黒猫カイとポンコツ魔法使い
こんなはずじゃなかった。
それは確か。だけど、何が一番問題なのかというと、それがよく分からないわけで。
ここはどこ?
前足をちょっと持ち上げてみた。黒い毛に被われた脚、ひっくり返すと黒い肉球。見慣れた姿。小さな黒い猫。
唐突に、誰かの声が甦る。
「カイ。」
優しく呼び掛ける懐かしい声。
そう。黒猫の名前は、カイ。
見上げた空には三日月。
たから、今は夜なんだろうと、カイは思う。足下には石畳。・・・石畳?
アスファルトじゃない。カイはあたりを見回してみた。港だろうか?潮の香りがする。ピチャピチャと、波が打ち寄せる音。ガス燈みたいな背の高い街灯。そのボンヤリした灯は、カイが知っている電気の明かりじゃなかった。ここは知らない場所だ。
カイは、首を傾げた。
なぜここにいるのか。どうやって来たのか。まるで思い出せなかった。
耳を澄ましてみたが、車のエンジン音ひとつ聞こえない。カイがいたところでは、深夜でも、どこかで車の音がしていた。
救急車の音、信号機の光、深夜営業の店の明かり、何もない。
薄暗い街灯と波の音、それが全てだった。
静か過ぎる夜。石畳の道の両側には、煉瓦造りの大きな建物があるが、人の気配はなかった。住居ではなく、倉庫のようなものなのかもしれない。少し離れた場所には木造の建物もあるが、そこにも人けはなかった。入り口の上に横長の看板が掛かっていて、見たこともない文字が書かれている。商店か、事務所のようだ。カイは、とりあえず、文字の意味を知りたいと思った。場所の手がかりになるかもしれない。何か方法があったはずだが、頭がぼんやりしてよく思い出せない。それに、お腹が空いている。そのせいで思い出せないことが多いのかもしれない。
じっとしていても仕方がないから、カイは歩き出した。行くあてはない。足の向くまま、海の方へと進むことにした。何か食べられるものが捕れればいい。魚とか、カニとか。カイは、本当は料理したものの方が好きだけれど、これだけ空腹だと、贅沢を言っている余裕はない。
磯の香りがだんだん強くなってきた。
石畳は海の手前で終わっていた。軽くジャンプして、石がゴロゴロした海岸へ降りる。小さな黒猫の姿は、石から石へ、それから岩場へと素早く飛び移り、その先の砂浜へと降り立った。最初の場所からはかなり移動したから、もう街灯の灯は見えず、下弦の月だけが辺りを照らしている。
カイは立ち止まった。妙だな、と首を傾げる。岩の隙間に小さなもの達が蠢く気配があるが、隙間から出て来ないのだ。それに、海に魚のいる気配がない。
カイは、神経を研ぎ澄ます。意識を外へと広げて行った。猫の姿でもこれくらいは朝飯前だ。そして、見つけた。
魚たちがこの砂浜に近づかない理由を。
カイは思案する。あれは、食べられるんだろうか?カニに似ているけれど、カイが知っているカニとは全然違う生き物に見える。とにかく大きいし、強そうだ。禍々しい瘴気を纏ってもいる。あんなものを食べたら、お腹をこわしそうだ。
別の場所に行って、もうちょっと美味しそうな物を探そうと、カイは引き返しかけた。そのとき、何がが聞こえた。
何だろう?
カイは耳をピクリとさせる。声?
人のうめき声みたいだ。
砂浜は歩き難いけれど、声に混じる何かが、カイを急がせる。
月に照らされた砂浜を、黒い猫が駆け抜けていく。流れる影のように。
最初に見えたのは、砂浜に転がる岩のようなものだった。だが、カイは知っている。
間違いようもない瘴気。あれは、さっき感じたカニみたいな奴だ。やっぱり大きい。
近づくにつれ、その細部が見えてきた。
カイはため息をつきたい気分だ。
あれって、多分肉食なんだろう。子牛ほどの大きさで、ハサミになっている2本の脚も丸い甲羅も、とても頑丈そうだ。背中側はゴツゴツした棘みたいな突起で覆われている。全身から黒っぽい煙のように立ち昇る瘴気。カイがいたところには、こんな物騒な生き物はいなかったような気がする。
見るからに食べられなさそうだ。
カイを1番うんざりさせたのは、そのカニみたいな奴の下に、組み敷かれた人間らしい姿を認めたことだった。
生きてるのかな?
