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十一杯目 『大江山の主は誰に?の巻』

 恵は伊八と一緒に施薬院までの道のりを歩いていた。燿花と津螺良が先導してくれている。結界が解けたということは、あの施薬院一帯が人の目にさらされるということを意味している。おり悪く、都のお役人が地震の調べに大江山に入っているのだと聞かされた。

 そういえば、信理はどうしているだろう。なにやら、急ぎの手紙だといって朱虎から渡された。至急に話をしたいことがあるから居場所を知らせてくれと書いてきていた。その火急さが不穏な雰囲気を漂わせていたが、返事は書かなかった。どことは言えない。朱虎は機転の利く番頭ぶりを発揮してくれている。忙しくて修行のうちは会えないから連絡がないとでも言ってもらえるだろう。任せるしかない。

「そこを抜ければすぐじゃええぇ」

 先頭を行く燿花が言った。

「燿花、飛ぶように走られては後ろがついてこれぬぞよぉ」

「あれ、それはもうしわけのうええぇ」

 確かに、あの重そうな着物を着ているとは思えないほどの素早さで、けもの道を行く。ほとんど、岩と岩の間を飛びぬけているようだ。狐だからだろうか。

「私も雪道ならもそっと早く案内できるのじゃがのぉ……」

 津螺良の歩みはそれでも、体重を感じさせないような軽やかさがある。恵は伊八を気遣いながらも急いだ。林の奥が明るくなっている。木々の並びにも見覚えがあった。いつも弁慶に抱えられているので、上からしか見ていないが、この道は何度か自分でも歩いている。

「杜氏、もうすぐですよ」

「ああ、久々に歩いてきたわい。それにしても、とうとうこの時がきたか」

「里が人に知られることですか?」

「いいや。結界が弱まったのは、白童先生の父親、銀童様がもう長くないからやろう。つまり、次の主を決める対決がはじまるってこっちゃ。主には結界を張る権限が与えられる。つまりこの山の在り方を制する力のあるものを選ばねばならないということだ」

「対決……」

「わしは微妙な立場やからどっちかを応援するというわけにはいかんけどな。ほら、言うた通りや」

 たどり着いた先に見えたのは、施薬院を背に立つ白童と蒼親の姿だ。

 そしてその前には、玄翼と重々しい雰囲気の老人が二人立っている。

 燿花と津螺良は近くに行こうとせず、森の端で立ち止まる。恵もそのそばに立った。伊八は後ろに岩を見つけて座り込んだ。燿花達もことの成り行きを見守るつもりのようだ。

 日が暮れ始めている。冷たい空気が吹き始めた。

 燿花がふっと息を吹きかけると、施薬院一帯の空中に浮いたかがり火が現れた。

 老人の一人がこちらを向いて、頷き、こちらの燿花も頷き返した。二人は知り合いの様だ。

 恵は悲田院の周りに見慣れない武士や町人の人達が座り込んでいるのを見つけた。眠っているのか、気を失っているのか、みな一様にぐったりしている。しかもそのうちの一人には見覚えがある。零条信理だ。

 地震を調べる役目で登ってきたのだろうか。これまでなら、すぐにでも信理の元に飛んで行ったかもしれない。けれど、恵は踏みとどまった。今もっと大事な人が目の前で真剣勝負に挑んでいる。

 恵は自分の心の扉が開いた音を聞いた気がした。自分はいままで、人助けだ、いや、それ以上に修行をさせてもらった恩人なのだと、白童のことを思っていた。

 不器用で、情に脆いこの施薬院の主は、酒にも女にも弱く、要領も悪い。最初に店の前で助けたときはどこの道楽息子かと思ったほどだ。

 だが今は違う。恵の志を心から励ましてくれ、自分も自らの志のために苦手なものをなんとしてでも克服しようとしている。

 最初は主の座になど全く興味がなかったという白童の今の表情は、恵が始めて会った時とは、まったく違って見えた。何かを守るためにすべてをかける覚悟のようなものを感じる。そしてそれを全力で助けたい自分がいる。

