第九章 時には窓の外へ 2
窓を閉めると、部屋の中には、再び胸苦しいほどのラヴェンダー精油の匂いが満ちた。
セアラが椅子の向きを戻させて化粧台へ向き合うのを待ってから、エレンはコットンに導かれて部屋を後にした。
「――ミス・ディグビー、困りますね」
先んじて階段を下りながらコットンが硬い声で言う。
「姪に婚約者のことを不用意に思い出させないでください。未婚のご婦人にそうした気遣いを求めるのは酷かもしれませんが……」
ぼかした語尾から嘲笑が感じられる。
エレンは湧きおこる怒りを抑えて詫びた。
「それは申し訳ありません」
階下の居間へ戻ると、例の肥った通いの使用人女性が花を生け直す傍らで、ニーダムが所在なさそうに茶色いカップを手にしていた。
テーブルの上に飾り気のない茶器の支度がある。
「ミスター・ニーダム。お待たせしました。階上の用件は終わりましたわ」
「それはよかった。ミス・オズボーンとはお話できましたか?」
「ええ。同性のよしみでね。本当に奇麗でお可愛らしい方でしたわ」
「そりゃ天下のセアラ・オズボーンですからねえ」
ニーダムが面白そうに応じ、茶碗をテーブルに戻すと、エレンの背後に立つコットンを見やって、職業的な丁重さで挨拶をした。
「ミスター・コットン、お口添えをありがとうございます。ミス・ラングレーの変死および違法魔術性植物の流通について、警視庁は今後も力を尽くして捜査いたしますと、ミス・オズボーンにお伝えください」
「よろしくお願いいたします」
エレンも言い添え、二人して頭を下げる。
コットンは微かに眉をあげ、
「これはご丁寧に」
と、応じた。
「……――ああいう美男子に対してこういうことを言うと嫉んでいるように思われるかもしれませんが……」
帰りの辻馬車に乗り込むなり、ニーダムが眉間に皴をよせて評した。
「いけすかない奴ですね」
「同感ですわ」
エレンが同意するなり、ニーダムが淡青の目を見開く。
「--ミスター・ニーダム? どうなさいました?」
「いえその、僕はともかく、あなたみたいな御令嬢は他人の悪口なんか決して言わないのかと思っていたので」
「そういう躾を受けているだけですわ。将来花嫁になることが最良の人生選択とされる立場に生まれたためにね」と、エレンは肩を竦めた。「ところでミスター・ニーダム、階上で大発見がありました」
「何です?」
「セアラが化粧台の上にかけている鏡は〈恋人たちの合わせ鏡〉と呼ばれる魔具でした」
「ああ、例の、特定の呪文を唱えて決まった時間に見れば、対になる一方に映っている相手の顔が見られる鏡ですね? それはやはりハドソン提督と――」
そこまで口にしたところで、ニーダムがはっとしたように口元を抑える。
「まさか、他の男と?」
「相手までは分かりませんけれど」と、エレンは苦笑した。「セアラの様子からして、婚約者の提督以外の男性と懇意にしているようには見えませんでした。ミスター・コットンが言うには、あまり手紙を書けないからと、ハドソン提督ご自身がセアラに贈ったのだそうです」
「ありそうな話ですね。大陸のコルレオン艦隊といつ海戦が始まるか分からない現状で、提督はさぞお忙しいのでしょうし」
「ええ。そこまではありそうな話なのですけれど――」
「何かお気がかりが?」
「実は、その鏡の作成者が、例の黒妖犬の使い手であるドクター・トマス・エッジワースであるようなのです」
「えええええ!」
感情が顔に出やすいニーダムが素直な驚きの声をあげる。
「それって――それって、何がどうなっているんですか?」
「わたくしもに分かりませんわ」と、エレンはいらいらしながら応じた。「ともかく一度警視庁に戻って情報を整理しましょう。―-いま最も知りたいのは、ドクター・エッジワースとハドソン提督とのあいだに何らかの接点があったかということです」
「承りました警部」
言ってしまってからニーダムがまたはっと口元を抑える。
「す、すみませんミス・ディグビー! あなたがストライヴァー警部に似ているなんて、僕は全く微塵も!」
心底焦り切った口調である。
エレンは声を立てて笑った。「捜査官の雛としては光栄な取り違えですわ!」
結論から言って、ドクター・エッジワースとハドソン提督の経歴に交わる点は何一つなかった。
「するてえと、セアラ・オズボーンに魔法の鏡をくれたのがハドソン提督だっていう話が嘘だったってことになるんですかね?」と、ストライヴァー警部がエレンに訊ねてくる。
「その可能性が高い――気がしますわね」と、エレンは慎重に応えた。「もしかしたら鏡はミスター・コットン自身が手配したのかもしれません」
「ドクター・エッジワースに頼んで? その二人のあいだに接点は?」
「あ、あると言えばありますよ!」と、隅の机で関係者各位の身辺調査書類をパラパラめくっていたニーダムが弾んだ声で応じる。
「おうクリス、なんだ。まさかの同郷者か?」
「いえ、同窓生ですよ。ドクター・エッジワースはステアブリッジ大学で植物学の博士号を取得しているでしょう? ミスター・コットンは十八歳のときから一年間だけ、給費生としてステアブリッジ大学に所属しているんですよ。この二人は知り合いであってもおかしくはありません」
「そうなると――どういうことなんですかね?」
警部がエレンを見やる。
エレンは考えこんだ。
「そうですわね――もしミスター・コットンが鏡の出所について敢えて嘘をついているとしたら、目的はドクター・エッジワースとの繋がりを隠蔽するため、なのかもしれません。ドクターと彼が共謀していたら、ヒュノプシスの入手も加工もごくごく簡単なはずですからね」
「すると、ニーナ殺しの犬の御主人はやっぱりその先生ってことになるんですかね?」
「その可能性が高い――ような気がします」
エレンは沈鬱に応えた。
ドクター・エッジワースとは大して顔を合わせているわけではないが、彼は善良な人物であるような気がしていたのだ。
職務上入手できる魔術性植物の横流しまでならまだしも、若い女性を使役魔に噛み殺させるなど、そんな悍ましい犯罪に手を染めるなど! エレンにはいまだに信じられないのだった。