
恵は豪華な色打掛を脱いで、燿花に返した。
「寒くはないかええぇ」
「大丈夫です」
「本当の名はなんといいなさるのかのぉ。恵司郎さん」
津螺良が寄ってきて聞いた。
「けいです。この国の名前では恵」
「お恵さん、いい名じゃねええぇ」
白童が恵のそばにきて、自分の羽織を脱いで肩にかけた。
「ありがとうございます」
「お恵さん、今からでもやめるといってください」
恵は首を横に振った。
「白童さん。大丈夫です。蒼親さんを頼ってあげてください」
「頼る……」
「そうです」
恵は白童の手に自分の手を重ねた。
緊張して冷たいはずの自分の手より、白童の手の方がもっと冷たい。
「私は、私は……貴方を……」
白童の言葉を伊八の言葉が遮った。
「準備できました。お二人この前に座ってくだあさい。そのほかの人は後ろに下がってくだあさい」
その言葉で、白童と姫達は後ろに下がって座った。
衝立で見えない後ろで、伊八は用意した膳を一つ一つ、蒼親と恵の前に置いた。
膳には三つの盃が三角形を描くように乗っている。隣では子狐が来て、水の入った徳利と湯飲み茶わんを携えている。
「では、左、右、上の順番で当ててもらえますか。お互いに見えないように、紙に書いてくだあさい」
伊八は恵と蒼親の間にも襖を立てた。
お互いの衝立とは反対側の横に、小さい文机と、その上に硯箱と紙が用意されている。
「水はいくら飲んでもらってもええ」
恵は一つ飲んでは、答えを書き、水で口の中をすっきりさせるという手順を繰り返し、答えを書いた。
衝立の向こう側では、蒼親が、こんなのは一口にもならんとこぼしながらも、書いているのが聞こえる。
多くの他所酒を飲んできた自分の感覚を信じれば、答えはおのずと出る。八つのうちのどれかとは言わなかった。だが、出している酒はこの酒蔵で作られた酒だけだ。
書いた紙は二つに折りたたんで、伊八に渡す。
伊八は自分の方にたててあった、衝立を折りたたんだ。そこには名前を書いた徳利が並べてある。
「お二人とも最初の二つのお答えは一緒でした。左が『源頼』の原酒。右が『渡綱』の水で整えた諸白です。正解です」
恵はほっとした。
やはり最後は割れた。
自分なら少し難しくするために、そうするだろうという手を伊八も使ったような気がした。だが絶対の確信はない。
伊八は、膳の上に、二本の徳利を並べた。
一つは『坂金原酒』もう一つには『卜部原酒』と書いてある。
「なんだその答えは。どっちでもいいってことか?」
蒼親がいらいらとした声を上げる。
「いいえ、最後のお酒はこの二本の原酒を半々にして、倍の水でわってあります。つまり、正しい答えを書いたのは、お恵さん」
伊八は二人の答えを膳の前に並べた。
蒼親の三番目の答えは『坂金』としかかかれていない。たいして、恵の答えは、伊八が言った通り、「 『坂金原酒』と『卜部原酒』の取り交ぜ」と書いてある。
「伊八……お前、俺をだましたのか!」
「めっそうもない。原酒をまぜて、水で整えるというのは、普通に行われる酒の作り方です。お恵さんの舌はそれを利きわけただけです」
ガタンと蒼親が衝立も膳もなぎ倒した。
恵も一緒に立ち上がり、伊八の前に出た。
「二人で俺を……」
蒼親の両手は爪が恐ろしいほどにとがっている。そのまま、一足飛びに恵と伊八に襲い掛かった。
血が飛び散った。
それは、しかし伊八の血でも、恵の血でもない。
伊八の体に、恵がかぶさり、その恵を体でかばった白童の額から血が滴り落ちている。
「は、は……く……なんでお前がここにいる!」
「蒼親、二人を傷つけてはならん……」
「こ、こけにされて黙っていられるか!」
「蒼親、もし、伊八さんやお恵さんに手を出したら、私は、お前を追放する。二度とこの大江山の結界の中には入れない」
「はく……」
後ろから燿花が手ぬぐいを持ってきた。白童はそれを受け取って自分の額に当てている。