さっきのうめき声は弱々しく、かつ苦痛に満ちていた。
今は?
よく分からないけど、死んではいないようだ。カイの耳に、荒い息遣いが聞こえた。
生きてはいる。ただ、どこか怪我でもしているのが、ハッ、ハッという短い呼吸は苦しそうだった。
血の臭いがする。
カニに組み敷かれているのは、まだ若い男のようだ。怪我の程度は分からない。もうすぐ、そんなことを気にしなくてもよくなりそうだけど。
カイは、少し近づいてみた。
好奇心半分、後悔したくないのが半分。
面倒に巻き込まれるのは嫌だし、なにも出来ることはなさそうだったが。
男の、明るい色の髪は長い。
あまりきちんと手入れされてはいないみたいだ。服装もかなりいいかげん。
ホームレスでも、もう少しましなんじゃ?
とか思っていたら、男と目があった。
何か言っている。が、言葉が分からない。
そこそこ整った顔立ちは、汗と砂にまみれていた。身ぎれいにしていたら、一応イケメンの部類なのかもしれない。
男は、必死に何か訴えようとしている。
カイは首を傾げた。
この状況で、猫の手を借りたって、どうしようもないだろうに。さっさと諦めた方がいいんじゃないか。
でも、お化けガニは、さっきから、なぜ動かないんだろう。
いや、動いていないわけではない。
ただ、動きがひどく、そう、ひどく緩慢なのだ。動画の超スローモーション再生みたいに。
「取ってくれ!」
突然、頭に声が響いた。カイは男を見た。
「そう!俺だオレ!お、俺の杖を、早く!」
杖?カイが見回すと、砂の上にごく短い棒が落ちていた。アレのことだろうか。
「そ、それをっ!早くっ!」
どうもそうらしい。カイの視線に気づいた男は、必死に手を伸ばしている。
カイはひらりとジャンプした。杖を咥え、男の手にポトリと落とす。
杖を握った男は、何か呪文のようなものを、大急ぎで唱えた。
つっかえては、やり直している。
急がば回れ、カイの脳裏をそんな言葉がよぎった。
何度目かの詠唱後、杖の先に青い光が灯った。
成功かな?そうみたいだ。多分。
青い光は急激に膨れ上がる。
暗い中ではそれなりに明るいものの、何かを照らすには弱々しい光。それが男とお化けガニを包み込んだかと思うと、突然、フッと消えた。
残されたのは、仰向けに倒れて大きく息を吐く男の姿・・・と、何だ、これ?
カイは、前足で、ちょいとそいつをつついてみた。小さなカニだ。生きている。
男の胸の上にいたそいつは、慌てて逃げ出した。砂に転げ落ち、逆さまになりながらも素早く立ち直って、必死の横歩きを披露しながら。
そいつを目で追ううちに、カイは大体のところを理解した。
① こいつ=お化けガニ。
② この姿が本体。
③ 巨大化の元凶は、目の前の男。
「ダリウスだ。助かった。」
男はそう言うと、砂の上に起き上がった。
ダリウスというのが名前らしい。
「それでお前の名前は?誰の使い魔だ?」
カイは首を傾げた。使い魔って、聞いたことのあるワードだけど、馴染みはないような気がする。
ダリウスは、カイが使い魔だと確信しているようだ。少なくとも彼にはそう見えるんだろう。黒猫だから?安直なヤツ。
ダリウスは、じっとカイを見つめていたが、不思議そうに首を傾げた。
「なあ、何でお前には、魔法がかからないんだ?守護の法か?」
つまり、カイに何らかの魔法をかけようとして、失敗したらしい。失礼な奴だ。
カイは黙って回れ右した。
こんなのに関わってる場合じゃない。
「ちょっと待てよ、おまえ、腹減ってないか?」
歩き出そうとしたカイの足がピタッととまった。意思に反して振り向いてしまう。
ダリウスが、ニヤッと笑う。
「付いてこいよ。パンと野菜スープが食えるんならな。」