第三章 夜のお使い 1
怒りながらドロワー通りへ戻ったエレンは、ブーツの靴音も高くカツカツと十七段の階段を上って二階の事務所に入った。
衝立の手前の来客用の一画で、秘書兼家政婦のマディソン夫人が蝋燭に火を入れている。
「お帰りなさいミス・ディグビー。すぐ夕食にいたしますか?」
光沢のある栗色の髪を大きな栗みたいな形に結ったマディソンがいつもの平坦な口調で訊ねてくる。
エレンは怒りをどうにかひっこめて応じた。
「ええ、お願いします」
親親族を必死で説得して構えたこの事務所兼下宿はそんなに広くない。
二階の二間の続き部屋のうち、大きいほうを衝立で仕切って手前を来客用の客間、窓側の奥をエレンの生活スペースにしている。三階には物置小屋があり、一階には台所とトイレと、若い未亡人であるマディソン夫人の部屋がある。小さい一室は寝室だ。
エレンはまず寝室に引き上げ、白い琺瑯の洗面器にマディソンが充たしてくれている微温湯で手と顔を洗い、きっちり束ねたシニヨンをほどいてざっとブラシをかけてから、窓側の居間へと戻った。
もう濃い茶色のカーテンが引かれ、黒い丸テーブルの上の銀の燭台に火が入って、紅茶とパンとコールドミートという簡素な軽食が並んでいる。
「それでは私はこれで。食器は台所にさげておいてくださいね」
「ええ。ありがとう」
なんなら自分で洗っておくわー―とは、エレンは言わないようにしている。初めのころそう申し出たら、微温湯が凍りそうなほど冷ややかな声で、「契約によればそれは私の仕事です」と拒まれたためだ。
メアリ・マディソンは公私の区別に厳格な雇用人である。
その厳格な雇用人は、小さいテーブルの上に並んだ質素きわまる夕食を嘆かわしそうに眺めたが、結局何もいわずに衝立の外へと出ていった。
――言葉には出されないまでも、言いたいことは何となくわかった。
――もう少しまともな食事をしなさい――って、セルカークの家政婦なら言うんでしょうね。
セルカークはエレンの生家のある村だ。
スレート屋根の古風な荘園邸や、林檎の果樹園や、白樺の林のなかにあった小さな沼地――あの沼地には間違いなく小さい水蛇が棲んでいたと思う――を、思い出すと、何となく物寂しくなった。
今日ジュディスの家を見て、家族や気の置けない使用人に囲まれた彼女の生活を垣間見てしまったためかもしれない。
--独りで暮らすって寂しいものだわ。これが独立ということなのかもしれないけれど。
食事を終えて食器を階下の台所へ戻してから、エレンは居間に戻ると、掌を広げておなじみの契約魔を呼んだ。
「サラ、出てきて頂戴」
途端、青白く薄く指の長い掌のうえに淡い金色の微光の柱が立ち上り、赤い小さな竜のような生き物が現れた。
生き物はブルブルっと体を震わせて淡金色の微光を振り払うと、小さな体をルビーみたいに鮮やかな真紅に輝かせ始めた。
途端に室内の温度が上昇する。
「久しいのうエレン。どうした浮かぬ顔をして」
生き物が――エレンの契約魔である火蜥蜴のサラが、小さな皮翼をパタパタさせて二股の燭台の真ん中へと飛びながら訊ねてくる。
エレンは苦笑した。
「あら、やっぱり分かる?」
「当然じゃろう。何か調べ物で行き詰まっているのか?」
「幸いまだそっちは行き詰まってはいないわ。これから行き詰まるかもしれないけど。あなたに確かめてもらいたいものがあるの。ちょっと待ってて」
「うむ」
活ける焔たる火蜥蜴が燭台の上から答える。
エレンは寝室へ戻ると、サイドテーブルにおいておいた砂糖菓子の包を持ってきた。
「これなの。ちょっと匂いを確かめてもらえる?」
包みをほどき、淡い薔薇色の砂糖菓子の一粒をつまんで差し出すと、火蜥蜴の鮮やかなエメラルド色の眸がキロキロっと動いた。
「ほほう。美しのう」
はーッと淡い煙を吐くなり、小さな口がぱくりと菓子を食べてしまう。
「え、食べないでよ、危ないでしょ!?」
エレンは思わず叫んだ。
サラは構わず菓子を嚥下すると、ポッと小さな薔薇色の焔の珠を吐いた。
「なかなか旨いの。砂糖というのは実に甘い。上古の上位精霊であれ、これほど純粋の甘味は味わえまいて。しかし、この菓子妙な雑味がある」
「そう、その雑味よ。何の味だった?」
「そうさのう――」と、火蜥蜴が長い首をひねって考え込む。「まずはラズベリーか?」
「ラズベリーは雑味じゃないのよ。色からしてラズベリー味の砂糖菓子なんだから。他になんの味がした?」
「他にはあれじゃな、あの忘却の花の味じゃ」
「ヒュノプシス?」
「死すべき者はそう名付けておるな。中古、人と精霊が雑居した時代に、竜や上位精霊の住まう地を死すべき人の子から隔てるために好んで植えられたあの青白い花の味じゃ」
「そう、まさにそれよ」と、エレンは我が意を得たりとばかりに頷いた。
「どうもその青白い花が違法に使われているようなの」
「儂にあの花を捜せというのだったら、ちと難しいぞ?」と、火蜥蜴が淡い炎を吐く。「あれは陽光を嫌う花、土と水と月に属する花じゃ。今の地上においそれと咲いているとは思えん」
「そこはわたくしも同感よ。ヒュノプシスを栽培できる場所なんて、現代のタメシス近郊には何か所もありはしないはず。だから、違法に流通しているとしたら、盗難か横流しである可能性が高いわ。そのことをフレイザー城に伝えて欲しいの」