「蒼親、私は間違っていた。私はもっとお前のことを信じるべきだった。蒼親にもっと力になってくれと頼むべきだった。今になってそれがわかった」
「何を言ってるんだ……」
「私を許してくれるか。蒼親」
「なぜそんなことを言う」
「お前はずっと怒っていたのだろう。私がお前を軽く扱っていると思っていたのではないか。もしくは私がお前を避けていると」
「白童……」
「そう見えたかもしれない。けれど、私はお前との友情を疑ったことはない。どんなに対立しても、お前がこの山のことを考えていること、私や朱峰を大事に思っていることに変わりはないとずっと思っていた。もし、それが伝わっていなかったのなら、私が悪いのだ。私の力になってくれ。これからもずっと。頼む」
鬼の形相だった蒼親の顔は、爪が短くなり、角が隠れ、普通の表情になった。怒っていた顔はだんだんとつらそうな顔になり、両の目に涙が盛り上がり始めた。
その顔を隠すように蒼親は白童にしがみついた。白童の胸からむせび泣きが聞こえてくる。その二人を今度は、燿花と津螺良が抱きしめている。
恵は、自分の後ろに転がった伊八を助け起こした。
白童は穏やかな顔を恵に向け、会釈したように見えた。恵は自分の涙もぬぐいながら、白童に頷いた。
半月後、とうとう、恵と伊八が作った酒が出来上がった。最初の醪を絞り、火をいれて、水で整えた完成品が徳利に詰められる。
その日は茨木の館で祝いとなった。
大江山の妖という妖が順々に訪れ宴会に加わってゆき、長老たちも鬼達も盛大に飲んだ。
恵は明日都に帰る。
いつまでたってもお開きにならない宴会を恵と白童はそっと抜けて、施薬院まで帰ってきた。
あれから白童は忙しかった。恵ともほとんど話をする時間がなかったくらいだ。蒼親とは大江山の産業を見直した。同時に朱峰と一緒に、人の世に出て行きたい妖達について調べた。意外に出て行きたいと思っている妖達は多い。しかも、どうやって生活していくのかをしっかり考えており、知識も豊富だった。とはいえ、職人になりたい妖は悲田院で養生している職人に話を聞けるとあって、頻繁に悲田院に足を運びに来ていた。また、子供を人の世で育てたい妖達も、子供を何人もそだてたという女年寄を頼ってよく通ってきている。
悲田院では奉公に出られる年ごろになった子供には、奉公先を見つけるのが常だが、志乃は都で自分を探している妓楼主がいると知って、もう少し悲田院にいたいという。なので、小さい子の世話を頼んでいた。
「蔵人の当てはあるのですか? お恵さん」
白童は施薬院で茶たくを挟んで座り、聞いた。お互い酔い覚ましの白湯を飲みながらだ。恵は自身の酒蔵の復活を目指しているとはいえ、一人でつくるのは難しいと恵自身が言っていた。本当は自分が手伝いに行きたいくらいなのだが、そうも言っていられない。
「あかなめさん、小豆洗いさん、まめださんの何人かが人の世で生活したいというので、来てもらう予定をしています。あと、朱峰さんが、すでに都に住んでる小鬼さんたちを紹介してくれるそうです。力仕事を任せられるようにと」
あかなめや、小豆洗いやまめだも、人の世に出るときには人に化けることができる。比較的、人の世には慣れている妖達ではあるし、伊八とずっと一緒にやってきた蔵人だ。信頼もおける。
「それはよかった。安心ですね」
「白童さんの方はどうなんですか」
「前に弟子入りさせてもらっていた門下の先生に手紙を書いて返事を待っているところです。毒消しで倒れるようなことはなくなったと書いて。あと、都の北にある薬草園のつてを探してもらったので、育てている方の話を聞きに行くことになっています」
「あの薬草園、もっと大きくされるのですね」
「土地が限られていますから、あまり増やせはしないのですが、蒼親が自分の土地の畑も使えと言ってくれたので」
ふふっと恵が笑った。