「では、蒼親、お前の考えを聞こう」

 老人の一人が言った。

「今更だが、大江山は永久に妖のもの。この大江山が都の北に位置するはつまり、未来永劫、人は我々に仕えるものだからだ。人が我々の力も知恵もしのぐことはない。ならば、ここにいて、人が人を滅ぼしていく様をこの先も見続ければいいのだ。これまでもそうだったようにこれからも」

「つまり、お前はこれまで通りでいいというのだな」

「そうだ、人になり下がりたいものはなり下がればよい。とめもせんが、歓迎もしない。それだけだ。人の世に降りて消されるものがいようとかまわぬ。ましてや、こんな場所必要ない」

 にやりと蒼親が笑った。白童の表情は硬いが落ち着いている。

 長老たちは顔を見合わせた。

 玄翼だけは静かに前を見ている。

「燿花さん、決着というのは誰がお決めになるのですか」

「恵司郎さん、それはのう。この大江山にいる妖、全員じゃ。かれらの賛同をより多く得たものが主となる」

「それはどのようにしてわかるのでしょう」

「そうじゃった。お人には聞こえぬのだったのぉ」

「聞こえているのですか。なにかが」

 恵は聞いた。自分には風の音と、燿花が焚いてくれているかがり火の音くらいしか耳に入らない。

「そうじゃ、なんというか妖達の声というか、たてる音というか。ま、大きい方に軍配が上がるのじゃ」

「どちらが大きいのかわかるのですか」

「今の蒼親の言葉には大きな賛同の声が聞こえたええぇ」

「それはつまり……」

「恵司郎さん。どちらにも声を上げるものはいると思う。まだわからぬ。私達には声を上げる権利はないのじゃ。身内じゃからのぉ」

 津螺良がそう言って、ふっと冷たい息を吐いた。

「白童、お前の考えはいかがか」

 目の前で頭の上に皿を抱いたような老人が聞いた。

「私は人と妖を分けて考えたくはありません」

「それはどういう意味じゃ」

「この世に存在するものは、皆助け合って生きていくべきだと思うのです。それが妖であれ、人であれ、もしくは、この日ノ本以外の人であれ。なぜなら、病にしろ、天地の変にしろ、我々にはどうすることもできないことがこの先もずっと続くと思うからです。確かに、蒼親が言ったように、人はわからないことはすべて我々のせいにしてきました。けれど、今、医術にしろ、空の日和見にしろ、一つ一つ、人が努めて得た知識で明らかにされてきている。事実、天狗の縮地の力を上回る技は人にはまねできないでしょう。これからもずっと。けれど、人の世に惹かれて人の世で暮らしたいと求める妖はいます。そしてそれを止めることはできない。なら、よりよく人の世で暮らせる方法を考えていく。それがこの大江山にいる私達の努めだと思います。先を見越してゆき方を考える。それが自分の役目かと」

 恵は拍手をしたかった。だが、燿花の表情も津螺良の表情も硬い。賛同を得られていないのかもしれない。

「あえて聞くが、それは、白童、其方が、半妖だからではないのか」

 隣で、燿花が、白童の母親は人間だからだと恵にささやく。

「そうだ。ろくに妖の力も持たぬお前に、誰がこの山を任せられると思う?」

 蒼親が大きな声で言った。

「蒼親、黙れ」

 玄翼が強く言いはなち、蒼親は不満げに口を閉じた。

「それもありましょう。けれど私が半妖であるからだけではありません。私が弱いからです。私は自分の弱さを知っています。大江山の妖達が周知のごとく、私は酒も飲めないし、力も弱い。人見知りで世渡りもうまくない。この先、嫁を迎えられるかどうかさえ怪しい」

