第十二章 黒妖犬 1
草をかき分けるようにして玄関まで進むと、縁の崩れた三段の石段の上に黒い扉があった。左手にボロボロに朽ちた呼び鈴の紐が垂れ下がっている。
タンタン、とノックをしてみる。
何の反応も戻らない。
思い切ってノブに手をかけて回すと、ぎぃい――と軋んだ音を立てて動いた。
鍵は掛かっていないようだ。
右手から火明かりと思しき暖かみのある琥珀色の光が射してくる。
「――誰かいるのか?」
いつのまにか背後にやってきていたレイノルズがエレンの肩越しに呼ばわる。
すると、光の向きから思いがけない声が返った。
「レイノルズ警視ですか? どうぞお入りください」
わずかに鼻にかかったような甘いテノールだ。
エレンは眉をしかめた。
――この声、ミスター・コットン?
振り返ると、鼻がぶつかりそうなほど真後ろに立っていたレイノルズが、入れ、と無言で促してくる。小ぶりなフィンチはレイノルズの後ろに隠れてしまっているようだ。
仕方なく玄関ホールに足を踏み入れるなり、足の下からもうもうと埃が舞い上がった。
黴と埃と朽ちた木と錆びた金具の臭い――その中にオイルランプの燃える新鮮な焔の薫りが混じっている。
狭い玄関ホールは埃で覆われ、その上に斜めに足跡が残っていた。
光の源である右手の部屋へと続いている。
そろそろとそちらへ踏み込むと、白い麻布を被せたソファに思った通りの姿があった。
白い麻のシャツと黒いウェスト―ト、黒いズボンという地味な身なりで、椅子の前のローテーブルの上にランタンを置いている。下から火明かりに照らされた繊細な美貌を透き通るようなプラチナブロンドが縁取っている。
アンソニー・コットンだ。
椅子に座っているためか、その姿は上位精霊のように美しい女が似合わない男装をしているように見えた。
エレンの背後でレイノルズがひゅっと息を飲むのが分かった。
「……――ミス・オズボーン、ですか?」
緊張しきったティーンエイジャーみたいな声音でとんでもないことを言い出す。
すると、コットンが喉を鳴らして笑い、小首をかしげながらすらりと立ち上がった。
立てばエレンより背が高いため、さすがに男だと分かる。
「セアラは姪ですよ。初めましてレイノルズ警視。王立劇場付きの劇作家を務めるアンソニー・コットンといいます」
蕩けるような笑顔を浮かべて白い手を差し出す。
「あ――――」
レイノルズが唸りながら耳たぶまで赤くなった。
彼はゴシゴシと手をズボンで擦ってから、貴婦人の掌でも押し頂くような丁重さでコットンの手を握った。
寮生活の長いアルビオンのアッパーミドル男性によくあるように美貌の同性に結構弱いタイプらしい。きっと初恋が同室の美少年だったタイプだ――と、エレンは推測した。
「その、ミスター・コットン―ー」
レイノルズが恭しく言う。「わたくしどもに内密の御用と伺いましたが、お一人でここまでいらしたのですか? ことは殺人事件なのですよ? あまり危ないことをなさってはいけません」
「すみません警視」と、コットンが肩を落とす。「これからお話することは姪の名誉に関わりますから、信頼に足るしかるべき紳士にしかお話したくなかったのです」
わずかに顔を俯け、硝子細工のような睫を震わせて言う。
レイノルズが腰をかがめて訊ねる。
「ミス・オズボーンの名誉と言うことですね? もちろん考慮いたしますよ。どうぞ安心してお話しください」
いかにも懇切丁寧な口調で言う。するとコットンが顔をあげて笑顔を浮かべた。
「そうですか。それはありがたい。実は――」
そのとき、戸外から激しい馬の嘶きが響き、折り重なるように男の悲鳴が響いた。
コットンがびくりと顔を向け、慄く声で囁いた。
「……――見つかってしまった」
「――旦那、誰にです?」
それまで無言で控えていたフィンチが鋭く訊ねる。
コットンは青い目を見開いたまま震える声で応えた。
「黒妖犬だ。エッジワースだ」