蒼親はあれからなんでも白童に相談しにくるようになった。一人で決めてくれてもいいようなことも、一つ一つ聞きに来る。だが、そのおかげで白童は自分が見ないようにしていた大江山の懐具合も、人の流れも把握できるようになった。全体を見ていなければ、結界の調整も難しいものなのだ。
主になったからといって、すべて自分で背負う必要はないのだと思った。
特に、日ノ本の方々からの妖達からの問い合わせの窓口はしばらく長老たちにお願いし、新しい案件は自分と、朱峰、蒼親とで話をして決めていきたいと思っている。
毎日のように世話を焼いてくれていた玄翼は逆にあまり施薬院には来なくなった。さみしい気もしたが、よく考えれば、銀童に頼まれて、尻を叩きにきてくれていたのだと今は思う。確かに、頭ごなしに山を継げと言った銀童の言葉なら、ここまで、あれこれ白童も考えなかった。
「あの、明日、私が都に帰ったら、もう、この山のこの場所にはたどり着けないのですよね」
恵が言った。
「お恵さん……」
「あ、あの、私が私の力だけで、自分のお酒を作れたら、どうやって届ければいいのかなと思いまして。あ、きっとまめだか小豆洗いが届けてくれますね。彼らはもともとこの山の妖さんだから……」
恵の言葉が途切れ、不意に背を向けた。
「ごめんなさい。都に帰るのは嬉しいはずなのに、さっきの道すがらから涙が止まらないのです」
白童は恵の傍に行って、膝の上で固く握りしめた両手のこぶしに自分の手を重ねた。恵はその手に自分の手を重ねなおし、涙を流し続けている。白童の目からも盛り上がった涙がこぼれだす。
このままここにいてほしい。自分の妻になってほしい。白童は何度か心でつぶやいた言葉を飲み込んだ。今言ってはいけないことだけはわかっている。
「……貴方に会いたくなったらどうすればいいですか」
恵が白童の顔を見上げて言った。
「お恵さん、少しだけ目を閉じて」
恵はしゃくり上げながら目を閉じた。
長いまつ毛が震えている。
白童は、恵の額に自分の唇をゆっくりとつけた。恵の緩やかでしっとりした額の曲線をきっと自分は一生忘れないだろうと思いながら。
「お恵さん、貴女はもう私の印を受け取った。だから、貴女が帰ってきたい時には、この施薬院にたどり着くことができます」
「白童さん……」
「貴方があの利き酒勝負に勝ってくれてよかった。もし、貴方が負けていたら、怒りに任せて、本当に蒼親を追放していたでしょう」
恵が泣き笑いをした。
「お恵さん、貴女に二度と会えないなんて私が耐えられない」
「白童さん……」
「息災で、新しいお酒、できるのを楽しみに待っています」
白童は恵を抱きしめた。
恵はその身を白童の腕の中にゆだね、お互いのぬくもりを忘れないようにしばらくそうしていた。
窓の外では雪が降り始めていた。
凍てつく満月の夜。
都では昨年よりもよく小雪が舞う。
新年も開けて、奉行所のお役目も通常になった。
年末年始は何かとせわしなかったが、やっと、休みが取れた。
小島屋の主人が帰ってきていると噂に聞いて、ようやく、信理は店に足を向けた。店には、引き続き朱虎という番頭がいるようだが、恵司郎はどうやら新しいことをはじめたようだ。
暖簾はかかっていないが、信理はいつもの通り、ゆっくり四回戸をたたいた。
木戸が開いて恵司郎が顔を出した。この寒いのに顔が赤い。中では米の蒸した匂いでいっぱいだ。
奥の蔵からは何やら楽し気な声が聞こえている。米研ぎ唄のようだ。
「零条様。いらっしゃいませ。お役目ご苦労様です」
「あ、いや、今日は非番だ」
「それはよかった。あまり新しい他所酒ははいっていないのですが、飲んでいかれますか」
「ああ、頼む。明日飲む酒も仕入れたい。それはそうと、ご亭主、酒を造り始めたのか」
「ええ、修行先で秀でた蔵人達に会えましてね。意気投合してここで作ることに。そういえば、手紙を託してくださっていたのに、返事をお返しできずにすみませんでした」