 隣で燿花と津螺良がくすりと笑い、後ろで岩に腰かけた伊八が、馬鹿正直すぎるとため息をついている。

「弱いのはよく知っとるよ」

 目元が細くすっきりしていて、燿花によく似た雰囲気の老人が言った。

 燿花と津螺良が着物で顔を隠す。おそらくその後ろで笑っているのだろう。そして、それがきっと、今の妖達の反応なのだ。

 恵は自分が加勢できればどんなにいいかと、悔しさに口元を曲げた。だが、ここで人が言葉を発しては、加勢になるどころか劣勢になるばかりだ。

「では、わしからも聞く。人の世に出て行く妖をほうっておく。そして、消されてしまった者たちがいても仕方ないとおぬしも思うのかな」

「いいえ、私が言いたかったのは、弱さを知れば、強くなる方法を考えるということです。人の世でうまく渡り合えるように妖達を送り出す方法を考えることもできる。私には大した妖力はありません。けれど、人の世にうまく溶け込んだ狐狸族や河童族のように、それぞれの力を生かした生き方ができるように知恵を授ける方法を考えることはできる。そして、人がそうとはしらず、妖達の力を頼りにしていってくれれば、世の中はもっと良くなる。我々は人を、人の世を助けることができる。平和のために、妖の力を頼りにしてもらえる日がくる」

 恵はその言葉を聞きながら、酒蔵での日々を思い返した。小豆洗いや、まめだが、人として世にいるなら、ぜひ自分の手伝いをしてほしいと思ったことを。醪をかき回すかきてに鬼の力を借りたいと思ったことを。

「まずはこの場所をその始まりの場所としたい。寺子屋を立て、人の子の教育をしながら、世に出て行きたい妖に人の世の在り方を学んでもらう。人の世で成功している妖達にたまには帰ってきてもらって教えてもらってもいい。この場の結界を制することでそれは可能になりましょう」

「白童、いったん人の世に溶け込んだ妖を戻さないという結界の方法は、何代も前の妖の長老たちの決断だったことは知っておろうな」

「はい、承知しております。ですが、それは人と妖は相いれないという考えに基づいていた時代の話です。今、妖達が人の世によりよい溶け込みをしているのなら、逆があってもいいのではないでしょうか。のちのち、帰ってきたい、山で静かに余生を送りたい妖達を迎え入れることが悪いことだとは思いません。共存を望んではいけないとは思いません。妖の未来も人の未来もきっとどこかで交わり、協力して生きていける。そう信じています。そしてそれこそが、今後の困難を乗り越える鍵になると思います」

「ふむ」

 二人の長老たちが、ふむ、ふむと何度も頷いている。

「人の世に溶け込んだ、妖をのぅ」

 燿花が隣で言い、説明してくれた。ひとたびこの場から人の世にいったものは、よほどでない限り、帰ってくることを許されていないのだと。結界が帰ってくることを許していないのだと。

「では、人の世から帰ってきたい妖達は今どうしているのです?」

「森があれば、妖というのはたいてい生きていけるのです。ここではない、どこかに潜んで暮らしているのでしょう。不憫じゃが仕方あるまいねええぇ。おそらくじゃが、妖達の出入りが多ければ多いほど、この大江山は人間達の目にもさらされる。そう思って昔の長老たちは禁じたのであろうねぇ。今回のことがいい例かもしれぬねぇ」

「それに、大江山の決定というのは、日ノ本の妖全体の決定にもなる。これは危険を伴うとともに、妖の未来を見据えた勇気をともなう決定にもなるじゃろうね」

 それはさっき蒼親が言った言葉と同義だ。確かに、白童が守ろうとしているこの場は大江山の弱点になりえる。結界を複雑にすればより、人に注目される場所になるかもしれない。とはいえ、それは同時に妖達の自由度を高める。

