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第十三章 月室庁裁判所 3

「ドクター・エッジワース、落ち着きなさい」と、スチュアード卿が苦笑しながら宥める。


 エレンは呆気にとられていた。

 今何が起こったのだろう?

 魔術が使えないはずの相殺方陣のなかに、どうしていきなり三人もの人物が現れたのだろう?



 --今のがスチュアード卿の魔力(グラマー)? 表出は何だったの? 光? それとも音?


 

 月室庁の室内は相変わらず巨大な燦水晶(グリッタール)と四つの凝石(エレクタ)の光に照らされていた。

 頭の上から重い空気の塊を押し付けられているような圧迫感もそのままだ。


 深紅のローヴをまとった女性魔術師――おそらく魔術師なのだろう――が、怒りに肩を震わせるエッジワースを促して、スチュアード卿のかける肘掛椅子の前へと進ませる。

 女性と若者が椅子の左右に立つのを待って、魔術卿は改めてエッジワースに訊ねた。


黒妖犬(グリム)の主人よ、この場で再び訊こう。あなたはそこにいるミスター・コットンの依頼で、彼の姪のミス・オズボーンのために〈恋人同士の合わせ鏡〉を作った。その点に間違いはないな?」

「はい猊下。ありません」

 エッジワースが静かな怒りの籠った声で応える。

 コットンは仮面のような無表情だ。

 レイノルズは戸惑っているように見える。

「そのときあなたはミスター・コットンに頼まれ、名忘れ草あるいはヒュノプシス、サン・スーシーとも呼ばれる魔術性植物を、勤務先である王立植物園から密かに持ち出し、その草の精粋(エキス)を精製してミスター・コットンに与えた。そのことにも間違いはないな?」

「――はい猊下。ありません。その点はまさしく私の罪です」

「そうだな。事実ならかなりの罪だ」と、魔術卿が重々しく頷き、鋭い灰色の目でまっすぐにエッジワースを見つめた。

「ではトマス・エッジワース、もう一度訊こう。あなたはなぜそんなことを? ――先日同じことを訊ねたとき、あなたは黙秘を続けていたが、今日あのミスター・コットンの訴えを聞いて考えが変わったのでは?」

「はい猊下。変わりました」

 エッジワースが微かに震える声で応え、コットンを睨みつけてから、再び魔術卿へと向き直った。


「お答えします。私はそこのアンソニー・コットンから、ミス・オズボーンは有力な保護者(パトロン)の庇護を受ける代わりに、彼らから高級娼婦のように扱われている――と、そのように聞かされたのです。―-ミス・ディグビーのようなお若い女性のいるところで、こんな話はしたくなかったのですが」

「おお、それはすまなかった」

「猊下、どうかお気遣いなく」と、エレンは慌てて言った。「ドクターも、どうかお気になさらず」


「ありがとうミス・ディグビー」と、エッジワースがようやくいつもの人懐っこさを取り戻して笑うと、再び表情を引き締めて話を続けた。

「コットンは私に、ミス・オズボーンはそのことでひどく苦しんで夜も眠れずにいるのだと言いました。こんな話が広まったら彼女の名誉に関わるから表立って医者や魔術師に相談することもできないと。ですから、私は彼女のために無断でヒュノプシスを処方したのです」

「――そして、彼女の名誉のために、今までそのことを黙っていたのだな?」

 スチュアード卿が労りを籠めて訊ねると、エッジワースは頷き、堪えかねたように顔を歪めてむせび泣き始めた。

「そうです。その通りです。気味が悪いと思われるかもしれませんが、セアラは私の女神でした。私は本当なら彼女にはずっと舞台に立っていて貰いたかったのですが、この国で一番すばらしい男と結ばれて幸せになるなら、彼女のために祝福してあげたかった。だから、何としても醜聞(スキャンダル)などは――」