「ああ、もうよいのだ。ちょっと聞きたいことがあったのだが、もうよくなった」
「さようで」
大江山の地震調べは、山に迷った挙句、一人、山から転落させ負傷させてしまった。ふもとの里でいい医者が見つかって手当てをしてもらったあと、京都養生所の医者にも見せて、今は家で養生してもらっている。
新屋方の記録も、大した被害はないとなっていた。けものみちと小川の土砂だけは、新屋方が整える手はずをして、それを土産に降りてきた。
奉行所に人買い調べの報告にいくと、番屋の上司から、急に、小若狭藩からの圧力があったらしく、しばらく放っておくようにと言われ、そのままとなった。実際、麓付近の調査では怪しい人物も、行方知れずの人相書きに似た人物も見た人間はいなかった。ろくな調べにはならなかった。
「酒株を復活させるのであれば、先代が喜んでいることであろう」
「ありがとうございます。零条様。こちらに酒肴も用意しましたから。どうぞ、なかなか都では出回らない諸白をごちそうしますよ」
「それはありがたい」
亭主が上がり框に膳を置き、いつもの杉の盃を並べてくれている。見慣れない徳利から注がれた酒は、いい香りだが、強い酒精を感じるあまり都では味わえない酒だった。
「これは、いつか飲んだ『鬼退治の功名』に似ておる」
「さようで。この酒の御銘は『源頼』と申します」
「源頼……なるほど、源頼光が酒呑童子を退治したことから、私の頭の中で別の名前で憶えていたのかもしれぬ」
「私どもも、この酒と同じ米を使って醸す予定です」
「そうか、そうか、それはありがたい話だ。よし、これをいただこう。ご亭主」
「いいえ、これは売り物ではなく譲りものです。ここで堪能してください。これは私のおごりでございます」
「おおそうか、では遠慮なく」
「零条様は相変わらず、いい舌をお持ちですね」
「ご亭主には負けると思うぞ。ところで、新しい酒ができたら、なんと名づけるのだ」
信理は聞いた。出回るなら早めに抑えておきたいと思ったのだ。
「もし納得行くものができましたら、最初は父の作っていた酒の名前『華の雫』に」
「よし、その酒、最初の一樽は私が買うぞ」
「それはうれしゅうございます。ですが、最初の一樽はもうお納めどころが決まっておりまして。あと二樽目もお菊さんの料亭に納めることになっていて。えっと三樽目めでもよろしいでしょうか」
「はて、できる前から納めどころが決まっておるとは、それは何よりだな」
「ありがとうございます」
「人手は足りておるのか? 酒造りなら、私も手伝いたいところだ」
「そんな恐れ多い。人手はなんとか確保できそうです。あと、お得意様の木地屋さんが樽づくりに挑戦したいと言ってくださって。樽の手配も、意匠の手配もできそうで」
「そうか。それはご亭主の人望だな」
「恐れ入ります」
久々に麗しい主人の顔を見ながら飲む酒はうまいと思いながらも、信理は誰かに見られているような気がして、やたらと、戸口付近が気になった。満月の夜に出歩くなど、忍ぶ恋をしている男女だけだろうと、気に留めるのをやめ、酒の味に舌鼓を打った。
「本当に声をかけなくていいのか」
小島屋の前で、玄翼が言った。
「いい。年明けから門下として修行が許されたのだ。私はお恵さんが頑張っているところを、一目見て、自分の力にしたかっただけだ」
恵司郎の姿の恵を隙間から覗きながら、白童が言った。恵が笑いかけているのが自分ではなく、あの、武家だと思うと胸のあたりがむずむずとする。
「だが、なぜにああも親し気なのだ。男同士の飲み友達だからだろうか」
「どうだろうか。私はあの御仁、恵司郎がおなごだと気付いていると思うがな」
「な、なに……本当か?」
「見苦しいぞ、その恰好、行くぞ」
「お恵さん……」
戸板に張り付いて泣きそうな白童をひきはがして抱え、玄翼は空高く上った。