 恵は白童のその考えをぜひ歓迎したいと思った。けれど、決めるのは妖達だ。自分ではない。妖達から見れば、人というのはおろかな存在なのだろう。蒼親の言うように自分達の世界だけで存在するほうがいくらか安らかだろう。

 自分が妖側なら人と交わって生きていくことを前提とした将来をどう思うだろう。

 不安に思うのではないだろうか。保守派が多ければ多いほど、きっと白童は受け入れられない。

 だが、どうだろう。

 人の役にたつ、人から妖の力を頼りにされるという言葉は妖達にも響いたのではないだろうか。誰しも誰かに必要とされたいと思っているのではないだろうか。人も妖も問わず。

 恵はいつの間にか胸で手を合わせ、目を閉じて何かに祈っていた。どうか、白童の考えに一人でも多く賛同してくださいと。

「あれあれ、これはまた。ほほほ」

 隣で津螺良が声をあげ、恵は目を開けた。

 暮れているはずの空が急に明るくなりはじめた気がして、恵は目を凝らした。

 冬に入ろうとしている山に山桜が咲き始めている。

 皆一様に山々を見上げている。

「これは?」

 恵が聞いた。

「声を上げる代わりに妖達が花を咲かせたのであろうええぇ。見事じゃ」

「では」

 津螺良が隣で頷いた。

 その視線の先では山々に向かって頭を下げている白童がいる。

「大江山の妖総意により、酒天白童を大江山の主とする」

 長老の一人が言った。

 山の花々から花吹雪が舞う。 

 なぜか燿花と津螺良が手をたたいてよろこんでいる。

「燿花さん、津螺良さんも白童さんが主になって、喜んでいるのですか」

 夫を応援していたのではないのかと思い、恵が言った。

「夫に主になられては、忙しくてたまらぬえぇ」

「そうじゃのぉ。自分達の子供達も人の世に出て行きたいというかもしれぬからのぉ」

 それにと、二人でこっそり恵に耳打ちした。二人とも白童が初恋の人なのだという。

 恵は三人の長老に祝福されている白童に向かって歩き始めた。何かを言いたかった。白童もこちらを見た。微笑んでいる。だが、待ってというように少し手を挙げると、踵を返して施薬院に走っていく。

 恵の隣を大股に通り過ぎた蒼親は、燿花と津螺良に向かって乱暴に、帰るぞ、といい、森へ入っていった。伊八は、明日はゆっくりきてくれてええで、と言いながら蒼親の後ろについていった。

 施薬院の中に駆け込んだ恵は、白童と朱峰、そして玄翼が一人の男を囲んでいるのを見た。

 男は都の役人の一人に見える。

「これから処置に入る」

「私も何かお手伝いできることがあれば」

 恵は手を洗って、白童の傍まで来た。

 男の額がざっくりと割れている。

 白童は、慎重に頭の骨を触っている。

「骨のずれはないように思えます。さけているところを縫います」

 蝋燭の火で糸をお通した針をあぶった白童は、皿に焼酎を注いだ。その額に汗が浮いている。

「白童、大丈夫か」

 玄翼が聞いた。

「あ、ああ」

 白童の目が充血し始める。手が震えるのか、右手を左手で押さえている。

 恵が言った。

「白童さん、こちらの焼酎を使ってください」

 恵は蒼親の宴会場所から持ち出してきた芋焼酎の徳利を渡した。

「これは?」

「原料が違います。なので、諸白の原酒に弱いのであれば、米の焼酎ではなく芋の焼酎の方が匂いは気にならないかもしれません」

「それは、ありがたい、試してみましょう」

 白童は、別の皿に芋焼酎を注いだ。恵が米の焼酎を遠ざけた。

 まずは傷口の消毒をし、針に通した糸をその焼酎にさらして傷口を縫い始めた。

 見ていると、白童の目の充血が引いていく。先ほどまで手元も震えていたのが、止まっており、白童は最後まで傷口を縫い終えた。最後に傷口をもう一度焼酎でふき、軟膏をつけた。

