第一章 王立劇場のボンボニエール 3
「ミス・ディグビー?」
ジュディスが不安そうに訊ねてくる。「どうしたの? 何を思いついたの?」
「謎がひとつ解けたのよ!」と、エレンは大得意で答えた。「少なくともあなたの記憶喪失はこれで良くなるはず。よろしければこれからお宅に招いてくださる? ひとつ確かめたい品があるの」
ジュディスは勿論快諾した。
自家用馬車でリンジー家の町屋敷へと向かい、ジュディスのいかにもジュディスらしい淡いピンクと薔薇色の私室へ迎えられる。
ベッドサイドの白い小テーブルの上に銀製のボンボニエールが置かれている。
蓋をとると、中に何種類かの砂糖菓子が入っていた。
「王立劇場で買ったのはどれ?」
「これよ」
ジュディスが白い指先で淡い薔薇色の丸い粒をつまみ上げる。
エレンは受け取ると、指のあいだですりつぶして匂いを嗅いだ。
砂糖の甘さとラズベリーの酸味のなかに、独特のツンとくる青臭い匂いがごく微かに混じっている。
「――どうやら本当に『名忘れ草』みたいだわ。ミス・リンジー、このお菓子の入っていた箱は取ってある?」
「いいえ、もう捨てちゃったわ」と、ジュディスがすまなそうに言う。「ミス・ディグビー、わたくし大丈夫なの? これを食べなかったらもう忘れなくなるはず?」
「おそらくはね。この件は即急に警視庁に報告するから、あなたからの依頼としての調査はここまでよ」
「じゃ、調査料は?」
「半日の相談料で一シリングね。念のためにもうしばらくは詳しく日記をつけておいて。それから、このお話はご両親にもお伝えした方がいいと思うわ。万が一にもあなたに何かあったら大変だもの」
「分かったわ。忠告通りにする」
ジュディスは頷くと、薔薇色の頬にえくぼをくぼめてニコッと笑った。「ありがとうミス・ディグビー。相談して良かった」
「お気になさらず。これも仕事ですもの」
できるだけクールに応じてから、エレンは情に負けて付け加えた。「それに大事な友達のためでもありますしね」
サー・フレデリックが何を言おうと、その二つを完全に分離するのは、エレンには難しいようだった。
ジュディスの母親に挨拶して仔細を報告したあとで、エレンは『名忘れ草』入りの砂糖菓子を携え、タメシス名物である馬型の自動機械人形の引く辻馬車で警視庁へと急いだ。
ちなみに本日の服装は仕立てのよい白い絹のブラウスと黒いスカート、揃いの黒いジャケットといういつもの仕事着で、赤みがかったブロンドを簡素なシニヨンに結って真珠の櫛でまとめ、襟元にカメオのブローチを飾っている。
すらりとした長身と冷ややかにみえるほど整った青白い顔を備えたエレンがそんな服装をしていると、どこからどうみても最高級の勤労ミドルクラス女性――すなわち、王族や爵位貴族に雇われた貴婦人付添女性かお姫さまがたの家庭教師にしか見えない。
どっちにしても警視庁の通用門には全く用のなさそうな人種だ。
狭い石畳のカレドニアン・ヤード通り――この通りこそがタメシス警視庁の通称「カレドニアン・ヤード」の由来なのだが――に面する三段の石段の上の黒い扉を護る門衛は、ガランガランと喧しくブリキのバケツを道に叩きつけるような騒音を立てて疾駆してきた辻馬車から降り立ったエレンの姿を見とめるなり目を見開き、親切そのものの口調で教えてくれた。
「マダム、ここは警視庁ですよ?」
「ええ勿論存じていますわ」と、エレンは少々むっとしながら答え、身分の証である銀製の印章指輪を嵌めた右手を差し出しながら名乗った。
「わたくしはエレン・ディグビー。タメシス警視庁任命の諮問魔術師です。五月十二日のニーナ・ラングレー殺人事件の担当者に用があります」
門衛は些か疑わしそうな顔をしながらも、印章指輪を確かめると態度を改め、ドアを開けながら入るようにと促した。