 ズズっと鼻をすすりながら泣く禿頭の中年男の姿は滑稽ながら痛ましかった。


 エレンは涙が出そうになった。


 と、アンソニー・コットンが、美しい顔を露骨に歪めて忌々しそうに舌打ちをした。

「エッジワース、下手糞な芝居はやめろ! お前の話が正しいとしたら、我々はどうしてあの夜、黒妖犬(グリム)に襲われたんだ?」

「黒妖犬の使役者は私だけじゃない!」

 エッジワースが顔を真っ赤に紅潮させて泣きながら言い返す。



 その瞬間、エレンの頭にハッと重要なことが思い浮かんだ。


「……――猊下、今大切なことを思い出しました!」



 一同の目が一斉にエレンに集まる。

 エッジワースとレイノルズの目には戸惑いが、コットンの目には怒りが浮かんでいる。


 スチュアード卿が眉をあげて促した。

「なんだねミス・ディグビー?」



「五日前、ミスター・コットンとレイノルズ警視が廃屋で黒妖犬に襲われたときのことです。わたくしが『使役者を確かめなければ』と言ったとき、ミスター・コットンはこう叫んだのです」

「なんと?」

「そんなのはエッジワースに決まっている。ハリントン子爵になんの関係がある? ――と」



 言葉が終わるなり沈黙が落ちた。



 レイノルズが戸惑い気味に訊ねてくる。

「ミス・ディグビー、それが何だと言うんだ?」

 エレンは苛立った。

「今の台詞、何かおかしいと思いません?」


「何が――……あ」

 レイノルズが目を見開く。

 エレンはほっとした。


 さすがに腐っても警視だ。


 コットンが眉をよせ、甘えた女のような態度でレイノルズの顔を覗き込む。

「警視、何がおかしいというのです? 黒妖犬の使役者はタメシス近郊では他には――」


「ですから、そこがおかしいのですよ」と、レイノルズがひどく哀しそうな声で応えた。

「ミスター・コットン、あなたはどうして黒妖犬の使役者がドクター・エッジワースの他にはハリントン子爵の顧問魔術師だけだと知っていらしたのです?」

「それは、偶々―-」

「偶々? ――私の受け取った報告書では、本職のミス・ディグビーが三日かかって調査した結果だと書かれていましたよ?」


「――知っていたんだ、本当にたまたま! ただそれだけだよ!」

 コットンが焦れた子供みたいに叫んだ。



 この男は本当に子供なのかもしれない――と、エレンは唐突に思った。


 

 スチュアード卿は長いため息をつくと、レイノルズを見やって命じた。

「警視、ミスター・コットンの身柄は警視庁(ヤード)に預けます。監視を怠らないように」

「はい猊下。お引き受けいたします」

 レイノルズが沈んだ声で応じると、まだいろいろと叫んでいるコットンの腕をとって外へと出ていった。

 そのさまを見届けてから、魔術卿は、今度は右横に立つ深紅のローヴの女性魔術師を見あげて命じた。

「オーガスタ、ハリントン子爵の顧問魔術師を呼び出しなさい」

「はい猊下。今すぐ」

 女性魔術師が静かに応え、おもむろに踵を返すと、鏡に手を当てて押した。

 途端にくるっと壁が回って回転扉になった。


 エレンは呆気にとられた。



 --え。今のって、さっきの……



 回転扉が一回りするなり赤いローヴの姿が消える。

 扉が閉まれば壁は元通りだ。


 

 ――えええええ! 魔術じゃないじゃない!



 エレンの視線に気づいたのか、スチュアード卿がヒョイと眉をあげ、長い指を口の前に立ててシーっと声を立てた。

 傍に残ったエッジワースがにやっと笑って頷き、爪先立ってエレンに耳打ちしてきた。

「前の肖像画の目のところには穴が開いているんだよ。私は踏み台のお世話になって、あの忌々しいコットン野郎の供述をあっち側の控室からずっと聞いていたって寸法さ」



「――ドクター・エッジワース、それにミス・ディグビーも」と、スチュアード卿が重々しく告げる。「それはわが月室庁(ムーンチェンバー)の最高機密に属する。くれぐれも不用意に他言しないようにな?」

「ええ猊下。分かっておりますとも」

 と、エッジワースが笑顔で答えた。

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