 最後まで手当できたことに、白童自身が驚いているようだった。

 傍にいた朱峰が生成りの布で怪我をした男の頭を丁寧に巻き、湯を浸した布で血の跡をぬぐってやる。

 すかさず、玄翼が手当て済みの男を抱きかかえた。その姿を見上げて白童が言った。

「本当は少し様子をみた方がいいのだが」

「仕方あるまい。これでも待ったのだ。他の都人はもうすでに弁慶たちがふもとに運んだ。このものも含め、彼らのここでの記憶も書き換え済みだ。もうすでに夜中近い。他の都人を呼び込まないためにも、早く返した方がいい。結界がない今は特に。お前もすぐに行くから準備しろ」

「わかった」

 玄翼が男を抱えて出て行った。朱峰も一緒に出て行く。

 施薬院の中が急に静かになった。白童は水を一杯飲むと言った。

「お恵さん、今晩、話をしたいことがあるのです。ここで待っていてもらえますか。私は玄翼が戻ってきたら一度、酒天の館に戻ります」

「お父様のところへ行かれるのですね」

「はい、最後の別れに」

「では、お待ちしております」

 恵はしっかりと白童の瞳を見つめ、白童も、恵の瞳を正面から見つめた。


「父上」

 白童は銀童の床の傍に座った。

 酒天の館には主だった、妖達が集まっている。皆、長い間、この山を守ってきた主の旅立ちに敬意を表し、見送ろうとしている。

『白童か』

 脈がほとんど触れていない中、銀童は白童の頭に直接思念を送ってきた。

『私の手を握れ』

「はい」

 白童は銀童の手を握った。ごつごつした手触りは変わりなかったが、薄くなった。昔は、この手を握って、そのまま父の膝で眠り込んでいた。

「父上……」

『なにもいうな。山がお前を選んだのだ。この山を、日ノ本の妖の未来を頼んだ。お前にこの山を制する権限を与える』

「かしこまりました。謹んでお受けいたします」

 白童は、銀童の手から力が流れてくるのを感じた。力をもらったと同時に、母と父の若い時の姿も垣間見える。最後の父の思念が絵になって流れてきていた。自分の小さいころの姿もその中にある。

『やっと詩に会える…』

 その言葉を最後に銀童の思念が緩やかに消えていった。同時に、銀童の姿は徐々に実態を失い。消えた。

 山中の妖達のむせび泣く声が響き渡った。

 白童はその声に紛れて、自分も銀童の着物を抱いてしばし泣いた。

 だが、ゆっくりとはしていられなかった。夜が明ける前に結界の修復をしなくてはならない。

 玄翼にも手伝ってもらい、白童は今、銀童から与えられた力で、即刻結界を張り終えた。酒天の館で、昔からの使用人達にしばらく留守にする旨を頼み、すぐに施薬院に戻った。

 恵と一刻も早く話をしたかった。

 恵は施薬院で夕餉とともに待っていてくれた。もう日が昇り始めているのだから、朝餉の時間ではある。

 悲田院で一時、眠らせた子供も年寄も都の役人が押し入った記憶は消さなかったが、そのあとは何事も起きなかったという記憶で目覚めさせたと玄翼が言っていた。

 今では、年寄りの世話を一手に引き受けてくれている志乃が、二人分の膳を届けてくれたのだという。

「汁ものは冷めてしまいました」

「いや、これで十分です。いただきましょう。お待たせしました。腹が減りましたね」

 自分から話があると言っておきながら、白童は困り果てていた。自分の気持ちを今なら恵に伝えられると思ったのも、つかの間、思えば、状況はより複雑になっている。いや、単純になったといおうか。最初に願った外科手術に耐えられる焼酎への耐性は、恵の機転のおかげで得られ、自分がこの山の主を継いだことで、この施薬院一体を守ることができたのだから。妖総意をもらったことで、公言した寺子屋の建設も朱峰は早速考えているだろう。

