第十三章 月室庁裁判所
五日後である。
エレンは白い絹ブラウスと黒いスカートといういつもの仕事着で、ノースミンスター宮殿北翼の〈月の間〉の控室にいた。
タメシス市内の北西に位置するノースミンスターは、かつては国王の住居だったため「宮殿」と呼ばれているものの、今はもっぱら王家から貸与される形で国会議事堂として使われている。
それでも王宮は王宮ということで、フカフカした濃紺の絨毯を敷き詰めた広い控えの間の入り口の左右には、黒い帽子に赤い上着、真っ白いストッキングをはいた近衛歩兵が警備に立っている。
絨毯と同じ色合いの絹張りの肘掛椅子に座ってお呼びがかかるのを待ちながら、エレンは何とも居心地の悪い思いだった。
――王宮に伺候する服装って本当にこれでいいのかしら……?
いつもよりは少し華やかな、光沢のあるタフタのスカート地の皴を所在なく伸ばしていると、
「ミス・ディグビー、御顔色が優れませんね。やはりまだお加減が?」
向かい合う位置に坐っているアンソニー・コットンが、相変わらず甘ったるい声で首をかしげながら訊ねてくる。
エレンは慌てて笑顔を取り繕った。
「いいえミスター・コットン。もう大丈夫ですわ」
「そうですか。しかし、くれぐれもご無理はなさらず。あの夜は本当に心臓が止まるかと思いましたよ。ねえレイノルズ警視?」
「え、ええ。本当に!」と、コットンの隣に座ったレイノルズが耳たぶまで赤くなりながら答える。
今この控えの間にいるのはエレンだけだはない。
コットンとレイノルズも、それぞれ別個に呼び出されてこの場に集まってきた。
招集者はスチュアード卿。
議会の閉会期である今は国王に従ってフレイザー城にいるはずの王室付き魔術師――世にいう「魔術卿」である。
タメシス魔術組合長と並んで連合王国最強であるはずの廷臣からの呼び出し状はなぜか普通の速達郵便で届いた。封蝋に赤い竜の紋章こそ押してあったが、エレンは実際にこうして迎え入れられるまで、自分が本当に呼ばれているのか半信半疑だった。
――それにしても、あの有名な〈月の間〉がこんなに立派な場所だったなんて! せめて耳飾りをダイヤモンドにしてくればよかった。
あまりにもいつも通りの服装のために気後れが増してゆく。
緊張しながら待つうちに、右手に見える大きな黒い両開きの扉――銀と金の鋭い三日月の形が向かい合うように象嵌してある――の傍に釣り下がる鈴の房が揺れてシャンシャンと音を立てた。
内側から呼び鈴の紐が引かれたのだ。
扉の左右を護る衛兵がカッと踵を打ち合わせて背筋を正すなり、ばね仕掛けみたいに四十五度回転し、エレンたちのほうへと向き直った。
「御婦人、それに紳士方、卿が入れと仰せです」
「あ、ああ」
レイノルズが晴れがましそうな顔で立ち上がる。
衛兵たちが左右から扉を開けると、室内から眩いほどの光があふれ出した。
エレンは一瞬日当たりのよい庭園にでも出るのかと思った。
しかし、一歩踏み込むなり、天井の高い三〇フィート四方ほどの部屋の中だと分かった。
光の源は肋骨めいた梁の組み合わさる天井から釣り下がった黄金製の大きな籠のなかだった。
燦水晶の巨大な塊と思しき透き通った結晶体が収められ、夏の真昼の太陽のような光を放っている。
部屋の四隅には黄金色に輝く燭台が据えられ、蝋燭の代わりに、真紅と乳白色、薄紫と金茶の凝石の塊がそれぞれ光を発している。
焔玉髄
水月石
風信石
地琥珀
エレンも属する古典四元素派の魔術師が物質の源と考える四元素――火と水と大気と土、それぞれに対応する息吹の結晶体だ。
月室庁の「相殺方陣」だ――と、エレンは畏怖を感じた。
魔術卿が統括する月室庁裁判所は魔術師を裁く場所だ。
連合王国で最も大きいだろう四元素相当の四つの凝石と、四元素共通の光の息吹をもたらす燦水晶とを配した〈月の間〉のなかでは魔術師は魔力を表出できないという。
実際、こうして敷居の際に立つだけでも、強力な吸引力をもつ何かに体内から魔力が奪われていくような違和感を覚えてしまう。
――この室内に踏み込んだら、魔術師は呼吸をするだけで精いっぱいだわ、きっと。
その「相殺方陣」の敷かれた室内、輝かしい燦水晶の真下に、夜のように黒い天鵞絨のローヴをまとった背の高い老人が立っていた。
長く白い髪と皴深い象牙色の膚。
細く高い鷲鼻と鋭い灰色の眸。
当代の魔術卿だ。
「猊下、お召しの者が参りました」
衛兵が恭しく敬礼をする。
「うむ」
魔術卿は無造作に頷くと、まずはレイノルズに目を向けた。
「入られよレイノルズ警視。あなたの訴えに従って月室庁は審議を進めている。今日はあなた自身から、訴状にあった黒妖犬による襲撃の話を聞きたい。ミスター・コットン、あなたからも」
「は、はい猊下」と、レイノルズが鯱張って応える。
「喜んでお話いたします」と、コットンがいつもの蕩けるような笑顔を浮かべる。
魔術卿はまた無造作に頷いてから、エレンに目を向け、眦の皴を深めて嬉しそうに笑った。
「そしてあなたがあの賑やかな活ける焔の伴侶だな?」
「ええ猊下。エレン・ディグビーと申します」
「そうか。私はクラレンス・トマスだ。スチュアード卿と呼ばれている」
「もちろん存じておりますとも」
思わず応えると魔術卿は声を立てて笑った。
感じの良い朗らかな笑いだった。