第十二章 黒妖犬 2
その瞬間、ひときわ鋭い馬の嘶きに続いて、凄まじいほど大きな人間の叫びが響いた。
まるで断末魔のようだ。
御者がやられたのかもしれない。
コットンがヒッと喉を鳴らし、掌で口元を抑えて膝から崩れ落ちる。
「ミスター・コットン!」
レイノルズが叫び、膝をついてコットンの肩に手を置きながら、首だけでエレンとフィンチを省みる。
「お前たち、どっちか様子を見てこい! 言われる前にさっさと動けよ、この低能どもが……!」
恐怖が怒りに転嫁しているのだろう。怒鳴り声が耳障りにひび割れている。
フィンチがごくりと喉を鳴らす。
「ミスター・フィンチ、あなたはここに」
エレンは小声で囁いてから、足音を顰めて玄関ホールをよぎり、できるだけ音を立てないようにドアを押した。
ギイイ、と微かに音が立った瞬間だった。
人の背丈を超えるほど高い生垣を、黒々と大きな影が跳躍してきた。
仔牛ほどもある巨大な漆黒の犬だ。
両眸は爛々と赤く輝き、口のなかから蒼い燐光のような焔を発している。
その蒼褪めた光のなかに一対の牙が見えた。
先端から赤黒い液体が滴っている。
「……――黒妖犬!」
エレンは思わず叫ぶなり後ずさり、ドアを後ろ手で閉めて客間へ駆け戻った。
「おいお前、何をしている、外に何がいたんだ!?」
「黒妖犬です! みな窓からできるだけ離れて! ランタンを真ん中に置いたままにして、その火明かりのなかにいてください!」
すぐに動いてくれたのはフィンチだった。
立ち尽くす右手でレイノルズの手首を、左手でコットンの手首をつかんで、ランタンの焔が届く奥の壁際へと移動する。
エレンはそれを見届けてから命じた。
「テーメノス! 焔の照らす域よわが領域となれ!」
声と同時にエレンの全身から濃いシャンパンゴールドの光が放たれ、ランタンの焔そのものも同じ色合いに変わった。
室内が鮮やかな金色の光に満ちる。
「――お前、一体……」
背後でレイノルズが呆然と呟くのが聞こえた。
次の瞬間、巨大な獣が窓の外から体当たりをしてくるのが分かった。
ダン!
ダン!
ダン!
朽ちかけた窓が撓んで、梁からパラパラと埃が落ちてくる。
レイノルズが耐えかねたような悲鳴をあげる。
「うわ、あああ……!」
「みな動かないで! 必ず守りますから!」
エレンは両腕を広げて窓と向かい合う形で立った。
目晦ましのために全身を覆っていた魔力の効果はすでに消えている。
コットンが瞠目する。
「あなた、まさか――……」
「ええ!」エレンは叫んだ。「わたくしはエレン・ディグビー! タメシス警視庁任命の諮問魔術師です! 来なさい黒妖犬! わが域に踏み込んだ瞬間骨まで焼き尽くしてやる……!」
メリメリメリっと窓枠が歪んで折れるなり、一対の窓が外側から破られ、金色に輝く硝子の破片を散らしながら部屋へと倒れこんできた。
エレンは両腕で虚空を抱きながら命じた。
「空気精霊!」
――お呼びか女主人……
淡金色の光が大きな人のような形をとりながらぼんやりと浮かび上がる。
「この域に入り込むものすべてをはじき返しなさい!」
――承った……
空気全体が震えるような声が応えるなり、つむじ風が巻き起こり、倒れこんでくる窓枠とガラスの欠片をすべて外へと巻き返した。
グルルルル、と獣が唸り、飛びすさぶように外へと離れてゆく。
エレンは頭痛を感じた。
もう魔力を使いすぎている。
「空気精霊。ご苦労様」
告げるなり風がやむ。
前庭に生える背の高い草が嵐のあとのように門の側へと押されて、その上に折れた窓枠とガラスの欠片が散らばっている。
そこに黒妖犬がいた。
先ほどとは違って当たり前の猟犬ほどの大きさになっている。
土と火の幻獣である黒妖犬は伸縮自在なのだ。
ウルルルル、と獣が唸る。
口元から赤黒い液体が垂れている。
「……――ミス・ディグビー」
背後からコットンが震える声で呼ぶ。
「このあとどうするんだ」
「あの獣を捕らえなければ」
エレンはゆらゆらと大きさを増してゆく黒妖犬を注視したまま答えた。
「そのランタンの照らす範囲はわたくしの領域です。使役魔に過ぎない黒妖犬は入り込めません。あなたがたはこのままここに」
「あんたはどうするんだ?」
フィンチが強張った声で訊ねる。
「外に出てあれを捕らえます。使役者が誰なのかをはっきりと確かめなくては」
「――そんなものエッジワースに決まっているだろうが!」コットンが裏返った声で叫ぶ。「ハリントン子爵になんの関係があるんだ!?」
「ミスター・コットン、落ち着いてくださいよ!」と、レイノルズが泣き出しそうな声で宥める。
「警視、あなたも落ち着いてください。大丈夫、その域にいるかぎり、あなたがたに危険が及ぶことはありませんから。―-ミスター・フィンチ」
「なんです?」
「お二人を頼みますよ」
言い置くなり、エレンは自らの魔力を充たした金色の領域を出た。
魔力はランタンの焔を媒体にして注いでいるから、エレン本人が出ても領域に影響はない。
すぐ目の前の黒妖犬がまたあの仔牛サイズへと戻ろうとしていた。
エレンの胸のあたりにある一対の眸が爛々と赤く輝いている。
蒼褪めた燐光を放つ口のなかから、腐った魚を思わせる生臭い息が流れてくる。
捕らえるにしても追うにしても火蜥蜴の力が要る。
エレンはずきずきと頭が痛むのを堪えながら掌を広げ、契約魔を呼ぼうとした。
「サラーー」
そのとき、
「ああああああ……!」
背後からコットンの激しい悲鳴が響いた。
エレンはびくりと振り返った。
「ミスター・コットン、どうしました!?」
「何かが、何かが今私の足首を掴んだんだ……!」
「ええ、まさか! わたくしの域のなかで――」
エレンが狼狽えた声をあげたとき、巨大な黒妖犬がみるみると縮み、仔猫ほどのサイズになったかと思うと、軽やかに生垣を飛び越えて闇のなかへと消えていってしまった。
エレンはぎょっとした。
何としてもあの幻獣を追跡しなければ!
「――サラ、出てきて……」
そこまで口にしたところで、エレンの意識は途切れた。
全身が焔のように熱かった。