 だが、恵の願いはまだ叶えられていない。これからが本番だというところなのだ。やっと酒の元ができ、醸す作業の初日だったと昨日、恵が話をしてくれていた。そしてそれが終われば、恵は自分の酒を造りに都に帰っていく身だ。一方、自分はできるだけ早くもう一度蘭学医の門下に入り、より高い技術を学びたいと思っている。

 行く道も住む場所も全く重ならないというのに、恵を天命の人だと言ったところで、お互いに困るだけなのだ。

 人のことを愛しく思うと相手が自分をどう思っているのか知りたくなるのだということを初めて実感した。

 小さいころ、妖の姫達に好意を寄せられる度に、居心地の悪い思いをしてきた。妖の姫達は愛らしく、健やかで、心地よい空気をまとい、一緒に過ごすのは楽しかった。だが、自分が特別な相手かどうかを聞かれるたびに、返答に窮していたのだ。

 自分は相手に同じことを聞こうとしている。

 自然と箸の進み具合が遅くなり、白童は箸をおいた。

 そんな自分に最初に言葉をかけたのは恵だった。

「お父様はいかがでした。お話できましたか」

「はい。多くは語れませんでしたが、ずっとすれ違っていたような気持ちになっていたのに、今思えば、同じことを思って生きていたのだとわかりました」

 自分でも曖昧な言い方だと思ったが、山のこと、母のこと、これからの妖達のこと、自分が目指していた施薬院一帯のこと、それらすべて何もかも父は知っていて、静かに見守ってくれていた気がした。そういえば、父だけが酒を飲めとも、早く嫁を貰えとも言わなかった。

「元気なうちに、お恵さんにも会ってほしかったです」

 漸く言えたのはそんな言葉だ。

「あの、お恵さん……」

「はい」

「……先ほどはありがとうございました」

「毒消しの焼酎のことですか」

「はい」

 いや、本当にいいたいことはそうじゃない。けれど、あとからあとから思いつくのは、ありきたりな感謝の言葉だった。自分は、恵に感謝をしているだけなのだろうか。だったら、蒼親と一緒にいると聞かされた時の自分の焦りはなんだったのだろうか。

「今日も酒蔵で修行だとおっしゃっていたのに、夜通し付き合わせてしまった」

「いえ、あの場には伊八さんもいましたし、明日、いえ、今日ですね。今日はゆっくりでいいと言ってくれましたから」

「そうですか。では、このあと、私達も少し休みましょう」

「そうですね」

 膳を流しにもっていき、どちらともなく無言で茶碗を洗い始める。

「あの、最初に私が小島屋さんにお世話になった時、一緒に飲んでいらしたのは、都のお役人様だったのですね」

 白童は言った。相手は気づいていなかったかもしれないし、玄翼がここでの記憶は消してしまうといっていたので、次に会っても忘れられていると思うが、朱峰が思い余って食らいつこうとしていたのは、小島屋であった侍だった。白童は、零条と恵が言っていた名前を憶えていた。自分にも、小島屋がどんな店かを教えてくれた人間だ。あの時は気にならなかったが、よく考えれば、あの日、暖簾は出ていなかった。個人的な付き合いで飲んでいるように見えた。

「あ、ああ、そうです。私も実はどんなお役目を担ってらっしゃるのか聞いたことがなかったのです。山を調べに来られたということは、奉行所関係の方ですね。番方か、新屋方?」

「番方というと、市中警護や人からの訴えを受けるところですね」

 恵が頷いて続けた。

「あの方、満月の前後、しかも、店に気を使って暖簾を下げたあとにしかいらっしゃらないのです。でも、その理由がわかりました」

「市中警護は新月が忙しいから」

 この言葉を二人同時に言った。ひとしきり笑いが出る。

「お恵さんにとって特別な方なのですか」

「はい。特別なお客様かもしれません。手前どもが入手したお酒を玄人並みに楽しみにしていらしたというか」

「では、お恵さんが自分の酒を作ったら真っ先に飲んでほしい人ですね」

「いいえ!」

 恵のあまりの勢いのいい否定の言葉に、白童は洗っていた箸を土間に落とした。からんと音がする。

「あ、すみません。大きい声を」

 そういって恵は、白童が落とした箸を拾い上げ白童の手に返した。返す時にお互いの指がふれあう。

「最初に飲んでほしいのは……この山の方にです。修行させてもらったのですから」

「伊八さんか……蔵元なら蒼親ですね」

 そう言いながら、白童は洗い終えた器に手ぬぐいをかけた。

「あの、それと、白童さんにもです」

「私……」

 恵の瞳が部屋の蝋燭の明かりを受けて輝いている。なんと綺麗な瞳なのだろう。樹齢深い木の蜜の様だ。蝋燭の光は恵の筋の通った鼻や、長いまつ毛をより際立たせている。

 白童は今にも恵を自分の胸に抱きしめたくなった。だが、体が思いとどまる。自分の両脇で両手のこぶしを握り締めた。

 そんな恵は白童の心を覗くかのようにじっと瞳を見つめている。

「お恵さん」

「白童さん、人と妖、日ノ本以外の人も関係なくよい世の中にしていくという言葉、とても感じ入りました」

「あ、ありがとうございます」

「あの場で一番そのありがたみを知っていたのは私なのに。あの酒蔵でどれほど妖さん達の力を借りているか。なのに、何もお力添えできなくて」

「見守ってくださっていたことが一番の力でした」

 恵は首を強く横に振った。

 その拍子に恵の髪の組みひもが解け、長い髪がぱさりと恵の肩にかかった。白童は自分の胸の鼓動を聞いた気がした。

 貴女がいとおしい。一言伝えたい。

 だが、出てきた言葉はまたも違った。

「お恵さんの酒を飲めるように、私の酒修行も再開しなくては。今日は本来、薄めない酒を飲む日でしたね。あの焼酎を使って外科処置ができたのだから、絶対に飲めるようになっているはずです」

「白童さん……」

 白童は再び施薬院の土間に上がると、酒修行のための膳を持ってきた。

「白童さん。お食事は召し上がったとはいえ、寝てらっしゃらないのだから、無理に今日、飲まなくても。具合が悪くなってはまた振り出しに戻ります。私はまだしばらく御厄介になっていますから」

 白童は自らその徳利を取り上げて、栓を開けた。

「いえ、せっかく続いている修行ですし、今日は私の悲しい日でもあり、めでたい日でもありますから。お酒というのは本来そのような時に飲むものなのでしょう」

「ええ。誰かと何かを分かち合うための時間には、お酒が似合います」

「では、お恵さんもどうかご一緒に」

 恵はわずかに微笑むと、一緒に上がってきて座った。白童は二つの盃にそっと酒を注いだ。盃を持った白童は言った。

「お恵さんの初めての酒造りに」

「では、新しい大江山主様に」

 白童はそっと十割の酒に口をつけた。昨日は九割、一昨日は八割。ずっとそうやって味になじませてきたかいあって、少しずつ、そして一杯を飲み干せた。

「大丈夫ですか?」

 自分の分も飲み干した恵が聞いている。

 ああ、やっと盃一杯が飲めた。しかもとても気持ちがいい。体が宙に浮くようだ。急速に体が温まっていく。

「お恵さん、私は……」

「白童さん……」

 白童は恵の手をしっかりつかんだ。柔らかな、細い指が微かに震えたように思ったが、拒まれてはいない。いまなら言える。

 貴女をお慕いしています。

 そう言ったつもりだった。

 けれど、次に意識がもどったときには、当日の日が暮れかかった夕刻だった。

 自分は肝心なところで寝落ちをしてしまったのだ。


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